デクレシェンド
家に帰り着いた時には、すでに18時を過ぎようとしていた。
最後の角を曲がったところで、心なしか耳を澄ましてみる。
いつもなら、ここら辺で鈴子の弾くピアノの音が聞こえてくるはずの位置だ。
だが、今日は何も聞こえてこなかった。
練習を休んでいるのだろうか、と内心で首を傾げながら玄関のドアを開ける。するとその瞬間、どことなく元気のないピアノの音が、一音だけぽつりと響いた。
その頼りない音のせいか、やけに家の中の空気が寒々しく感じられる
「鈴子?ただいま」
靴を脱ぎながら声をかけてみたが、すぐに返事は返ってこない。
何かあったのか……?
やや駆け足で二階にある鈴子の部屋へ上がると、額に少しずつ冷や汗が浮かんでくるのがわかった。風邪でも引いたのかと心配になりながら、ドアをノックする。
それでも、部屋の中からの応答はなかった。
「鈴子?大丈夫?」
とうとう心臓が嫌な音を立てて跳ね始め、俺はすぐさまドアを開けた。
視界に飛び込んできたのは、ピアノの前で力なく肩を落とし、鍵盤にそっと手を置いたまま俯いている
顔色がわからない。
「心配させんなよ…風邪でも引いたのかと思ったよ」
「……うん…ごめん」
まるで生気を感じられない返事だった。
やっぱり風邪なんじゃないか?
そう思ったと同時に俺は鈴子の隣にしゃがみ込み、その額にそっと手を当てて体温を確かめた。
熱は…特になかった。
「ほら、もうご飯食べたか?」
「…ううん、まだ食べてない」
静まり返った部屋の中には、お互いの息の音すら聞こえそうにない。まるで、魂をごっそり抜き取られてしまったかのようだ。
――鈴子のこの様子を見るのは、初めてじゃない。
そしてその原因を、俺はすぐに察することができた。
だから俺は、出来るだけ普段通りの落ち着いた声を意識して、鈴子に話しかける。
「もうご飯の時間だよ。降りよう?」
「うん」
GWが明けて、まだ一日しか経っていない。
逆に言えば、家族全員が家の中にいて、一緒に楽しく過ごした一週間が終わった直後なのだ。
連休中はあれだけ家族で出かけたり遊んだりしていた分、両親がまたすぐに夜遅くまで働く日常に戻ってしまうのは、この子にとって寂しい「別れ」のようなものなのだろう。
「ハンバーグと唐揚げ、どっちがいい?」
「ハンバーグ…」
「うっし、じゃあ、お兄ちゃんに任せとけ!」
普段はしっかり者に見える妹とはいえ、結局のところはまだ小学生の女の子だ。親に甘えたい気持ちがまだまだあるのに、共働きで平日はなかなか一緒に過ごせない日常に、かなり気を張って寂しさを堪えている。
この家に来たすぐの頃、俺はそれに気づいた。
もともと一人っ子だった鈴子と初めて会った日、なんだか不思議な親近感がすぐに芽生えた。
親がいないつらさは、俺はよく知っているからだ。
「トマト要らない?あれならお兄ちゃんが食べるけど」
「食べる」
食欲をなくしていないだけ、今回はまだましな方だ。
鈴子にテーブルで待ってもらっている間に、俺は着々と晩御飯の支度を済ませた。
あらかじめに炊かれたごはんを二人の椀に盛り、食卓に運んでいるころ、鈴子は我に返ったみたいにお箸を食卓に並べた。
その時の食事は、なんだか静かで寂しげなものだった。
連休の間、両親と生き生きそうに話していた鈴子の姿とは、まるで真逆の空気。
比較してしまうと、俺まで少し落ち込みそうになった。
「今日はレッスンなかったか?」
重苦しくなりそうな空気を少しでも明るくするために、俺は食いながら話題を振った。
「なかった。先生に休むって連絡したから」
「そうか。疲れてたのか?」
「うーん……なんか、やる気が出ないなだけ」
まあ、その通りだろうな。
話題を変えようと頭を巡らせて、もくもくと食事を続ける。
しばらくの間、カチカチと箸が茶碗に当たる音だけが、リビングに響いていた。
思いつきで俺はテレビのリモートに手を伸ばし、適当な番組を点けてみた。
鈴子の気を紛らわすための、何かの音を作りたかった。
「なんか見る?」
「なんでも」
「じゃあ、この時間なら『肉まんマン』やってるんじゃないかな」
「子供番組じゃない」
「なんでもって言ったじゃん?」
「それ以外で」
じろりと睨みつけてきた鈴子に「へいへい」と生返事を流しながら、適当にまたチャンネルボタンを押した。
画面が切り替わり、何かしらの珍品について語り合っているバラエティ番組が映る。CMかと思いきや、どうやらお宝の鑑定番組のようだった。
「へえ、これ本物なら凄そうだな」
心にもない関心を口に出してみるとすぐに鈴子は「どうせただのガラクタなんじゃないの?」とテレビの方へ顔を向けていた。
辛辣な口調とは裏腹に、その眼差しが興味津々に画面を追っているのは一目瞭然だった。
少し元気が出てきたその様子に、思わず口角が上がった。
それからは、テレビをチラチラと眺めながら遅めの夕食を済ませた。
鈴子がソファでくつろいでいる間に、俺は手際よく食器を洗い、片付けを済ませる。そこからは、夜が更けるまで二人で何気ない時間を一緒に過ごした。
「これは十万だな」
「いや、これ絶対百万いくよ!」
「おお? 自信満々だな。じゃあ、お兄ちゃんと賭けてみる?」
「いいよ。私が勝ったら、明日も阿木にぃがご飯全部作ってね」
番組の珍品鑑定の金額当てで張り合い、たまに歴史的な品物が出てくると、二人でスマホを使って調べたりもした。そんな他愛のないやり取りは、番組が終わるまでずっと続いた。
それが終わる頃にはお風呂の時間がやってきて、やがて就寝の時刻になる。
すべてのルーティンを済ませた後、俺たちはお互いの部屋へと上がった。
なんでもない日常的な平日の、ごく普通の夜だ。
しかし、そのおかげもあって、モヤモヤしていた頭がすっきりと冴えた気がした。
今朝の衝撃があったせいで、学校にいる間はほとんど集中ができなかったのだ。芝目の様子がずっと気になって、授業の内容もまともに頭に入ってこなかった。
立ち直れたのは、鈴子のおかげと言ってもいい。島村の話もあって、俺の心はようやく完全に前を向くことができた。
――芝目に、ちゃんと話しに行こう。
彼女が何かに怯えている様子は、放っておけばきっと、これから先もあの子を苦しめ続けるだけだ。今までずっと誰にも相談できずに一人で耐えてきたのなら、彼女にはきっと、寄り添ってくれる相手が必要なはずだ。
今までは、ただ単に俺がアプローチをかけて、仲良くなろうとしていただけだった。
だけど、今回は違う。ちゃんと彼女を「守る人間」として、彼女が怖がらなくて済むように、俺の動きを変えるんだ。
そう心に誓いながら、明日の予習と宿題を終えた。
時計を見ると、すでに23時半。少し遅くなってしまったけれど、とりあえずこれくらいなら誤差の範囲……ということにしていいよね。そうじゃないと、また島村に怒られてしまう。
島村の姿が脳裏をよぎると同時に、彼女がくれたあの『薬』のことを思い出した。
十数件も入った、彼女特製のASMR音源集だ。
「……これ、どうやって使うんだっけ。流しっぱなしでいいのかな」
首を傾げながらベッドに腰掛け、部屋の明かりを消してから、適当に島村の音源ファイルを再生してみた。
ゴソゴソと、衣服の布地が擦れ合うような静かな音がスピーカーから流れ出す。そのままベッドに横たわろうとした――そのときだった。
トントン、とドアを小さくノックする音が響いた。
「阿木にぃ、もう寝ちゃった……?」
鈴子の声だった。
「いや、まだ起きてるよ。どうした?」
「……入ってもいい?」
珍しく心細そうな鈴子の様子に少し驚きながらも、俺はすぐに返した。
「いいよ、入りな」
ベッドサイドのライトを点けると同時に、鈴子がドアをゆっくりと開けて入ってきた。そのまま眠そうに目をこすりながら、俺のベッドの端にちょこんと腰掛ける。
「寝付けなかったのか?」
「なんか……全然眠くないの」
ごしごしと力任せに目をこすりながら言う鈴子には、説得力なんて微塵もなかった。だけど、そんな強がりも妹の可愛いところだった。
ついニヤつきながら眺めていると、鈴子は俺の方を向き直し、半開きの眠たげな目で口を開いた。
「阿木にぃは、何してたの?」
「お兄ちゃん? ちょうど今から寝ようかなってところ」
「そっかあ……ごめん」
「別にいいんだよ、気にするな」
申し訳なさそうに俯いてしまった鈴子の頭に手を乗せ、ゆっくりと優しく撫でてやる。しばらくはおとなしく撫でさせていた鈴子だったが、やがて思い出したように顔をむっと膨らませた。
「もー、子供扱いしないで」
一人前に大人びようとしている妹の姿に、思わずフフッと笑いが漏れてしまう。文句を言いながらも、俺の手を振り払おうとはしないのだから、本当に素直じゃない。
しばらくの間、部屋の中に静かで温かい沈黙が流れる。
するとその中で、鈴子は何かに気づいたようにひょこっと顔を上げた。
「……何の音?」
耳を澄ますと、スピーカーからかすかに流れる衣擦れの音に俺も気づいた。島村の音源を垂れ流しにしていたことを、すっかり忘れていた。
「ああ、これはね、ASMRってやつらしいよ。なんか、これを流しながら寝るとぐっすり眠れるんだってさ」
「なにそれ。ただただ、うるさいだけじゃないの?」
「まあ、俺もよくわからないんだけどな」
島村の涙ぐましい努力が速攻できっぱり否定されているのが可笑しくて、苦笑いするしかなかった。俺はスマホの画面を見せながら、自分の分かる範囲で鈴子にファイルのことを説明し始めた。
『ホワイトノイズ』という単語もお互いによく分からず、一緒にネットで検索してみる。安眠効果を謳う記事を見つけて二人で読んでいると、鈴子は半信半疑といった様子で、「ただの個人の感想でしょ?」とか「そんなこと、本当に効果あるのかなあ」などと、生意気に突っ込んでばかりだ。
実際に試したことのない俺たちには、本当の効果なんて知る由もない。俺がそう言うと、鈴子は無言のまま、ごろんと俺の膝の上に頭を乗せてきた。
「流してみて。あたしが、その効果とやらを暴いてあげる」
――本当は、こうして甘えたかっただけじゃないのか?
なんて無粋なツッコミを口にできるはずもない。
俺はお望み通りに適当なファイルを選んで再生し、スマホを枕元に置いた。
スピーカーから流れてきたのは、ザーッという静かな雨の音だった。五月雨のような、とても優しく温かい雨粒が窓を叩く、どこか居心地のいい音。
俺たちはそれ以上何も言わず、ただただその雨音に身を任せていた。そのまま数分が経過した頃、膝の上の鈴子の横顔をそっと覗き込んでみる。
鈴子はいつの間にかそっと目を閉じて、すうすうと規則正しい呼吸を繰り返していた。「鈴子?」と小さく名前を呼んでみても、ピクリとも動かない。どうやら、完全にぐっすりと眠ってしまったらしい。
効果を暴いてやる、なんて調子のいいことを言っておきながら、すっかり一瞬で効いてるじゃないか。
こうして俺の膝の上で小さくなって眠る鈴子を見つめていると、胸の奥からくすぐったいような温かさが全身へと広がっていく。この子は、普段見せてくるツンとした態度とは裏腹に――いや、その態度も含めて、俺のことを心から信じてくれているのだ。
この子の姿をしばらく見つめると、そのうち芝目の横顔が脳裏によぎる。
――そのとき、俺はふと思った。
眠った鈴子をそっと抱き上げ、彼女の寝室へと運ぶ間、俺はこの胸にある感情の正体を掴もうとした。
きっとこれは、俺が芝目さんに対して抱いている「守りたい」という気持ちと同じものなのだろう。
彼女をベッドにゆっくりと寝かしつけながら、俺の思考は自然と、明日会う芝目の姿へと向かっていた。
こんな風に、いつかあの子のそばにいて、その心を少しでも楽にしてあげられたらいいな、と。
そこにたどり着くためにも、まずは明日だ。




