第2話「少年団の監督が、プロの監督?」
福岡ユナイテッドのクラブハウス。
朝からスタッフが集まり、重苦しい空気が漂っていた。
「……田主丸FCの監督?」
社長の東山恒一が、手元の資料を見つめる。
「はい」
神崎蓮が答えた。
「古賀誠一。四十四歳。現在も農業をしながら、少年サッカーの指導をしています」
「プロの指導経験は?」
「ありません」
「Jリーグでの実績は?」
「ありません」
東山は頭を抱えた。
「……本当にこの人を監督にするのか?」
隣に座るヘッドコーチの相川真司も、資料を見ながら口を開く。
「神崎選手。気持ちは分かります。ただ、J2ですよ。少年団とはプレッシャーも、選手の能力も、試合のスピードも違います」
「分かっています」
「なら、なぜ?」
神崎は迷わず答えた。
「先生だからです」
相川は黙った。
神崎が一枚の資料を差し出す。
「これを見てください」
そこには、古賀の教え子たちの名前が並んでいた。
黒田翔――J1、日本代表。
大石悠真――ドイツ1部、日本代表。
宮原蒼――J1正GK。
そして神崎自身。
「……全員、同じ少年団?」
「はい」
「同じ監督に?」
「古賀先生に育ててもらいました」
東山が資料を見直す。
「偶然……なのか?」
神崎は首を横に振った。
「俺は、そう思いません」
⸻
翌日。
福岡ユナイテッドのクラブハウス前に、一台の軽トラックが止まった。
降りてきたのは、作業着姿の男。
「……ここでよかとかな」
古賀誠一だった。
周囲を見渡す。
「すごかねぇ……」
その姿を見たスタッフが、一瞬固まった。
どう見ても監督というより、農作業の途中で立ち寄った農家のおじさんだった。
「先生!」
神崎が駆け寄る。
「おう、蓮」
「来てくれたんですね」
「そりゃ来るたい。話ば聞くって言ったけん」
「緊張してます?」
「しとるよ」
古賀は笑った。
「プロのクラブなんて初めて来たけん」
⸻
ロッカールーム。
選手たちが並んでいる。
「この人が新監督……?」
「少年団の監督って聞いたけど」
小さなざわめきが起こる。
ベテランの岩永恒一も腕を組んで古賀を見ていた。
古賀は選手たちの前に立つ。
「古賀誠一です。今日からよろしくお願いします」
頭を下げる。
そして、少し間を置いて言った。
「最初に言っとくけど、俺はプロの監督をしたことがない」
選手たちがざわつく。
古賀は続ける。
「でも、サッカーが好きなのは負けんよ」
何人かの選手が笑った。
「まずは、みんなのことを知るところから始めたい」
古賀は選手一人ひとりの顔を見る。
「よろしくお願いします」
⸻
午後。
初めての練習が始まった。
相川がチームの課題を説明する。
「現在の問題は、相手のプレスを受けた際にボール保持者が孤立することです」
古賀は首を傾げる。
「つまり、ボール持った人が困っとるってこと?」
「……まあ、簡単に言えばそうです」
「じゃあ、助けてあげればよか」
相川が少し黙る。
「それを、今からやってみよう」
古賀は選手たちを集めた。
「三対三でやってみようか」
練習が始まる。
白石健太がボールを持った。
相手が一人、さらにもう一人と寄せてくる。
「白石!」
古賀が叫ぶ。
「今、敵は何人来た?」
「二人です!」
「じゃあ、どこか空いたね?」
白石が周囲を見る。
「……あっち?」
「そう!」
古賀が指差す。
「そこに走って!」
味方が空いた場所へ走る。
白石がパスを出す。
ボールが通った。
「ナイス!」
古賀が拍手する。
「敵が白石のところに二人来たけん、別の場所が空いたやろ?」
選手たちが頷く。
「敵がこっちに来たら、あっちが空く」
「だから、空いたところを使う」
古賀はそれだけ言った。
相川が黙って見ている。
⸻
次のプレー。
今度は味方全員がボールの近くに集まった。
「ちょっと待って」
古賀が笛を吹く。
「みんな近すぎるよ」
選手の一人が尋ねる。
「近い方が助けやすくないですか?」
「そうやね」
古賀は頷く。
「でも、友達が転んだ時に、みんなで一人を助けに行ったらどうなる?」
「……人がいっぱいになる」
「そうたい」
古賀はグラウンドを指差す。
「助ける人は一人か二人でよか」
「他の人は広がろう」
「広がったら、相手も広がらんといかんやろ?」
選手たちが動く。
「そうそう」
古賀が笑う。
「みんなが広がったら、相手も困る」
相川は思わず戦術ボードを見る。
幅。
サポート。
相手を動かす。
数的優位。
スペースの創出。
古賀は、それらを一度も専門用語で説明していない。
それなのに選手たちは理解している。
⸻
練習後。
相川は古賀の隣に立った。
「監督」
「ん?」
「今の指導……」
「うん」
「相手を動かして、空いた場所を使う。味方が広がることで相手を広げる。そしてボール保持者には近くのサポートを一人置く」
「そうたい」
「……全部、つながっていますよね?」
古賀は不思議そうな顔をする。
「そりゃ、サッカーやけん」
「……」
「鬼ごっこと一緒たい」
「鬼ごっこ?」
「鬼をこっちに連れてきたら、あっちが逃げやすくなるやろ?」
相川は言葉を失った。
古賀は笑っている。
「サッカーって、そんな難しくないよ」
相川は心の中で呟いた。
(この人……)
(戦術を知らないんじゃない)
(知っていることを、全部簡単な言葉にしているのか?)
⸻
そこへ岩永がやってきた。
「監督」
「ん?」
「俺たちはプロです」
「うん」
「少年団と同じやり方で、本当に勝てるんですか?」
古賀は少し考えた。
「……分からん」
岩永が目を見開く。
「俺はプロを教えたことないけん」
選手たちの間に沈黙が落ちる。
しかし古賀は笑った。
「だから、みんなで強くなろう」
岩永は何も言わなかった。
ただ、少しだけ古賀を見る目が変わった。
⸻
練習終了後。
「じゃあ、今日は早く寝てね」
古賀が言う。
白石が笑う。
「監督、それ戦術ですか?」
「戦術より大事たい」
「え?」
「ちゃんと寝る」
「ちゃんと食べる」
「身体を休める」
「家族ともちゃんと過ごす」
「それができん人が、九十分走り続けられると思う?」
誰も答えなかった。
古賀は笑う。
「明日もサッカーするんやけん、今日は身体ば休ませよう」
⸻
その夜。
古賀が家に帰る。
「おかえり」
美穂が迎える。
「どうだった?」
「みんな、いい子ばっかりたい」
「プロ選手でしょ?」
「そうたい」
古賀は靴を脱ぎながら笑った。
「でも、まだまだ伸びそうばい」
美穂は呆れたように笑う。
「あら。もう先生になってるじゃない」
「俺は監督たい」
「同じことでしょ」
その頃、福岡ユナイテッドの選手たちのスマートフォンが一斉に鳴った。
古賀からのメッセージだった。
『今日は早く寝よう。明日の朝ご飯もちゃんと食べること。おやすみ』
白石が画面を見る。
「……母ちゃんかよ」
岩永が苦笑する。
「監督だよ」
その隣で、相川は一人、戦術ノートを開いていた。
新しいページに、ゆっくりと文字を書く。
『古賀監督のサッカー』
そして、その下に一言。
『難しいことを、誰でも分かる言葉にする』
相川はペンを置いた。
「……面白い人だな」
福岡ユナイテッドの新しい日々が、始まった。




