6
――そして現在。
運命と巡り合った少年と共に、彼女は最初の死線を越えた。
冷たい石壁の感触と、肩甲骨のあたりを焼くような槍傷の鈍痛で、マーシャはふと浅い眠りから目を覚ました。
ターバンの奥でゆっくりと黒曜石の瞳を開く。視界に入ってきたのは、ひび割れた天井と、床で泥のように眠る傭兵たちの姿だ。
自身の左手首に無意識に触れると、擦り切れたミサンガの感触が確かにそこにあった。血と泥にまみれた凄惨な過去の夢が、窓から差し込む朝日と共に脳の奥底へと沈んでいく。
マーシャはゆっくりと上体を起こし、腰に帯びた師匠の形見である〈双短剣〉の冷たい柄を、右手でそっと撫でた。
刃こぼれはないか、いつでも抜き放てる定位置にあるか。
目覚めた時に必ず己の生存の証を確かめるのが、この世界で染み付いた彼女の絶対のルーティーンだった。 鉄の感触に触れ、完全に意識が覚醒する。
ここは採石場でも、師匠が死んだ絶望の谷底でもない。
昨夜、自身が盤面を描き、三千の軍勢を泥濘に沈めて生き残った「白き砦」の内部だった。
半年間、「他人の命など二度と背負わない」と心を凍らせていた彼女が、あの金色の瞳をした少年の泥臭い生への渇望に当てられ、再び他人の命を天秤に乗せてしまった、最も恐ろしい一夜。
(また私の采配ミスで、誰かの背中を死なせてしまうのではないか)
過去のトラウマがもたらす吐き気と戦いながら、昨夜は無慈悲な論理を回し続けた。
だが今、静まり返った広間から聞こえてくるのは、カディルやザイド、タリク、そしてあの無力だった王子ファリードの、規則正しく確かな〈生きた寝息〉だった。
自身の描いた盤面で、誰一人欠けることなく、彼らは朝を迎えたのだ。
マーシャは短く息を吐き、ズキズキと痛む背中を庇いながら、男物のダボついた外套を羽織り直してゆっくりと立ち上がった。
大河からの湿った風が、砦の石壁にこびりついた血の匂いを薄めていく。
死体漁りという「勝利の恩恵」を得た翌朝。
砦の広間では、火にかけられた大鍋から、かろうじて肉の匂いが漂っていた。敵の陣営から奪い取った干し肉と豆のごった煮だ。
床で雑魚寝していた傭兵たちが、スープの匂いにつられて次々と起き上がり始めていた。
広間の隅ではザイドが「……へへっ。南の重装歩兵ども、泥に沈んだせいであまり金目のものは残ってなかったが、北の騎馬隊の天幕からは上等な銀貨がしこたま出たぜ」と泥を拭い取った銀貨を天高く弾き飛ばし、チャリンと小気味よい音を立てて手のひらで受け止めている。
その隣では、カディルが露骨に眉間を寄せ、自身の脛当てにこびりついた泥を、神経質なほど念入りに布で削り落としながらザイドに噛み付く。
「盗賊の真似事か。シャジャルの正規軍から武具を剥ぎ取るなど、本来であれば死罪に値する恥知らずな行為だぞ」
「お堅いねぇ、旦那。死体は金を使えねェんだ。生き残った俺たちが有効活用してやるのが供養ってモンだろ?」
「……んん。おはよう、みんな……」
その時広間の奥、簡素な寝室として使っていた部屋から、ファリードが目をこすりながら姿を現した。
まだ声変わりしきっていない、少し掠れた涼やかな声。
ファリードの『おはよう』という言葉に、すっかりくつろいでいた兵士たちも慌てて飛び起きて姿勢を正す。
昨夜、死の恐怖に震えながら三千の命を泥に沈める悪魔的な決断を下したとは思えないほど、その顔は年相応の十四歳の少年らしく、あどけなく無防備だった。
「おお、殿下! お目覚めになられましたか! お加減はいかがですか!?」
誰よりも早く反応したカディルが、拭いていた脛当てを放り出して駆け寄り、過保護なほどにファリードの全身を改めた。
「大丈夫だ、カディル。……少し、背中が痛いが」
ファリードがフワリと欠伸交じりに微笑むと、巨漢のタリクまでが目元を少し和らげ、無言で一番具の多い温かいスープの椀を彼に差し出した。
マーシャは壁に寄りかかりながら、その微笑ましい光景を鼻で笑った。
「王族らしい優雅な寝起きだな、殿下。昨夜の血生臭い戦場が嘘みたいだ」
「マ、マーシャ……っ。い、いや、これはただの寝惚けで……」
ファリードがハッとして自身のあどけなさを恥じ、慌てて王族らしい威厳を取り繕おうと咳払いをする。
その背伸びをした姿に、ザイドが「へへっ、殿下もまだまだ子どもだねぇ」と笑い声を上げた。
だが、カディルの顔つきは一瞬にして厳格な騎士のそれへと戻った。
彼はファリードの傍らから立ち上がると、マーシャの目の前まで歩み寄り、真っ直ぐにその黒曜石の瞳を見据えた。
「異邦の軍師、マーシャよ」
カディルは、己の長剣の柄に手をかけたまま、深く、静かに頭を下げた。
「昨夜の貴様の絵図、そして我らを死地から救い出した手腕。……見事と言う他ない。騎士の誇りなどと抜かし、貴様の采配を見くびっていた私の非だ。謝罪しよう」
「……ほう。お堅い騎士様が、泥臭い騙し討ちを褒めてくれるとはな」
「勘違いするな」
カディルが頭を上げ、顔の火傷の痕を引き締めて隻眼を鋭く細めた。
「貴様のその悪魔的な頭脳は、我々にとって最強の盾であり、矛となるだろう。貴様の実力は完全に認める。……だが、同時に最も恐るべき劇物だ。もし貴様がその悪辣な牙を、少しでも殿下に向けるようなことがあれば……その時は、私がこの剣で即座に貴様の首を刎ねる。それだけは、忘れるな」
それは、マーシャの実力を〈怪物〉として完全に認めたからこその、忠臣としての絶対的な警告だった。
マーシャは腰の双短剣の柄を指先でなぞりながら、ターバンの奥で獰猛な笑みを返した。
「安心しろ、堅物の旦那。私にとってあのヒヨッコは、私の目的を叶えるための、一番大事な金蔓だ。……せいぜい、私が玉座に座らせてやるまで、その剣でしっかり守り抜いてみせな」
「……言われずとも」
カディルとマーシャの間に、バチバチと火花が散るような、だが確実に昨夜までとは違う「実力を認め合った者同士」の奇妙な信頼関係が結ばれた瞬間だった。
「まあまあ! 旦那も兄貴も、朝から物騒な話はやめようぜ!」
ザイドがニカッと笑いながら割って入り、イブンが「ヒッヒッヒ、まだ治療もしていないのに傷が開いても知りませんぞ」とからかう。
そして、ファリードが少し恥ずかしそうに、だが確かな決意を込めた金色の瞳でマーシャを見つめた。
「マーシャ。……改めて、昨日私を救ってくれたこと、礼を言う。これからも、私の軍師として……共に来てくれないか」
差し出された少年の手。
マーシャは少しだけ呆れたように息を吐くと、その手をパチンと軽く叩いた。
「……私の指示には絶対に従え。言ったはずだぞ、殿下」
淀んだ泥舟だった彼らが、明確な一つの「陣営」として機能し始めた、最初の朝。
大鍋をかき混ぜていた巨漢のタリクが、無言で一番具の多い木椀をカディルに差し出し、 「食わねば戦えん」という無言の圧に、カディルは渋々といった様子で舌打ちをし、椀を受け取る様子を見て。
マーシャは、タリクから無言で渡された熱いスープの椀を受け取り、その塩気と豆の味を噛み締めながら、(……悪くない朝だ)と、小さく口角を上げるのだった。
*
「……痛ッ! ちょっとイブン、わざと強く塗ってないか!?」
「軍師殿には痛覚などないかと思っておりましたが、いっちょ前に声は出るんですな。ほれ、動くな。傷口が腐って蛆が湧いても知りませんぞ」
スープを食した後、部屋の中心にある木机では、マーシャが背中を丸め、肩甲骨のあたりに受けた浅い槍傷に、イブンから強烈な匂いを放つ軟膏を塗り込まれていた。消毒の痛みに涙目を浮かべながらも、彼女の左手は器用に硬いパンを千切り、次々と口の中へ放り込んでいる。
「で? 命拾いした殿下は、これからどうするおつもりで?」
口の中のパンを水で流し込みながら、マーシャは視線だけを机の向かい側へと向けた。
そこには、昨夜まで自身を圧し潰していた銀の甲冑を傍らに置き、簡素な革鎧だけを身につけたファリードが座っていた。
彼は、机に広げられた帝国全土の羊皮紙の地図を、瞬きも忘れたかのように見つめている。
「王都へ進軍する、なんて馬鹿な夢物語は言わない。私たちが昨日倒したのは、敵のほんの一部。今、この三十人の兵で王都へ向かえば、すり潰されて終わりだ。……それとも、このままこの砦を墓所にする?」
マーシャの意地悪な問いかけに、ファリードはゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳に、かつての怯えはない。代わりに宿っているのは、静かに燃える理知の光だった。
「王都へは行かない。……いや、行けない。叔父上を討ち、王座を奪還するためには、圧倒的に手札が足りない」
「手札?」
「兵力、資金、そして兵站(食糧)だ」
ファリードの口から出た現実的な単語に、カディルが布を動かす手をピタリと止めた。王道や誇りではなく、戦争の泥臭い本質を、十四歳の少年がはっきりと口にしたのだ。
ファリードは白金色の髪を無造作に掻き上げ、地図の一点を白く細い指でバーン!と力強く叩いた。
「私たちは、もう逃げない。追手から逃げ回るだけの獲物であることを、今日で終わらせる。……私たちが次に向かうのは、ここだ!」
静かな、だが確かな覇気を帯びた宣言。
誰もが息を呑み、彼が指し示した先――大河シャジャルをさらに遡った先にある、険しい渓谷地帯を見つめた。
……見つめたのだが。
マーシャは半眼になり、ターバンの奥からひどく冷ややかな声を投げた。
「……殿下。あんたが今、自信満々に叩いたのは、帝国北西の『ガレブ渓谷』じゃなくて、その手前にあるただの『干上がった塩湖』だ。……塩の結晶に忠誠でも誓わせる気か?」
「えっ!?」
ファリードの顔から、先ほどの覇王のような威厳が一瞬にして消え去った。
彼は慌てて手元の地図を覗き込む。確かに彼の白い指先は、目的地の渓谷から数センチほどズレた、何もない不毛な湖のマークを力強く指し示していたのだ。
「あ、ちが……っ! こ、これは、この地図が古くて文字が掠れていて……っ!」
ファリードは耳の先まで真っ赤に染め上げ、裏返った声で必死に取り繕い始めた。
「軍師殿! 殿下をからかうな!」
すかさずカディルが血相を変えて立ち上がり、過保護な親鳥のようにファリードを庇う。
「このような古く不正確な地図を用意したザイドの落ち度だ! 殿下の御眼を惑わせおって!」
「はァ!? なんで俺のせいになってんだよ旦那! 無理言うなよ!」
理不尽なとばっちりを受けたザイドが抗議し、イブンはすり鉢を抱えながら「ヒッヒッヒ、殿下はまだまだ可愛らしいですな」と肩を揺らして笑っている。
顔から火が出そうになっているファリードの前に、巨漢のタリクが無言で、一番具の多い温かいスープの二杯目の椀をコトリと置いた。
「……っ、ありがとう、タリク……」
ファリードは消え入るような声で礼を言い、真っ赤な顔を隠すように両手で椀を抱え込んだ。
その、あまりにも年相応で不器用な十四歳の少年の姿。
マーシャは「やれやれ」と呆れたように息を吐きながらも、自身の指先で、正しい『ガレブ渓谷』の位置をトントンと叩き直してやった。
「まあ、方針としては悪くない」
マーシャの言葉に、ファリードがスープの椀の縁から、そっと金色の瞳を覗かせる。
「帝国の威光が届かず、複数の異民族や独立都市が割拠する辺境。……そこを私たちの最初の領地とし、いずれ王都を包囲するための巨大な『私軍』を創り上げる。そういうことだな?」
マーシャが彼の意図を汲み取って完璧に言い換えてやると、ファリードはコクリと力強く頷き、再び王としての真剣な眼差しを取り戻した。
「……辺境の賊を平定し、軍に組み込むと? 王室の誇りある戦い方とは到底思えませんな」
「誇りだけでは、兵士たちを食わせてはいけない。地面に這ってでも、私は勝つための盤面を作る」
カディルの苦言を、ファリードは真っ向から、そして柔らかく受け止めた。
その視線が、最後にマーシャへと向けられる。
「マーシャ。私に、君のその頭脳を貸してくれ。辺境を平定し、私が王座を取り戻した暁には……君の望むもの、すべてを約束しよう」
マーシャは、自身の左手首に巻かれたミサンガを親指でそっと撫でた。
日本へ帰るための、国家規模の捜索網と、見たこともない莫大な金貨。
彼女は唇の端を吊り上げ、痛む背中を庇いながらゆっくりと立ち上がった。
「言ったはずだ、殿下。私の指示には絶対に従え、と。……辺境の賊どもを狩り尽くして、あんたの最強の手駒に変えてやるよ」
淀んだ泥舟は、いまや沈むことをやめ、明確な目的を持った一隻の軍船へとその姿を変えた。
向かう先は、力のみが支配する帝国の最果て。美貌の王子と異邦の軍師による、血に塗れた国盗り物語が、いよいよ本格的に幕を開ける。
*
大河を離れ、北西の辺境「ガレブ渓谷」へと向かう道程は、想像を絶する過酷さだった。
緑は次第に姿を消し、ひび割れた赤土と切り立った岩肌がどこまでも続く。日中は肌を刺すような熱風が砂埃を巻き上げ、吸い込むたびに喉の奥がジャリジャリと鳴った。
「……ねえ、マーシャ。先ほどの話だが、もし敵が『鶴翼の陣』で包囲してきた場合、中央突破を図るのが定石だと言ったな。だが、もし敵の中央が最も厚く布陣していたらどうする?」
照りつける白銀の太陽の下、ファリードは額の汗を拭おうともせず、隣を歩くマーシャに熱を帯びた声で問いかけた。
砦を出発して数日。
この十四歳の王子は、行軍中ずっと小柄な軍師の隣に陣取り、憑かれたように過去の戦史や戦術についての質問をぶつけてきている。
マーシャは、砂除けのターバンを目深に被り直し、答えた。
「定石にこだわるから殺されるんだ。中央が厚いなら、それは『突破してこい』という敵の罠だ。私なら、あえて全軍を二つに割って敵の左右の翼の端を食い破る。鶴は翼を折られれば飛べないからな」
「なるほど……。では、風向きが逆だった場合は? お前が言っていた博望坡のように火計が使えぬ地形で、こちらが数で劣っている時はどう崩す?」
次々と飛んでくる質問。
そこへ、背後を歩いていた長身の剣士が、たまらずといった様子で口を挟んだ。
「殿下、この熱砂の中を歩きながら軍議など、お倒れになりますぞ! せめて私の馬にお乗りになって――」
「構わない、カディル。私は今、彼女の言葉の一つでも聞き逃したくないんだ」
カディルの過保護な忠言をピシャリと退け、ファリードは再びマーシャに答えを促す。
マーシャはダボついた外套の中で肩をすくめ、手元の水袋をあおりながら淡々と返した。
「簡単なことだ。敵の”目”と”耳”を騙して、幻影と戦わせればいい」
「幻影、だと?」
「馬の尻尾に木の枝を括り付けて走らせ、猛烈な土埃を上げて大軍が来たように錯覚させる。あるいは、夜通し少数の兵に陣太鼓を鳴らさせて夜襲を偽装し、敵を眠らせない。……兵の数が劣っているなら、敵の心理を削って疑心暗鬼に陥らせるんだ」
「へへっ、いい響きだねぇ。敵を騙してハッタリをかますなら、俺たちスラム育ちの得意分野だぜ」
列の横から、密偵のザイドがニヤリと悪党の笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「夜中に敵陣の周りで、派手に銅鑼でも叩いて一睡もできなくしてやろうか? それとも、幽霊の振りでもして脅かしてやるか?」
「ヒッヒッヒ、敵の心理を削るなら、私特製の”幻覚剤”がありますぞ。風上から怪しい煙でも流し込めば、夜の闇に怯えた敵兵は、味方を化け物だと錯覚して勝手に同士討ちを始めます」
イブンまでが怪しげな薬瓶を振りながら嬉々として乗っかってくる。
それを聞いたカディルの顔の火傷の痕が、怒りで赤黒く染まった。
「ええい、貴様ら! 殿下の御前で何と恥知らずな! 王族の軍をただの野盗の集まりにする気か! 誇り高き大帝国の戦い方とは――」
「誇りだけでは生き残れないよ、カディル」
静かな、だが確かな威厳を帯びたファリードの言葉に、カディルはハッとして口をつぐんだ。
それはもう、無知な子供の好奇心などではない。
自身が生き残り、いずれ覇道を歩むための牙の研ぎ方を、血の滲むような執念で学ぼうとする「王の姿」だった。
「私は、皆を生かすための〈正解〉を学びたい。……さあマーシャ! では、もしその幻影すら見破るような、冷静で強固な指揮官が相手だった場合はどうする!? 我々が少数のまま、山岳地帯に追い詰められた時は――」
前のめりになって次の戦術を渇望するファリード。
だが、彼の下を向いた視線は〈頭の中の盤面〉にばかり向いており、現実の足元が完全にお留守になっていた。
「……って、前を見て歩いてるのか殿下」
「え?」
マーシャが呆れたように視線を向けた瞬間。
ファリードが小さな石に足を取られ、大きく体勢を崩した。
ザッ、と砂埃が舞う。膝をつく寸前で、背後から伸びてきた分厚い手が、彼の細い腕をしっかりと掴み留めた。巨漢のタリクだ。
「……す、すまない、タリク。少し、足がもつれただけだ」
ファリードは慌ててタリクの腕から離れ、背筋を伸ばした。
だが、その声はひどく掠れ、白い頬は土埃にまみれて疲労で青ざめている。
慣れない荒野の行軍。
革靴のサイズが合っていないのか、彼の足取りは昨日から明らかに不自然だった。
踵の皮が破れ、血が滲んでいることは、少し観察すれば誰の目にも明らかだ。
「殿下! だからあれほど、私の馬にお乗りくださいと申し上げたのに……! 今すぐ野営の準備を――」
カディルが血相を変えて駆け寄り、ファリードを抱き抱えようとする。
だが、ファリードは下唇を痛いほど強く噛み締め、カディルの手をピシャリと払いのけた。
「案ずるな、カディル。これくらい……自らの足で歩けずして、何が王か。私は、平気だ」
強がって見せるその横顔は、誰がどう見ても無理をして大人ぶっている十四歳の子供そのものだった。重圧に押し潰されそうになりながらも、決して弱音を吐こうとしない。
タリクは悲しげに目を伏せ、イブンはやれやれと首を振り、カディルは忠誠と心配の板挟みになって奥歯を噛み締めている。
「……平気なわけないだろう。強がりは死を招くぞ」
列の横から、マーシャの冷ややかな声が飛んだ。
彼女はターバンの奥で目を細め、自身の持っていた水袋をファリードの胸元へ無造作に放り投げた。
「足の豆が潰れてるな。歩幅が極端に狭くなってる。あんたが倒れたら、この軍はそこで終わりなんだ。見栄を張る暇があるなら、自分の身体の管理くらいまともにやれ」
「ま、マーシャ……! 貴様、殿下に向かってその口の利き方は――」
「良い、カディル。彼の言う通りだ」
激昂するカディルを制し、ファリードは水袋を抱え込んだ。
土埃に汚れた手で顔を拭うと、その金色の瞳には、素直な反省の色が浮かんでいた。
「……私の管理不足だ。すまない。少し、休ませてくれ」
ファリードが岩陰に腰を下ろすと、陣営の大人たちが音もなく動いた。
イブンがすぐさまファリードの靴を脱がせて薬草をすり込み、タリクが巨大な盾を立てて日除けを作る。
カディルは周囲の警戒に当たりながら、水筒の水をファリードの口元へ運んだ。
マーシャは少し離れた岩に腰掛け、双短剣を手入れしながらその様子を眺めていた。
(……過保護な連中だ。だが、この少年には、周囲の大人たちをそうやって必死に動かすだけの〈何か〉がある)
殿下のすぐ側ではタリクがいつの間にか見つけてきたのか、怪我をした小鳥の治療をしている。 巨体に似合わない繊細で優しい一面もあるのだなと彼を見つめていると。
「……いい身分だな、異邦人」
背後から、押し殺したような低い声が降ってきた。
振り返らずともわかる。長剣が鎧と擦れる規則正しい音、カディルだ。
彼はファリードがイブンの治療を受けて眠りに落ちたのを見計らい、マーシャの座る岩陰へと足音を殺して近づいてきたのだ。
マーシャは双短剣の刃を砥石で滑らせる手を止めず、顔だけを僅かに向けた。
「殿下が休んでいるんだ。少しは静かに歩いたらどうだ、旦那」
「貴様こそ、殿下への口の利き方に気をつけろ」
カディルの声は、渓谷の冷たい風よりもさらに冷え切っていた。
「お前がどれほどの軍略を持っていようと、殿下はシャジャル帝国の正当なる王位継承者だ。貴様のその泥臭く卑劣な戦術で、殿下の王族としての誇りを、これ以上穢すことは私が許さん」
その言葉に、マーシャはふっと短く鼻を鳴らした。
「……誇り、ね」
彼女は砥石を置き、ゆっくりと立ち上がってカディルと正面から向き合った。
「私には、あんたがただ〈過去の亡霊〉に怯えているようにしか見えないがな」
「……なんだと?」
カディルの隻眼が鋭く細められ、周囲の空気が一気に張り詰めた。
だがマーシャは怯むことなく、カディルの左頬に痛々しく残る赤黒い〈火傷の痕〉を真っ直ぐに見据えた。
「その火傷の痕。ただの戦火で負った傷じゃないだろう」
「貴様ッ……!」
「誰かを……絶対に守らなければならない誰かを炎の中から庇い、そして結局、救えなかった時の傷だ。数ヶ月前に死んだっていう、殿下の兄王子のことか?」
図星を突かれたカディルの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
次の瞬間、ギリッ、と革手袋が軋む音が鳴り、カディルが腰の長剣の柄に手をかけていた。
明確な殺気が、刃のようにマーシャの首筋に突きつけられる。
(……少し、踏み込みすぎたか)
マーシャは腰の双短剣に手を伸ばすこともせず、ただ静かに、凪いだ黒曜石の瞳で長身の剣士を見上げた。
その瞳を見た瞬間。
カディルの殺気が、ふっと空中で霧散した。
長剣の柄を握る彼の手が、微かに震え始める。彼は気づいたのだ。
自身を真っ直ぐに見上げるこの小柄な少年の瞳の奥に、自分と全く同じ「暗い色」が宿っていることに。
自身の采配ミスで師匠ルスランを死なせてしまったマーシャの、決して消えることのないトラウマの色。
『守るべき者を、己の無力さで死なせた者』だけが持つ、絶対的な絶望と自責の目だった。
「……安心しろ、カディル」
マーシャは低く、静かな声で紡いだ。
「あんたの過去を暴き立てて、どうこうしようって気はない。ただ……『自分のせいで主君を死なせた』っていう絶望の目なら、私も嫌ってほどよく知っているというだけだ」
カディルは息を呑み、言葉を失ったままマーシャを見つめている。
「過保護になるのも無理はない。だが、綺麗事だけであのヒヨッコを玉座に座らせることはできない。……あの少年を今度こそ死なせたくないのは、私も同じだ」
マーシャが再び岩に腰掛け、双短剣の手入れに戻ると、カディルは長剣の柄からゆっくりと手を離した。
「……貴様は、悪魔だ」
絞り出すようにそう言い残し、カディルは踵を返してファリードの傍へと戻っていった。
二人は決して仲良くなったわけではない。だが、この荒野の片隅で、互いの胸の奥底にある〈決して癒えない傷〉の存在だけは、確かに共有されたのだった。
*
夜。
冷え込む岩陰で、わずかな枯れ木を集めた小さな焚き火がパチパチと爆ぜていた。
そこへ、渓谷の奥へ偵察に出ていたザイドが、夜の闇に溶け込むようにして戻ってきた。
「殿下、マーシャの兄貴。良い獲物を見つけてきたぜ。ガレブ渓谷の入り口を牛耳る、『赤蠍』って名の山賊団だ」
ザイドは焚き火の前に座り込むと、木の枝で地面の土に簡易的な図面を描き始めた。
「拠点は切り立った崖の上にある古い砦だ。正面からは道が一本しかねェ。見張りも強固で、俺たちの人数で力攻めすりゃ、蜂の巣になって終わりだろうな」
「兵力は?」
「ざっと百五十ってところだ。ここらじゃ一番の勢力で、たっぷりと貯め込んだ金と食糧、武器がある」
百五十の山賊に対し、こちらは三十。正面からぶつかれば勝ち目はない。
ファリードは焚き火の光に照らされた顔を引き締め、身を乗り出した。
「夜襲はどうだ? 崖の裏側から少人数で忍び込み、城門を開ける」
「素人の浅知恵だな」
ファリードの年相応の提案を、マーシャは即座に切り捨てた。
ファリードがビクッと肩をすくめる。
「崖の裏側なんて、山賊からすれば一番警戒するポイントだ。見張りがいないわけがない。見つかればそこで作戦は破綻する。……ザイド、重要なのは『敵の綻び』だ。山賊団の内部はどうなってる?」
「へへっ、さすが兄貴。実は今、赤蠍の内部はガタガタだ。最近奪った積荷の分配を巡って、保守的な『首領』と、血の気が多くて野心家の『副首領』が、今にも殺し合いそうなほど対立してるらしい」
その報告を聞いた瞬間、マーシャの黒い瞳が獰猛に光った。
「決まりだな。堅牢な砦を落とす最も簡単な方法は、外から壁を壊すことじゃない。中にいる連中に、自ら内側から扉を開けさせるんだ」
マーシャの言葉に、ファリードの金色の瞳が大きく見開かれた。
「……同士討ちを、誘うのか? あの時のように」
「その通りだ。首領と副首領、どちらかの疑心暗鬼を刺激して、殺し合いの火種を投げ込んでやる。連中が内輪揉めで血を流し、砦の扉が開いた瞬間に、私たちが美味しいところだけを掻っ攫う」
残酷なまでに合理的な戦略。
カディルやタリクが息を呑む中、ファリードは恐怖するどころか、身を乗り出して地図を食い入るように見つめていた。行軍中にマーシャから教え込まれた戦術の知識が、実戦の盤面の上で猛烈な勢いで組み上がっていく。
「なるほど……。ならば、標的は『副首領』だ。野心家であればあるほど、首領が自分を暗殺しようとしているという偽情報に食いつきやすい。……ザイド、副首領の性格や、彼が懇意にしている部下の情報は分かるか?」
わずか数分前まで夜襲という単純な策しか思いつかなかった十四歳の少年が、マーシャの思考をトレースし、自ら具体的な盤面を動かし始めたのだ。
その吸収力の異常さに、マーシャは一瞬だけ目を細めた。
「……へえ。悪くない着眼点だ、殿下」
「本当か!?」
マーシャに褒められたファリードは、パッと花が咲いたような、年相応の嬉しそうな笑顔を見せた。
だがすぐにハッとして咳払いをし、慌てて王族らしい威厳のある表情を取り繕うとする。
その背伸びをした不器用な仕草に、険しい顔をしていたカディルたちも、思わず毒気を抜かれたように微かな笑みをこぼした。
「よし。では、副首領に『首領の裏切り』を確信させるための、具体的な罠を張ろう」
焚き火の炎が、少年の金色の瞳の中で力強く揺らめいていた。
過酷な辺境の夜。泥舟の仲間たちは、成長していく未完成の獅子を囲むように、密やかな軍議を続けるのだった。




