第0話「雨の夜、僕は“ただの中国人女性”に傘を貸した――それが、すべての始まりだった」
今回は、宮嶋創と欧陽璟瑶――二十四歳差の二人の物語、そのすべての始まりとなる出会いです。
二十一歳の若手銀行員だった創と、四十五歳にして巨大な金融グループの中枢に立つ中国人女性頭取・璟瑶。
けれど、この時の創は彼女の正体を何も知りません。
雨の夜、ATMの前で困っている一人の中国人女性。
ただ、それだけでした。
勤務時間が終わっているにもかかわらず声をかけ、自分の傘まで貸した創。
その何気ない優しさが、これまで肩書や権力を見て近づいてくる人間を数多く見てきた璟瑶の心に残っていきます。
後に恋人となり、さらに創の転職先の「頭取と行員」となる二人。
その運命が動き始める最初の一夜を、ぜひ最後までお楽しみください。
宮嶋創が彼女と初めて出会ったのは、二十一歳の梅雨だった。
当時の創は、二年後の自分が、四十七歳になった彼女と秘密の関係を続けながら、同じ銀行で働いているなど想像すらしていなかった。
ましてや、あの雨の夜に出会った中国人女性が、日本全国四十七都道府県に巨大な金融ネットワークを持つ銀行グループの中枢に立つ人物だとは、知るはずもなかった。
すべては、一つの傘から始まった。
◇◇◇
宮嶋創、二十一歳。
高校卒業後、十八歳で銀行へ入行してから三年が過ぎていた。
大学へ進学せず、早く働く道を選んだ創は、札勘や伝票処理、入出金、振込、諸届、電話応対などを一つずつ覚えてきた。特別な家柄も学歴もない、どこにでもいる若手銀行員だったが、今では後輩から質問されることも増えていた。
「宮嶋、今日はもう上がっていいぞ」
「分かりました。お先に失礼します」
午後七時過ぎ。
書類と机の周りを確認し、パソコンを終了させた創は、鞄を手に職員用出入口から外へ出た。
「うわ……」
外は猛烈な雨だった。
創が折り畳み傘を取り出したとき、店舗横のATMコーナーに立つ一人の女性が目に入った。
黒に近い濃紺のコートをまとい、艶のある黒髪を伸ばした長身の女性。四十代ほどに見えたが、年齢を感じさせない美しさと、どこか人を寄せつけない気品があった。
彼女はATMの画面と財布を交互に見ながら、困った様子で小さく息を吐いている。
勤務時間はすでに終わっていた。そのまま帰っても問題はない。
しかし、創は結局引き返した。
「あの、大丈夫ですか?」
「すみません。日本のATM、少し難しくて……」
わずかに中国語訛りのある日本語だった。
「振り込みですか?」
「ええ」
「それなら、最初にここを押してください」
創は画面を指しながら、操作方法を順番に説明した。
「最後に、振込先と金額をもう一度確認してください。間違えると大変ですから」
「あなたは、いつも確認するの?」
「はい。銀行員なので、確認ばかりですよ」
「ここで働いているの?」
「今年で四年目です。高校を卒業して、そのまま入りました」
「では、二十一歳?」
「そうです」
女性は少し意外そうに創を見つめた。
「銀行の仕事は楽しい?」
「楽しいことばかりではありません。お金を扱うので神経も使いますし、辞めたいと思うこともあります」
「正直なのね」
「でも、お客さんから『ありがとう』と言われると、もう少し頑張ろうと思えます」
創は少し照れながら続けた。
「銀行はお金を扱う場所ですけど、そのお金の向こうには、一人ひとりの生活がありますから」
「お金の向こうには、人の生活がある……」
女性の目が、一瞬だけ鋭くなった。
創は知らなかった。
彼女がATMの操作方法など最初から知っていることも、日本の銀行システムについて一般の銀行員以上の知識を持っていることも。
「これで終わりです」
「ありがとう」
「いえ。それでは」
創が帰ろうとすると、女性は自動ドアの前で足を止めた。
「傘、持っていないんですか?」
「ええ。近くのホテルまで歩こうと思っているの」
「この雨では無理ですよ」
創は少し迷ったあと、自分の傘を差し出した。
「これを使ってください」
「でも、あなたは?」
「駅まで走ります」
「この雨の中を?」
「大丈夫です」
「返せないかもしれないわ」
「千円くらいの傘なので、そのときはそのときです」
女性は創を見つめたあと、突然小さく笑った。
「あなた、面白い人ね」
「初めて言われました」
「名前を教えて。傘を返すために必要でしょう?」
「宮嶋創です」
「宮嶋……創」
女性は忘れないように、その名前をゆっくりと口にした。
「あなたは?」
「欧陽璟瑶」
彼女はスマートフォンに自分の名前を表示した。
「難しい漢字ですね」
「失礼ね」
「あっ、すみません!」
「冗談よ」
慌てる創を見て、璟瑶は柔らかく笑った。
「欧陽さん」
「璟瑶でいいわ」
「いきなり下の名前ですか?」
「中国では珍しくないでしょう?」
「そうなんですか?」
「たぶん」
今度は二人で笑った。
創にとっては、偶然出会った少し不思議な中国人女性にすぎなかった。
しかし璟瑶にとって、創の親切は特別なものだった。
これまで彼女の周囲に集まる人々の多くは、その名前や地位、権限を知ったうえで近づいてきた。
だが、創は彼女の正体を何も知らない。それでも困っている姿を見て引き返し、自分の傘まで差し出してくれた。
「宮嶋創。覚えておくわ」
「傘を返すために?」
「それもあるわね」
その言葉の意味を、創はまだ知らなかった。
「それじゃあ、気をつけて」
「璟瑶さんも」
傘を開いた璟瑶は、雨の中を歩いていく。
創はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「不思議な人だったな……」
◇◇◇
二十分後。
黒塗りの高級車の後部座席で、璟瑶は創から借りた折り畳み傘を見つめていた。
「欧陽頭取。本日の視察結果については、明朝、青嶺中央銀行本店へ資料を提出いたします」
隣に座る秘書の言葉に、璟瑶は静かに頷いた。
「先ほどの支店に、若い男性職員がいたでしょう」
「はい」
「宮嶋創。二十一歳だそうよ」
「お調べいたしますか?」
「そこまでは必要ないわ」
欧陽璟瑶、四十五歳。
日本全国に巨大な金融ネットワークを持つ青嶺中央銀行の頭取であり、青嶺フィナンシャルグループの経営中枢に立つ中国人女性だった。
その彼女が今、大切そうに手にしているのは、競合銀行に勤める二十一歳の若手行員から借りた、千円ほどの傘だった。
「宮嶋創……」
璟瑶は、もう一度だけ彼の名前を呟いた。
二十一歳の若手銀行員と、四十五歳の中国人女性頭取。
二十四歳差で、所属する銀行も立場も違う二人。
本来なら交わるはずのなかった人生は、この雨の夜、一つの傘によって動き始めた。
そして二人の再会は、創が思っているよりも早く訪れることになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第0話では、二十一歳の宮嶋創と、四十五歳の欧陽璟瑶が初めて出会いました。
創にとっては、雨の日に偶然出会った少し不思議な中国人女性。
一方の璟瑶にとって創は、自分が何者なのかをまったく知らないまま、純粋な親切だけで手を差し伸べてくれた青年でした。
そして創が何気なく口にした、
「お金の向こうには人の生活がありますから」
という言葉。
銀行の頂点に近い場所で生きてきた璟瑶だからこそ、その言葉は強く心に残ったのかもしれません。
しかし、まだこれは始まりに過ぎません。
二人は再び出会い、やがて四十五歳の璟瑶から二十一歳の創へ、まさかの告白が待っています。
そしてその先には――創がまだ想像すらしていない、「恋人の本当の正体」があります。
普通の中国人女性だと思っていた恋人。
その彼女に勧められた銀行の採用試験。
そして最終面接室で創が目にすることになる、衝撃の光景。
二十四歳差。
中国人女性頭取と若手銀行員。
そして、誰にも知られてはいけない秘密の恋。
次回は、二人の二度目の出会いへと物語が進みます。




