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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
立志編

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7/11

7

月が分厚い雲に隠れた、完全な闇夜。

 ガレブ渓谷にそびえ立つ、赤蠍あかさそりの砦の裏崖。


垂直に切り立った岩肌を、二つの小さな影が、まるで重力など存在しないかのように這い登っていた。マーシャとザイドだ。

 ザイドが岩の隙間に指をねじ込み、音もなく身体を引き上げる。そのすぐ下を、マーシャが双短剣をピッケル代わりに岩肌へ突き立てながら続く。


吹き下ろす夜風が、眼下の渓谷から砂埃を巻き上げ、二人の顔を容赦なく叩く。

 マーシャはターバンの奥で、数時間前の焚き火の前のやり取りを反芻していた。


『――手紙の偽造は悪手だ。彼らは教養のない山賊だぞ。文字など読まぬ者も多い』


作戦会議の折、ファリードはそう言って、イブンが提案した偽造文書の案を却下した。


『ならばどうする、殿下』とマーシャが問うと、十四歳の少年は、焚き火の光を反射する金色の瞳を細め、ひどく冷徹な声でこう続けたのだ。

『悪党が信じるのは、金と血の匂いだけだ。……ザイド、首領が肌身離さず持っている象徴的な武器を盗めるか? そしてマーシャ、副首領が最も信頼している腹心の部下を、その武器で殺してほしい』


その言葉の意図を理解した瞬間、マーシャは思わず口笛を吹きそうになった。

『なるほど。首領の武器で腹心が殺され、さらに副首領の部屋から金目のものが消えていれば……』

『ああ。副首領は「首領が自分の部下を買収して自分を暗殺しようとしたが、失敗して腹心を殺した」と錯覚する。……言葉ではなく、暴力という彼らの言語で疑心暗鬼を煽るんだ』


王宮で綺麗な礼節だけを教えられてきたはずの美しい王子が、悪党の心理を完璧にトレースし、自ら血生臭い盤面を描き出した。

 それは、マーシャの注ぎ込んだ「論理という名の毒」が、少年の骨の髄まで回りきった証拠だった。


(……大した吸収力だ。あのヒヨッコめ、すぐに私より悪辣な手を思いつくようになるぞ)


マーシャは内心で悪態をつきながら、最後の一歩を踏み出し、砦の裏手にある物見櫓の死角へと滑り込んだ。

 隣に音もなく着地したザイドが、ニヤリと白い歯を見せる。


「俺は首領の寝所へ行く。……しくじるなよ、兄貴」

「誰に口を叩いてる。さっさと『首領の牙』を抜いてこい」


短く囁き交わし、二つの影は砦の闇の中へと枝分かれした。


砦の内部は、饐えた安酒の匂いと、山賊たちの洗われていない体臭が籠ったようにに充満していた。あちこちから、下品な鼾や女の嬌声が漏れ聞こえてくる。


マーシャは姿勢を極限まで低くし、石壁の影と同化するようにして副首領の居住区画へと向かった。

 通路の奥。副首領の部屋の前には、筋骨隆々の巨漢が一人、大斧を抱えて見張りに立っていた。あれが標的の『副首領の腹心』だ。酒も飲まず、鋭い眼光で周囲を睨みつけている。


(正面からいけば手こずるな。だが……)


マーシャはターバンの端を口に咥え、呼吸の音すらも完全に遮断した。

 そして、懐から小石を取り出すと、見張りの反対側にある廊下の樽に向かって、指先で正確に弾き飛ばした。


――コンッ。


「……ん? 誰だ、そこにいるのは」


微かな音に反応し、見張りの男が大斧を構えて一歩踏み出す。

 その視線が樽に向いた、わずか一秒の死角。

 天井の梁に張り付いていたマーシャが、まるで音の出ない羽虫のように、男の背後へと音もなく落下した。


男が気配に気づいて振り返ろうとした瞬間、マーシャの左腕が男の首に絡みつき、気管を強烈に締め上げる。

「がッ、――!?」

 悲鳴を上げる隙すら与えない。同時に、右手に握った双短剣の柄尻で、男の延髄を正確に打ち据える。

 脳が揺れ、男の巨体が糸の切れた傀儡のように崩れ落ちそうになるのを、マーシャは自身の小柄な体全体を使って支え、一切の音を立てずに床へと寝かせた。


完璧な無音の制圧。

 だが、まだ殺してはいない。


暗がりの中で数分待つと、廊下の向こうからザイドが猫のように滑り込んできた。

 彼の手には、見事なルビーの装飾が施された、悪趣味な黄金の短剣が握られていた。


「へへっ、首領の寝首を掻く方が楽だったぜ。こいつが首領の愛用する『黄金の牙』だ」

「ご苦労。……さあ、仕上げだ」


マーシャはザイドから黄金の短剣を受け取ると、気絶している見張りの男の胸ぐらを掴み、その心臓の上へ刃先を当てた。


「怨みはないが、これも仕事だ。あの世で首領を呪いな」


ズプッ、と肉を裂くひどく湿った音。

 男の体がビクンと一度だけ跳ね、そして完全に動かなくなった。黄金の短剣は、柄の装飾までしっかりと血に染まり、見張りの胸に深々と突き刺さったままだ。


さらにマーシャは、副首領の部屋の半開きの扉の隙間から、ザイドが別の部屋からくすねてきた「首領の私物の金貨袋」を、わざと中身がこぼれるようにして床へ転がした。


見張りの死体に突き刺さった、首領の愛用の短剣。

 そして、副首領の部屋に転がる、首領の金貨。


夜明けに目を覚ました野心家の副首領がこれを見れば、間違いなくこう推測するはずだ。

『首領が金で俺の腹心を買収し、俺の寝首を掻こうとした。だが、腹心が直前で裏切りをためらい、口封じのために首領、またはその刺客に殺されたのだ』と。


「……見事な火種だ。殿下も、とんでもねェ絵図を描くようになりやがった」

 ザイドが、血だまりを見下ろしながらブルリと身震いする。


「ああ。私たちに毒されたせいだな。責任を取って、最後まであのヒヨッコを王座に座らせてやらないとな」


マーシャは、男物の外套で自身の手に付着した血を無造作に拭い取った。

 その黒曜石の瞳には、一切の罪悪感はない。盤面を動かすということは、こういうことだ。


だが、ザイドに背を向けて闇に溶け込んだ瞬間。


マーシャは自身の右手が、心臓の鼓動に合わせて微かに痙攣しているのを必死に押さえ込んだ。


(……狂ってる。私が、狂っていく)


ほんの数年前まで。この手は、血塗られた双短剣ではなく、シャープペンシルを握ってノートに可愛い文字を書き、放課後に友人とスマホで写真を撮るためだけにあった、普通の女子高生の手だったのだ。


虫一匹殺すのにも悲鳴を上げていたはずの自分が、今や大男の頸動脈をノーモーションで掻き切り、まだ温かい死体の心臓に平然と刃を突き立てている。

血の感触がこびりついた指先を、マーシャは外套の布ごと強く握りしめた。


生き残るために被った「悪魔の仮面」が、少しずつ、確実に『ましろ』という少女の魂を侵食し、二度と元の平和な世界には戻れない化物へと自身を変えようとしている事実が、ひどく恐ろしかった。


「引き上げるぞ。夜明けと共に、この砦は内側から弾け飛ぶ」


二人は再び闇に溶け込み、音もなく崖を下っていった。

 砦の奥から、数時間後に始まる血で血を洗う内乱の足音が、もうそこまで迫っていた。




夜明け。

 ガレブ渓谷の切り立った赤岩が、朝日に照らされて血のような色に染まり始めた頃。


「ふざけるなァッ! 首領のクソ野郎、俺の寝首を掻こうってのか!!」


静寂を切り裂くような怒号が、崖上の砦から響き渡った。

 副首領の絶叫だ。それを合図にしたかのように、砦の内部から金属がぶつかり合う凄惨な音と、怒りに満ちた怒号が次々と沸き起こる。


「やれ! 首領の息の根を止めろ!」

「裏切ったのは副首領の方だ! あの野郎を刻んで豚の餌にしろ!!」


崖の下、身を潜めていたファリード陣営の三十人は、頭上から降り注ぐ同士討ちの喧騒を無言で見上げていた。


 マーシャの蒔いた「たった一つの火種」が、百五十人の山賊たちを疑心暗鬼の狂気へと突き落とし、完全な殺し合いへと発展させたのだ。


「……始まったな」


マーシャがターバンの奥で低く呟く。

 隣にしゃがみ込んでいるファリードの横顔は、ひどく蒼白だった。彼が自ら考案した「悪党の心理を突く盤面」が、今、現実の血と肉をすり潰している。その業の重さに、十四歳の細い肩が微かに震えていた。


「どうした、殿下。自分の描いた絵図の醜さに吐き気がしたか?」


マーシャが意地悪く問うと、ファリードは下唇を噛み締め、首を横に振った。


「いいや。……私が背負うべき、必要な血の匂いだ」


彼は剣の柄を握りしめ、前を見据える。

 やがて、砦の正門から、血まみれになった山賊の数人が逃げ出そうと転がり出てきた。内部の混乱は頂点に達し、見張りすら機能していない。


「扉が開いたぞ。……カディル、タリク! 掃討しろ!」


「はッ!!」


ファリードの若く、しかし鋭い号令が飛ぶ。


先陣を切ったのは巨漢のタリクだった。同士討ちの狂乱から逃れようと半開きの城門から転がり出てきた山賊たちを巨大な盾で弾き飛ばし、そのままの勢いで重い木の扉を完全に押し開ける。そして、彼は岩のようにそこに立ち塞がった。自身の巨躯と分厚い大盾で城門の出口を塞ぎ、山賊たちの唯一の退路を容赦なく断ち切ったのだ。


「逃がさん。一人残らず刈り取れ!」


タリクが塞いだ門の横から、カディル率いる精鋭三十人が砦内へ雪崩れ込む。 カディルの長剣が、朝日を反射して冷たい銀閃を描いた。王室を護るために鍛え上げられた、淀みなく洗練された剣技。


彼が踏み込み、刃を翻すたびに、山賊たちの粗末な武器は易々と弾き飛ばされ、無駄な動きの一切ない一撃が確実に敵の急所を貫いていく。顔に火傷の痕を持つ長身の忠臣は、返り血をほとんど浴びることなく、舞うように次々と敵を斬り伏せていった。


「ひ、ひぃぃッ! な、なんだこいつら……強すぎるッ!」

山賊の絶望的な悲鳴が上がる。 無理もない。マーシャの蒔いた火種によって、彼らはつい先ほどまで味方同士で血みどろの殺し合いを演じていたのだ。


互いに傷を負い、疲労困憊して息も絶え絶えの山賊たちに、統率の取れた無傷の精鋭たちの突撃を防ぐ力など、もう一欠片も残されてはいなかった。


逃げようにも出口はタリクの巨壁に塞がれ、立ち向かおうにもカディルの洗練された刃にすり潰される。それは戦闘と呼ぶのもおこがましい、一方的で冷酷な掃討劇だった。


わずか一時間後。 堅牢を誇った「赤蠍」の砦は、ファリード陣営の最初の拠点として、いとも容易く陥落したのだった。




* * *




その日の夜。

 占領したばかりの「赤蠍」の砦の広間は、むせ返るような熱気と安酒の匂いに包まれていた。


「へへっ、飲め飲めェ! 今日は俺たちの初勝利と、赤蠍の貯め込んだ極上の麦酒に乾杯だ!」


ザイドが樽の上に立ち上がって木杯を掲げると、生き残った三十人余りの兵士たちが、地鳴りのような歓声を上げて酒をあおった。

 彼らにとって、砦作戦に続いて三十対百五十という絶望的な戦力差を覆し、自分たちの血をほとんど流さずに無傷でこの堅牢な砦を手に入れたことは、まさに奇跡だった。死線を超えた反動で、広間は狂騒に近いどんちゃん騒ぎとなっていた。


イブンが「飲みすぎて吐瀉物を喉に詰まらせて死ぬのはご免ですぞ」とぼやきながらも自身の杯を満たし、隣の兵と談笑し始めた。 こう見えて、彼はかなりの下戸なのだ。巨漢のタリクは丸焼きにされた羊の脚を無言で豪快に齧り取っている。


だが、その喧騒の中心から少し離れた上座の席で。

 十四歳のファリードは、一人ぽつんと座り、手元の木杯に入った白湯の表面を、ひどく退屈そうに見つめていた。足元には、山賊の物資の中から見つけた、ファリードの足に合う上質な革のブーツが光っている。


(……うるさいな)


まだ酒を飲める年齢ではない。それに、王宮の洗練された静かな晩餐しか知らない彼にとって、山賊から奪った脂こい肉の匂いと、男たちの下品な笑い声が飛び交うこの空間は、あまりにも居心地が悪かった。


 誰も彼を仲間外れにしているわけではない。むしろ、彼らは「王子の奇跡の勝利」を心から称えている。だが、ファリードの心の中には、大人たちの輪に入りきれない十四歳特有の、奇妙な疎外感が澱のように沈殿していた。


「あーあ、それにしても残念だぜ」


 ザイドが樽から飛び降り、肉を齧りながら口を尖らせた。


「これだけデカい山賊の砦なんだ。近隣の村から攫ってきた、とびきりの美人の一人や二人くらい囲ってあるかと期待したのによォ。どこを探しても、むさ苦しいヒゲ面の死体ばっかりだ」


「下賤な。そのような目的で戦をしたわけではあるまい」


 壁際で腕を組んでいたカディルが、顔の火傷の痕をしかめて冷たく吐き捨てたが、兵士たちは「旦那は堅物すぎるぜ!」とゲラゲラ笑い飛ばしている。


「全然関係ないが」

 顔を赤くした傭兵の一人が、ふと思い出したように声を上げた。

「……そういや、あの『軍師の兄貴』の姿が見えねェな」

「あ? マーシャのことか?」


その名が出た瞬間、ファリードは木杯の縁をなぞっていた指をピタリと止めた。


「ああ。あの兄貴、いっつも顔に泥だの灰だの塗ってて、どんな顔立ちしてんのかよく見えねェよな。あの薄汚いターバンといい、男にしちゃあ俺たちの胸元くらいしかねェちっこい背丈といい……最初は本当に、あの『異邦の軍師』の噂が本物か疑ったぜ」

「違いねェ。ただの栄養失調のガキかと思ったよな」

「……だがよ」


傭兵が声を潜め、ブルリと身震いするように肩をすくめた。


「だが目だけは、ありゃあ本物だ。ターバンの奥から覗くあの真っ黒い目……いくつも死線を潜り抜けて、何十人も殺してきた奴特有の威圧感があった。俺ぁ、あいつの目に見据えられた時、蛇に睨まれた蛙みたいに足がすくんじまったよ」


「わかるぜ。現に今日、百人以上の山賊どもが、あの兄貴の描いた絵図の通りに自滅したんだ。……敵には回したくねェ恐ろしい悪魔だよ、まったく」


大人たちが、畏怖と好奇の入り混じった声でヒソヒソと語り合う。

 その通りだ、とファリードは心の中で同意した。彼女の戦術は悪魔的で、そしてあまりにも冷酷だ。


「で? その恐ろしい兄貴はどこ行ったんだよ」


「さあな。砦が落ちた直後、『血の匂いがひどい。少し外の空気を吸ってくる』とか言って、裏手の方へ歩いていくのは見たが……。まあいいや、俺たちには関係ねェ! 飲もうぜ!」


再び歓声が上がり、男たちは酒樽へと群がっていく。

 ファリードは、手元の白湯をぐいと飲み干すと、静かに席を立ち上がった。


「……殿下?」

 いち早くその動きに気づいたカディルが、姿勢を正して歩み寄ってくる。


「少し、夜風に当たってくる。この熱気と酒の匂いには、どうにも慣れなくてな」

 ファリードが短く告げると、カディルは心配そうに隻眼を伏せたが、すぐに深く頭を下げた。


「承知いたしました。……殿下、お戻りになられましたら、私の部屋へお立ち寄りください。砦の備蓄と、今後の防衛配置について、ご報告しておきたい儀がございます」

「分かった。すぐ戻る」


カディルの生真面目な言葉に頷き返し、ファリードは狂騒に包まれた広間に背を向けて、薄暗い回廊へと足を踏み出した。


血の匂いと喧騒から離れたかった。自身が描いた同士討ちという策が、現実に何十もの命をすり潰したという事実は、まだまだ王宮から出たばかりの少年の心に重くのしかかっている。


岩肌をくり抜いた砦の裏手には、山からの冷たい水が流れ込む湧水池があった。



 ファリードはそこへ向かう獣道を進み、池の手前にある二本の枯れ木の間に差し掛かった。その時、強い夜風が渓谷から吹き上げ、頭上の蔦を大きく揺らす。

 ファリードは無意識に、揺れた蔦を避けるようにして一歩横へ逸れた。


彼が知る由もないことだが。

 その逸れた足元の泥の中。夜風になびいた蔦の死角には、占領直後に仕掛けられた、極細の鋼糸に繋がれた隠し鳴子が張られていたのだ。もし風が吹かず、彼が真っ直ぐ歩いていれば、その糸に触れ、砦中に警報が鳴り響いていただろう。


 歴戦の傭兵であるマーシャの警戒網を、ファリードは運命のいたずらの偶然で、無自覚にすり抜けてしまったのだ。


岩陰から湧水池へと視線を向けた、その瞬間。

 ファリードの心臓が、肋骨を突き破りそうなほどの暴力的な鼓動を打ち鳴らし、呼吸が完全に停止した。



...............マーシャ、なのか?


そこには、月明かりを浴びて、水を被る人影があった。


――幻想的で、そして、決して見てはならぬもの。


澄んだ水面に、満月の青白い光が降り注ぎ、周囲の岩肌を銀色に縁取っている。その光の中心。

 いつも頭を厳重に覆い隠していた薄汚れたターバンはなく、サラシも、男物の外套も、そこにはない。


ファリードが最初に奪われたのは、彼女の髪だった。

 水を被り、ターバンから解き放たれたその髪は、月光を反射し、まるで濡れた黒真珠のような、妖艶なまでの艶を放っていた。その見事なまでに真っ直ぐな、腰まで届く長い黒髪は、彼女の華奢な背中に、黒い絹の幕のように広がっている。


水辺の岩の上、彼女の手がすぐ届く場所には、師匠ルスランから受け継いだ「双短剣」が、いつでも抜き放てる状態で置かれていた。完璧な警戒網を張ったという確信のもとに、彼女は全身にこびりついた血と泥を落とすためだけに、一瞬だけ水を被っていたのだ。


ーー氷のように冷たい湧水が、こびりついた他人の血と泥を洗い流していく。

だが、どれだけ強く肌を擦っても、鼻の奥にこびりついた鉄錆のような血の匂いだけは、決して消えてはくれなかった。


(……お風呂に、入りたいな)


月明かりの下、マーシャはふと、日本の実家にあった温かい湯船と、お気に入りのシャンプーの甘い香りを思い出した。 蛇口をひねれば、清潔で温かいお湯がいくらでも出る。他人の殺意に怯えることなく、無防備に目を閉じて一日の疲れを癒やすことができた、あの夢のような空間。


広間から漏れ聞こえる、傭兵たちの下品で熱狂的な笑い声が、背中からどんどん遠ざかっていくとき、 マーシャは一人、薄暗い裏道をごつごつとした岩肌に手をつきながら歩いていた。


肩甲骨に受けた槍傷がズキズキと熱を持っている。だが、それ以上に彼女の胸を塞いでいたのは、あの熱狂の輪の中に、自分の居場所は一ミリも存在しないという途方もない冷たさだった。 彼らは三十対百五十という奇跡の勝利に酔いしれている。

だが、その盤面を描き、敵を同士討ちの地獄へ突き落とした張本人であるマーシャの心にあるのは、自分がまた一つ「何十人もの命をすり潰した化け物」に近づいたという重い疲労感だけだった。


本当の名前も、女であることも隠し、分厚いサラシで呼吸を殺している。誰にも本当の自分を見せられないまま、ただ彼らが生き残るための「便利な悪魔」として消費されていく。 ふと、日本の教室で友人と笑い合っていた自分が、今の血まみれの自分を見たらどう思うだろうかと想像し、マーシャは自嘲するように唇を噛む。


今、自分が浸かっているのは、いつ敵の矢が飛んでくるかもわからない暗闇の冷水だ。背中の無数の傷跡を指でなぞるたび、あの日々が自分が作り出したただの幻だったのではないかと錯覚しそうになる。ーー




だが、その月光に照らされた背中は、決定的に違った。

 華奢で、線が細い。腰のくびれ、肌の丸み。

 それは、ファリードと同年代か、少し上か、女性の身体だった。


「……ッ」


ファリードは岩にへばりつくように身を隠し、自身の口を両手で強く塞いだ。足の震えが止まらない。


 軍師マーシャ。


誰よりも冷徹で、悪魔のように盤面を支配し、人を殺すことに躊躇いのない年齢不詳、小柄な「男」。だが、今目の前で水を浴びているのは、どう見てもひとりの女性だったのだ。


ファリードが混乱の極致に達し、視線を逸らそうとした時。

彼女が汚れを落とすために、ゆっくりと背中を伸ばした。その瞬間、ファリードの瞳に、彼女の背中にある光景が焼きついた。


――痛々しいまでの、無数の凄惨な傷跡。


白い背中から脇腹にかけて、幾重にも重なる赤黒い鞭の痕。鋭利な刃物で抉られたような、古い刺し傷の跡。


(あんな……あんなにも華奢で、傷だらけの身体で……)


ファリードの目から、不意に熱いものが込み上げた。

 男の傭兵として偽装し、胸を潰し、あの傷跡を誰にも見せず、彼女はこの残酷な世界を生き抜いてきたのか。


その時。彼女がふと、夜空を見上げるように顔を上げた。


 その瞬間、月光の下に晒された素顔は、ファリードがこれまで見てきた、凹凸のはっきりした彫りの深いこの国の女性たちとは、決定的に異なっていた。


磁器のように凹凸が少なく、薄く、けれど神聖ささえ感じさせる、異国情緒あふれる顔立ち。


 水を滴らせ、月光を浴びるその顔は、日中の傭兵の仮面の下に隠されていたとは信じがたいほど、儚げで、そして決定的に綺麗だった。


女性であること。傷だらけであること。そして、この国の誰とも違う、不思議な美しさを持っていること。


 この三重の衝撃が、ファリードの心を粉々に叩き潰す。


彼女は手早く布で長い髪の水分を拭き取り、慣れた手つきで頭の上に固く縛り上げた後、双短剣を取り上げる。その後外套を羽織った。


左手首に巻かれた、ボロボロのミサンガだけが、月明かりの下で微かに揺れている。


ファリードは足音を一切立てぬよう、息を殺してその場から後ずさりした。


 見られたと知られれば、彼女は絶対にここから消える。あの冷徹な仮面の下にある、彼女の脆く、凄絶なまでの尊厳と、隠された真実を、自分が壊すわけにはいかない。


(私は……何も見ていない。何も、知らない)


胸の奥で荒れ狂う、どう処理していいか分からない巨大な感情。


 単なる思春期の戸惑いではない。それは彼女の抱える地獄の重さを知ってしまった者としての、痛みを伴う敬意だった。

そして同時に、あんなに華奢で傷だらけの背中に自分の命を預け、冷徹な悪魔の役回りをすべて押し付けていた自分自身への強烈な怒りだった。


自身が不甲斐ない。


「私が、彼女の盾にならなければ。これ以上、彼女ひとりにこの世界の業を被らせてはいけない」 それは王としての、そして一人の男としての、悲壮なまでの決意だった。




(戻らなければ。カディルが、私を探しているはずだ)


ファリードはハッと我に返った。見られたと知られれば、彼女の尊厳を壊してしまう。

 足音を一切立てぬよう、息を殺してその場から後ずさりした、その時。


――ピンッ。


ファリードの革靴の爪先が、先ほどは奇跡的に避けた泥の中の「鋼糸」を、今度は確かに弾いてしまった。


カラカラカラッ!!

 静寂の夜に、仕掛けられた鳴子の乾いた音が暴力的に響き渡った。


「誰だッ!!」


水音が激しく弾け、マーシャが瞬時に双短剣を手に取り、殺気を剥き出しにして振り返る気配がした。


「……ッ!」


ファリードは脱兎のごとく、砦の闇の中へと駆け出した。

 心臓が破裂しそうだった。背後から双短剣が飛んでくるかもしれないという恐怖以上に、絶対に見てはいけない神聖な禁忌を犯してしまったという、得体の知れない罪悪感と焦燥感が、彼の足を否応なく前へ前へと動かさせていた。




* * *




「……殿下? 一体どこに行っておられたのです」


砦の薄暗い石造りの回廊を走っていたファリードの前に、長剣を帯びたカディルが立ちはだかった。

 ファリードは慌てて足を止め、乱れた呼吸を必死に腹の底へ押し殺す。


「カ、カディルか……」

「探しましたぞ。……顔が、ひどく赤いようですが。それに、ひどい汗だ。熱でもおありですか?」


カディルの鋭い隻眼が、ファリードの動揺を見透かすように細められる。

 ファリードは顔に集まる熱を隠すように、意図的に大袈裟な溜息をついて壁に背を預けた。


「いや……少し、夜風に当たっていただけだ。初めての戦の、血の匂いに当てられたらしい。少し走ったら、気分が良くなった」


自分でも驚くほど、すらすらと嘘が出た。

 カディルはわずかに眉をひそめたが、十四歳の初めての実戦後という理由に納得したのか、「無理はなさらぬよう」と短く頭を下げた。


(私は……何も見ていない。何も、知らない)


ファリードは暗い回廊を歩きながら、胸の内で何度も自分にそう言い聞かせた。

 だが、目を閉じれば、月光の下で水滴を弾く彼女の黒髪と、あの痛々しい傷跡が、焼き印のようにまぶたの裏に浮かび上がってくる。


――こうして、逃亡の王子だけが、冷徹な軍師の「最大の秘密」を抱え込むことになってしまった。

 

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