8
ガレブ渓谷の強い日差しが、赤蠍の砦の石壁を焦がすように照りつけていた。
占領から二日。
凄惨な同士討ちの舞台となった砦内部は、ようやくむせ返るような血と臓物の匂いが拭い去られ、代わりに強い薫香と、石灰の乾いた匂いが漂い始めていた。
砦の最奥、かつて山賊の首領が陣取っていた豪奢な広間。
その中央に敷かれた色鮮やかなペルシャ絨毯の上に、ザイドが乱暴に三つの巨大な木箱を蹴り開けた。
「へへッ、兄貴、殿下! 見てくれよこの山!」
ジャラァッ! と、重く暴力的な音が広間に反響した。
木箱の中から溢れ出したのは、くすんだ赤土の渓谷にはおよそ不釣り合いな、眩いばかりの金貨と銀貨の山、そして見事な細工の施された宝飾品の数々だった。
「こいつらは近隣の商隊から奪った略奪品のほんの一部だ。地下の武器庫には、錆びてねェ真新しい長槍が三百本、良質な弓と矢束が山ほど眠ってたぜ。赤蠍の野郎ども、渓谷の関所代わりになって相当な甘い汁を吸ってやがったな」
「……盗品とはいえ、これほどの財力と武具を貯め込んでいたとはな」
壁際で腕を組んでいたカディルが、嫌悪感と驚愕の入り混じったため息をつく。
広間の巨大な石机に腰掛けていたマーシャは、放り出された金貨の一枚を指先で弾き、音の響きで純度を確かめながらターバンの奥で獰猛に唇を吊り上げた。
「上出来だ。これだけの資金と武装があれば、私たちの『手札』は飛躍的に増える。……おい殿下、聞いてるのか?」
マーシャが机から飛び降り、図面を広げていたファリードの隣へと歩み寄る。
その瞬間、ファリードの肩がビクッと跳ねた。
「あ、ああ。聞いているとも。素晴らしい戦果だ」
ファリードは不自然なほど素早く身を引き、マーシャから距離を取った。彼の金色の瞳が、マーシャの泥に汚れた男物の外套や、ターバンから僅かに覗く黒髪の毛先を、まるで直視してはいけない何かでも見るかのように泳いでいる。
昨夜、湧水池で彼女の月下の裸身と凄惨な傷跡を見てしまってからというもの、ファリードの様子は明らかにおかしかった。
マーシャが地図を指差すために顔を近づけるだけで息を止め、彼女が重い武器箱を持とうとすると、頼んでもいないのにカディルよりも早く駆け寄って奪い取るのだ。
(……変な奴だな。初陣の疲れでも出たか?)
マーシャは訝しげに眉をひそめたが、ファリードの内心の暴風雨など知る由もない。彼女はすぐに思考を目の前の盤面へと切り替え、広げられた羊皮紙の地図を短剣の切っ先でトントンと叩いた。
「資金と武器は手に入った。だが、肝心の兵力が足りない。この巨大な砦を維持し、さらに渓谷周辺の拠点を落としていくには、三十人の精鋭だけではいずれ過労で全滅するぞ」
「……分かっている。だからこそ、生かしておいたのだろう」
ファリードは意図的に低く威厳のある声を作り、自身の動揺を奥底へと封じ込めた。彼は革鎧の帯を引き締め、毅然とした足取りで広間を出て、砦の巨大な中庭へと向かった。
ギラギラと太陽が照りつける中庭には、ひどい熱気と汗の酸っぱい匂いが充満していた。
そこに正座させられていたのは、同士討ちの地獄から辛くも生き残った、約五十人の山賊たちだ。武器を取り上げられ、麻縄で後ろ手に縛られた彼らは、周囲を取り囲むタリクの巨体と、カディルの冷酷な剣先に怯え、傷だらけの体をガタガタと震わせていた。
「山賊風情が、殿下の御前であるぞ! 頭を垂れよ!」
カディルの怒号が中庭に響き、五十人の悪党たちが一斉に泥に顔を擦り付ける。
ファリードは中庭の石段の上に立ち、眼下にひれ伏す男たちを静かに見下ろした。かつての彼なら、己の命を狙った野蛮な賊を前に、恐怖で膝を震わせていただろう。
だが今の彼にあるのは、これを使える駒として値踏みする、君主として値踏みするような眼差しだけだった。
「面を上げろ」
十四歳の、まだ声変わりしきっていない涼やかな声。
だが、その声に含まれた絶対的な覇気に当てられ、山賊たちは恐る恐る顔を上げた。彼らの瞳に映ったのは、ひどく美しい白金色の髪の少年。だが、その金色の瞳には、一切の容赦も慈悲も存在しない。
「貴様らは、私の命を狙い、シャジャルの正規軍の手先となった逆賊だ。ここで全員の首を刎ねても、誰も文句は言わないだろう。……だが」
ファリードは、わざとゆっくりと石段を降り、最も体格の良い山賊の目の前で立ち止まった。
「私は寛大だ。貴様らに二つの道を用意した。一つ、ここで這いつくばったまま、ただの盗賊として首を刎ねられるか。二つ……私の『私軍』の最前列に立ち、シャジャルの正規軍を食い破る栄誉ある兵として生き残るか」
命の選択。だが、それはあまりにも無謀な提案だった。
山賊の一人が、恐怖に顔を引き攣らせながらも反発の声を上げる。
「ふ、ふざけるな! 兵だと!? たった三十人のアンタらに従ったところで、正規軍が本気で押し寄せてきたら俺たちごと皆殺しじゃねェか!」
「そうだ! どうせ俺たちを弾除けの肉壁にする気だろうが!」
不満の声が連鎖し、中庭の空気が一気に剣呑に傾きかけた、その時。
――スパンッ!!
凄まじい風切り音と共に、反発した男の足と足の間の泥に、見慣れない「双短剣」の片割れが深々と突き刺さった。
「ヒッ!?」
「肉壁、だと? 思い上がるなよ、負け犬ども」
ファリードの背後の影から、小柄な傭兵――マーシャがゆっくりと歩み出た。
薄汚れたターバンの奥から覗く、底知れぬ漆黒の瞳。その姿を見た瞬間、五十人の山賊たちの顔色から、一瞬にして血の気が引いた。
「あ、悪魔……ッ」
誰かが恐怖で歯の根を鳴らした。
無理もない。彼らが数日前、疑心暗鬼に駆られて互いの肉を切り刻み合ったあの同士討ちの地獄。その絵図を描き、首領の短剣を使って彼らを翻弄した張本人が、この小柄な怪物であることは、生き残った者たちの間で既に知れ渡っていたからだ。
「お前たちが正規軍に皆殺しにされる? 馬鹿を言え。お前たちがこの辺りで野蛮に殺し合っている間、南の湿地帯で何百という正規軍の重装歩兵を泥濘に沈めて皆殺しにしたのは、お前たちの目の前にいる、殿下の采配だ」
マーシャは足元に刺さった双短剣を引き抜きながら、山賊たちを氷のような視線で舐め回した。
「逃げれば、私が夜の闇の中で背中からお前たちの喉を掻き切る。戦場で裏切れば、あの同士討ちの地獄を何度でも脳髄に刻み込んでやる。……だが、もし殿下に忠誠を誓い、命懸けで槍を振るうなら」
マーシャは一歩退き、ファリードの背中を立てるようにして傅いた。
「殿下は、お前たちをただの盗賊から、帝国を食い破る『英雄』へと引き上げてくれるだろう。……選べ。私の恐怖の下で死ぬか、殿下の光の下で戦うか」
完璧な「恐怖」と「威光」の包囲網。
山賊たちの間に、もう反発の声はなかった。ファリードの放つ覇気と、マーシャという理解の及ばない怪物の実力。これに従う以外に、生存の道はないと本能で悟ったのだ。
「……従います! 命の限り、殿下のために槍を振るいます!!」
最も体格の良い山賊が額を泥にこすりつけると、五十人の男たちがドミノ倒しのように次々とひれ伏し、忠誠の誓いを叫び始めた。
「上出来だ」
ファリードは冷たく言い放つと、振り返ってカディルに顎をしゃくった。
「カディル。こいつらの戒めを解き、地下の武器庫から真新しい長槍を与えよ。……イブン! 傷の深い者には薬を与え、歩けるようにしてやれ。我が軍に、使い捨ての兵は一人もいないと骨の髄まで教え込むんだ」
「はッ!!」
「承知いたしましたぞ、殿下」
カディルの厳格な号令と、イブンの手際のよい治療が始まる。タリクが巨体を揺らして彼らを整列させ、砦の防衛配置へと割り当てていく。
ファリードは中庭の喧騒から離れ、回廊の影へと歩を進めた。
マーシャが、自身の双短剣の泥を布で拭いながら音もなく隣に並ぶ。
「これで、兵力は八十人。守りを固めるには十分な数になったな、殿下」
「ああ。だが、まだ足りない。渓谷全体を制圧し、いずれ王都を囲むためには、数百、数千の兵が必要だ」
ファリードは、回廊の窓から荒涼としたガレブ渓谷の入り口を見下ろした。
「ザイドには、すでに指示を出してある。赤蠍の資金を使い、渓谷周辺の村や宿場町に噂を流させた。『金払いが良く、身分を問わずに実力者を重用する新興の傭兵団が、赤蠍の砦を奪った』と」
「食いつめ者の傭兵や、腕に覚えのある流民を金で買い集める気だな。……悪くない。大義名分なんかより、金とメシの方がよっぽど人を動かすからな」
「それもある。だが、単なる烏合の衆にはしない。集まった者たちを、お前とカディルで徹底的に鍛え上げ、一つの軍として再構成するのだ」
十四歳の少年が描く、国家規模の軍事戦略。
マーシャは思わず歩みを止め、少し背が伸びたような気がするファリードの後ろ姿を見つめた。
出会ったばかりの頃、兄の甲冑の重さに潰されかけ、ただ死を待つだけだった怯えた少年が変化しつつある。泥を被り、他者を恐怖と金で縛ることを覚えた彼は、まさに獅子へと変貌しつつあった。
(……見事な王の器だ。これなら本当に、私を元の世界へ帰すまでの盤面を創り上げてくれるかもしれないな)
マーシャが内心で感心していると、不意にファリードが振り返った。
その視線が、マーシャの首元に微かに残る、昨夜の治療の跡――痛々しい傷跡を隠す包帯の端を捉え、彼の金色の瞳がわずかに揺らいだ。
「……マーシャ」
「なんだ、殿下。まだ何か策に不安があるのか?」
「……いや。ただ、あまり無茶はするな。お前は……その、身体が小さいのだから、矢面に立つのはタリクや私に任せておけ」
突然の、ひどく歯切れの悪い、不器用な気遣い。
マーシャはきょとんとした後、鼻で笑って男物の外套をバサリと翻した。
「馬鹿を言え。私の身体が小さいのは、死角に潜り込んで敵の喉笛を掻き切るためだ。あんたは王様らしく、一番安全な本陣の奥でふんぞり返ってればいいんだよ」
全く気づいていない。彼女自身が女性として、そして、守るべき傷ついた少女として見られていることになど、微塵も思い至っていないのだ。
ファリードは微かに頬を赤くし、「……そうか。それなら、いいんだ」と逃げるように視線を逸らした。
血の匂いが立ち込める殺伐とした砦の中で、密かに芽生えた奇妙な感情と、すれ違う意識。
しかし、ファリードの胸の内に『本陣の奥で安全にふんぞり返っている』つもりなど、ただの一ミリも存在しなかった。
その日の夜明け前。
まだ薄暗い砦の中庭で、激しい金属音と、泥を蹴り立てる重い足音が響いていた。
「……っ、が……!」
鈍い音と共に、ファリードの身体が赤土の泥水の中へと無様に転がった。
彼の頭上から、容赦のない木剣を振り下ろしたのはカディルだ。その後ろには、巨大な木盾を構えたタリクが岩のように立ちはだかっている。
「踏み込みが浅い! 敵は殿下の美しい顔など気にしてはくれませんぞ! 殺す気で来いと言ったはずだ!!」
カディルの容赦のない怒号が飛ぶ。
ファリードは泥水に塗れた顔を上げ、荒い息を吐きながら立ち上がった。
彼の美しい白金色の髪は泥で固まり、かつて剣ダコ一つなかった白い掌の皮はとうに破れ、血が滲んだ柄を痛々しく握りしめていた。
「……で、殿下。流石にもう限界かと。掌の肉が裂けております……っ」
普段は無口なタリクが、見るに見かねて悲痛な声を上げる。ファリードが「自分を陣営のただの兵士だと思って鍛え上げろ」と二人に厳命したとはいえ、王族をこれほどまでに泥まみれにし、打ち据えることなど、忠臣である彼らの精神をゴリゴリと削っていた。
「いいや……まだだ。足りない……!」
だが、ファリードは血の滲む手で木剣を握り直し、爛々と燃える金色の瞳で二人を睨みつけた。
「彼の……マーシャの指示通りに動くには、私の武が圧倒的に足りない。あの傷だらけの背中を守る盾になるためには……もっと、もっとだ!!」
それは、王としての誇りというよりは、一人の少女に死地を歩ませている己の無力さへの、強烈な怒りだった。
軍師が盤面を描き、敵の急所を暴き出す。
ならば、その開かれた血路を誰よりも早く、誰よりも確実に駆け抜け、敵の喉笛を噛みちぎる最強の『矛』に己がならねばならない。
彼女に二度と、あんな凄惨な傷を負わせないために。
「……来い、カディル! 私が倒れるまで剣を止めるな!!」 ファリードの悲壮なまでの咆哮に、カディルはギリッと奥歯を噛み締め、「……御意ッ!!」と再び容赦のない木剣を振り上げた。
天才軍師の影で。美貌の若き王は、自身の掌の血豆が潰れて分厚い剣ダコへと変わり、細い腕が強靭な筋肉の鎧を纏うまで、誰よりも泥水を啜り、己の武力を極限まで研ぎ澄ます修羅の道を歩み始めていた。
しかし、彼らが歩む道はまだ始まったばかりだった。赤蠍の莫大な富を喰らい、恐怖を纏って肥大化していくファリードの「私軍」は、やがてこの辺境の渓谷を震源地として、大帝国シャジャル全土を呑み込む巨大な嵐へと成長していくことになる。




