第4話「みんなで取りに行こう」
翌朝。
福岡ユナイテッドのクラブハウスに、古賀誠一がやって来た。
いつもの作業着ではなく、クラブのトレーニングウェア。
それでも、どう見てもプロ監督というより、近所の農家のおじさんだった。
「おはようございます」
「おはようございます、監督」
スタッフに挨拶をしながら、古賀はグラウンドへ向かう。
選手たちはすでに集まっていた。
古賀は全員の顔を見渡す。
「今日は、試合してみようか」
「試合?」
白石が反応する。
「紅白戦ですか?」
「そうたい」
相川が近づいてくる。
「昨日の面談を踏まえて、戦術の確認ですか?」
「うん」
古賀は頷く。
「でも、難しいことはせんよ」
相川は苦笑した。
「監督の『難しくない』は、少し怖いんですよね」
「そう?」
「ええ」
選手たちが笑う。
古賀も笑った。
「まあ、やってみよう」
選手たちはピッチへ向かった。
⸻
紅白戦が始まった。
最初のボールは相手チーム。
相手の中盤にボールが入る。
すると福岡ユナイテッドの一人が、勢いよく前へ出た。
「行け!」
白石も前へ走る。
しかし、中央の選手は後ろに下がった。
さらに別の選手は、相手のパスを警戒して横へ動く。
結果――。
ぽっかりと中央にスペースができた。
「そこ空いてる!」
相手選手がパスを出す。
ボールは簡単に中央を通った。
「戻れ!」
岩永が叫ぶ。
だが、すでに遅い。
相手のFWが抜け出した。
シュート。
ゴール。
「……」
古賀が笛を吹いた。
「一回止めよう」
選手たちが集まる。
相川がすぐに口を開いた。
「プレスのタイミングが合っていません。前の選手が出た時に、後ろが連動して――」
古賀が相川を見る。
「相川さん」
「はい?」
「みんなに聞いてみよう」
古賀は選手たちを見る。
「さっき、みんな何しよった?」
「ボールを取りに行ってました」
「うん」
古賀は頷く。
「でも、一人だけで取りに行ったら、どうなる?」
選手たちは黙る。
古賀は足元のボールを拾った。
「これ、忘れ物やと思って」
「忘れ物?」
「そう」
古賀はボールを少し離れたところに置いた。
「誰かが忘れ物を取りに行ったのに、他のみんなが知らん顔しとったらどうなる?」
白石が答える。
「……一人で取りに行くことになります」
「そうたい」
古賀は笑った。
「サッカーも一緒」
そして、選手たちを見渡す。
「忘れ物したら、みんなで取りに行こう」
⸻
相川の動きが止まった。
「……」
「どうしたんですか?」
古賀が聞く。
「いえ……」
相川は小さく呟いた。
「それって……」
「ん?」
「ゲーゲンプレスの考え方ですよね」
「げーげん?」
「いえ、何でもありません」
相川は頭を切り替える。
古賀は話を続ける。
「ボールを取られたら、近くにおる人がまず追いかける」
「遠くにおる人は、走って助けに行く」
「でも、全員がボールだけ見たらダメ」
岩永が頷く。
「誰かがボールを追いかけたら、誰かが後ろを見る」
「そうたい」
古賀は嬉しそうに笑った。
「みんなで取りに行って、取れたら――」
前を指差す。
「今度は、みんなで前に行こう」
選手たちの顔が変わった。
相川は黙って戦術ボードを見つめる。
ボールを失った直後の即時奪回。
周囲の選手によるサポート。
パスコースの遮断。
奪った後の素早い攻撃。
古賀は、それを一つの言葉にしていた。
――忘れ物したら、みんなで取りに行こう。
⸻
「もう一回やってみよう」
古賀が言った。
紅白戦が再開される。
相手がボールを奪った。
「白石!」
古賀が叫ぶ。
「行って!」
白石が一気に加速する。
相手選手が前へ抜けようとする。
白石との距離が縮まる。
しかし、今度は白石だけではなかった。
岩永が中央へ寄る。
城戸が相手のパスコースを塞ぐ。
神崎も戻ってくる。
相手選手が左右を見る。
逃げる場所がない。
「今!」
白石が足を伸ばす。
ボールがこぼれた。
「取った!」
白石がボールを奪う。
「ナイス!」
古賀が叫ぶ。
白石は顔を上げた。
前にはスペースがある。
「今度は前!」
古賀の声が飛ぶ。
白石が走る。
その横を城戸が追い越していく。
中央では神崎が前へ。
カルロスもゴールへ向かって走っている。
白石は昨日の面談で古賀から言われた言葉を思い出す。
――速い人は仲間を助けるために
白石はその足で果敢にドリブルをしかける。
白石が速い。
相手DFが一人、二人と白石につられて下がっていく。
「白石を止めろ!」
相手の守備が白石に集中する。
その瞬間――
カルロスの前に、大きなスペースが生まれた
「カルロス!」
白石がパスを出す。
カルロスが受ける。
「シュート!」
右足を振り抜いた。
ゴールネットが揺れた。
「よっしゃあ!」
カルロスが両手を上げる。
「センセイ!」
古賀も笑いながら駆け寄る。
「すごかー!」
選手たちが集まってくる。
カルロスが笑う。
「ミンナデ!」
「そうたい」
古賀が頷く。
「みんなで取って、みんなでゴールしたね」
⸻
少し離れた場所で、相川が戦術ボードにペンを走らせていた。
ボールロスト。
白石がプレス。
岩永が中央をカバー。
城戸がパスコースを遮断。
神崎が回収。
奪った瞬間、前へ。
白石のスピード。
カルロスへのラストパス。
ゴール。
相川は一つずつ書き込んでいく。
「……かなり整理された仕組みだ」
そして古賀を見る。
「監督」
「ん?」
「今の形、最初から狙ってました?」
古賀は首を傾げた。
「いや?」
「……」
「みんなでボール取りに行ったら、自然とそうなるやろ?」
相川は頭を抱えた。
(この人は……)
(本当に、これを『普通』だと思っている)
⸻
練習終了後。
岩永が若い選手たちを呼び止めた。
「さっきの守備、よかったぞ」
城戸が驚く。
「岩永さんが褒めるの、珍しいですね」
「そうか?」
「はい」
岩永は少し笑った。
「俺一人で守るより、みんなで守った方が楽だからな」
白石が頷く。
「監督が言ってたもんね」
「何を?」
「一人で背負わなくていいって」
岩永は少し黙った。
「……そういうことだ」
その言葉を聞いた城戸が笑う。
「じゃあ、俺ももっと守備します」
「お前はまずボールを怖がらず受けろ」
「はい!」
岩永の声には、もう最初の頃の警戒心がなかった。
⸻
練習後。
クラブハウスへ戻る途中、相川が古賀に声をかけた。
「監督」
「ん?」
「監督は、選手に戦術を覚えさせるつもりはないんですか?」
「覚えんでもよかろ」
「え?」
「みんなが同じこと考えて、同じ方向に走れたらよか」
相川は少し黙った。
「……それが戦術です」
「そうなん?」
「そうです」
古賀は少し考える。
「じゃあ、戦術って難しくないんやね」
相川は苦笑した。
「監督が簡単にしてるんですよ」
「そうかなぁ」
古賀は本当に分かっていない顔をしていた。
⸻
翌日の練習。
相手ボールになった瞬間。
「忘れ物!」
白石が叫んだ。
「取りに行こう!」
城戸が走る。
「俺も!」
神崎が声を上げる。
「俺も行く!」
岩永も前へ出る。
選手たちが一斉に動いた。
相手は逃げる。
しかし、どこへ行っても誰かがいる。
ボールを奪った。
「前!」
今度は全員が前へ走る。
古賀はグラウンドの端で笑っていた。
「そうたい!」
相川はその光景をじっと見つめる。
昨日まで、選手たちはそれぞれ別々に守備をしていた。
誰かがプレスに行けば、誰かが迷う。
誰かが戻れば、誰かが前へ出る。
それが今は違う。
たった一つの言葉で、全員が同じ方向を向いている。
相川は戦術ノートを開いた。
ページの中央に、ゆっくりと書く。
『忘れ物したら、みんなで取りに行こう』
そして、その下に小さく書き足した。
――これが、このチームの守備になる。
古賀誠一の「普通の指導」が、少しずつプロのサッカーを変え始めていた。




