番外編③「頭取の夫、その素顔――秘密を知る七人だけの土曜夜」
番外編③です。
今回は、結婚式から数週間後の土曜日の夜。
創と璟瑶の結婚、そして双子の妊娠・出産まで知る久世、御子柴、黒崎、早乙女、桐生、水城、劉川という珍しい七人が、居酒屋に集まります。
普段の銀行ではまず見られない組み合わせだからこそ交わされる、創の仕事ぶりや二人の家庭についての会話です。
結婚式から数週間後。
土曜日、午後六時四十二分。
都内の駅から少し離れた場所にある、全室個室の居酒屋。
その一番奥の部屋に、青嶺中央銀行ではまず揃うことのない七人が集まっていた。
副頭取・久世宗一郎、五十七歳。
専務取締役兼人事担当・御子柴泰成、五十五歳。
常務取締役・黒崎忠彦、五十六歳。
同じく常務取締役・早乙女慶一、五十四歳。
頭取第一秘書・劉川景仁、三十八歳。
第二秘書・水城絢乃、三十一歳。
そして、法人営業第一部の桐生雅人、四十二歳。
七人には、一つの共通点があった。
青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶と、若手行員・宮嶋創が夫婦であること。
二人の間に男女の双子が生まれたこと。
そして、数週間前に行われた秘密の結婚式へ出席したこと。
「……失礼します」
最後に到着した桐生は、個室へ入ったところで足を止めた。
副頭取、専務、常務二人、頭取秘書二人。
そこへ自分が加わる。
銀行内なら、何か重大な問題でも起きたのかと思われる顔ぶれだった。
御子柴が笑う。
「桐生。顔に『なぜ私はここにいるんですか』と書いてあるぞ」
「……否定できません」
「無理もありません」
早乙女も微笑む。
「この顔ぶれで居酒屋ですからね」
「今日は仕事の会食ではない」
久世が言った。
「土曜日で、明日も休みだ。集まりに名前もない」
「秘密を知ってしまった者の会、でどうです?」
「御子柴専務、変な名前を付けないでください」
水城が即座に却下する。
「では、水城君が考えてくれ」
「必要ありません」
「早いな」
黒崎が笑った。
桐生も、わずかに表情を緩めた。
銀行の四十二階で見る秘書二人とは、少し雰囲気が違っていた。
◇◇◇
午後六時五十分。
飲み物が揃う。
水城だけは、最初にウーロン茶を頼んでいた。
「水城君、飲まないのか?」
「後で飲みます。ただ、頭取から連絡が来るかもしれませんので」
御子柴以外の六人が黙る。
「……何ですか?」
水城が全員を見る。
「休みの日くらい、秘書も休め」
黒崎が言った。
「明日で構わない案件なら、月曜まで待たせればいい」
久世も続ける。
「頭取本人が待ちますか?」
「……待たんな」
「待ちませんね」
御子柴と早乙女が同意する。
劉川が穏やかに補足した。
「まず『少しだけ』と言います」
「そして、少しでは終わりません」
水城の返答に、全員が納得する。
桐生が普段知る欧陽頭取とは、少し違う姿だった。
いま話題になっているのは銀行の最高責任者ではなく、産後間もない双子の母親、欧陽璟瑶だった。
久世がグラスを上げる。
「大げさな挨拶はやめよう。今日は肩書を、できるだけ置いていく」
「できるだけ?」
御子柴が聞く。
「完全には無理だろう。副頭取と専務と常務が二人いるんだから」
「自分で言うな」
黒崎が返す。
「ただし、ここで話したことはここだけだ。頭取と宮嶋君の私生活も、外には出さない」
全員が頷いた。
「では、乾杯」
「乾杯」
七つのグラスが、静かに重なった。
◇◇◇
最初は、食事や休日の過ごし方といった普通の話が続いた。
二十分ほど経ち、場の空気が柔らかくなった頃。
劉川が隣の桐生へ尋ねる。
「宮嶋さんは、職場では変わりませんか?」
「変わる、というのは?」
「結婚して、双子が生まれて、家庭での生活は大きく変わったはずです。十八階ではどうなのかと思いまして」
桐生は少し考えた。
「基本的には変わりません。朝に出勤して、予定と資料を確認し、顧客対応をする。分からないことは相沢や私に聞く。以前と同じです」
「疲れている様子は?」
「ないとは言いません。双子ですから、睡眠が細切れになる日もあるようです。ただ、仕事へ持ち込まないようにしています」
「頭取も同じです」
劉川が頷く。
「ほとんど眠れていない日でも、オンライン会議になると平然と始めようとします」
「似ていますね」
「ええ。かなり――」
「似ているから困るんです」
横から水城が割り込んだ。
「水城さん。いま、私と桐生さんが話していたのですが」
「隣なので聞こえました」
水城は桐生を見る。
「宮嶋さん、無理していませんか?」
「仕事上、明らかに無理をしている様子はありません」
「本当に?」
「はい」
「本当に?」
「水城さん、尋問しないでください」
劉川が止める。
「尋問ではありません。確認です」
桐生は思わず笑った。
「宮嶋もよく確認します」
「……」
「やはり頭取と宮嶋さんは似ていますね」
「私と宮嶋さんが、ではありませんよね?」
「頭取と宮嶋さんです」
「なら、いいです」
「二人とも心配性なのでしょう」
桐生が言うと、水城は小さく息をつく。
「心配するだけならいいんです。問題は、二人とも『自分は大丈夫』と言うところです」
「ああ……宮嶋も言いますね」
「でしょう?」
「頭取も、三十分の業務を終わらせようとすると『あと一件だけ』と言います」
劉川が続ける。
「その一件が十五分、二十分とかかります」
「だから最初から止めるんです。産後なのですから当然です」
「宮嶋も家庭で同じことを言っているでしょうね」
「言っています」
「言っていますね」
秘書二人が即答した。
少し離れた席で聞いていた御子柴が笑う。
「珍しい光景だな。頭取秘書二人と直属上司が、飲みながら宮嶋君の話をしている」
「銀行では見たくない組み合わせだ」
久世が言った。
「この三人が廊下で宮嶋君について話していたら、周囲が何事かと思う」
「翌日には『宮嶋が四十二階に呼ばれるらしい』」
御子柴が言う。
「その翌日には『宮嶋が頭取案件に関わっている』でしょうね」
早乙女が続ける。
「だから、ここだけだ」
久世の言葉に、全員が頷いた。
秘密を守ることは、創を一人の銀行員として働かせるためでもあった。
◇◇◇
料理が増え、水城もようやく小さなグラスの酒を頼んだ。
その頃、久世が桐生へ向き直る。
「せっかくだ。我々からも宮嶋君の仕事ぶりを聞いていいか」
空気が少し変わる。
久世は先に断った。
「これは人事評価ではない。昇進、配属、査定とは一切関係のない話だ。単純に、一人の若手行員として普段どう働いているのか聞きたい」
「私も人事担当として記録するつもりはない」
御子柴も続ける。
「頭取へ評価材料として報告することもない」
「承知しました」
桐生は一度頷いた。
「では、率直に話します。宮嶋は真面目です」
「そこは想像どおりだな」
「ただ、真面目なだけの行員なら大勢います。宮嶋の特徴は、確認が多いことです」
四人の役員が黙る。
水城が吹き出しそうになり、劉川が口元を隠した。
「やっぱりか」
御子柴が呟く。
「最近は、その確認の仕方が変わってきました」
桐生は続けた。
「入ったばかりの頃は『これでいいでしょうか』という聞き方が多かった。いまは『私はこう考えました。理由はこれです。ただ、この点だけ確認したいです』という形が増えています」
黒崎が頷く。
「それはいい変化だ」
「はい。自分で考えたうえで確認するようになっています。判断を上司へ丸投げしなくなりました」
「ミスは?」
「あります」
桐生は即答した。
「まだ二十一歳です。転職して日も浅く、経験のない案件も多い。ただし、見落とした点や先輩から指摘された内容を記録し、同じ種類のミスを繰り返さないようにしています」
「真面目だな」
「以前の職場で、確認をかなり叩き込まれたようです」
黒崎が次の質問をする。
「東央精密製作所は?」
「現在も正式審査中です」
設備投資額は約一億八百万円、融資希望額は一億円。
決して、若手一人に背負わせられる案件ではない。
「設備導入が三か月遅れた場合、売上の立ち上がりが四か月遅れた場合、さらに安定稼働まで一か月必要になった場合。その前提で既存借入、新規借入、据置期間、資金繰りを組み直しています」
「宮嶋が中心か?」
「中心はチームです。相沢が指導し、私も確認しています。そのうえで、宮嶋自身にも考えさせています」
「それでいい」
黒崎は明確に答えた。
「若手一人に背負わせる案件ではない」
「先日は相沢と顧客先へ行かせ、設備を置く場所や製造工程も見せました」
久世が尋ねる。
「本人は、承認を取りたがっているか?」
「顧客のために前へ進めたい気持ちはあります。ただ、私はこう言っています」
「何と?」
「承認を取りにいくな。返せるかどうかを最後まで見ろ、と」
黒崎がゆっくり頷く。
「それでいい」
「宮嶋も、少なくとも承認ありきで数字を作ろうとはしていません」
「それが一番大事だ」
◇◇◇
「対人面はどうです?」
早乙女が聞く。
「顧客にはかなり丁寧です。ただ、相手の話を全部拾おうとしすぎるところがあります。重要度を瞬時に分ける力はこれからです」
「同僚とは?」
「普通です」
「普通?」
「普通が一番です」
小さな笑いが起きる。
「同期や若手とも問題なく話しています。黒瀬君や水無瀬さんとも親しいようです」
「二人は、まだ知らないんだったな」
「はい。宮嶋が結婚していることも、妻が頭取であることも、双子がいることも知りません」
「そのままでお願いします」
水城がすぐに口を挟む。
「誰も話さない」
御子柴が苦笑する。
「なら大丈夫です」
「今日は水城さんが、一番飲んでいないのに一番話していますね」
劉川が言った。
「劉川さん、何か?」
「何でもありません」
◇◇◇
久世が再び桐生を見る。
「家庭が仕事へ影響しているか?」
「良い意味では、あると思います」
「どんな点だ?」
「以前より時間を意識しています。必要のない残業はせず、朝のうちに仕事を整理して優先順位を決めるようになりました。もちろん、途中で仕事を放り出して帰るわけではありません」
「父親になったからか」
「本人に聞いたわけではありませんが、おそらく」
「悪い変化ではない」
黒崎が言う。
「長く職場にいることと、働くことは同じではないからな」
「ただ、一つだけ私が気を付けていることがあります」
桐生の言葉に、全員が注目する。
「宮嶋を特別扱いしないことです」
部屋が静かになった。
「頭取の夫だから早く帰らせる。難しい仕事を避ける。評価を変える。逆に、頭取の夫だから必要以上に厳しくする。それも違います」
「その通りだ」
久世が答える。
「人事としても、そこは絶対に守る」
御子柴が続く。
「法人部門としても同じだ」
黒崎も頷いた。
水城が静かに言う。
「頭取は、宮嶋さんの採用、配属、給与、評価、昇進、研修選抜、そのすべてに関与していません」
「これからも、その線は守るでしょう」
劉川も続ける。
「私も、宮嶋を一人の部下として見ます」
「それでいい」
久世が短く答えた。
◇◇◇
酒が進むにつれて、肩書の境目も少しずつ薄くなっていった。
「結婚式で、ようやく実感しました」
早乙女が言う。
「頭取も家へ帰れば、普通に妻なのだと」
「ああ」
黒崎が頷く。
「双子が泣いた瞬間、完全に母親の顔になったからな」
「銀行では、まず見ない表情でした」
劉川が微笑む。
「宮嶋も同じです」
桐生が言った。
「仕事中は若手行員ですが、結婚式で双子を抱いていた時は父親でした」
「人間は肩書一つではない、ということだ」
久世がまとめる。
「頭取も、宮嶋君もですね」
その時、劉川が水城の前に置かれたグラスを見る。
「水城さん」
「……何ですか?」
「二杯目ですね」
「これは一杯目の続きです」
「新しいグラスですが」
「細かいです」
「確認です」
桐生が笑う。
「本当に宮嶋みたいですね」
「桐生さんまで!」
個室に大きな笑いが起きた。
普段は銀行で見せない表情で、久世も黒崎も笑っていた。
◇◇◇
午後九時二十二分。
料理もほとんどなくなり、会は終わりに近づいていた。
「今日はありがとう、桐生君」
「こちらこそ。まさか皆さんと居酒屋で飲む日が来るとは思いませんでした」
「原因は宮嶋君だな」
御子柴が言う。
「正確には、宮嶋君と頭取です」
早乙女が訂正する。
「お二人が結婚していなければ、この七人が集まる理由はありません」
「双子も生まれていません」
水城が加える。
「そこまで広げるのか?」
御子柴が苦笑し、久世は七人を見回す。
「不思議なものだ。副頭取、専務、常務、直属上司、秘書。立場はすべて違う。それでも、同じ秘密を守っている」
「一つ、お願いがあります」
桐生が言った。
「今日、宮嶋の仕事ぶりを聞かれたことは、本人へ言わないでください」
「なぜ?」
「絶対に気にします」
黒崎が納得する。
「確かにな」
「その後、『何か問題がありましたか』『どうして重役の方々が私の仕事を確認したのでしょうか』となります」
久世が創の口調を真似る。
「間違いなく」
「そして、何度も確認しますね」
水城が言う。
「します」
劉川も頷いた。
「全員、宮嶋君のことが分かってきたな」
御子柴の言葉に、また笑いが起こる。
「ですから、秘密でお願いします」
「ああ。今夜のことは、今夜だけだ」
◇◇◇
午後九時三十八分。
会計を終えた七人は、店の外へ出た。
夜風が少し冷たい。
「月曜から、また普通に戻るか」
御子柴が言う。
「銀行では、今日の組み合わせで集まらない方がいいですね」
早乙女が応じる。
「私と劉川さんが桐生さんのところへ行くだけでも目立ちます」
「そこへ副頭取、専務、常務二人まで来たら、法人営業第一部が止まりますね」
劉川の言葉に、黒崎が笑った。
「それはやめておこう」
駅へ向かう道で別れる直前、久世が桐生を呼び止める。
「桐生君」
「はい」
「宮嶋君をよろしく頼む」
桐生は一瞬だけ黙り、答えた。
「一人の部下として、しっかり見ます」
「ああ。それでいい」
「甘やかす必要はない」
黒崎が言う。
「逆に、頭取の夫だからと厳しくする必要もない」
御子柴が続ける。
「普通に育ててください」
早乙女の言葉に、桐生は頷いた。
「そのつもりです」
◇◇◇
その頃。
成城の新居では、創が息子を抱き、璟瑶が娘を抱いていた。
『今日、よく寝るな』
「その言葉を言うと、二人とも起きるよ」
『まさか』
直後。
「ふぇ……」
息子が泣く。
続いて娘も泣き始めた。
「ほら」
『ごめん』
「誰に?」
『二人に』
璟瑶が小さく笑う。
創は知らない。
同じ土曜日の夜、自分と妻と双子の秘密を知る七人が、居酒屋へ集まっていたことを。
副頭取や専務、常務たちが、直属上司の桐生から自分の仕事ぶりを聞いていたことも知らない。
そして月曜日。
桐生はいつもどおり、創を呼ぶ。
「宮嶋」
『はい』
「東央精密の追加回答、もう一回確認するぞ」
『はい』
それだけだった。
何を聞かれ、何を話したのか、創が知ることはない。
知る必要もない。
仕事は仕事… 家庭は家庭。
頭取の夫だから特別扱いされることはない。
頭取の夫だから、不当に厳しくされることもない。
宮嶋創、二十一歳で青嶺中央銀行法人営業第一部の若手行員。
職場では、それだけだった。
ただ、秘密を知る七人には、共通する思いがあった。
創と璟瑶、そして双子。四人の静かな暮らしを守ること。
同時に、銀行員・宮嶋創が、自分の力で成長できる環境を守ること。
結婚式から数週間後の土曜夜。
七人は初めて肩書を少しだけ横へ置き、同じ秘密について語り合った。
誰にも知られない、短い夜だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、秘密を知る七人だけの珍しい飲み会でした。
劉川と桐生の会話に水城が割り込み、さらに久世、御子柴、黒崎、早乙女の四人が、創の直属上司である桐生から普段の仕事ぶりを聞くことに。
それでも確認されたのは「頭取の夫」としてではなく、一人の若手銀行員としての創でした。
家庭では夫であり父親、銀行では一人の行員。
その線引きを周囲も大切に守っていることが見える番外編となりました。




