第1話「先生、福岡を育ててください」
福岡県久留米市田主丸町。
まだ空が白み始めたばかりの朝五時半。
「……よし」
古賀誠一は、畑の中で腰を伸ばした。
四十四歳。
日に焼けた顔。少し白髪の混じった髪。年季の入った作業着。
傍から見れば、どこにでもいる農家のおじさんだ。
古賀は米や野菜を作っている。トマト、きゅうり、そしてイチゴ。
朝は早い。
だから、サッカーの練習がある日も生活は変わらない。
「あなたー。朝ご飯できたよー」
「今行くー」
妻の美穂に呼ばれ、古賀は家へ戻った。
食卓では十二歳の息子、陽太が眠そうな顔でご飯を食べている。
「父ちゃん……」
「ん?」
「なんで休みの日まで五時に起きると?」
「農家は日の出が仕事始めたい」
「少年サッカーの監督なのに?」
古賀は笑った。
「サッカーも朝から始まっとるよ」
「意味分からん」
陽太はため息をついた。
朝食を終えると、陽太が立ち上がった。
「ごちそうさま。俺、準備してくる」
「陽太」
「ん?」
「その皿、洗っとってくれる?」
「えー。今日サッカーあるやん」
「だから頼む」
「なんで?」
古賀は少しだけ考えてから言った。
「お前がサッカーできる時間を、誰が作ってくれとる?」
「……母ちゃん?」
「そうたい」
「家族が自分を助けてくれるなら、自分も家族を助ける」
陽太は不満そうな顔をしながら皿を持っていった。
「……分かったよ」
「ありがとう」
美穂が笑う。
「あなた、本当にそれを子どもたちにも言うのね」
「うん」
「サッカーの話より先に?」
「そりゃそうたい」
古賀は何でもないことのように答えた。
⸻
午後。
田主丸FCの練習場に子どもたちが集まった。
「こんにちは!」
「こんにちは!」
元気な声が飛び交う。
古賀は子どもたちを集めると、ボールを配らなかった。
「今日は最初にゴミ拾いしようか」
「えー!」
「なんでサッカーなのに掃除すると?」
古賀は笑った。
「ここ、誰が使わせてもらっとる?」
「……みんな?」
「そうたい。使わせてもらっとるなら、きれいにしてあげよう」
子どもたちは渋々ゴミを拾い始める。
すると一人の少年が小さな空き缶を見つけた。
「監督、あった!」
「お、ありがとう」
「これでサッカー強くなる?」
「なるかもしれんね」
「ほんと?」
「心が強くなるけん」
子どもたちは笑った。
ゴミ拾いが終わると、古賀は全員を集めた。
「今日から一個だけ覚えとって」
子どもたちが顔を上げる。
「家族を大切にすること」
「サッカーと関係あると?」
「あるよ」
古賀は穏やかに話した。
「家事を手伝う」
「早寝早起きする」
「朝ご飯をちゃんと食べる」
「お父さん、お母さんにありがとうって言う」
「地域の掃除もする」
「困っとる人がおったら助ける」
「そういうことが全部、サッカーにつながっとる」
少年たちは首を傾げる。
「どうして?」
「サッカーは一人でするもんじゃなかろ?」
「うん」
「だったら、人を大切にできる人にならんといかん」
古賀は笑った。
「立派なサッカー選手になる前に、立派な人になろう」
⸻
その日の練習は二対二だった。
「ボール取られたらどうする?」
「取り返す!」
「そう」
古賀が笛を吹く。
ボールを奪われた瞬間、二人の少年が一斉に相手へ向かって走った。
「そうそう!」
古賀が手を叩く。
「忘れ物したら、取りに戻るやろ?」
「うん!」
「ボールも忘れ物たい!」
子どもたちは笑いながらボールを追った。
奪い返す。
今度は攻撃。
「広がろう!」
「なんで?」
「みんなが近くにおったら、ぶつかるやろ?」
「じゃあ、どうする?」
「友達と友達の間に立ってみ」
少年が動く。
「そこ!」
古賀が指を差す。
「そこにおったら、相手はどっちを見るか迷うやろ?」
「ほんとだ!」
古賀は笑う。
ゲーゲンプレス。
ポジショナルプレー。
ハーフスペース。
そんな言葉は一つも出てこない。
ただ、子どもたちに分かる言葉でサッカーの本質だけを伝える。
それが古賀誠一の指導だった。
⸻
――場面は変わって
J1のスタジアム。
「黒田ぁぁぁぁ!」
歓声が響く。
黒田翔がゴールを決めた。
「黒田、今季二十ゴール目です!」
試合後のインタビュー。
「素晴らしいゴールでした。あの動きはどこで身につけたんですか?」
日本代表にも選ばれるストライカーは、少し照れながら笑った。
「田主丸の先生です」
「先生?」
「はい。古賀先生」
⸻
ドイツ。
大石悠真が相手のプレスを受けながらボールを受ける。
その直前、首を左右に振った。
「大石、素晴らしい判断!」
試合後、記者が尋ねた。
「なぜあれほど周囲を見るのですか?」
大石は少し笑った。
「昔、先生に言われたんです」
「先生?」
「首をキョロキョロしろって」
⸻
一方、福岡。
J2・福岡ユナイテッドは、今季も苦戦していた。
試合終了。
また勝てなかった。
ロッカールームに一人残った神崎蓮は、スマートフォンを取り出した。
画面に映っているのは、古い写真。
田主丸FCの少年たち。
その中央にいるのは、若き日の古賀誠一。
「……先生」
神崎は呟いた。
そして翌朝。
田主丸の畑に、一台の車が止まった。
「先生」
振り返った古賀が目を丸くする。
「おお、蓮!」
「久しぶりです」
「どうしたと?」
神崎は深く頭を下げた。
「先生。お願いがあります」
「なんね?」
「福岡ユナイテッドの監督になってください」
「……俺が?」
「はい」
「いやいや、俺は農家たい」
「分かっています」
「少年団しか教えたことなかよ」
神崎は顔を上げた。
「だからです」
古賀は黙った。
「俺はいろんな監督に教わりました」
「戦術も、フィジカルも、海外のサッカーも勉強しました」
「でも……」
神崎の声が震える。
「一番サッカーが上手くなったのは、先生のところでした」
古賀は黙って聞いている。
「それだけじゃない」
「先生は、俺たちに家族を大切にしろって教えた」
「仲間を助けろって教えた」
「挨拶しろって」
「人のせいにするなって」
神崎は頭を下げた。
「俺たちが今プロでやれてるのは、先生に人として育ててもらったからです」
「だから……」
神崎は顔を上げた。
「先生が教えてくれたことを、今度は福岡ユナイテッドでやりたいんです」
古賀は畑を見た。
しばらく考えたあと、
「……蓮」
「はい」
「俺が行ったら、野菜ば作る時間が減るぞ」
「そこですか?」
神崎が思わず笑う。
古賀も笑った。
「だって農家やけん」
そして、少しだけ考える。
「……みんなが本気なら」
古賀は神崎を見る。
「一回、話ば聞いてみようか」
神崎の顔が明るくなった。
⸻
その夜。
「先生に頼んだ」
神崎から連絡を受けた黒田が叫ぶ。
「本当に!?」
大石も画面を見る。
「先生、なんて?」
「話を聞いてみるって」
三人の間に、しばらく沈黙が流れた。
やがて黒田が笑う。
「じゃあ、今度は俺たちが先生を連れていこう」
翌朝。
古賀はいつものように畑に立っていた。
「プロの監督か……」
少しだけ笑う。
「子どもたちと同じように教えればよかろう」
田主丸の朝日が、畑を照らしていた。
――第1話「先生、福岡を育ててください」終。




