第5話「初勝利は、みんなでそろばん踊り」
数日後。
いよいよ、福岡ユナイテッドのリーグ戦が始まった。
古賀誠一にとって、Jリーグ監督として初めての公式戦だった。
試合前のロッカールーム。
選手たちはいつもより静かだった。
城戸は何度もスパイクの紐を確認している。
「監督……」
「ん?」
「やっぱり、緊張します」
古賀は笑った。
「そりゃ緊張するたい」
「どうしたらいいですか?」
「いつも通りでよかろ」
「いつも通り……」
「昨日まで練習してきたことを、そのままやればよか」
古賀は選手たちを見渡した。
「忘れ物したら、みんなで取りに行こう」
白石が笑う。
「はい」
「ボール取ったら、みんなで前に行こう」
「はい!」
「困った人がおったら、近くの人が助ける」
岩永が頷いた。
「それだけですか?」
「うん。それで十分たい」
選手たちから笑いが起きる。
相川だけは苦笑しながら戦術ボードを確認していた。
(本当にこれで行くんだな……)
だが、不思議とロッカールームの空気は軽くなっていた。
古賀が言っていることは、難しくない。
だからこそ、選手たちは迷わなかった。
⸻
試合開始。
相手はJ2でも上位にいる強豪だった。
序盤から福岡ユナイテッドは押し込まれる。
相手のボール回しに対して、白石が一人で追いかける。
だが、相手は簡単にかわしてくる。
白石が焦ってもう一度飛び込む。
ボールを奪われた。
「白石!」
古賀の声が飛ぶ。
白石が振り返る。
「忘れ物!」
一瞬、白石の口元が緩んだ。
「……取りに行きます!」
白石が走る。
城戸も走る。
神崎も中央から寄せる。
岩永は後ろを確認しながら、相手の逃げ道を塞ぐ。
相手選手が横へパスを出そうとする。
「そこ!」
城戸がコースを塞いだ。
ボールがこぼれる。
神崎が拾う。
スタンドから大きな歓声が上がった。
相川はベンチから戦術ボードを見る。
(もう、完全に共通言語になっている)
たった一言。
――忘れ物。
それだけで、選手たちが同じ方向へ動く。
⸻
前半は0―0。
後半に入っても、試合は拮抗していた。
そして後半二十五分。
福岡ユナイテッドがボールを奪った。
「神崎!」
古賀が叫ぶ。
神崎が前を向く。
城戸が中央を走る。
白石が右サイドを駆け上がる。
カルロスも中央へ走る。
神崎から白石へ。
白石が受けた。
目の前には相手DF。
さらに一人が中央から寄せてくる。
白石は一瞬、シュートを考えた。
だが、カルロスが中央を走っている。
昨日の古賀の言葉が頭に浮かんだ。
――速い人は、仲間を助けるために走る。
白石は自分で決めることをやめた。
相手DFを引きつけるように、一気に中へ切り込む。
二人のDFが白石へ寄った。
その瞬間、中央が空いた。
「カルロス!」
白石がパスを出す。
カルロスが受ける。
「シュート!」
右足を振り抜いた。
ボールがゴールネットに突き刺さる。
「ゴール!」
「よっしゃあ!」
カルロスが両手を上げる。
そして古賀を指差した。
「センセイ!」
古賀も両手を上げる。
「みんなで取った点たい!」
福岡ユナイテッド、先制。
⸻
しかし、試合はまだ終わらない。
終盤。
相手の猛攻が始まった。
ゴール前にボールが入る。
岩永が体を張ってブロック。
ボールがこぼれた。
城戸が拾う。
「忘れ物!」
城戸が叫んだ。
「取りに行こう!」
神崎が走る。
白石も走る。
カルロスも前へ出る。
城戸が白石へパス。
白石が一気に前へ駆け上がった。
相手DFが追いかける。
白石は中央を見る。
城戸が走っている。
カルロスもいる。
白石は相手DFを引きつけてから、中央へパスを出した。
「城戸!」
城戸が受ける。
シュート。
ゴール。
2―0。
城戸はその場に立ち尽くした。
「……入った!プロになって初めてゴール決めた」
古賀がベンチから叫ぶ。
「挑戦した証拠たい!」
城戸の目に涙が浮かんだ。
仲間たちが駆け寄る。
そして試合終了。
福岡ユナイテッド、2―0。
古賀誠一。
Jリーグ監督として初勝利。
⸻
試合後。
選手たちが古賀を囲んだ。
「監督! 勝ちました!」
白石が笑う。
「うん」
「監督、何か言うことないんですか?」
古賀は少し考えた。
「今日は、みんな頑張ったけん……」
「はい」
「なんか、みんなでできることせん?」
神崎が古賀を見る。
そして、嫌な予感がした。
「……先生」
「ん?」
「もしかして、少年団でやってたあれですか?」
古賀が笑った。
「そうたい」
古賀はスタッフバッグを開けた。
そして――。
カチャッ。
そろばんを取り出した。
しかも一つではない。
何本も入っている。
「…………」
選手全員が固まった。
相川が目を丸くする。
「監督……それは?」
「そろばん」
「それは見れば分かります」
「久留米のそろばん踊り、知っとる?」
選手たちは顔を見合わせる。
「……知りません」
古賀は何でもないことのように言った。
「じゃあ、踊ろうか」
「え?」
「勝ったけん」
カルロスがそろばんを覗き込む。
「ソロバン?」
「そうたい!」
古賀は楽しそうに踊り始めた。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
「……」
選手たちは完全に困惑している。
白石が神崎に小声で聞く。
「これ……どうするんですか?」
「監督が言ってるから踊るしかないだろ」
古賀が振り返る。
「皆はよ真似せんね!こうたい!」
カチャカチャ。
神崎が真似する。
「久しぶりすぎてちょっと忘れてますがこう?」
「そうそう!」
岩永も仕方なく続く。
「こう……ですか?」
「上手!」
城戸も笑いながらそろばんを動かす。
カルロスは周りを見ながら、
「ソロバン……ダンス……」
そして、
「カチャカチャ!」
古賀が大笑いした。
「そうたい!」
⸻
スタンドのサポーターたちは、最初こそ何が始まったのか分からなかった。
しかし、ピッチで古賀が楽しそうに踊っている。
「みんなもやろう!」
古賀がスタンドへ手を振る。
サポーターたちはそろばんを持っていない。
それでもタオルやフラッグを手に、見よう見まねで踊り始めた。
笑い声がスタジアムに広がる。
小柳はカメラを構えたまま呆然としていた。
「……何これ」
それでも、カメラは止めなかった。
⸻
翌朝。
クラブ公式SNSに、試合後の動画が投稿された。
『初勝利! そして監督が突然そろばん踊りを始めました。』
投稿直後からコメントが殺到する。
「何でそろばん?」
「監督かわいい」
「選手全員困惑してるの面白すぎる」
「カルロスのそろばん踊り最高」
「次の勝利でもやって!」
小柳は画面を見ながら笑った。
「……これ、人気出るかも」
⸻
数週間後。
クラブのグッズ会議。
「そろばん……作りませんか?」
東山社長が顔を上げる。
「そろばん?」
「はい。古賀監督の勝利後パフォーマンスが話題になっています」
そこへ古賀が入ってきた。
「何の話?」
小柳が説明する。
「公式グッズに、そろばんを作ろうかと」
「そろばんを?」
「はい」
古賀は少し考えた。
「……売れると?」
「たぶん」
「じゃあ、福岡の子どもたちにも使えるように、ちゃんとしたそろばんにしよう!」
そして笑う。
「福岡の皆、計算が上手くなるばい」
スタッフから笑いが起こった。
こうして完成した。
『福岡ユナイテッド公式そろばん』
クラブカラーを取り入れた専用ケース。
そこには小さく、
『忘れ物したら、みんなで取りに行こう。』
と書かれていた。
相川は完成品を手に取り、苦笑する。
「まさか……監督の思いつきが公式グッズになるとは」
古賀は首を傾げる。
「そげん大げさなもんじゃなかろ」
神崎が笑った。
「先生。それ、もう大げさですよ」
その日から、福岡ユナイテッドの勝利後には――。
選手たちとサポーターが、そろばんを手にするようになった。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
福岡ユナイテッドに、奇妙で温かい新しい文化が生まれた。




