第十八話 一丈谷の戦い
有恒は篁家の本拠地へ向けて進軍を開始。険しい山々を越えた先での、本能とも呼べる奇策と鬼神のごとき武威が、戦局を大きく揺るがしていく――。
皇紀前 神代の時代
神が住む地上世界、葦原中国へ舞い降りた須佐之男命は、葦原中国に跋扈し土着の神々を傷つける八岐大蛇ら荒御魂を制して、秩序ある国を出雲にて創成あそばされる。
討たれた神も皆等しく、天之御中主神が創成した世界に住む神であった。海の向こうから集まり神として崇め奉られた聖なる存在であっても、神のみが住む天上世界たる高天原に御座す最高神天照大御神に従い、同じ理の中で過ごし国の平穏は保たれていた。
しかし途方もない時が流れたることを鑑みれば、理が変わることは致し方なきことである。
不老不死であった神の子孫も、長い時を経てその命は限りあるものとおなりあそばされる。即ち、人となったのである。須佐之男命が去り、時が経てば、人々は各々の土地の神や聖なる存在のみを崇拝し、小国が群雄割拠する時代が訪れる。
東征の時代
英雄神須佐之男命の姉にして最高神の天照大御神の直系の子孫、神日本磐余彦は、九州の日向の地に御座した。九州の心臓たる神の山が度々噴火し周囲を焦土としており、その意味をお考えあそばされた。
「もはや我は天上の高天原へ行く術を持たない。それ即ち、天照大御神が我らに何かを伝えるべくして噴火しておると考えるべき。ここではもはや暮らしてゆけぬ。それ即ち、これよりこの地を離れ、再び葦原中国を一つにせよとの、天照大御神の御意志」
神日本磐余彦は九州中を翔け、各地の首領を討伐し、続けて東の島へ進みいでた。幾多の苦難を経て、出雲王国の大名持を初めとした諸王酋長を破り、国を譲りうけながら、また八咫烏に導かれながら、ついに橿原の地を得た。この橿原が在る一帯の名は大和であり、神日本磐余彦らは諸王から大和族と呼ばれるようになった。
大和は、肥沃にして広大。当に京とするに相応しい土地であった。大和の地にて諸王豪族らとよく合議し、当面はしのぎを削る場たりうる地でもあった。
そして神日本磐余彦はこの地を治める主として、大王を称した。これが後の、初代神武天皇である。
そしてこの大王即位の年から、皇紀の暦が始まる。
数百年かけ、徐々に各地を平定していった大王家は、殺めた数多の命、穢した森や山々、そして渡来の聖なる存在をすべからく大王家が祀る神と同様に、丁重に祀った。八百万、途方もない数の存在のそれらを、同じく神としお祀りする受容の精神。和を持って尊きと為すことが、大和王権の統治の方針であったのである。
その際、神日本磐余彦らは自らに連なる系譜の神を含む高天原由来の神を天津神とし、最も強固に抵抗した出雲王国の神を含む葦原中国の神を国津神とした。神代の時代に出雲の神たる大国主命の願いを聞きいれ、大きなお社が建立されたことは、この受容の精神が、大王家の永久の本質たることを示す出来事であり、今も残るこのお社こそ、出雲大社である。
よろず、等しく招きいれる。そして大王を要として自ずから然り、あるがままに存在しつづけていく。それが大王家が祀る八百万であり、大和王権が治める秋津洲の国であった。
八百万が永久に大王家に与するとは限らないというのは、それもまた自然の摂理であろう。九州の日向に残した一族は、九州を平定した訳ではなかった。日向のすぐ近くにある薩摩大隅は、邪神が多く蔓延り、噴火により焦土と化した日向よりもさらにおぞましく、厳かな場所となっていた。
常に火山灰や酸性雨が降り注ぎ、毒の川が流れていた。
さらに時を経て、大王家は大和での治世が長引くに伴って、九州の一族は次第に宗家を忘れた。大王家が第一の勢力として大和を中心に巨大な王墓を建築するころになれば、九州は分国化した。
時は残酷にして非情。統一された王朝は再び足並みが乱れる。乱世は必定なのである。
皇紀九四五年(883年前)
日向の一族は次第に没落し、一方で薩摩大隅の邪神、荒御魂が徐々に力を強めた。荒御魂は北進して阿蘇を含む神域にも広がった。やがてその荒御魂が巣食う山々は、人の往来を拒み、通ろうとする者の半数以上の命を奪い、残る半分の四肢や心を壊して、息災で往来できる者はいなかった。特にその力が強く現れる場所は「鞍韉盡坂」と呼ばれる、呪われた土地として、忌避されるようになっていった。
しかしあるとき、名も無き巫女が、民にすがられた。幼い子が呪われ、体が変色し、救ってやって欲しいと。巫女は子を救えなかった。だが代わりに、持てる力のすべてを犠牲にして、祈祷を行った。祈祷により、巫女は荒御魂を調伏し、魂が夫婦となることで事は鎮まった。
巫女は、人の命食い尽くす荒御魂が二度と悪さをしないよう、社を建てた。それが今日に伝わる筑紫神社である。
他の誰も用いることができない強力な呪力で、分国した九州の諍いを治めるべく、巫女は九州三十余ヶ国の戦に参加した。八百万の御意志として、邪悪な荒御魂と共に創り上げた鬼道で、敵を破り、仲裁し、九州諸国をその名の下にまとめた。これは大陸の華国によって倭国大乱と記録される戦乱である。巫女は唯一の女王となり、九州の名は、筑紫島と呼称されるようになった。
女王となった巫女は、鬼道を継承する王を立てられず、薨去後に九奴国の反乱を招く。筑紫島は再び、乱世となる。
大和王権の支配が及ばなくなったことに伴り新たに強力な女王が立っても、再び乱世となったのである。王にも、八百万にも、永久の平穏は保てない。再び乱れた筑紫島がまとまるには、さらに三百余年の時を待たなくてはならない。
皇紀一二六八年(560年前)
女王の死と九奴国の反乱から三二三年後、女王の弟と日向の大王一族の血を引く男は、戦にて筑紫島を平らげた。男が武器にしたのは二つ。兵力と、乱れた世に輝く宝剣、つまり正当という大義であった。
男は王号を称さず、すでに大和にて他の豪族を退け、秋津洲一の君主となっていた大王家に臣従していたことから、筑紫君を称した。
しかし二十年前に崩御した大王ヲホド、後に継体天皇と呼ばれる男には正当性がないと、筑紫君は考えていた。大王家からひとり立ちすることを望み、海の向こうの新羅国からの支援を受けたため、筑紫島の支配を目論む宗像君はこれを理由に戦を起こした。
新羅国は秋津洲の併呑を目論み、筑紫君はいつか大和王権を滅ぼす矛とみなされていた。
宗像君は大王家の支援を受け、その軍を率いる巨勢屋足や大伴金望らと共に、筑紫君を滅ぼした。
以降、筑紫島は海の向こうから秋津洲を狙う外敵からの、防波堤としての御役目を担うようになっていく。それが同時に、大和王権の正当性への疑念や、立地上の距離の遠さにも起因する孤立性から、大和や近隣諸国の臣下とは異なる精神性を育むに至る。
それが、後の歴史において、皇室への反骨精神へを持つに至ったことは明らかであろう。
巨勢屋足、大伴金望は薩摩大隅の呪力満ちる荒御魂や八百万を鎮め、筑紫島の平定を行おうとするも失敗し、落命する。大王家は橿原武を遣わし、薩摩大隅に暮らす蛮族の酋長、熊襲魁帥や大隅隼人らを降し、神日本磐余彦による建国以来なし遂げられなかった筑紫島の再統一を果たした。しかしこれはあくまで行政上の統一であり、橿原武は神器草薙剣を使用して荒御魂を祓いこそせども、依然としてそのすべてを祓いきることは叶わなかった。
また英雄橿原武の最期は悲劇的で、橿原に戻り身内に暗殺されるというものであった。彼の功績は凄まじい。草薙剣をもち帰り熱田神宮へ奉納したことで、祖先須佐之男命が八岐大蛇を滅ぼしたその剣の神聖さを、さらに高めるという活躍であった。また酋長を失った、勇敢な隼人族をつれ帰り、大王の近衛、あるいは精鋭兵としたのである。これにより、大王家の武力はさらに高まり、この精鋭の血と精神をうけ継いだ者たちが、のちに武士として台頭していくのである。
つまり、東国を初めとした広大な地域を征服していった大王家の懐刀は、酋長を殺され酷使し尽くされた者として反骨精神を育み、長い年月を経て今、その思いは東国で開花しようとしているのである。
皇紀一八二八 十二月(現在)
朝頼は後事を有恒、重永、吉光に託したのち、自らは東国へと引き上げていた。
彼にはやるべきことが沢山あった。それは、篁家を滅ぼした後のことである。
「戦を有恒が終わらせた後、朝廷は用済みとなった我らを再び田舎に押しこめようとするであろう。某は武士の世を創る。二度と、くだらぬ政の道具に、武士の命を使わせはせぬぞ……! 見ておれ、武門の誉は秋津洲のためにこそある!」
一旦桃紅城へ戻った朝頼は、正室雅子と、雅子が産んだ世継ぎの武者王丸を連れて、恵我城へ入った。朝廷より正式に任官された恵我守の御役目を果たすべく、任地へ赴く必要があったのである。しかしそれは形だけで、本命は、正式に目代として任命した武士を恵我城の者どもに見せるためであった。
「この者は梶景親。儂が戦に敗れ命からがら逃げた折り、儂を見逃し、儂こそ真の武神であると称した男じゃ。有恒が義仲を討つべく西南へ進んだ折り、我らが軍門に降り、その後は桃紅城にて我が妻子の面倒を見てくれた忠臣なれば、これよりは目代として我が本拠地を預ける故、儂と思ってその命令によく従え。抗う者は容赦なく斬る。またこの日より、沿岸の千葉城の主をこの者とする故、付近より登城する者は、別して挨拶をせよ」
朝頼は、まだ僅かに面従腹背の趣きを残す恵我国衆に対してよく睨みを効かせるべく、このように重要な職には恵我国衆を用いることはないということを強調した。これが坂東武者のやり方であり、抗えば過去の通り滅ぼすのみであると、頭と心に、理屈と恐怖で植えつけていった。
それから朝頼は妻子を連れて北へ上り、鎌村荘へ入った。朝頼はこの地に腰を下ろすことを決めた。それはつまり、やがて来る東国武士団の国の京とする、という意味であった。
「八百万の力を借り、千年咲き誇る華となる京を築き上げた西の朝廷。そして、皇室の始まりの地たる筑紫島を纏めあげる遠朝廷。されば、我らは東国を治め蝦夷や魑魅魍魎と戦い、天下安寧のために武を誇る東朝廷を築こうぞ」
三方を山に囲まれ、一方を海に囲まれたこの鎌村は、守るに易く攻めるに難い土地であり、武士の国に最適な土地であった。
「武士として生きることを切に願っていながら、その商才から武士として重用されず、やがて主を鞍替えした男。其許が広げたこの地から……武士の国を創ってみせようぞ、鎌村幸良よ」
朝頼は、征夷大将軍となったことで、鎌村に将軍府を開いた。これは華国では柳営とも呼ばれ、大将軍を支えるための組織である。遠方での大規模な戦に際し、目まぐるしく状況が変化する戦の最中に、都の君主へお伺いを立てる時間は勝機を逃す要因になりえる。大将軍とは、将の任命から徴兵、武具兵糧のための徴税など、戦を勝利に導くため君主になり代わり采配の一切を独断するという強大な権限を有する唯一の将である。外敵を防ぎ、治安の乱れを正す、兵という武力を自在に操る。また武具兵糧のために徴税を行えるということは、言わば戦地においてこの大将軍というのは、君主そのものである。つまり柳営とは、大将軍を頂点としたもう一つの朝廷なのである。
多くの兵を動員する権限というのは、容易に王や皇帝の京へ軍を進ませることも可能ということであり、それは通常、国家存亡の危機に瀕した特異な状況においてのみ行使される。篁家という朝廷に反抗する武力と、偽帝という君主が国内に在る今、これを除くには篁家を凌ぐ武家の力が必要であり、飢饉と戦の長期化に国内が疲弊する現状においては、東国武士団の棟梁が東国から自由に徴税を行うことは理にかなった戦略であった。
朝頼の狙いはこれであった。
朝頼は征夷大将軍の任を、手放すつもりはなかった。それは未来永劫、子々孫々に渡ってである。それを朝廷が不満に思おうとも、篁家ら有力西国武士を滅ぼせば、もはや清和家に抗う力を持つ武家は存在せず、朝廷に任を奪うことはできないのである。
清和家の先祖が鎮守府を司る鎮守府将軍に任官されて以降、在地武士らを蝦夷や魑魅魍魎の討伐の中で私兵としていき、個人的な主従関係を結んだことが東国武士団の始まりであった。清和家は鎮守府将軍を解任されても、世襲の東国武士団棟梁として、東国にて強い影響力をもち続けていたが、二代目征夷大将軍となった坂上叶麻呂の威厳により臣従するようになって以降は、征夷大将軍が持つこの正式な任命権を持つことが東国の武の長という認識があった。
朝頼はこの任命権を掌握したことにより、堂々と鎌村荘から東国や近畿各地の武士の論功行賞を行い、朝廷の貴族から目代や城主としての御役目を与えられていた武士らに対し、目代は国司への昇進、城主には開墾や築城による所領増を命令するなどした。これまで朝廷や貴族によって与えられていた恩を、朝頼が与えることで、征夷大将軍の求心力を高めることが狙いであった。そしてこれは一部の武士に対し、朝頼の戦の真意が篁家討伐による父の仇討ちではなく、天下であることを知らしめるものであった。
同月
有恒は輪田水門を叩くために、それをとり囲む点在する三つの陣があることを、乱破や斥候を活用して突きとめた。この乱破や斥候は、元は篁家に伴って東国へ攻めのぼった武士であり、敗れた後つき従うことを辞めて自領へ戻った者どもであった。
勝ち馬に乗るのは、自らや自領に平安をとり戻すに最も早く利する術である。それを知る有恒は彼らに対し、不忠などといった罵声を浴びせることはない。ただ自らに与することにした決意を認め、その才や技をよく用いて報いるのである。
「この三つの陣営、即ち東の生田口、西の一丈谷口、北の夢野口は、如何様にして陥落させるべきか。炎龍、答えてみよ」
「某が思うに、まずは主力を某か新羅丞吉光殿に任せ、街道を侵攻し生田口を攻めまする。同時に、険しい山岳地帯を越えて迂回した有恒殿率いる本隊が、西一丈谷口を攻めまする。これならば、敵は混乱すること必至にござる」
「実に合理的な判断じゃ。しからば、主力は炎龍と新羅丞、いずれが担うべきか」
有恒のその問いに、吉光はその任を願出た。
「これまで、愚弟の監視の為、殿には大いに迷惑をおかけして参りましてござる。この吉光、譜代の家来の誉にかけて、主力指揮の大任を担いとうござる!」
「よう言うた! 我が兄への忠義、流石のものよ。炎龍、其許は某の許で功を立てよ。此度の主力は、この吉光に預ける!」
「ありがとう存じまする!」
吉光は主力軍を率い、輪田水門の東側の関所付近、生田口を目指した。甲武党家来衆にして坂東武者一の傾奇者、安田之資を筆頭とした騒々しく愉快な行軍は、奇っ怪にして堂々。すぐさま篁家方の斥候に発見され、篁家方の注意を生田口に引きつけることに成功した。
その頃、北の山岳地帯を大きく迂回する有恒ら本隊は、当初こそ順調に進軍できていたものの、山岳地帯での行軍の難しさを感じていた。人馬が通れぬほど細い獣道を抜け、崖に剣を突き立てて登り、断崖絶壁は布団に包まりながら転げ落ちる。そういう、およそ普通とは呼べない奇抜な方法で、難所を攻略する他なかったのである。
そこには、時間制限という理由があった。十二月八日の日昇を合図に、主力と本隊は攻撃を開始し、敵を挟み撃ちにするというのが、今回の敵軍攻略の要であったのだ。つまり無理な進軍をしなければ、この作戦は失敗に終わるのである。
「元より我らは土地勘のない遠征軍故、思わぬ敵に出くわすことも、異なる風土による病も想定できよう。そうとあらばなおのこと、我らは難所でも立ち止まる訳には参らぬのじゃ」
有恒の決心に、鵄錦が応えた。
「新羅丞吉光殿は、弟によって泥を塗られた家名を守るため、敵の攻撃を一身に受けております。我らは、ただまっすぐ進まねばなりませぬ」
その言葉に、男が答えた。男の名前は摂津馬三郎。この摂津国目代の郎党で、風前の灯火である篁家を見限り、清和家方に味方した武士であった。
「まっすぐ進むと言えども、この地はあらゆる場所で、深い山に囲まれた盆地が見られまする。すぐ近くにも、丹波御軍という地がありまする。修行僧が外界と自らを遮断し、立てこもる場所にござる」
「かような土地はつまり、天然の要害。少数で立てこもるに易し」
「まさしく。少数精鋭で我らを撃とうと構えておるやもしれませぬ」
「殿! 丹波御軍へ参りましょうぞ!」
戦を逸る鵄錦に、有恒は「修行の地に入れば、そなたを置いていくハメにはなるまいか」と言って、周囲の笑いを誘った。
丹波御軍には案の定、篁家方が待ち構えていた。軍を率いるのは、篁敦盛。若武者であった。先を急ぐ有恒本隊に敵う相手ではなく、部隊は瞬殺された。
豪華な大鎧に身を包んだ敦盛は、形勢不利と見るや颯爽と馬に乗り、敵に背を向けて敗走した。
その姿を見た馬三郎は「大将が背を向けて逃げるな!」と一喝し後を追うも、その逃げ足の速さに追いつけずに逃げられた。
丹波御軍制圧後に、すぐさま全軍で一丈谷を向かおうと炎龍重永や摂津馬三郎らは迫った。しかし有恒は少し思案し、「否」とだけ告げた。それは、全軍で一丈谷へ向かうのは得策ではないという、直感によるものであった。
「軍を別ける。鵄錦よ、和主は儂と来るか」
「お待ちくだされ、そもそも我らは既に軍を別けておりますぞ!」
「なんじゃ武士のように軍の体裁を気にするのか。もう僧は辞めたのか?」
「此度は笑い話にございませんぞ。命を賭して戦うておるのです」
「そう気張るな。分かっておる」
有恒は、なんとか武士らに説明を試みたが、軍を別けるべき理由は直感でしかない。説明などできるはずもなかった。
「方々、一つ問う。方々は、儂のこれまでの戦いぶりを見て、儂が勝てると信じるか。その是非に、理由は三者三葉。理由は問わぬ故、直感でお答えあれ」
武士らは怪訝そうにし、顔を見合った。しかし、不死川での起死回生の勝利や、強敵の鬼頭家を滅ぼした手腕。脳裏にこびり付いた彼の戦いぶりに、重永などのほとんどの武士は、有恒が勝利を掴む姿を信じることができた。
有恒の戦いをその目で見たことがない馬三郎でさえ、彼の戦いぶりを讃える歌を耳にし、その勝利の姿が目に浮かんだ。そして、願うように、勝利を信じた。
しかし、その反応を示さない者もいる。それは鬼を嫌う美浦党の者共であったり、足利党の畠信隆などであった。
特に畠信隆は、血を分けた弟足利信清を殺したこの鬼が憎たらしいのである。今まで戦に参加しなかった畠家の養子として生きていたが、当主が死に、二弟の吉氏を頼って足利家に身を寄せた。派閥争いをせずに魑魅魍魎を祓い続けてきただけの彼にとって、鬼が人を使って戦をすることに、反吐が出る思いであった。
「軍を別ける。別働隊は予定通り一丈谷へ。炎龍へ預けるが……河内党は摂津殿に案内させよ。残りは儂に続け!」
信隆は鬼から離れたいと思った。さもなくば、切りすててしまうと思った。
その殺気を見逃す有恒ではなかった。有恒は信隆ほんの一瞬だけ見た。その顔はまさに鬼の形相。信隆の中に満ちる殺気、嫌悪感はたちまち消え失せ、怖気づくしかなかった。
河内炎龍重永率いる別働隊は、更なる伏兵に細心の注意を払いながらも、素早く西の一丈谷へと急ぐ。その接近は篁敦盛によって警戒されており、当初予定していたような完全な奇襲という形にはならなかった。
しかしそのときすでに、篁家方の大半は生田口に集結しており、篁家方は接近に気づきながらも十分な戦力を充てることはできなかった。
「丹波御軍にて敵将を逃したときすでに、我らの目論見は破綻していた。しかしそれでも、一丈谷への攻撃は十分な打撃となる。そしてなにより、我らには最大の切り札が今も山中に潜んでおる。我が殿は……その最大の一撃を放つべきときを、虎視眈々と狙っておるのよう」
そのころ有恒率いる本隊は山中を彷徨うように南下していた。有恒の野生の勘とも言うべき直感で、敵の伏兵が潜める地点を的確に回避、最短速度での行軍を敢行していた。その正確な判断も、ただ従うだけの武士らには分からない。部隊内の一部の武士らは、理解不能な行軍を敢行する有恒に対して、我慢の限界を迎えていた。
「殺すことも……隊を逃げることもできぬ……鬼の子めが……! 相打ちにもなれず犬死となろうとも……今ここで鬼を祓ってやる……!」
積もりに積もった憎悪が武士の暴挙を招こうとしたそのとき、目の前の樹林の景色は開け、遂に戦場が見えた。
「方々、見よ! 御味方が戦っておるわ! あれは甲武家の旗じゃ!」
甲武新羅丞吉光が戦う戦場、つまりここは生田口であった。生田口の手前で新羅丞吉光は、乱杭や逆茂木による妨害を受けながらも、懸命に攻めいろうとしている。敵はそれを防ごうと正面に釘付けとなっており、背後に現れた有恒らには、気づく由もなかった。
篁家方で生田口の防戦の指揮を執るのは、篁家一の武人、篁是重であった。
「篁是重、貴殿の首を頂戴し、某が検非違使となってくれようぞ。鵄錦、和主も検非違使としていただくよう、兄上から帝へ奏上していただこうぞ」
「さりながら有恒殿……それにはまず、この崖を下らねばなりませぬぞ……!」
有恒らの眼前には、正に崖と呼ぶべき急斜面が広がっていた。しかし有恒はむしろ楽しむべしといった様子で刀を抜きとり、叫んだ。
「方々! ついて来られる者のみついて参れ!」
有恒は駆け下りた。いや、飛んでいるというべきである。浮遊し、木々や岩の隙間を自在に飛行しているように、周囲の目には写った。その姿は当に人外。駆逐するべき敵の姿であった。
竦み上がる思いになりながらも、武士らは意を決して馬を蹴り、飛び出した。信隆は鬼が自らを殺そうとしているのではと勘ぐりながらも、ここでひよっては足利党の恥だからと、後を追った。その際、未だ弱小の畠家では馬一頭を失うことも惜しいと思い、「死ぬならば俺が死に、この名馬は足利へ託す」と叫び、意地で馬を抱え上げ、崖を下った。
有恒は戦場を荒らした。当に急転直下の出来事に、是重は意表を突かれた。まさか背後の崖から敵が現れるなど───。
「誰ぞ! 誰ぞ! 宗季大納言と幼帝に事態をお伝えせよ! 決してあの鬼を近づけてはならぬ!」
鬼は、宙を舞う様に、自らを返り血で赤く染める。異様なほどに白い肌はもはやこの世のものとは思えず、魑魅魍魎や鬼をその目で見たことがない篁家の貴族武士は、恐れをなして一太刀も浴びせられずにいた。
長く艶やかな黒髪をふり乱しながら、一方的な殺戮を続けるその鬼は、真っ赤な唇に笑みを浮かべながら、篁是重を見つけた。
「見つけた」
「たたき斬ってくれん! !」
両者の剣先が交り、強烈な金属音が周囲に響いた。重く、早い。二合目で自らの命がないことを悟った是重であったが、心が折れることはなかった。意地で振りかぶった薙刀は有恒には届かなかった。有恒は小藪輔盛が放った矢を躱し、軌道を変えたのである。
「お逃げなされ! 御辺は主上をお救いするのです!」
「輔盛……! 御免!」
是重は走りさった。目指すは帝と宗季、紀子が隠れる輪田水門である。しかしたどり着いたとき既に、彼らの姿はなかった。宗季は帝や紀子、侍者や宝物を船へと移し、海へと逃れる構えであった。
「宗季大納言! 今すぐに逃れては、御味方の指揮が落ちまする! 東の生田口は輔盛が、西の一丈谷は敦盛や知季が守っておりまする!」
「黙れ! 押されておる故、こうして和田水門すぐ側で東夷が暴れておるのではないか! 北の守りが破れたのか!」
「夢野口は崖のすぐ側ゆえ少数しかおりませぬが、伝令は滞りなく!」
「ならば敵は幽霊の様に突如現れたと申すか! とにもかくにもどけい! この御座船で主上をお守りする故、敵を退けられぬなら後を追ってまいれ!」
今ばかりは、宗季の逃げ腰を責めることもできないだろうと思った。「承知」「武運をのう」という短い挨拶が精一杯であった。
是重は、陸の上ではあの鬼に勝てないと思った。浮遊と言えども、接近する前に矢の雨を射れば討ちとれやもしれぬ。
是重は、海に活路を見出した。
「敗走するぞ! 船へ乗れい!」
犠牲を最小限に留めるべく、本拠地の放棄を即断した是重は、撤退戦へと移行した。徐々に海へ戦線を近づけながら、指揮官らを船に乗せ、続いて船からの矢で援護しながら、陸で殿を務める武士らを船に乗せていく。
そんな中、若武者の篁敦盛は、炎龍重永の猛攻に晒されて上手く浜辺まで逃れられずにいた。やっとの思いで浜辺にたどり着き乗船するころには、ここまでの旅路で苦楽を共にしてきた御味方が、一人また一人と倒れていく光景が広がっていた。
「ここで逃れて何となるか。御味方あっての敦盛ぞ……!」
敦盛は船をとびだし、浅瀬を走りぬけた。
「敦盛が! 敦盛が出てしまいました!」
「戻れ敦盛! この是重の命に背くか!」
敦盛は懸命に戦うも、御味方は死に絶え、やがて一人となった。まだ残る遠くの船へ向かおうと、背を向けたとき「侍大将がまた敵に背を向けるとは恥ずかしいとは思われぬのか!」との怒号が響いた。
「御辺は丹波御軍の侍か。高名な炎龍重永の家来か」
「儂はここの地侍。守護の篁知季殿につき従い、篁条国へ攻め上ったものよ」
「そうか、明日をも知れぬ我らを見限ったか」
「せめて御辺は、自ら家名に泥を塗ることはおやめなされ」
「篁敦盛じゃ……刀を抜かれよ」
「摂津馬三郎にござる……参る!」
腕の細い貴族者は、剣術の鍛錬を欠かさない田舎武者に敵わない。敦盛は祖先が戦った海で、その首を刎られた。
四方八方から馬上突撃を繰りかえし、矢を射返してくる清和の荒武者らによって多くが討ちとられるも、是重は見事に逃げ切った。
「鬼の頭は悪いらしい。暴れるだけ暴れて、なにもできてはおらぬではないか」
当主の篁宗季や敵の狙いであろう帝と三種の神器を、守り抜いたのである。これは痛み分けといえる戦いに持ちこみ、是重は安堵した。目指す先は屋島。海の向こうの小島で、敵を退ける策を練るしかないのである。




