第1話「二度目の出会い――雨の日に傘を貸した中国人女性と、まさかの再会」
今回は、雨の日の出会いから数週間後。
二十一歳の宮嶋創と、四十五歳の中国人女性・欧陽璟瑶が、思いがけない場所で再会します。
創にとって璟瑶は、まだ「以前、傘を貸した少し不思議な中国人女性」。
一方の璟瑶は、あの日から創のことを忘れられずにいました。
しかし創はまだ知りません。
目の前で麻婆豆腐を食べながら、自分の仕事や休日について尋ねてくる彼女が、青嶺中央銀行の頭取であり、全国四十七都道府県へ広がる巨大金融ネットワークの中枢に立つ人物だということを。
偶然だった一度目。
そして、偶然が重なった二度目。
今回の再会をきっかけに、二人の関係は「偶然会った二人」から少しずつ変わり始めます。
まだ恋だとは気づいていない創と、すでに創を特別な存在として意識し始めている璟瑶。
二十四歳差の二人が交わす、何気ない昼食の時間をお楽しみください。
あの雨の夜から、数週間が過ぎていた。
仕事帰り、ATMの前で困っていた中国人女性を助け、土砂降りの中で自分の傘を貸した。
欧陽璟瑶――難しい漢字の名前を持つ、四十代くらいの美しい女性。
創が彼女について知っているのは、それだけだった。
「まあ、千円くらいの傘だったしな」
返ってこなくても構わない。
創にとって、あの日の出会いは過去の出来事になりつつあった。
◇◇◇
平日の午後十二時過ぎ。
午前中の業務を終えた創は、昼食を取るため銀行を出た。
高校卒業後、十八歳で銀行員となって四年目。まだ若手ではあるものの、一年目の頃と比べれば、自分で判断できる仕事も増えていた。
「今日は温かいものが食べたいな……」
創が向かったのは、銀行から少し歩いた路地にある中華料理店だった。
色褪せた赤い暖簾をくぐると、店内は会社員や作業服姿の客で混み合っていた。
「一名様? 相席でも大丈夫?」
「はい」
店員に案内されたのは、奥の四人掛けテーブルだった。
すでに一人の女性が座っている。
「相席、失礼します」
創は椅子を引き、顔を上げた。
その瞬間、二人の動きが止まった。
「あの時の……」
「宮嶋創さん」
目の前にいたのは、あの雨の日に傘を貸した欧陽璟瑶だった。
「俺の名前、覚えていたんですか?」
「もちろん。あなたも私を覚えていたでしょう?」
「それは、覚えていますけど……」
「なら同じよ」
璟瑶は柔らかく笑うと、足元のバッグから綺麗に畳まれた折り畳み傘を取り出した。
「ようやく返せるわ」
「まだ持っていたんですか?」
「借りたものだから」
「千円くらいですよ?」
「値段の問題ではないでしょう?」
創は苦笑しながら傘を受け取った。
「あの日は、駅まで走ったの?」
「はい。着いた頃にはびしょ濡れでした」
「風邪は?」
「引かなかったです」
「それならよかった」
一度しか会っていない自分の体調を、本気で心配しているように見える。そのことを創は少し不思議に思った。
◇◇◇
創が日替わり定食を注文すると、二人はそのまま食事を共にすることになった。
「璟瑶さん、日本には仕事で来ているんですよね?」
「ええ」
「どんな仕事をしているんですか?」
その質問に、璟瑶の箸が僅かに止まった。
本当のことを話せば、創の態度は変わってしまうかもしれない。
青嶺中央銀行の頭取。
全国四十七都道府県へ広がる巨大な金融ネットワークの中枢に立つ人物。
銀行員である創が、その名前を知らないはずはなかった。
だから璟瑶は、もう少しだけ肩書を持たない一人の女性として彼と話すことを選んだ。
「金融関係よ」
「じゃあ、俺と同業みたいなものですね」
「そうかもしれないわね」
「中国の銀行ですか?」
「中国とも仕事をしているわ」
「国際的ですごいですね」
「それほどでもないわ」
青嶺フィナンシャルグループの最高幹部が言う言葉としては、あまりにも控えめだった。
だが、何も知らない創は素直に頷いた。
「創は、銀行の仕事が好き?」
初めて名前で呼ばれ、創は一瞬驚いた。
「今、創って……」
「嫌だった?」
「嫌ではないですけど」
「ならいいでしょう?」
創は少し照れながら答えた。
「大変なこともありますけど、仕事は好きですよ」
「どうして?」
「お客さんから預かっているのは、ただのお金じゃないと思うからです」
住宅ローンの向こうには家族の暮らしがあり、企業への融資の向こうには、そこで働く人たちの生活がある。
「俺たちが扱っているのは、ただの数字じゃないんです」
「あの日も言っていたわね。お金の向こうには人の生活があるって」
「覚えていたんですか?」
「もちろん。その考え方は大切にした方がいいわ」
それは、一人の銀行経営者としての本心だった。
利益やリスク管理は必要だが、その先にいる人々を忘れた銀行は、いつか存在意義を失う。
傘を貸してくれたからだけではない。二十一歳の創が、銀行員として大切なものを自然に理解していることも、璟瑶が彼に興味を持った理由だった。
「創は、偉くなりたい?」
「まだ考えたことはないです。でも、給料は上がってほしいですね」
その答えに、璟瑶は楽しそうに笑った。
「いつか結婚したら、家も欲しいですし」
「結婚したいの?」
「いつかは」
「恋人は?」
「いません」
「……そう」
璟瑶の声が僅かに柔らかくなった。
「璟瑶さんは?」
「いきなり女性に聞くの?」
「まずかったですか?」
「私の年齢も知らないでしょう?」
「何歳なんです?」
悪気なく尋ねる創に、璟瑶は少し呆れながら答えた。
「四十五歳よ」
「見えません。もっと若いと思っていました」
「上手ね」
「本当ですよ。それに、璟瑶さんは綺麗ですから」
今度は璟瑶が黙り込んだ。
容姿を褒められることは珍しくない。しかし創の言葉には、頭取への社交辞令も打算もなかった。
「あなた、そういうことを普通に言うのね」
「綺麗なのは本当ですから」
「……そう」
平静を装いながら水を飲む璟瑶の指先には、僅かに力が入っていた。
◇◇◇
二人は家族や休日の過ごし方について話した。
創が海外へほとんど行ったことがないと知ると、璟瑶は自分の故郷である上海の話をした。
「上海には行ってみたいです。璟瑶さんの故郷ですから」
「なら、いつか案内してあげる」
「約束ですよ」
「ええ、覚えておくわ」
何気なく交わした約束だった。
やがて創は腕時計を見て、慌てて残りの食事を口へ運んだ。
「まずい。昼休みがあと十五分しかない」
「そんなに急ぐと喉に詰まるわよ」
「遅れたら怒られますから」
会計の際、璟瑶は傘のお礼として創の分まで払おうとしたが、創は受け入れなかった。
「自分が食べた分は自分で払います」
「私の方が二十四歳も年上よ?」
「年齢は関係ありません。俺も働いていますから」
「二十一歳なのに頑固ね」
「璟瑶さんに言われたくないです」
結局、二人はそれぞれ自分の代金を支払った。
店を出た創が銀行へ戻ろうとすると、璟瑶が呼び止めた。
「創」
「はい?」
「また会える?」
「え?」
「今度は、偶然ではなくて」
何千人もの社員の前で話し、海外の金融機関とも交渉する璟瑶が、二十一歳の青年を前に少しだけ緊張していた。
「もちろんです」
「本当に?」
「はい。今度は昼休みではなく、ゆっくり食事しましょう」
二人はスマートフォンを取り出し、初めて連絡先を交換した。
「次は璟瑶さんから連絡してください」
「私から?」
「また会いたいと言ったのは、璟瑶さんでしょう?」
「……そうね」
創は笑顔で頭を下げ、銀行へ戻っていった。
◇◇◇
その夜。
青嶺中央銀行本店の頭取室で、璟瑶はスマートフォンを見つめていた。
重厚な机の上には、国内外の経営資料と、全国四十七都道府県に広がる金融ネットワークの事業報告書。
そして、
『青嶺中央銀行 頭取 欧陽璟瑶』
と記された名札が置かれている。
だが、璟瑶が見ていたのは仕事の資料ではなかった。
『今日はありがとう。次は私が店を選んでもいい?』
彼女が送ったメッセージに、創から返信が届く。
『もちろんです。楽しみにしています』
璟瑶は、誰もいない頭取室で小さく微笑んだ。
「……次は、偶然ではないのね」
雨の日の出会い。
中華料理店での再会。
創にとって璟瑶は、まだ話していて楽しい年上の中国人女性にすぎない。
しかし璟瑶の心には、すでに特別な感情が芽生え始めていた。
次に二人が会うのは、偶然ではない。
欧陽璟瑶が、宮嶋創に会うために作る時間。
そして、その三度目の出会いで創は、二十四歳年上の彼女から、想像もしなかった言葉を告げられることになる。
「創。私と付き合ってくれない?」と。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第1話では、創と璟瑶が小さな中華料理店で二度目の出会いを果たしました。
雨の日に借りた傘を大切に保管し、創の名前まで覚えていた璟瑶。
そして創もまた、璟瑶と普通に食事をしながら、仕事や家族、休日、恋愛について少しずつ自分のことを話していきました。
特に璟瑶にとって大きかったのは、創が自分の肩書を何も知らないこと。
「青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶」ではなく、ただの「璟瑶さん」として接してくれる創との時間は、彼女にとっていつの間にか特別なものになり始めています。
そして最後には、
「また会える?」
「今度は偶然じゃなくて」
と、璟瑶自身から次の約束をしました。
一度目は雨の日の偶然。
二度目は中華料理店での偶然。
しかし――三度目は違います。
次に会うのは、璟瑶が創に会いたいと願ったから。
そして、その三度目の出会いで、二人の関係を大きく変える一言が飛び出します。
四十五歳の璟瑶から、二十一歳の創へ。
二十四歳という年齢差を越えて告げられる、
「私と付き合ってくれない?」
という突然の告白。
次回、第2話。
二人の秘密の恋が、いよいよ始まります。




