第7話「監督、赤ちゃん預かるんですか?」
野菜販売会から、数日。
福岡ユナイテッドのクラブハウスには、以前よりサポーターの姿が増えていた。
「古賀監督!」
「そろばん踊り、テレビで見ました!」
「田主丸の野菜、美味しかったです!」
練習を終えた選手たちが、サポーターと写真を撮ったり、子どもたちと話したりしている。
古賀も一人ひとりに笑顔で応えていた。
そんな中、一人の若い女性が赤ちゃんを抱いて立っていた。
古賀がふと、その女性の顔を見る。
「……お母さん、寝とる?」
「え?」
「目の下、クマできとるよ」
女性は少し照れたように笑った。
「ああ……最近、夜泣きがひどくて」
「そりゃ大変たい」
古賀は赤ちゃんを見る。
小さな手が、母親の服を握っている。
「旦那さんは?」
「仕事が忙しくて……。実家も遠いので、なかなか頼れる人がいなくて」
「そうね……」
古賀は少し考えた。
そして、いつもの調子で言った。
「じゃあ、赤ちゃん見とこうか?」
「……え?」
女性が固まる。
近くにいた白石も固まった。
「監督?」
城戸も目を丸くする。
「赤ちゃん……ですか?」
カルロスが首を傾げる。
「センセイ、ベビーシッター?」
「うん」
古賀は普通に頷いた。
「お母さんも休まんといかんやろ」
相川が慌てて近づいてくる。
「いやいや、監督。赤ちゃんを預かるのは、そんな簡単な話では――」
「そりゃそうたい」
古賀は頷いた。
「だから専門の人に教えてもらおう」
「……そこはちゃんとしてるんですね」
「命を預かるんやけん、当たり前たい」
⸻
数日後。
クラブハウスの一室に、保育の専門スタッフがやってきた。
選手たちは真剣な顔で説明を聞いている。
「赤ちゃんを抱くときは、首をしっかり支えてください」
「はい」
「ミルクの扱いも、必ず保護者から確認した方法で」
「はい!」
「そして、絶対に赤ちゃんから目を離さないこと」
古賀は何度も頷いている。
「サッカーより難しいですね」
専門スタッフが笑った。
「命を預かりますからね」
その瞬間、選手たちの表情が変わった。
白石が小さな赤ちゃん人形を抱える。
「……俺、試合より緊張してる」
神崎が笑う。
「お前、DF二人に囲まれてもそんな顔しないだろ」
「ボールなら失っても取り返せるけど、赤ちゃんはそうはいかないだろ!」
「確かに」
岩永も真剣な顔で頷いた。
「これは責任が違うな」
古賀が笑う。
「だから、分からんことは勝手にせず、先生に聞こう」
「はい!」
ここでも古賀の教えは変わらなかった。
――一人で頑張らない。
――困ったら、近くの人に助けてもらう。
⸻
そして初めての赤ちゃん預かりの日。
もちろん短時間。
専門スタッフの管理のもと、クラブハウスの一室で行われる。
「今日は、お母さん少し休んできてよかよ」
古賀が笑う。
「本当に大丈夫ですか?」
女性は不安そうに振り返る。
「専門の先生がおるけん、大丈夫たい。ゆっくりしてきんね」
「……ありがとうございます」
女性が部屋を出ていく。
その直後。
「ふぇ……」
赤ちゃんが泣き始めた。
「…………」
選手全員が固まった。
白石が古賀を見る。
「監督……どうします?」
「まず先生に聞こう」
「そこは監督が判断するんじゃないんですか?」
「赤ちゃんは専門家に任せるのが一番たい」
相川が頷く。
「……確かに」
専門スタッフが赤ちゃんの様子を確認する。
選手たちは指示を受けながら、そっと赤ちゃんに接する。
神崎は抱っこが上手だった。
「なんか、慣れてるな」
「妹の子どもをよく見てたから」
岩永は慎重すぎるほど慎重だった。
「首……大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「大丈夫です」
城戸は絵本を読んでいる。
「むかし、むかし……」
白石は赤ちゃんが少し笑っただけで大喜びした。
「今、笑ったよな!?」
「笑ったね」
「俺に笑ったよな!?」
「たぶん」
「たぶんかよ!」
カルロスは完全に夢中になっていた。
「カワイイ……」
赤ちゃんを見ながら、何度も笑っている。
「センセイ」
「ん?」
「ワタシ、子ども好き」
「そうね」
「サッカーより好き」
「それは困るたい」
部屋中に笑い声が響いた。
⸻
しばらくして。
女性が戻ってきた。
「ありがとうございました」
部屋に入ると、赤ちゃんはすやすやと眠っていた。
「……寝てる」
女性の顔が、ふっと緩んだ。
「久しぶりに、ゆっくり休めました」
古賀が笑う。
「それでよかとよ」
「……はい」
「お母さんも休まんと、ずっと頑張れんけん」
女性の目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます」
「いやいや。こっちこそ、預けてくれてありがとう」
古賀は頭を下げた。
⸻
その出来事は、サポーターの間ですぐに広がった。
「ユナイテッドで赤ちゃんを見てもらえるらしいよ」
「本当に?」
「私もお願いしたい」
「子どもが小さいから、試合にもなかなか行けなくて……」
小柳はその声を聞きながら、クラブハウスの様子を見ていた。
そして東山社長のところへ向かう。
「社長」
「どうした?」
「これ、続けませんか?」
「何を?」
「ベビールームです」
小柳は資料を置いた。
「専門スタッフを配置して、安全管理を徹底した上で、サポーターが利用できる場所を作るんです」
相川が資料を覗き込む。
「本気か?」
「はい」
「野菜販売の次は赤ちゃんか……」
小柳は笑う。
「この前と同じです」
「同じ?」
「地域の人が困っているなら、クラブにできることを考える。それだけです」
古賀は腕を組んで考えていた。
そして、いつものように言った。
「いいんじゃない?」
「本当に?」
「お母さんたちが少しでも寝られるなら」
⸻
数週間後。
クラブハウスには、小さなスペースができていた。
名前は――
「ユナイテッド・ベビールーム」
もちろん専門スタッフが常駐し、保護者から必要な情報を確認した上で、安全を最優先に運営する。
選手たちも、時間があるときには赤ちゃんと交流した。
クラブ公式SNSには、
『今日のユナイテッド・ベビールーム』
という動画まで投稿されるようになった。
白石が赤ちゃんを見ながら、小声で叫ぶ。
「寝た……!」
そして小さくガッツポーズ。
カルロスは赤ちゃんを見て笑う。
「センセイ、ワタシ、子ども好き!」
「そうね」
「サッカーより好き!」
「だから、それは困るたい」
また笑い声が起きる。
ベビールームは、いつしか福岡ユナイテッドの名物になっていた。
⸻
ある日の練習後。
神崎が古賀の隣に座った。
「先生」
「ん?」
「なんで、そこまでやるんですか?」
「何が?」
「プロサッカークラブですよ」
神崎は笑った。
「農家を手伝って、野菜を売って、今度は赤ちゃんまで預かって」
古賀は少し考えた。
そして、不思議そうな顔をする。
「福岡ユナイテッドは、福岡のクラブやろ?」
「……はい」
「だったら、福岡の人が困っとったら助けるのが普通たい」
神崎は黙った。
そのとき、クラブハウスの奥から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
「あ」
古賀が立ち上がる。
「ほら、呼んどるばい」
「先生、俺も行きます」
二人は笑いながら走り出した。
その背中を、相川と小柳が見ていた。
「……本当に、普通のことだと思ってるんでしょうね」
小柳が呟く。
相川は笑った。
「だから、選手も地域もついてくるんだろうな」
クラブハウスに、また赤ちゃんの泣き声が響く。
古賀が笑う。
「困っとる人がおったら――」
神崎が続ける。
「近くの人が助ける!」
その言葉は、ピッチの中だけではなくなっていた。
福岡ユナイテッドは少しずつ、地域そのものの中に根を張り始めていた。




