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【完結】粟散辺地の夜明け 第二章  作者: 乘越唯響


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第二三話 真の強者

 英雄・蔵馬有恒を頼みの綱として、大倉柳営の侵攻に抗う緑奥藤咲氏。先代当主の遺言を胸に一丸となって戦うが、長引く戦は次第に人心を蝕み、味方の中にも疑念と不信が広がっていく。

 一方、有恒は誰にも明かせぬ秘策を抱えながら、来るべき時を静かに待ち続けていた。戦乱の只中で出会う老僧との問答、揺らぐ忠誠、そして命を懸けて寄り添う友・鵄錦の存在。【真の強者】の意味を悟り、有恒は最後まで暴れ抜くことを決意する。

 皇紀一八三二年 緑奥城 春


 清原望衡は緑奥領内の守りを強めていた。東国、緑奥の情勢が固まりつつある今、冷たい風が吹いていることは、望衡にも分かりきっていた。戦である。戦の風が、吹いているのである。命を焼く禍々しい香りが、南から臭ってくる。いつか来るその戦への、最大の備えが、有恒であった。戦の天才ならば、例え相手が柳営の武士どもであっても、負けはしない。

 望衡は、鬼であろうとも、有恒という男を毛嫌いすることはなかった。それは武官の長である望久はおろか、八百万の神々や修験者を司る成衡であっても同じことであった。緑奥藤咲氏の、運命の時が迫っていた。

 清原望衡はかねてより患っていた労咳ろうがいにより、その命の火は消えかかっていた。彼は、先祖から縁があるこの地を、大きく栄えさせた。

 平定が済んだ毛野国は、複雑な歴史を辿った。緑奥や東国として分割され、名を変え、今に至るまでに、数え切れないほどの悲劇に見舞われ、多くの血が流れた。藤咲氏として下向し、土着の清原氏と交わって力を蓄えた藤咲氏は、朝廷には藤咲氏の一員としての顔で、そして東国、緑奥内には清原氏としての顔を使い、たち回った。

 緑奥城が大きく変わったのは、彼の祖父の代である。秋津洲であって、秋津洲ではない。ひとつの国として、藤咲氏は京では叶わなかった念願の建国を、事実上なし遂げたのである。

 だが、こんなことに胡座をかくようでは、陰謀と怨念が渦巻く京で栄華を極めることなどできない。藤咲氏の血は、この魑魅魍魎うずく北の大地でも、そのしぶとさを発揮した。

 幾度となく朝廷や、やがて朝廷の手を離れ東国武士団を形成し増大していく清和氏によって、存続を脅かされた。しかしそれでも藤咲氏は倒れることはなかった。

 父を経て、望衡の代となった。そして今、その子に、受け継がれようとしていた。

 望衡が子の守衡もりひらに託したことは、ただひとつ。「有恒と共に、緑奥を守れ」ということである。

 ほどなくして望衡は没し、守衡が当主の座に着いた。

 そして間もなく、緑奥に危機が迫った。遂に、大倉柳営の魔の手が迫ったのである。

「我が殿におかれましては、先代の望衡様より、緑奥を守るよう御遺言がありましてござりまする。そしてそれは、客将たる蔵馬有恒殿と共にとあり、我らは和平ではなく、戦にて敵を迎えうち、この難局を切抜ける所存にござりまする!」

「よう言うた望久! この守衡、政局の乱れを狙う姑息な男なんぞに、負ける気がせぬ」

 そういうと、年老いた一人の男もた、口を開いた。それは既に髪も髭も白くなった成衡であった。

「我らは先代の御遺言に従い、朝敵を抱えて、この戦に臨みまする。敗れればもはや言い逃れできず、我らは城を失い、寄って立つ地を失うばかりに留まらず、朝廷に弓引く朝敵となりまする。緑奥藤咲氏の命運は、有恒殿にかかっておりまする。我らは一丸となってこれを支え、色白の姑息な女狐、清和朝頼を蹴散らしてご覧に入れましょうぞ!」

「よう言うた!」

 士気は十分である。地の利、人の和、天の時。そのすべてが、彼らには揃っていた。

 開戦直後は、さすがの大倉柳営であっても、緑奥の険しい山々や、有恒による兵法破りな奇策に翻弄されるほかなかった。しかし、いつまでも押し負けるほど、大倉柳営の武士どもは、軟弱ではなかった。

 将軍のために戦功を上げ、恩賞として土地を得る。結果を出せば、それだけでいいのである。働かされ、結果を出しても、何も得られないこともあったばかりか、いつでも貴族からは虐げられてきた今までとは、比べこともできない。まさに、武士のための国である。その大倉柳営で生きている今、彼らを止めるものなどなかった。死への恐怖など、元より有りはしない。ただ、金のため、土地のため、そして栄誉のために、敵の体を刺し、斬り、首を刎ねる。それを掲げ、持ちかえり、また同じことをするため戦場へ喜び勇んで飛びだすのである。

 守るため、恐怖に立ち向かう男どもは、そんな連中に気負けしてしまう。人の和が乱れれば、やがて天の時も失われる。それは永久にどちらかの陣営が手にするものでは無いからである。

 天の時は、夏の訪れと共に、大倉柳営の元へと譲られた。

 武士どもにとって、緑奥は寒すぎた。しかし夏となり、気候は東国と変わらなくなる。彼らは本領発揮することとなった。

 有恒は、夏の訪れが自軍にとって不利に働くことを十分に理解していた。しかし、彼はそれでも焦らなかった。彼は待っていた。

「鵄錦よ、戦はすぐに決することもできた。しかしそうとなれば、我らは再び、住処を失う」

「承知しておりまする。長く長く戦い、勝ち、また長く戦う。それだけでござりまするな?」

にも」

「しかして、それはいつまでにござりましょうや。永久に、とは参りますまい」

「冬だ。冬となれば、道は開ける」

 時を稼ぎながら、有恒は負けない敗戦を続けた。戦が長引くことで、副指揮官である望久らの疑念も強まる。しかし既に有恒は、根回しをしていた。

 僧侶にして忍という二足の草鞋で緑奥藤咲氏に仕える男、伝雷坊でんらいぼう頼慶らいけいが主家の守衡を説得し、有恒の解任を阻止していた。望久や成衡ら重鎮の意見であっても、守衡はみだりにそれを受けいれることはできない。先代の遺言は重く、反故にはできない。また、魑魅魍魎といった存在に対する独特な畏怖の念を持ちながら、それを忘れかけた緑奥の主として、自身が思う以上に見えない存在を司る者への敬意が、守衡には必要とされた。

 先代の望衡が出来損ないの成衡を罷免せず、その地位を守り抜いたのも同様の理由であった。良彦よしひこ家はかつて清原氏との戦で兵糧攻めに遭い、滅びかけた家である。しかしその子孫が修験者や神道、仏教の道でほそぼそと生き延び、そうして台頭した成衡を邪険に扱うことができなかった。

 雪溶け水により氾濫した川を利用した天然の堀を張り巡らせた新造の城は、丘陵地を主として、複数箇所に設置されていた。有恒はその城を諸将に守らせていたが、長くは持たないことを知っていた。有恒が知っている城は、共に戦った東国武士が知る造りであり、その破り方も知られている城なのである。

「鵄錦よ、頼慶殿が放った乱破は、形勢逆転に繋がりうる報をもち帰ったか」

「依然として、敵の懐は固く、何の成果ももち帰っておりませぬ」

「ないならば、ないでよい。予てからの企てとおりにするまでのことよ」

「水軍は、未だ船の建造に手間取っておりまする」

「戦と季節毎の様々な祭祀に人手を割かれては、思うように作れまい。さりとて、それを憂慮しての一年ぞ。一年の猶予があれば、必ずや船は充足する」

 有恒の秘策。待っていたのは船の完成である。全七十槽の大型軍船が、冬の海を超えて、ガラ空きの鎌村を襲うのである。また同時に、京へも船を進めれば、緑奥が例え形勢不利となっても、掌返しを防ぐことができる。梯子を外される前に、朝廷の首根っこを掴めるのである。

 金木犀の香り強まる晩秋のこと、戦線は膠着し、両軍は相手側の指揮を下げるべく忍や乱破を放ちだした。そうして互いに、相手方の付け入る隙を探すのである。冬の訪れの前に事態を打破する突破口を見つけ出さなければ、雪が積もり、それが溶けるまで兵糧を消費するだけの長い日々が訪れるのである。

 戦の敵は、武器を持った相手だけではない。人を苦しめ、殺めるのに悪意は必要ないのである。飢えや病は、誰しもに訪れる苦しみである。それは、貧しい民草にとっては日常であるが、戦場となれば、今や貴族の仲間入りをして着飾ることを覚えた国司の武士であっても、それが東国の日常であることを思い出さなければならない。


 やがて冬が訪れた。冬は、武士の主な戦術である、迂回してから背後を襲うという単純な戦術が、極めて困難となる。地形が雪で覆い隠され把握困難となった状況下では、正確に敵の背後に出ることは容易ではない。俊敏性が失われた集団では逆に、敵の奇襲を招くこともある。

 腹が減り、寒さに凍え、家に帰ることもなく持ち場で待機する。指揮官への不信感から、武士らには徐々に厭戦気分が蔓延し、その不信感が極限まで高まれば、下克上の機運が高まるのである。

「いつまで我らをここに留めおくのか……大伴中将は、なにを考えておるのか!」

「噂によれば、模様眺めをしておられるとか」

「模様眺め……?」

「敵に降る時を探っておるのよう。鬼に采配を託す若殿より、その鬼を遠ざけ、武士の国をお創りになった将軍のほうが、よっぽど魅力的だわなあ」

 流言が飛びかうことを、止める術はない。兵の猜疑心を和らげるのは言葉ではなく、結果のみである。望久には、これまで政治的な折衝で国を争いから守ったという実績はあっても、それは見えづらい功績である。誰もが、望久の能力に懐疑的であり、自らの土地でありながら敵を一年近く撃退できずにいる望久は、未だ前線に現れない鬼の子蔵馬有恒に弱みを握られた、弱者よわものであると口々に噂した。

 そんな状況であるにも関わらず、望久は有恒から、緑奥城へ戻るようにと指示が下った。兵の不満を理由に現場を離れることが得策ではないことを書状で幾度も伝えるも、有恒はそれを聞きいれなかった。

 緑奥城へ戻った望久は、有恒より水軍を託された。

「水軍……そんなものが我が軍にあったのですか、守衡様!」

「有恒殿が、内密にと申すので、そなたへ伝えることもできなかった」

「これがあれば、一気に東国を叩くことができまする! 勝てまするぞ!」

 喜ぶ望久と守衡に対し、有恒は言った。

「水軍を動かすのは、暫し待たれよ。此度、御辺を呼びたてのもその儀を直に説明したかったが故にござる」

「何故、動かせぬのか!」

「大量の軍船ができたは良いものの、その出来は粗製濫造。海に浮かぶか否か……無論、すべてはないにしても、少数であれば迎撃されるのが見えておる故、少数だけでも悪しき船に乗せ、見栄えは良くしておかねばならぬ」

「その船に誰を乗せるか……それを詮議せねばならぬということにござるな」

「まさしく」

「多くの兵を、みすみす真冬の海に沈めるなど……如何なるものか。無事な船だけで進む方が、結果として一人も兵を失うこともないのではないか」

「全く、それでは鎌村は攻められぬ。望久殿は鎌村を知らぬ。三方を山に囲まれ、一方のみが海。浜を防がれれば兵は一人たりとも下りられず、船は立ち往生にござるぞ」

「船は何槽使えるのか」

「鎌村を攻められるのは二十槽のみにござる」

「それに賭けようぞ」

「ならぬ……!」

 問答は続いた。しかし、解決はしなかった。望久が前線へ戻ったあと、有恒は浜近くの軍船を見学へ向かった。

「鵄錦よ、望久は存外に持ちこたえるのう」

「謀反でも起きれば、その討伐でも用いられると思うたのですが、思うようには行きませぬな」

 氷が浮かぶ海の上でゆられる軍船を眺め、有恒はため息を吐いた。

「この蔵馬有恒ともあろう者が、姑息な真似を……。一年も、かように姑息な真似をせねばならぬのは何故か……!」

「致し方ありませぬぞ、殿。我らには、戦しかありませぬ。戦がなければ、力をもて余す我らは、邪険に扱われてしまいまする」

「分かっておる……故に法眼は我らに、戦い方を教えたのじゃ」

 緑奥にたどり着いてすぐ、彼らは城内の山で、天狗の法眼と邂逅した。法眼は、戦いを望んでいた。それは二人のためでもあり、真の強者として自らが楽しむ相手を創り出すという、自分自身の為でもあった。

 滅びゆく篁家を半ば一方的に叩きつぶすという先の戦では、有恒、そして鵄錦もまた、戦いの喜びを知ると同時に、まだまだこんなものでは楽しめないという気持ちがあった。

 法眼は、この緑奥もまた故郷と呼べる場所のひとつであると語っていた。しかし法眼もまた、有恒らともども、飽き飽きしていた。世の中は不幸が溢れる割には、血が流れない。法眼は、妥協と癒着で、それなりの不幸を享受しながらも長く生きることに拘る人間社会が、退屈で、退廃的に思えていた。

 法眼は再び遠くへ飛びさる前に、二人にとある人物を紹介した。それは、客神マレビトと呼ばれ、時には人として、時には神として、畏怖の対象となってきた存在であった。

 客神マレビトの名は湛増たんぞう。男は、老齢の僧侶であった。有恒と鵄錦はこの一年、湛増と問答をし、内省をしてきた。水軍を創設するというのも彼の案であったが、早期決着を恐れた有恒によって、結局は、船には傷が入れられ、水軍の話は流れた。

 湛増と会った有恒は、水軍の話が流れたことに対して、複雑な心境を語った。湛増はそれを聞き、ただ静かに頷くだけであった。

「湛増和尚とお話していますと、心の鬼が静かに姿を消し、今や見る影もない美しきころの某が、姿を現しまする」

「現実に迷ったとき、人は過去を思い出すものです。過去は誰にも奪われない唯一の御殿であり、偽りを捨てさり、素直になれる故郷でもあります」

「過去はいつも、痛みに満ちておりました。寂しく、恐れられ、嫌悪され、ただ外へ出て仇を討つことばかりが生きる希望にござりました。湛増和尚の、過去をお話ください。どちらで、仏道を学ばれたのですか」

「天台山です。蔵馬もまた、天台山の流れを汲む宗派故、我らは言うなれば同門にございますよ」

「同門でも、某は禅は学びませんでした」

「天台山の真言密教は正しい教えなれども、時代には合いませぬ。自らを救うべく、兄弟子や弟弟子らサンガの仲間と共に、自らの内側を探っていく。それは崇高にして正確な答えをくれるものであり、その修行の果てには、人生の甘美さを思い知らされまする。しかしあるとき、こう思うたのです。拙僧が自らを救うことができるのは、救われたいと願う民草が、お布施をしてくれるからだが、拙僧は本当に、民草を救えておるのかと」

「読経し、悪霊が入り込まぬよう、結界を張って祖霊をお祀りする。十二分に、民草を救えておりましょうぞ」

「ある意味、拙僧は愚かだったのでしょう。自惚れから、それでは足りぬと」

「お志が高いのでしょう」

「ありがとうございます。しかし、あれは若気の至りと言うに相応しい向こう見ずな判断でした。拙僧は修行を終え、民草の暮らしを知りたくなった。拙僧の母は藤咲のお公家でしたから、飢えることなどなかった。しかし拙僧はそんな安心よりも、仏の道を、本当の意味で極めたいなどと思ったのです。仏様はこんな愚かな拙僧でさえも、見放さずに見守ってくださった」

「阿弥陀如来様がこちらの御本尊であらせられるようですが……」

「民草と同じ暮らしをし、無償で読経し、持ちえた知識で病人を診て、治療しました。あるときマムシに噛まれ、死の淵を彷徨ったとき、悟ったのです。これだけ人を助けても、誰も助けてはくれないのだと。拙僧は人に仏の道を説くことはしなかった。功徳を施せば、人は自然と、自らの仏性に気づき、誰かを慕い敬うのだと、勘違いをしておったのです」

「違ったのですか」

「床に伏し、死を待つ拙僧の助けをしようという信者様はおられなかった。信者などではなかったのです。功徳を施しているなどと思い込んでいただけで、某はただ、良いように使われておっただけなのです」

「民草というのは、餓鬼にも劣る畜生にござるな。戦で戦い守ってやったというのに、某が緑奥へ逃れようとしたとき、御味方しようと馳せ参じる者は、一人たりともおりはせなんだ」

「良くも悪くも、素直なのです。ですから、教え諭すことこそ、教養を積むことを許された我らの御役目であったのです」

「性悪説などと、華国の古い人間が語っておりましたが……なんという人であったでしょうか」

「荀子ですね。名を使えば我らには伝わりまするが、当然、民草には伝わらない。興味すら持たないでしょう。大して施してやれぬのだから、それを噛み砕き、教えることこそ、拙僧らの功徳であったはずです。得意なことばかりを己ができるがままにするだけでは、徳は得られないのです」

「死の床から救い出してくれたのは、民でしょう」

「いいえ、阿弥陀様です。目の前に現れ、阿弥陀様が拙僧をその大きな掌に乗せ、拙僧をお叱りくださったのです。人を助けたければ、独りよがりではいけないのですと、優しくも力強く、お叱りくださったのです。そして拙僧は目覚め、本当の意味で、民草に寄り添った施しをすることを、心掛けたのです。そして拙僧は、この緑奥の地へ流れ、今や、寺を持たずして多くの民に慕われる、流浪の僧侶と相成りました」

「お聞きしてもよろしいか、和尚よ」

「構いませぬとも」

「和尚様は不死身か。既に齢は二百を超えておりましょう」

 和尚は少し微笑んだまま、目を伏せた。そして、歯を見せて笑ったあと、まっすぐと有恒の方を見直した。

「あなた様に、嘘は通用致しますまい。実を申さば、二百を超えておりまする。乱世で、幾度も読経をし、霊を黄泉の国へと送ってまいりました。その中で拙僧はひとつの真理を悟りましてございます」

「それを、お聞かせいただいても、よろしいでしょうか」

「人の心は、諸行無常です。どんな人のどんな心も変わりまする。されども、悪人の悪しき心は、底に沈む泥の如く、揺らぐことはあっても、消え去ることはありませぬ。例え変われども、またすぐ元に戻るのです。人を救うのは、人が成すことではない」

「ましてや鬼など」

「自嘲なさるな。鬼ではなく、客神マレビトです。恐れ多くも拙僧であっても、鬼であっても、いかなる神や魑魅魍魎であっても、その人智を超えた力がある者でさえ、人を救うなど、人生の拘りにするべきではないのです」

「人を救うなど……阿弥陀如来様の如き、崇高で大きな御方が成すべきことなのやも……知れませぬな」

 有恒の中にあったモヤが晴れた思いであった。彼は、暴れたかった。明日のことなど忘れ、心の思うがままに、暴れたかったのである。もう保身などどうでもよかった。

 人の死など、どうでもよかった。殺した敵の行く先など、どうでもよかった。ただ殺し、自らを付け狙う敵が肉塊となる姿、そして自らは生残り、誰かの手によって人生の尊厳を奪われることがないという強者つわものの事実が、なによりも彼を生に執着させ、生命力を滾らせるのである。

 ただそれだけでよかったのである。

 有恒は鵄錦に暇を出そうとした。

「この有恒は、大いに暴れとうござる。立ちされ、御辺はもう自由じゃ」

 鵄錦は大笑いをした。そうか、自由が欲しかったのかと、有恒は思った。しかし鵄錦はこう言った。

「暇は要りませぬ。この鵄錦、武士としてお取立ていただいた。最期まで、我殿と共に暴れとうござる!」

 二人は大笑いした。最高の友であり、最高の忠義者であると、有恒は思った。


 望久は有恒に対する不信感が募っていた。兵がする噂の中には、有恒が緑奥藤咲氏を滅ぼすために、将軍が放った間者であるというものもあった。あれだけ、政治に長けた将軍であれば、鬼の子有恒の存在を大倉柳営から遠ざけるために、有恒との不仲を演習する造り話をするくらい、造作もないことであろうと思った。そうして浮かび上がる疑念の心は、冷たい雪のなかでどこへ消えていくこともなく、やがて真実のような重みを持つようになっていく。

「誰か、筆を持て。殿へ書状を書く」

 望久からしきりに届けられる書状に、守衡もまた猜疑心が芽生え、それを否定できなくなった。届けられる書状は、望久からだけではない。こうして、複数の武官から有恒への弾劾状が届けられる度に、守衡は、当主として選択を間違えてはいけないという重圧を感じた。間違えてはいけないのだ。頼れる存在は、前線にいるのである。緑奥城に居るのは、有恒と、老齢の成衡だけである。

 守衡は、成衡を訪ねた。

「病床の身、主に屋敷まで御足労いただくなど、感謝申し上げます」

「気にするでない成衡よ。御許は、そなたに問うため、ここへ参った」

「其はいかなるお話にござりましょう」

「御辺に聞きたい。我らは朝敵を討つべきか」

「其の名は、あえて申し上げますまい」

「かの者の力を、御許は恐れておる。御許は名を呼ぶことさえ、怖いのじゃ……」

「鬼は客神マレビトと呼ぶ者もおりまする。魑魅魍魎も、祓うべきではなき、自然の存在であると申すのです。なれどもそれは、強者きょうしゃの論理。我らただの人間は、力の限り、自然に飲まれぬよう抗うしかありませぬぞ。よろしいですか殿」

「なんじゃ」

「我らの友は人です。我らの友は、帝なのです」

「よう分かった。よう休め」

 守衡は決心し、命令を下した。「菊紋の、錦の御旗を掲げよ」という命令は、朝敵の討伐をせよという意味である。



 皇紀一八三三年 一月


 遂に緑奥藤咲氏は緑奥城内にて兵を挙げ、一気呵成に有恒の屋敷を襲った。白昼堂々の行軍、有恒には用意の時間さえなく、その側には鵄錦を含め、十数名の兵しかいなかった。

 有恒は暴れられることを喜んだ。しかし、鵄錦が、それを止めた。

「有恒様、ここで襲い来る武士らを討つのは、我らにとっては容易なことにござりましょう」

「なんだ鵄錦よ、某には戦わず、眺めていよと申すか」

「然にあらず。某、殿にあるものを託したく存じまする」

「なんじゃ」

「夢にござりまする」

「其はいかなる夢か」

「海を抜け、神仏さえ恐れる、暴れ者となることにござりまする。大暴れし、その名を天下に轟かせ、その武名が人を恐れさせる。誰にも手出しさせず、御味方を守り、誰も悲しませぬ、真の強者つわものとなる。それがいちつわものとして、自らでは叶えられぬ夢にござりまする。殿ならば、これは夢ではなくなる。どうかこの夢を、どうか……! 殿の手で叶えてくだされ!」

「何故、今になってそれを申すか! 共に戦って生きのびようと思わぬのは何故なのか! そなたまるで……死のうとしておるかのようではないか……!」

「敵は目の前の数十、数百ではありませぬ。大倉柳営でさえ少ない。秋津洲、この秋津洲そのものが、我らの敵となるのです。もはや誰も、助けてはくれませぬ。神仏から民草に至るまで、すべてが我らを敵とみなし、殺しにかかるでしょう。かような事態となれば、船を奪って海へ出ることも叶いませぬ」

「それでも戦う。ここで戦って勝てぬ者に、海の向こうで夢を見ることなど相叶いはせぬわ!」

「有恒殿!」

 「なんじゃ……!」

 「我らは極悪人にはござらぬ! 我らは正義の武士。天子や将軍はその手を血に染めた存在であっても、民草はこの秋津洲に生まれただけの無垢な存在に過ぎませぬ。弱者よわものをいたぶるのは、強者つわものに非ず。某は、殿こそ唯一の、強者つわものであると信じておりまする。秋津洲で、燃え尽きては……なりませぬ!」

 有恒は自らが見つけ出せなかったもう一人の自分を、鵄錦が見つけ出していたことに気づいた。自分だけでは、殺戮を愛し、それを得意とする鬼に過ぎない。しかし、共に人として足掻き、もがいた友がいれば、その者が自らを人として、強者つわものにしてくれるのである。

 有恒は、すべてを悟った。これでお別れなのである。頬を伝う一縷の涙。それは彼が人である証である。彼が、強者になることさえ願えない、魑魅魍魎ではないことの証であった。

 彼は客神マレビトであり、真の強者つわものであった。


 屋敷に籠った有恒は、畳を剥がし、山へと繋がる一本道を眺めた。これから死に行く友へ最期の読経をし、松明を手に取って、道を渡って行った。

 外では数十名の仲間が、屋敷をとり囲む敵に対し頑強に抵抗していた。最後まで立っていたのは鵄錦である。その武辺者としての功名は知れ渡っていたが、この時の鬼神のごとき働きが、その功名を最大限まで高めたことは言うまでもない。

 彼は数十人を斬りふせ、全身に矢を受けてもなお薙刀を振るい、刃が欠けてもなお、血だらけの体に未だ漲る力をふりしぼり、その剛腕で暴れまわった。鵄錦は立ったまま、力尽きた。その顔は、満足気に笑っていた。

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