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第17話「二十一歳、初めての法人担当――一億円の向こうにいる人たち」


第17話です。


今回は、創が法人営業第一部で初めて本格的な法人案件へ向き合います。


必要な設備資金は約一億円。


決算書。

貸借対照表。

損益計算書。

キャッシュフロー。

既存借入。

返済能力。

設備投資計画。


最初の創は、とにかく、


「一億円を貸して、本当に返ってくるのか」


という数字ばかりを見ていました。


しかし実際に企業を訪れ、工場を見て、そこで働く従業員や社長の思いに触れることで、一億円という数字の向こう側にいる「人」が少しずつ見えてきます。


そしてそれは、創が雨の日に自分で語った言葉と、璟瑶が入行式で語った言葉にもつながっていきます。


一方、同じ頃。


42階では、頭取としてまったく別の規模の仕事に追われる璟瑶。


数字を見る創と、さらに巨大な数字を見る璟瑶。


それぞれ別の立場で銀行員として働きながら、夜にはただの恋人へ戻る二人。


創が銀行員として一段成長する重要な回をお楽しみください。



 正式配属から数週間。


 宮嶋創は、法人営業第一部・若手法人担当チームで少しずつ仕事を覚えていた。


 チームリーダーは、法人営業約二十年の桐生雅人。創の教育担当は相沢拓也である。


 ほかにも、設備投資案件に強い長谷川直樹、若手経営者との関係構築を得意とする佐伯遼、財務分析に強い藤崎美優、資料作成やシステム操作を教えてくれる北川玲奈がいた。


 午前九時、創は桐生から小会議室へ呼ばれた。


 テーブルには一冊のファイルが置かれている。


『株式会社東央精密製作所』


「今日から、この会社を宮嶋君にも主体的に見てもらいます」


「俺が、ですか?」


「相沢君が主査として付き、長谷川君にも設備投資部分を支援してもらう。ただし面談準備、財務分析、質問事項の整理は、宮嶋君が中心になって進めてみて」


「分かりました」


 東央精密製作所は、東京都内に本社と工場を持つ精密部品メーカーである。


 創業約四十年。従業員八十六名。自動車、産業機械、医療機器向けの金属加工部品を製造している。


 今回の相談は、新型五軸加工機と付帯設備の導入資金だった。


 総事業費は約一億八百万円。


 銀行への借入希望額は一億円。


「一億円……」


 東都共栄銀行時代にも融資案件を見たことはある。しかし、自分が中心となって一億円の融資相談へ向き合うのは初めてだった。


「最初に何を考えた?」


 桐生に尋ねられ、創は正直に答えた。


「一億円を貸して、本当に返済できるのかです」


「間違ってはいない。では、そのために何を見る?」


「売上や利益、既存借入、キャッシュフロー、自己資本。それから、設備投資によって本当に収益が増えるのか、返済原資を確保できるのかを確認します」


「いい。まずは自分で決算書を見てみなさい」


◇◇◇


 創は三期分の決算書と向き合った。


 売上高は約二十一億六千万円から二十四億一千万円へ増えている。


 一方、営業利益は一億二千万円前後で横ばいだった。


「売上は増えてるのに、利益は伸びてない……」


 原材料費、電気料金、人件費、外注費。複数の要因を調べる。


 さらに既存借入や返済予定、営業キャッシュフロー、設備導入後の売上計画を確認した。


「難しいです。見るところが多すぎて」


 相沢へ相談すると、順番に整理するよう助言された。


「売上は?」


「伸びています」


「利益は?」


「横ばい。原材料費と人件費の増加が大きいです」


「既存借入の返済は?」


「現時点では問題ありません。営業キャッシュフローもプラスです」


「なら融資できる?」


「……できると思います」


「判断が早い。今の情報だけでは融資できないとも言えないし、できるとも言えない」


「では、どうすれば?」


「企業を見に行くんだよ」


◇◇◇


 午前十時半。


 創は相沢、長谷川とともに東央精密製作所へ向かった。


「資料を読むのも大切だが、今日は現場を見ろ」


「工場ですか?」


「決算書には、機械の音も現場の空気も載っていないからな」


 会社で三人を迎えたのは、二代目社長の東条信之だった。


 相沢が設備資金の相談について説明し、創が質問を担当する。


「今回の五軸加工機は、生産能力の増強が目的でしょうか?」


「それもありますが、一番は外注工程の内製化です」


「外注費は、年間でどの程度削減できる見込みですか?」


「約二千五百万円です。ただし、単純なコスト削減だけではありません」


「ほかには?」


「納期です。今は外注先の予定によって、急ぎの仕事を断ることがあります。社内で加工できれば、そうした案件も受注できます」


 創は事業計画書を確認した。


「設備導入後、三年間で売上を約三億円増やす計画ですが、根拠となる受注見込みはありますか?」


「主要取引先三社から具体的な案件が来ています」


 東条社長から示された資料には、製品、数量、単価、受注開始時期が記されていた。


 売上三億円という数字に、具体的な意味が見え始めた。


◇◇◇


 面談後、創たちは工場を見学した。


 扉を開けると、機械音と金属を削る音が響き、油の匂いが漂っていた。


 資料に記されていた『従業員八十六名』が、目の前で実際に働いている。


 現在使用している加工機は、十五年以上前のものだった。丁寧に整備されているが、作業員が何度も工具を交換しなければならない。


「新しい五軸加工機なら、一度の取り付けで複数の工程を加工できます」


 東条社長は、導入後に操作を担当する予定の若手社員を紹介した。


「新しい機械で、今まで外注していた難しい加工もできるようになると聞いています。研修へ行くのも楽しみです」


 若手社員は嬉しそうに笑った。


 創は工場を見渡した。


 部品を加工する人。


 検査する人。


 梱包し、出荷の準備をする人。


 その全員が、この会社で働き、生活を支えている。


「一億円の借入は、正直に言えば怖いです」


 東条社長が語った。


「それでも今、設備投資をしなければ、五年後や十年後に仕事を取れなくなる。若い社員たちに、将来のある会社を残したいんです」


 創は、すぐに言葉を返せなかった。


 朝まで一億円は、返済されるべき大きな数字にしか見えていなかった。


 今は、その向こうに働く人々と会社の未来が見えていた。


◇◇◇


 帰りの車内で、創は相沢へ話した。


「資料だけを見ていたときとは、全然違いました。一億円を借りたい理由が、現場を見て分かった気がします」


「それが設備融資の面白さだ」


 しかし長谷川が、厳しい口調で続けた。


「ただし、社長がいい人だった、従業員が頑張っていたという理由だけで融資するな」


「はい」


「現場を見るのは、数字を無視するためではない」


「数字の意味を理解するためですね」


「そうだ。数字と人、その両方を見る」


 その言葉が、創の胸に残った。


◇◇◇


 本店へ戻った創は、改めて決算書を開いた。


 売上二十四億一千万円は、工場で作られた部品の積み重ね。


 外注費や人件費の先には、実際の工程と従業員がいる。


 創は設備投資の目的を整理した。


 外注工程の内製化、年間約二千五百万円の外注費削減、加工能力の向上、納期短縮、新規受注、若手人材の育成。


 さらに藤崎美優の助言を受け、売上計画が下振れした場合や原材料価格が上昇した場合、外注費削減が計画どおり進まなかった場合も計算した。


「一つの予測だけではなく、複数のストレスケースを見ること」


「はい」


 夕方、桐生たちとの案件会議で、創は自分の考えを報告した。


「設備投資の必要性は高いと考えます。外注費の削減と納期短縮に加え、主要取引先三社から具体的な受注見込みも確認できました」


「返済能力は?」


「現状の営業キャッシュフローでは、新規借入を含めても一定の返済余力があります。ただし原材料費や人件費が上昇しているため、売上やコスト削減効果が計画を下回った場合も確認する必要があります」


「担保と保証は?」


「本社工場不動産がありますが、既存借入の担保設定があるため、評価額と順位を確認します。代表者保証も、財務内容と現在の方針を踏まえて検討します」


 桐生は満足そうに頷いた。


「朝より、ずいぶん法人営業らしくなったね」


「朝は一億円が返ってくるかしか考えていませんでしたから」


「その視点も忘れてはいけない。融資は寄付ではない。ただし、数字だけを見る仕事でもない」


「はい」


 創はノートへ一行だけ書いた。


『数字の先に人を見る。しかし、人を見るために数字も見る』


 それが、創が初めて主体的に法人融資案件へ向き合って得た答えだった。


◇◇◇


 同じ頃、四十二階の頭取室では、璟瑶が創とはまったく異なる規模の仕事へ向き合っていた。


 国内法人部門の業績、中国・東アジア事業、全国地域銀行との人材交流、M&A、市場リスク、信用リスク、海外拠点。


 数字は何兆円、何千億円という規模に及ぶ。


「法人貸出の増加だけを評価してはいけません。採算性と信用リスクを同時に見てください」


 璟瑶は頭取として、一つずつ判断していった。


「競合金融機関が動いているという理由だけで、M&Aを急がないで。企業にとって本当に必要な取引なのかを確認してください」


 市場リスクと信用リスクの合同報告では、製造業向け貸出の増加について尋ねる。


「原材料価格や金利が上昇し、売上が落ちても返済できるのか。ストレスケースを確認してください」


 奇しくも数階下では、創が一億円の設備融資について同じことを考えていた。


 しかし二人は、互いの仕事の内容を知らない。


 璟瑶は恋人だからという理由で創の担当案件を調べず、現場の評価にも介入しなかった。


◇◇◇


 午後六時四十五分。


 創からメッセージが届いた。


『仕事終わった』


 璟瑶の表情が、頭取から恋人へ変わる。


『私も終わった』


『今日、家へ来る?』


『行く』


 その夜、璟瑶は創の部屋を訪れた。


「ただいま」


「おかえり」


 隣へ座った璟瑶は、創がいつもより疲れていることに気づいた。


「仕事のこと?」


「うん」


「聞かない方がいい?」


 創は少し迷ってから頷いた。


「ごめん。具体的な案件のことは話せない」


「謝る必要はないわ。私は頭取だもの。顧客情報を話さないのが正しい」


 璟瑶は会社名も金額も尋ねず、ただ創の隣へ座った。


「具体的なことではないけど、今日は銀行員が数字だけを見る仕事ではないと分かった気がする」


「でも、人だけ見ても駄目でしょう?」


「うん。難しいね」


「難しいわ。頭取だからこそ、私も大きな数字と、その意味の両方を見なければならない」


「俺も今日、同じようなことを考えた」


「詳しく言わなくていいわ」


 仕事の秘密を話さなくても、二人には伝わるものがあった。


「璟瑶は今日は何をしていたの?」


「私にも話せないことがあるわ」


「それもそうか」


「だから、お互い様ね」


 璟瑶は創の肩へ頭を預けた。


「私も今日は疲れたの」


「お疲れさま」


「創もお疲れさま」


 創が頭を撫でると、璟瑶は少し顔を上げた。


「抱き締めてもいい?」


「許可なんていらないよ」


 創が腕を広げると、璟瑶は嬉しそうに胸元へ身体を寄せた。


 二人は強く抱き合う。


「……落ち着く」


「俺も」


「創、今日は頑張った?」


「たぶん」


「なら合格」


「頭取としての評価?」


「彼女としてよ。仕事では甘くしないわ」


「知ってる」


 創は、もう少しこのままでいたいと告げた。


「もちろん」


 璟瑶も抱き締める腕に力を込めた。


 朝は、返済されるべき一億円という数字しか見えていなかった。


 しかし今の創には、その向こうに会社、工場、経営者、八十六人の従業員、取引先、家族、地域の未来が見えていた。


 だからこそ、感情だけで融資してはいけない。


 返済可能性、利益、キャッシュフロー、担保、保証、事業計画を冷静に確認する必要がある。


 数字と人。


 どちらか一方ではなく、その両方を見る。


 二十一歳の宮嶋創が、法人営業担当者として初めて一歩前へ進んだ一日だった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、創が二十一歳で初めて主体的に約一億円の法人融資案件へ向き合いました。


最初は、


「一億円を貸して返ってくるのか」


という数字しか見えていなかった創。


しかし企業を訪問し、工場の機械を見て、若い従業員の表情を見て、社長から、


「若い社員たちに将来のある会社を残したい」


という思いを聞いたことで、数字の意味が大きく変わりました。


一億円の向こう側にいるのは、


社長。

従業員。

取引先。

その家族。

地域。

そして会社の未来。


ただし、人情だけで融資することもできません。


返済能力。

キャッシュフロー。

既存借入。

利益。

担保や保証。

事業計画。


数字を冷静に確認することも、企業とそこで働く人たちを守るために必要です。


創が辿り着いた、


「数字の先に人を見る。でも、人を見るために数字も見る」


という考え方は、これから法人銀行員として成長していくうえで大切な軸になっていきそうです。


そして今回は、同じ頃の璟瑶の頭取としての一日も描きました。


経営企画。

中国・東アジア事業。

47都道府県の地域銀行連携。

信用リスク。

海外拠点。

青嶺FGの経営管理。


創が一社の一億円と向き合っている頃、璟瑶は銀行全体や国内外の巨大な数字と向き合っていました。


それでも夜になれば、


「今日は疲れてる?」

「ちょっと」

「仕事?」

「うん」

「聞かない方がいい?」

「……うん」

「分かった」


と、詳しいことを無理に聞かず、ただ隣にいる恋人へ戻ります。


頭取だからこそ聞かない。

恋人だからこそ支える。


そんな二人らしい距離感も、この物語の大切な部分です。


次回は、今回の法人案件がさらに難しくなり、創が思わず、


「璟瑶なら答えを知っているんだろうな」


と考えることになります。


でも、その相手は恋人であると同時に頭取。


第18話では、二人が守らなければならない「仕事と恋愛の境界線」が、さらに大きなテーマになります。


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