第35話 復活の『Kanato』
俺の六畳間の自室は、たった数日で完全に『配信用スタジオ』へと変貌を遂げていた。
「マイクのゲイン調整よし。カメラのホワイトバランスよし。……湊、ちょっとギター鳴らしてみて」
「お、おう。……」
「ストップ。低音の入力が少し割れてるわね。オーディオインターフェースのツマミ、もう二ミリ絞って」
「は、はい」
パソコンのモニターを見つめる氷室雪乃は、普段の学校で見せる『氷の女王』の顔とも、俺に見せる『彼女』の顔とも違う、完全に『プロの現場監督』の目つきになっていた。
機材のセッティングから配線、配信ソフトの細かい設定まで、彼女はマニュアルを見ることなく恐ろしい手際でこなしていく。
(本当にこいつ、高校生か?)
「画角のチェックするわよ。ギターのネックと、湊の手元から胸元にかけて……よし。これなら顔は絶対に映らないし、背景の生活感も映りこんでないわね」
「お前、なんでそんなに配信周りの機材とか知識あるんだよ……」
「当たり前でしょ。推しの動画を最高画質・最高音質で録画保存するために、機材のスペックからエンコードの知識まで猛勉強したんだから」
「お、おぅ……」
(……オタクの情熱って怖い)
俺が感心して――半分ドン引きしていると、雪乃はモニター用のヘッドホンを外し、俺の方へと振り返った。
「いい? アカウント名は昔のまま『Kanato』を使うわよ。文化祭の動画バズからまだ日が浅い今が、絶好のタイミングよ」
「でも、急にやって誰も来なかったらどうするんだよ。なんの告知もしてないし」
「ゲリラ配信の方が『本物感』が出るのよ。それに、今のあんたのテクニックと音色さえあれば、どう転んでも勝手に火がつくはずよ。……あんたはただ、私を想って音を鳴らしてくれればいいの」
雪乃のその力強い言葉と、俺のギターに対する絶対的な信頼が込められた瞳に、俺は思わず息を呑んだ。
「……わかった。そこまで言われちゃ、やるしかないよな」
俺が深く頷くと、雪乃は満足げに微笑み、配信ソフトの『開始』ボタンをクリックした。
***
画面の端にある『LIVE』の文字が赤く点灯した。
事前の告知を一切していないゲリラ配信。画面の隅に表示される同時接続者数は、たったの『12人』だった。
(……まあ、当然そんなもんだよな)
俺は少しホッとした。数千、数万の人間がいきなり見ているより、これくらいの過疎状態の方が、今の俺にはプレッシャーが少なくて助かる。
カメラの死角であるベッドの上に移動した雪乃が、スケッチブックに極太のマジックで『適当にインストで弾いて』と書き、俺に見せる。
俺は軽くコクリと頷き、愛用のストラトキャスターのネックを握り込んだ。
文化祭での熱狂を思い出す。
雪乃への重すぎる想いと翔太から託された信頼――すべてをぶち込んだ、圧倒的な奔流、暴力的なまでの魂の音色。
俺は目を閉じ、ピックを弦に滑らせた。
静かでメロディアスなアルペジオから、徐々にテンポを上げていく。
俺のギターの音色だけが、静かな部屋に響き渡る。
パソコンモニターの端で流れるコメント欄には、
『お、始まった!緊張してる?』
『え、普通に上手くて草』
『初見です!おすすめから来ました』
といった、ごく普通の反応がパラパラと流れるだけだった。
だが、曲がサビに差し掛かり、俺は少しずつ音に感情を乗せ始める。
誰かが公開した文化祭ライブの切り抜き動画でも度々登場する、俺特有の『手癖』を入れた高度なカッティングと、独特のスライド奏法を組み込んだ瞬間。
コメント欄の動きが、ピタッ、と不自然に止まった。
(……ん? どうした?)
俺が怪訝に思ってモニターをチラリと見た、次の瞬間だった。
『え!?』
『嘘だろ!?』
『今の運指、まさか』
『おい、この手癖って……』
『ちょっ、マジで本人!?』
『文化祭の神ギタリスト降臨!?』
『Kanato復活!?!?』
止まっていたコメント欄が、突如として滝のような猛スピードで流れ始めた。
(うおっ!? なんだこれ!?)
同接のカウンターが、チカチカと異常な速度で数字を更新していく。
たった12人だった数字が、数十人、数百人、そしてあっという間に千人を突破した。
おそらく、最初の十数人の中にいた耳の肥えたリスナーか、文化祭の動画から流入してきたファンが、SNSで『Kanatoがゲリラ配信してる!』とでも拡散したのだろう。
『本物だあああああ!』
『文化祭の動画から来ました!』
『神!! 神!!』
『音圧エグすぎ!』
『ずっと待ってた!!』
滝のように流れるコメントと、増え続ける同接数。
(えっ、なんかすごい増えてるんだけど……どうすんだこれ!?)
俺がパニックになりかけ、助けを求めるようにカメラの裏側にいる雪乃へ視線を向けた。
すると、雪乃は素早い動きで新しいスケッチブックをめくり、バンッ! と俺の前に突き出した。
『そのまま弾け!!! 絶対止めるな!』
俺は腹を括り、「ええい、なるようになれ!」とばかりに、さらにディストーションのペダルを深く踏み込み、限界まで音を歪ませてギターを弾き狂い始めた。
***
(アァァァァァァァァッ!! 湊の生音! 自室での本気のソロギター! 尊い! もはや致死量超えてる!!)
カメラの死角となるベッドの上に陣取る私――氷室雪乃は、歓喜に打ち震えていた。
私の指示通りに、カメラの枠内で最高のパフォーマンスを披露する私の推し。
モニターに映し出される、分厚い『タコ』ができた指先。汗ばむ首筋。
そして、その圧倒的な音に魅了され、熱狂の渦に巻き込まれていく数千人のリスナーたち。
(ふふんっ! 見なさい有象無象ども! あんたたちが画面越しに必死に崇めているこの神様は、今まさに、私の目の前にいるのよ!)
私の中の『オタク』としての欲望と、『正妻』としてのマウント欲が、これ以上ないほどに満たされていく。
『神すぎる』
『最高!』
『もっと弾いて!』
滝のように流れる賞賛のコメント。
それらすべてが、湊の才能を証明しているようで、それをプロデュースした私自身の心までもが、誇らしさで満たされていく。
(そうよ、湊の音は世界に轟くべきなの。……でも、その音を一番近くで浴びて、独占するのは……この私なんだから!)
私はベッドの上で、誰にも見えない特大のドヤ顔とピースサインをキメていた。
だが、この時の私は、あまりの幸福感に溺れるあまり、完全に油断していた。
この後、湊のさらにエモいギターソロを浴びた私の理性が完全に吹き飛び、『取り返しのつかない事故』を引き起こしてしまうことになるなど、まだ一ミリも想像していなかったのだ。




