第101話「結婚式の翌週――頭取と若手銀行員、いつもの月曜日へ」
第101話です。
小さな結婚式を終えた創と璟瑶は、再びそれぞれの日常へ。
銀行では頭取と若手行員、家に帰れば夫婦、そして双子の父と母。
今回は、結婚式後最初の月曜日と、ついに明かされる双子の名前を描きます。
結婚式から数日後の月曜日。
午前五時五十八分。
東京都世田谷区成城にある三階建ての新居は、まだ静かな朝の中にあった。
寝室の隣には、二台のベビーベッドが並んでいる。
一方には男の子… もう一方には女の子。
二人とも、いまは静かに眠っていた。
そのすぐそばにある夫婦のベッドでは、宮嶋創、二十一歳と、欧陽璟瑶、四十五歳が眠っている。
二十四歳差の夫婦。
数日前、二人はホテル・グランセレスティア東京のチャペル・ルミエールで、ごく限られた家族や知人を前に、もう一度夫婦としての誓いを交わした。
けれど、世間では何も変わっていない。
青嶺中央銀行のほとんどの行員は、頭取が結婚していることを知らない。
その夫が、同じ銀行の十八階で働いていることも知らない。
二人の間に双子が生まれたことも、もちろん知らなかった。
だから今日も、いつもの月曜日が始まる。
◇◇◇
午前六時三分。
「ん……」
先に目を開けた璟瑶が、隣を見る。
創はまだ眠っていたが、数秒後にゆっくり目を開けた。
『……おはよう』
「おはよう」
『何時?』
「六時三分」
『起きる』
「もう?」
『仕事だから』
「知ってる」
創は身体を起こす前に、二台のベビーベッドを確認した。
『二人とも寝てる』
「いまはね」
『いまは?』
「十分後には分からない」
『起きる前に朝ご飯を食べよう』
「そうしましょう」
ベッドを下りた創は、ゆっくり身体を起こす璟瑶を見る。
帝王切開と双子の出産を終えてから、まだそれほど時間は経っていない。
高峰レディースクリニックの高峰澪奈からも、無理をしないこと、長時間立たないこと、仕事への復帰を急がないことを言い渡されていた。
『璟瑶』
「何?」
『ゆっくりでいいから』
「分かってる」
『本当に?』
「朝から確認?」
『大事だから』
「はいはい」
◇◇◇
午前六時二十二分。
二十九畳のLDKに、朝食が並ぶ。
白いご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、サラダ、ヨーグルト。そして温かいお茶。
二人は向かいではなく、隣り合って座った。
『いただきます』
「いただきます」
創は焼き鮭を一口食べてから尋ねる。
『今日、午前中は重役会議だっけ』
「うん」
『璟瑶も出る?』
「出ない」
『本当に?』
「本当に」
『オンラインでも?』
「出ません」
『資料は?』
「午後に必要な部分だけ見る」
『水城さんが止めた?』
「水城さんと劉川さんと久世さん」
『三人がかりか』
「ひどいでしょう?」
『正しいと思う』
「創まで」
『高峰先生にも言われてるでしょ』
「……味方がいない」
『いるよ』
「誰?」
『俺』
「私を休ませる側でしょう?」
『それも味方だよ』
璟瑶は創を見て、少しだけ笑った。
「だったら創も無理をしないで」
『俺?』
「東央精密の案件」
『……まだ正式審査中だから』
「だからといって、一人で抱えない」
『相沢さんも桐生さんもいるよ』
「なら、きちんと頼って」
『分かった』
「本当に?」
『璟瑶も確認が多いよ』
「夫婦だから」
『便利な言葉だな』
◇◇◇
午前六時四十六分。
食事を終えた二人は、洗面台の前に並んで歯を磨いていた。
数日前に結婚式を挙げたばかりなのに、鏡に映る姿はどこにでもいる普通の夫婦だった。
創が鏡越しに璟瑶を見る。
「……何?」
『んー』
「磨きながら話さない」
『ん』
創は口をすすいだ。
『今日も綺麗だなって思って』
「……朝から急に何?」
『思ったから』
璟瑶も口をすすぎ、創を見る。
「結婚式が終わったからって、気を抜かないでね」
『何を?』
「そういう言葉」
『毎日言う?』
「言って」
『毎日は恥ずかしい』
「週五回」
『多い』
「週四回」
『交渉するんだ』
「銀行員でしょう?」
『家では夫です』
「そうだった」
◇◇◇
午前七時十一分。
創はスーツに着替え、ネクタイを締めた。
左手の薬指を見る。
昨夜までそこにあったプラチナリングは、仕事へ行くため専用ケースにしまってある。
在宅で過ごす璟瑶の左手には、同じ指輪が輝いていた。
『ずるい』
「何が?」
『璟瑶だけ指輪してる』
「私は家にいるから」
『俺も家にいたい』
「駄目です」
『即答』
「東央精密が待っているでしょう?」
『はい』
「行ってらっしゃい」
『まだ七時十一分だけど』
「じゃあ、もう少しだけ――」
その時、二階から小さな声が聞こえた。
「ふぇ……」
二人が同時に天井を見る。
『起きた』
「どっち?」
『分からない』
続いて、もう一度泣き声がする。
「ふぇぇ……」
『たぶん娘』
「行きましょう」
二人はすぐに寝室へ戻った。
◇◇◇
午前七時三十八分。
双子が落ち着く。
創は息子を、璟瑶は娘をベビーベッドへ戻した。
玄関で靴を履き、鞄を持つ創を、璟瑶が見送る。
『行ってきます』
「行ってらっしゃい」
創が少し近づく。
璟瑶も分かっているように顔を上げた。
二人の唇が重なる。
「んっ……」
一度離れ、もう一度。
「ん……」
そして三度目は、少しだけ長く重なった。
「んっ……」
ようやく離れた創が満足そうに笑う。
『これで行ける』
「三回も?」
『結婚式後、最初の月曜日だから』
「毎週月曜日に三回する気?」
『駄目?』
「……」
璟瑶は創のネクタイを軽く引き、今度は自分から唇を重ねた。
「んっ……」
『四回になった』
「これは私の分」
『じゃあ、行ってきます』
「うん。行ってらっしゃい」
創が扉へ手をかけたところで、璟瑶が呼び止める。
「創」
『何?』
「気をつけて」
『璟瑶も仕事をしすぎないで』
「はい」
玄関の扉が閉じる。
その瞬間、夫婦の時間はいったん終わった。
創は銀行員へ… 璟瑶は頭取へ戻る。
◇◇◇
午前八時二十三分。
青嶺中央銀行本店。
創は社員証をかざしてエントランスを通り、エレベーターへ乗った。
扉が閉まる直前、外から声がする。
「宮嶋!」
『あ』
駆け込んできたのは、同期の黒瀬颯真、二十七歳と、水無瀬琴葉、二十六歳だった。
「危なかった」
「おはよう」
『おはようございます』
エレベーターが上昇する。
「月曜の朝から相変わらず早いな」
『黒瀬さんも同じですよ』
「俺はたまたま」
「私もたまたま」
『三人とも、たまたまですね』
黒瀬が創の顔をのぞき込んだ。
「宮嶋、何か機嫌よくない?」
『そうですか?』
「少し分かる」
琴葉も同意する。
『普通ですよ』
「恋人と何かあった?」
『……』
数日前、二人だけの結婚式を挙げた。
けれど、それを話すことはできない。
『別に何もありません』
「いまの間、怪しいな」
『怪しくないです』
「彼女とは順調?」
『はい』
「即答だな」
「順調ならいいじゃない」
琴葉が笑う。
『ありがとうございます』
「結婚とか考えてないの?」
『……まだ、いろいろありますから』
嘘ではない。
結婚はすでにしている。
双子もいる。
ただ、公表できない事情がいろいろあった。
「まだ二十一歳だもんな」
「急ぐ必要ないよ」
『はい』
創は心の中だけで答える。
もう妻も、息子も、娘もいます。
◇◇◇
十八階でエレベーターを降りる。
「昼、空いてる?」
『案件次第です』
「そこも宮嶋らしいな」
「十二時頃に三人で社員食堂へ行こう」
『分かりました』
扉が閉まり、創は法人営業第一部へ向かった。
◇◇◇
午前八時三十二分。
『おはようございます』
「おはよう」
「おはようございます」
若手法人担当チームから、いつもの挨拶が返ってくる。
直属上司の桐生雅人が、創を呼んだ。
「宮嶋」
『はい』
「東央精密から追加回答が来ている。九時までに一度目を通して、相沢と確認しろ」
『分かりました』
「昨日までの審査部からの質問も並べ直しておけ」
『はい』
「以上」
『はい』
それだけだった。
桐生は数日前、創の新郎姿も、璟瑶のウェディングドレス姿も、二人の誓いも見ている。
双子が泣く声も聞いていた。
それでも、職場では何も言わない。
ここにいる創は、頭取の夫ではない。
法人営業第一部の若手行員だった。
創は自席へ座り、パソコンを開く。
東央精密製作所の案件は、まだ正式審査中だ。
設備導入が三か月遅れた場合。
売上の立ち上がりが四か月遅れ、さらに安定稼働まで一か月かかった場合。
既存借入、新規借入、据置期間、キャッシュフロー。
本当に返済できるのか。
今日も、一つずつ確認する。
◇◇◇
午前八時四十五分。
四十二階の頭取室に、主の姿はなかった。
第一秘書の劉川景仁と、第二秘書の水城絢乃が、今日の予定を確認している。
「午前の重役会議、頭取は欠席で確定です」
「はい。久世副頭取が議長を代行します。頭取決裁が必要な事項だけ、午後に回します」
「午前中には送らないでください」
「分かっています」
「念のためです」
劉川は水城を見る。
「最近、私に対する確認も増えましたね」
「必要なので」
「宮嶋さんに似てきました?」
「似ていません」
即答だった。
劉川は小さく笑った。
◇◇◇
午前九時十二分。
四十一階の役員秘書共有スペースでは、十五人の秘書が会議前の最終確認を進めていた。
頭取秘書の劉川と水城。
久世副頭取担当の高城沙也香。
御子柴専務担当の榊真由美。
榊原取締役担当の三田村拓海。
長谷部役員担当の藤宮美咲。
黒崎常務担当の桜庭亮介。
早乙女常務担当の如月絵里。
秋元常務担当の小野寺翔。
水谷常務担当の羽鳥奈津美。
陳常務担当の林美華。
相馬取締役担当の城戸悠介。
武藤常務担当の篠崎由梨。
神崎常務担当の橘千佳。
西園寺常務担当の望月和也。
各自が資料と予定を短く報告していく。
その中で、水城が全体へ伝えた。
「頭取への報告対象は、会議終了後にA、B、Cの三段階で整理します」
劉川が補足する。
「Aのみ本日中に頭取判断。Bは副頭取または担当役員で判断。Cは部門内で処理してください」
「承知しました」
誰も余計なことは尋ねない。
頭取がまだ本店へ戻っていない理由として共有されているのは、健康管理上の都合だけだった。
妊娠も、出産も、双子も、結婚式も知らない。
秘密は、今日も必要な範囲にとどめられていた。
◇◇◇
午前九時三十分。
重役会議が始まった。
いつも璟瑶が座る中央の席は空いている。
議長を務める久世が、出席者を見回した。
「それでは始めます。頭取は健康管理上の理由により、本日も出席しません」
静かな声で続ける。
「頭取判断が必要な案件のみ、会議後に整理して回します。頭取不在を理由に止める案件を増やさないでください」
「承知しました」
御子柴が答える。
「法人側から始めます」
黒崎が資料を開く。
法人金融、大企業営業、審査、リスク管理、経営企画、財務戦略、市場、国際金融、中国・東アジア、システム、個人金融、人材戦略、職場環境、地域銀行連携。
各担当役員が順番に報告し、それぞれの権限で判断できる案件を処理していく。
最後に久世が整理した。
「頭取へ上げるのは三件。それ以外は各担当で進めます」
「異議ありません」
「法人側はこちらで処理します」
「国際側も、頭取判断が必要な一点だけ残します」
「地域銀行側も同様です」
頭取がいなくても、銀行は動く。
それは璟瑶を休ませるためだけではない。
何万人もの行員を抱える巨大な組織として、本来そうあるべき姿だった。
◇◇◇
午前十時四十八分。
会議が終了し、十五人の秘書たちが再び動き始める。
それぞれが担当役員の次の予定を確認する中、水城と劉川は、頭取判断が必要な三件を持ち帰った。
「午後は二十五分以内ですね」
水城が言う。
「三件なら三十分ほしいところですが」
「二十五分です」
「高峰先生も、三十分なら怒らないと思いますよ」
「私が怒ります」
「……分かりました」
◇◇◇
午前十一時十二分。
成城の新居。
璟瑶は、二台のベビーベッドの間にあるソファへ座っていた。
ノートパソコンは閉じたまま。
まだ仕事は始めていない。
スマートフォンに水城からメッセージが届く。
《重役会議が終了しました。頭取判断が必要な案件は三件です。午後に二十五分だけお願いします》
「……二十五分」
璟瑶は小さく呟き、眠っている双子を見る。
「あなたたちのお父さんなら、『十分です』って言うんでしょうね」
二人は眠ったまま。
「……返事してくれないの?」
もちろん、返事はなかった。
◇◇◇
正午十二時六分。
十八階では、創と相沢が東央精密の追加回答をひととおり確認し終えていた。
「宮嶋、昼に行ってこい」
『いいんですか?』
「午後一時から、また続きだ」
『分かりました』
少し離れた席から、桐生も声をかける。
「宮嶋」
『はい』
「飯は食え。追加回答は逃げない」
『はい』
創が席を立ってスマートフォンを見ると、黒瀬からメッセージが届いていた。
《二十一階。琴葉と先に行ってる》
『……早い』
◇◇◇
午後零時十四分。
二十一階の社員食堂。
創は焼き魚定食のトレーを持ち、黒瀬と琴葉の向かいへ座った。
黒瀬は生姜焼き定食、琴葉は鶏肉と野菜の定食を選んでいる。
「いただきます」
『いただきます』
黒瀬は一口食べると、すぐに朝の話を蒸し返した。
「それで?」
『何ですか?』
「恋人と順調なんだろ?」
『順調です』
「休みは何をしてた?」
『家にいました』
結婚式以外は、ほとんど家にいた。
だから嘘ではない。
「デートは?」
『しました』
「どこへ?」
『……秘密です』
「怪しい」
『どうしてですか』
「宮嶋が秘密と言うと、余計に怪しい」
「でも、仲がいいならいいじゃない」
琴葉が笑う。
「そのうち紹介してよ」
『……そのうち』
「年上なんだっけ?」
『はい』
「何歳上?」
『それも秘密です』
「本当に何も教えないな」
『すみません』
二十四歳年上でこの銀行の頭取。
自分の妻であり、双子の母親。
そんなことを言えるはずがなかった。
◇◇◇
社員食堂の壁にある大型テレビでは、金融ニュースが流れていた。
『大手金融グループ各社では、育児や介護と仕事の両立支援を強化する動きが続いています』
「うちも結構やってるよね」
琴葉が画面を見る。
「地下には事業所内保育所もあるしな」
『ありますね』
創は何気なく答えた。
自分の息子と娘をそこへ預ける未来は、まだ具体的に考えていない。
ニュースが切り替わる。
『続いて芸能ニュースです。人気俳優の――さんと、モデルの――さんが昨日、結婚を発表しました』
「結婚か」
「最近、多いね」
黒瀬が創を見る。
「次はお前だったりして」
『ぶっ……』
創は危うく味噌汁でむせそうになった。
「ちょっと、大丈夫?」
『大丈夫です』
「その反応、怪しいな」
『違います』
「もし結婚したら教えてね」
琴葉が言う。
『……はい』
「また、その間」
『ちゃんと言える時が来たら』
「じゃあ、待ってる」
テレビには、結婚を公表した二人の写真が映っている。
創にも、璟瑶と並んだ結婚式の写真がある。
けれど、それはニュースにも社内報にも載らない。
自宅のアルバムにだけ残る写真だった。
それでも創に不満はない… 自分たちで選んだ形だった。
◇◇◇
午後一時三分。
十八階で仕事が再開する。
「宮嶋。この設備の支払条件は?」
相沢が尋ねる。
『契約時に二十パーセント、納入時に六十パーセント、検収後に二十パーセントです』
「設備導入が遅れた場合、どこが一番資金繰りに影響する?」
創は資料を確認してから答えた。
『納入時期が後ろへずれれば、支払い時期も動きます。ただ、売上の立ち上がりも同時に遅れるので、支払いが後ろへ行くから楽になるとは見ない方がいいと思います』
「理由は?」
『既存借入の返済は、その間も続くからです』
「そうだ。そこを追加で書け」
『はい』
後ろを通った桐生が声をかける。
「宮嶋、数字だけ合わせるなよ」
『はい』
「会社の現金が、いつ入って、いつ出るのかを見ろ」
『分かりました』
それは、いつもどおりの指導だった。
結婚式の話は一言もない。
創は、頭取の夫ではなく、一人の銀行員として扱われている。
それこそ、創が望んだことだった。
◇◇◇
午後二時。
成城の新居で、璟瑶がノートパソコンを開く。
画面には、水城、劉川、久世の三人が映った。
「頭取、二十五分です」
「最初から言わなくても分かってる」
「念のためです」
「本日は重役会議から、頭取判断が必要な三件だけをお持ちしました」
劉川が説明する。
「それ以外はこちらで処理しました」
久世も続けた。
「分かりました」
璟瑶の表情が頭取へ変わる。
一件目は海外関連の重要方針。
二件目はグループ内の資本配分… 三件目は東アジア戦略。
必要な部分だけを確認し、判断を下していく。
三件を終えた璟瑶が、別の資料を開こうとする。
「頭取。それは本日、必要ありません」
「五分で見られる」
「見ません」
「三分」
「駄目です」
「二分」
劉川が困ったように言う。
「値切るものではありません」
「頭取、休んでください」
久世も加わる。
「……三対一」
「はい」
水城は一歩も引かなかった。
◇◇◇
午後二時二十五分。
「終了です」
「あと一つだけ」
「ありません」
「メールを確認するだけ」
「メールも明日です」
「水城さん」
「はい」
「厳しくなった?」
「以前からです」
「むしろ、これまで頭取が聞いていなかっただけかと」
劉川が付け加える。
「では、失礼します」
久世が接続を切る。
「……本当に切った」
璟瑶が閉じた画面を見つめた時、息子の声が聞こえた。
「ふぇ……」
続いて娘も泣き始める。
「ふぇぇ……」
璟瑶はノートパソコンを閉じた。
「はい。今度はお母さんの仕事ね」
◇◇◇
午後五時四十八分。
十八階。
創は、東央精密の追加回答を整理して保存した。
審査は、まだ終わっていない。
「今日はここまで」
相沢が言う。
『はい』
「宮嶋」
今度は桐生が呼ぶ。
『はい』
「明日の九時半から、東央精密をもう一度確認するぞ」
『分かりました』
「お疲れ」
『お疲れさまでした』
それだけだった。
創は鞄を持って席を立つ。
左手の薬指には、まだ何もないけれど、家へ帰れば指輪が戻る。
◇◇◇
午後六時五十二分。
成城の新居。
『ただいま』
「おかえり」
玄関の先に、璟瑶が待っていた。
左手の薬指には、プラチナリングが光っている。
創は手を洗い、部屋着へ着替えてリビングへ戻った。
璟瑶が専用ケースを開く。
創が左手を差し出すと、璟瑶は指輪を薬指へゆっくり通した。
「おかえり」
創は指輪を見て笑う。
『ただいま』
それから璟瑶の左手を取り、尋ねる。
『今日、仕事した?』
「二十五分」
『本当に?』
「水城さんに強制終了された」
『じゃあ大丈夫だ』
「信用されてない」
『信用してるから確認するんだよ』
「それ、銀行でも言ってる?」
『たぶん』
◇◇◇
午後七時二十分。
夕食を終えた二人は、双子の世話をする。
創は腕の中にいる息子へ話しかけた。
『今日はどうだった?』
「よく寝てたよ」
『娘は?』
「午後に少しぐずった」
『そうか』
創は息子の顔を見つめる。
そして、これまで物語の中で呼ばれなかった名前を、初めて口にした。
『悠真。父ちゃん、帰ってきたぞ』
――宮嶋悠真。
創と璟瑶の息子で、双子の兄。
日本で自然に呼んでもらえる名前にしたい。
真っすぐに、自分の人生を歩いてほしい。
そんな願いを込めて、二人で決めた名前だった。
璟瑶も、腕の中の娘を見る。
「美玲。お父さん、帰ってきたよ」
――宮嶋美玲。
日本では「みれい」。
中国の家族からは「メイリン」とも呼ぶことができる。
母の中国でのルーツと、日本で暮らす日々。その両方を大切にできるようにと選んだ名前だった。
男の子は、宮嶋悠真。女の子は、宮嶋美玲。
これまで「息子」と「娘」と呼ばれてきた二人に、初めて名前が与えられた。
『悠真。美玲』
創は、もう一度二人の名前を呼ぶ。
「どうしたの?」
『二人とも、本当にここにいるんだなって』
「今さら?」
『結婚式が終わって、仕事に戻って、それから家に帰って二人を見ると……何か実感する』
「私も」
『璟瑶も?』
「昼に仕事をして、それが終わって、悠真が泣いて、美玲も泣いて。私、本当にお母さんになったんだって思う」
『頭取じゃなくて?』
「今はお母さん」
『俺も、いまは銀行員じゃなくて父ちゃん』
「うん」
◇◇◇
午後八時四十分。
悠真と美玲が一度落ち着き、夫婦に短い自由時間ができた。
二人はリビングのテーブルに、簡単な陣取り型のボードゲームを広げる。
「今日は負けない」
『前も言ってた』
「今日は本当に」
『何を賭ける?』
「賭けません」
『銀行頭取、堅い』
「銀行員が賭けようと言わない」
『お菓子』
「それならいい」
二人とも盤面を見つめ、真剣に考える。
先に駒を置いた璟瑶を見て、創の表情が変わった。
『そこ?』
「何?」
『いや、何でもない』
「顔に出てる」
『何が?』
「私がそこへ置くと困るって」
『出てない』
「出てる」
『頭取、強い』
「夫、弱い」
『まだ終わってない』
十分後。
『……負けた』
「勝った」
『もう一回』
「明日」
『悔しい』
「創、仕事でも負けず嫌い?」
『仕事は勝ち負けじゃない』
「そこは真面目」
『当たり前だよ』
その時、ベビーモニターから小さな音が聞こえた。
二人は同時に画面を見る。
『悠真?』
「美玲かも」
二人同時に立ち上がり… ボードゲームはそのまま。
夫と妻は、再び父と母へ戻った。
◇◇◇
午後九時二十八分。
悠真と美玲は、再び眠りについた。
創がベビーベッドの柵を確認する。
一台目… 二台目。
「確認した?」
『した』
「二つとも?」
『した』
「毛布は?」
『顔に掛からない位置』
「室温は?」
『大丈夫』
創は璟瑶を見る。
『俺より確認してる』
「二人だから」
『その理屈、これからずっと使う?』
「使う」
『分かった』
◇◇◇
午後九時五十二分。
一・七五坪の浴室。
二人は広い浴槽の中で向かい合い、肩まで湯につかっていた。
『疲れた』
「仕事?」
『仕事も、育児も』
「私も」
『二十五分しか仕事してないのに?』
「育児は二十五分では終わらないでしょう」
『確かに』
璟瑶は少しだけ肩を沈める。
「創。今日はどうだった?」
『普通だったよ。東央精密の追加回答を確認して、相沢さんと話して、桐生さんには明日もう一度確認すると言われた』
「結婚式のこと、桐生さんは何か言った?」
『何も』
「一言も?」
『一言も』
「そう」
『ありがたいよ。仕事では上司だから』
「うん。そうだね」
『璟瑶は?』
「重役会議には出なかった」
『偉い』
「子ども扱い?」
『褒めてる』
「じゃあ、ご褒美」
『何?』
璟瑶が浴槽の中で少し近づく。
創も同じように距離を縮めた。
璟瑶の手が、創の頬へ触れ… そして二人の唇が重なった。
「んっ……」
一度離れ、目を合わせ… 今度は創から唇を重ねた。
「ん……ちゅ……」
湯が小さく揺れる。
璟瑶は創の首へ腕を回し、もう一度ゆっくりと口づけた。
「んっ……」
短く離れては、また重なる。
やがて二人は唇を離し、額を軽く合わせた。
『長い』
「嫌だった?」
『逆』
「なら、いいでしょう」
『でも、のぼせる』
「それは駄目」
『高峰先生に怒られる』
「キスまで高峰先生へ報告しないで」
『しないよ』
二人は笑う。
それ以上のことはせず、湯につかりながら一日の疲れを静かに落としていった。
◇◇◇
午後十時三十八分。
寝室へ入る前に、二人はもう一度ベビーベッドを確認する。
悠真も、美玲も眠っていた。
『おやすみ、悠真。美玲』
「おやすみ」
照明を落とし、夫婦のベッドへ入る。
創が横になると、璟瑶が後ろから身体を抱いた。
『璟瑶?』
「何?」
『今日はそっちから?』
「抱きたいから」
『じゃあ、どうぞ』
「何、その言い方」
『嬉しい』
璟瑶の腕に少し力が入る。
創は、その手に自分の手を重ねた。
「創」
『うん』
「おかえり」
創は目を閉じる。
『ただいま』
「明日も行くの?」
『仕事だから』
「分かってる」
『寂しい?』
「少し」
『俺も』
「でも、行って」
『うん』
「銀行員だから」
『璟瑶も、明日はちゃんと休んで』
「うん」
『頭取だから』
「そこは、いま言わないで」
『じゃあ、悠真と美玲のお母さんだから』
「それならいい」
◇◇◇
同じ月曜日。
青嶺中央銀行本店四十二階では、頭取席が空いていた。
重役会議は久世を中心に進み、十五人の秘書がそれぞれの担当役員を支えた。
頭取が不在でも、銀行は止まらなかった。
十八階では、創がいつもどおり東央精密製作所の正式審査に向き合った。
桐生は結婚式について何も言わず、一人の部下として創を指導した。
二十一階では、創が黒瀬や琴葉と昼食を取った。
二人はまだ知らない。
目の前に座る二十一歳の若手行員が、すでに結婚していることを。
その妻が、自分たちの銀行の頭取であることを。
そして創が、男の子と女の子の双子の父親であることを。
けれど夜の成城には、頭取も若手銀行員もいなかった。
そこにいたのは、夫の宮嶋創。
妻の欧陽璟瑶。
双子の兄、宮嶋悠真と双子の妹、宮嶋美玲。
四人の家族だった。また秘密の結婚式は終わった。
しかし、二人の秘密の生活は終わらない。
仕事に子育て… 夫婦としての時間。
三つが重なる新しい日常が、これから始まっていく。
その最初の月曜日だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
結婚式を挙げても、銀行では何も変わらない二人。
創は十八階で東央精密の審査に向き合い、璟瑶は自宅から少しずつ頭取業務を再開します。
そして今回、双子の名前がついに登場しました。
兄・悠真、妹・美玲。
四人家族として始まった新しい日常を、次回からさらに描いていきます。




