第18話「彼女は頭取。でも仕事の答えは聞けません――恋人だからこそ守る一線」
第18話です。
今回は、第17話で始まった法人融資案件を通して、創がさらに大きな壁にぶつかります。
売上。
利益率。
売掛金。
在庫。
既存借入。
設備投資。
返済能力。
運転資金。
見れば見るほど、簡単に「貸せる」「貸せない」と言い切れない。
そんな時、創の頭に浮かぶのは、誰よりも銀行を知っている恋人――欧陽璟瑶です。
けれど彼女は、同時に青嶺中央銀行の頭取。
顧客名も。
企業名も。
融資希望額も。
財務情報も。
審査内容も。
何一つ、恋人だからという理由で話すことはできません。
「彼女なのに聞けない」
「恋人だからこそ教えられない」
今回は、そんな二人の少しもどかしい関係と、創が上司や先輩、同期の力を借りながら、自分自身で答えへ近づいていく姿を描きます。
恋愛、コンプライアンス、同期の友情、そして銀行員としての成長。
全部が重なる回をお楽しみください。
翌朝。
青嶺中央銀行本店、法人営業第一部・若手法人担当チーム。
宮嶋創は始業前から、株式会社東央精密製作所の資料を見つめていた。
従業員八十六人、年商約二十四億円の精密部品メーカー。
新型五軸加工機と付帯設備の導入に必要な借入希望額は、約一億円。
工場を訪問し、東条信之社長や従業員の話を聞いた創は、その数字の向こうにいる人々を知った。
しかし、人が見えたからこそ融資する――そんな単純な仕事ではない。
「売掛金……少し増えすぎてないか?」
三期分の売上高は、二十一億六千万円、二十二億九千万円、二十四億一千万円と伸びている。
一方、営業利益は一億二千万円、一億三千五百万円、一億二千八百万円。原材料費や人件費、電気料金などの上昇で、利益率は僅かに低下していた。
加えて売掛金の回収期間と棚卸資産も増えている。
そこへ一億円の新規借入。
既存借入の返済や設備稼働後の運転資金まで考えると、確認すべきことは多かった。
「朝から難しい顔してるな」
教育担当の相沢拓也・三十三歳が声をかけた。
「相沢さん。設備投資の必要性は分かるんです。受注見込みもある。でも、本当に一億円を追加で融資していいのか……」
「宮嶋は今、その答えを一人で出そうとしてる?」
「……無理ですよね」
「担当者の仕事は、最初から答えを知っていることじゃない。判断するために何が足りないかを見つけることだ」
相沢は、確認事項を三つに分けるよう助言した。
現在の資料から分からないこと。
企業へ質問すべきこと。
社内の専門部署へ相談すべきこと。
創はノートへ書き出した。
売掛金回転期間が長期化した理由。
主要取引先ごとの回収条件。
棚卸資産増加の内訳。
新設備導入後の稼働率。
受注見込みの確度。
外注費削減効果の根拠。
設備導入が遅れた場合の資金繰り。
金利上昇時の返済負担。
既存借入を含めた年間返済額。
そして、必要運転資金への影響。
◇◇◇
午前十時。
財務分析を得意とする藤崎美優・二十七歳にも相談した。
「売掛金が増えた時は、最初に何を見ますか?」
「取引先別ね」
「全体ではなく?」
「売上増加に伴う正常な増加なのか、支払条件が変わったのか、回収遅延が起きているのか。それぞれ意味が違うでしょう?」
「なるほど」
「在庫も同じ。原材料、仕掛品、完成品で増えた理由は変わる。数字は、増減だけで良し悪しを決めないこと」
「理由を確認する」
「そう。分からないなら、分かったふりをしない」
創は苦笑した。
「結局、確認ですね」
「宮嶋君の得意分野でしょう?」
◇◇◇
午後一時。
小会議室には、若手法人担当チームリーダーの桐生雅人・四十二歳を中心に、相沢拓也、設備投資案件に強い長谷川直樹・三十六歳、藤崎美優、そして創が集まった。
「昨日から何が気になった?」
桐生に問われ、創は答える。
「売掛金と在庫の増加、受注計画が下振れした場合の返済余力、既存借入を含む総返済負担。それから必要運転資金です」
「昨日より増えたね」
「増えすぎて、余計に分からなくなりました」
「最初はそれでいい」
長谷川が資料を指した。
「設備一億円を融資して終わりじゃない。新設備で売上が増えれば、材料の仕入れも売掛金も増える」
「その分、運転資金が必要になる……」
「そう。その後の資金繰りまで見るんだ」
続いて桐生が尋ねた。
「宮嶋君は、この会社に融資したい?」
創は少し迷った。
「……応援したいと思っています」
「その言葉には気をつけなさい。融資は応援ではない」
「はい」
「社長がいい人だから。従業員が頑張っているから。会社が好きだから。それだけで融資判断をしてはいけない」
「返済可能性を冷静に確認する」
「そう。ただし、人を見なくてもいけない。必要なのは――」
「数字と人」
「両方だ」
東央精密製作所へ追加資料を依頼した。
売掛金年齢表。
取引先別の回収条件。
在庫内訳。
受注残高。
設備導入後五年間の収支計画。
翌日届いた資料から、売掛金の大半に回収遅延がないことが分かった。取引量の増えた主要取引先が支払条件を変更したことが、回転期間長期化の主な原因だった。
在庫増加も、新規受注へ備えた特殊材料が中心。
しかし、新たな懸念が見つかった。
「この受注、正式発注じゃない……」
三社のうち一社は、あくまで内示。予定数量も事業計画より少ない。
「相沢さん。売上計画が楽観的な可能性があります」
「どうする?」
「下振れケースを作ります」
創は売上計画を基準、七十五パーセント、五十パーセントに分けた。
外注費削減効果、原材料価格、金利についても複数の条件を設定し、営業キャッシュフローと返済余力を計算する。
「最悪のケースでは、かなり厳しいです。なら融資できない?」
「また二択になってるぞ」
「あ……」
「融資には条件設計がある。金額、返済期間、据置期間、自己資金。全額をそのまま融資する以外にも方法はある」
「難しい……」
「だから面白いんだよ」
相沢は楽しそうに笑った。
◇◇◇
午後六時過ぎ。
創は仕事を終えると、顧客資料や業務用メモを一切持っていないことを確認した。
そして本店地下五階。
六桁の認証番号、452114。
扉の先にある秘密基地では、欧陽璟瑶が待っていた。
「お疲れさま、創」
「お疲れ、璟瑶。……疲れた」
「顔を見れば分かるわ。座って」
璟瑶は水を渡し、隣に腰を下ろした。
「仕事?」
「うん。でも具体的なことは言えない」
「なら聞かない」
「たぶん璟瑶なら、答えを知ってると思う」
「たぶんね」
「……教えて」
「駄目」
「即答!?」
「創。私は青嶺中央銀行頭取で、あなたは法人営業第一部の若手行員よ。私が個別案件の答えを教えたら、どうなる?」
「不公平になる。上司や審査部門の判断を飛ばす。評価にも影響するし、利益相反にもなり得る」
「分かっているじゃない」
「でも困ってる」
「それも分かってるわ」
璟瑶は創の隣へ寄り、肩を触れ合わせた。
「顧客名は?」
「言わない」
「企業名、金額、財務情報、審査状況は?」
「何も言わない」
「資料やメモは?」
「持ってきてない」
「スマートフォンに写真は?」
「絶対にない」
「よろしい」
「また採点された……」
璟瑶は微笑んだ。
「個別案件は聞けない。でも、銀行員として何を見るかという一般論なら話せるわ」
「お願いします、頭取」
「ここでは頭取じゃない」
「じゃあ、璟瑶先生」
「それも違う」
笑ったあと、璟瑶は一般論として語った。
「融資は応援ではない。企業や経営者を好きになっただけで融資してはいけない」
「返済可能性、事業計画、キャッシュフロー、既存借入、資金使途、担保、保証、業界、取引先、経営者……全部を見る?」
「全部よ。ただし、すべてが完璧な企業なんてほとんどない。弱点が一時的なのか、構造的なのか。改善できるのかを考えるの」
売上が増えていても、利益率が下がっているなら理由を探す。
売掛金や在庫が増えていても、即座に悪いと決めつけない。
数字の背景を聞き、必要なら現場を見る。
さらに融資は、可否だけでなく、金額、期間、返済方法、据置期間、自己資金などの条件を設計する仕事でもある。
「今日、相沢さんにも同じことを言われた」
「銀行員なら考えることは同じよ」
「俺も少しは法人銀行員らしくなった?」
「少しずつね」
「厳しいなあ」
「恋人としての評価なら満点よ。仕事の評価はしません」
璟瑶は創の手へ自分の手を重ねた。
「分からない時は、一人で答えを作らない。正式な上司や専門部署、審査部門へ相談すること」
「うん」
「私には聞かない」
「そこだけ強調した?」
「彼氏だからこそ大切なの」
創は小さく笑った。
「普通の彼女なら、仕事の愚痴も言えるのに」
「私は普通の彼女じゃないもの」
「頭取で、四十五歳で、中国人で、二十四歳差」
「創。話を逸らしているでしょう?」
「ばれた」
璟瑶は呆れながら、創の肩へ頭を預けた。
「具体的な内容は聞けない。でも、疲れた、怖い、自信がない――そういう気持ちなら聞けるわ」
「……自信がない」
「うん」
「大きい案件で、少し怖い」
「だったら、その気持ちだけここへ置いていけばいい」
璟瑶が創の腕へ抱きつく。
「仕事の答えは銀行で探して。私は恋人として、創が帰ってきた時に隣にいるから」
「それで十分?」
「十分でしょう?」
「……かなり」
その夜、二人は顧客情報も案件内容も一切話さなかった。
夕食を取り、コーヒーを飲み、映画や中国語の話をする。
帰る前、璟瑶は創を抱き締めた。
「明日は正式な上司に相談すること」
「分かってる」
「勝手に答えを出さない」
「はい」
「分からないことは、分からないと言う」
「それも分かってるって」
「最後に確認」
「俺の得意分野だね」
二人は笑い合い、短く唇を重ねた。
「んっ……」
「おやすみ、璟瑶」
「おやすみ、創」
その日は別々に帰宅した。
◇◇◇
翌朝。
創は桐生雅人、相沢拓也、長谷川直樹、藤崎美優へ正式に相談した。
「融資できるか、できないか。その二択だけを考えすぎていました」
創は資料を開く。
「まず、売上計画の根拠、主要取引先三社の受注確度、設備稼働率、運転資金増加、下振れケースを追加確認したいです」
「続けて」
「返済期間と据置期間、自己資金の増額も検討します。一億円全額をそのまま融資する前提ではなく、条件の組み方を考えたいです」
桐生が頷いた。
「いいね」
「昨日より進んだな」
相沢が笑う。
「誰かに聞いた?」
創の心臓が僅かに跳ねた。
「……一般的な銀行員としての考え方を整理しました」
嘘ではない。
個別案件の情報は一切伝えていない。
「それならいい。ただし、案件の答えは正式な組織で作る。必要な部署と確認しながらね」
「はい」
案件は融資審査部門との事前相談へ進んだ。
企業審査、返済能力、担保評価、事業計画。
複数の部署が関わり、融資は一人の担当者だけで決めるものではないことを、創は実務の中で学んでいった。
◇◇◇
昼休み。
二十一階の社員食堂で、創は同期の黒瀬颯真と水無瀬琴葉にも、機密を伏せて相談した。
「売上は伸びてるけど利益率が落ちていて、設備投資を予定している企業なら、どこを見る?」
中小企業金融部の黒瀬は即答した。
「利益率が落ちた理由。設備投資で売上が増えるのか、コストが下がるのか、生産能力が上がるのか。その根拠も見る」
「ほかは?」
「キャッシュフロー、既存借入、返済負担。それと設備投資後の運転資金」
「やっぱりそこか」
個人営業企画部の琴葉も言う。
「個人金融でも商品だけでなく、お客様全体を見ます。法人なら企業全体を見るのでしょう?」
「同期二人、便利すぎるな」
「同期だからな」
黒瀬が笑う。
「ただし、企業名も金額も内部格付も言うなよ」
「何も言わない」
「ならいい」
琴葉が少し微笑む。
「宮嶋君、成長しましたね」
「五歳上だからって上からだなあ」
「俺は六歳上」
「黒瀬は同期」
「水無瀬も同期だろ!」
三人の笑い声が食堂に響いた。
◇◇◇
数日後。
株式会社東央精密製作所との追加面談。
創は東条信之社長へ、前回より踏み込んだ質問をした。
「受注が当初計画の七割程度に留まった場合でも返済できるか、確認させてください」
「厳しく見ますね」
「申し訳ありません」
「いえ。銀行なら当然でしょう」
東条社長は真剣な表情で続けた。
「何でも『大丈夫です』と言われる方が怖い。一億円を借りるのも、返すのも私たちですから。悪いケースまで見てもらった方がいい」
その言葉で、創は気づいた。
融資とは、銀行が一方的に企業を審査するだけの仕事ではない。
企業と銀行が、将来に無理がないかを一緒に確認する仕事でもある。
自己資金の増額。
返済期間と据置期間。
設備導入後の資金繰り。
受注下振れ時の返済余力。
相沢、桐生、長谷川、藤崎、そして融資審査部門など、正式な手続きを重ねながら案件は次の審査段階へ進んだ。
まだ融資実行が決まったわけではない。
それでも創は、自分の力で一歩先へ進めた。
「宮嶋君。今回、何が一番難しかった?」
夕方、桐生から問われた。
「答えを早く出そうとしたことです。貸せるか、貸せないか。それだけを考えていました」
「今は?」
「判断するために何を確認し、誰へ相談するのか。どんな条件なら企業にも銀行にも無理がないのかを考えます」
「法人営業担当らしくなってきたね」
「まだまだです」
「その言葉を言えるうちは大丈夫。ただし、自分一人で抱え込まないこと」
「はい」
「銀行は、組織で融資する」
創はその言葉を、しっかりと胸に刻んだ。
◇◇◇
その夜。
創の一LDK。
「ただいま」
「おかえり」
欧陽璟瑶は創の顔を見ると、僅かに目を細めた。
「昨日より顔が軽くなったわね」
「少しだけ前へ進んだ」
「そう」
それ以上は聞かない。
創も案件内容には触れなかった。
「璟瑶、ありがとう」
「一般論のこと?」
「うん。でも、答えそのものは教えてもらわなくてよかった」
「でしょう?」
「上司と先輩に相談した。黒瀬にも機密を伏せて聞いた」
「水無瀬さんもいた?」
「いたけど……また気にしてる?」
「気にしてません」
「絶対気にしてる」
「創。話を戻すわよ」
璟瑶は少し頬を膨らませたあと、創の肩へ頭を預けた。
「自分で前へ進めた?」
「進めた」
「なら、それが一番いい」
「頭取に褒めてもらった」
「違うわ」
「え?」
「彼女に褒めてもらったの」
璟瑶は創の腕へ抱きつく。
「仕事では答えを教えない。評価も配属も昇進も、創自身で掴んでもらう」
「厳しいなあ」
「その代わり、家ではたくさん甘やかしてあげる」
「それは嫌じゃない」
「でしょう?」
創は笑いながら、璟瑶の頭を優しく撫でた。
「仕事では、自分で頑張る。頭取の恋人だからじゃなく、宮嶋創として、ちゃんとした銀行員になる」
璟瑶は嬉しそうに微笑んだ。
「それでこそ創」
恋人だからといって、何でも話せるわけではない。
恋人だからこそ、越えてはいけない一線がある。
顧客名、企業名、融資額、財務情報、審査情報、内部資料。
仕事の答えは、正式な組織の中で探す。
恋人に話せるのは、疲れた、怖い、自信がない――そんな気持ちだけでいい。
欧陽璟瑶は、答えを与えてくれる恋人ではない。
創が自分で答えへ辿り着くまで、そばにいてくれる恋人だった。
青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶。
法人営業第一部の若手行員・宮嶋創。
二人の間にある、誰にも言えない恋と、絶対に越えてはいけない仕事の一線。
それを守ることこそが、二人が恋人として、そして銀行員として歩き続けるための大切な約束だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創と璟瑶が「恋人だからこそ守らなければならない一線」を改めて確認する回となりました。
創が困っているなら、璟瑶だって本当は助けてあげたい。
それでも、
「教えて」
「駄目」
と即答するしかない。
もし頭取が特定の若手行員へ個別案件の答えを教えてしまえば、公平な評価や正式な審査ルートまで崩してしまう可能性があります。
だから創は、案件そのものを璟瑶へ話さない。
璟瑶も、答えそのものは教えない。
その代わり、
「数字だけを見ない」
「でも人だけを見ても駄目」
「融資は応援ではない」
「返済可能性を確認した上で企業の未来を支える」
という、銀行員としての一般的な考え方だけを伝えました。
そして翌日、創は正式なルートで桐生や相沢たちへ相談。
さらに黒瀬にも企業名や金額などを一切伏せたうえで、一般的な財務分析について相談しました。
一人で抱え込まない。
分からないことを分かったふりしない。
組織で考える。
創はまた一つ、法人銀行員として大切なことを学びました。
そして夜には、
「仕事では自分で頑張る」
「家では恋人として支える」
という二人らしい関係へ。
頭取だからこそ仕事の答えは教えない。
でも恋人だからこそ、疲れた時には隣にいる。
その距離感こそ、創と璟瑶がこれから秘密の恋を続けていくうえで大切なものになっていきそうです。
次回はいよいよ、36階から39階に広がる青嶺FGの全国連携部門が本格登場します。
47都道府県の地域銀行をつなぐ巨大ネットワーク。
そして、その中に創の名前が――。




