第三部 10
分厚い鉛色の雲が天を覆い尽くし、太陽の光を完全に遮断した西の平原。
吹き荒れる熱風は、もはや草木の青い匂いを運んではこない。鼻腔を麻痺させるほどの強烈な硝煙の臭気と、焦げた土、そして鉄錆のような血の匂いが、戦場全体をねっとりと覆い尽くしていた。
「……第2陣、崩れました! 敵の砲撃、止みません!」
伝令の悲痛な叫びが、本陣の天幕に響く。
身重のマーシャは、男物の外套の下で少しふっくらとし始めた腹部を左手で無意識に庇いながら、石机に広げられた地図を睨みつけていた。
新大陸帝国の本隊を率いる敵将――星の門を諦めた『同郷の末裔』は、大帝国の定石はおろか、マーシャがこれまでに用いた前近代的な戦術すらも完全に凌駕する、徹底した「近代砲兵戦術」を展開していた。
歩兵を前に出さず、圧倒的な射程と火力を誇る大砲を幾重にも並べ、十字砲火によって平原を升目のように正確にすり潰していく。面制圧による、理不尽で無慈悲な殺戮の嵐だった。
ズゴォォォォンッ!!
大地を根底から揺るがす地響きと共に、前衛で泥に潜っていたはずの帝国兵の陣地が、巨大な土柱となって吹き飛んだ。
「くそッ……! 泥に潜ろうと関係ねェってのか!」
ザイドが砂埃を被りながら、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。
その時だった。
ヒュルルルル……ッ!
空気を不気味に切り裂く、あの致命的な風切り音が、戦場の喧騒を切り裂いてマーシャの鼓膜を打った。
直前まで前衛に落ちていたはずの砲撃の照準が、あろうことか、一直線にマーシャたちのいる本陣の天幕へと向けられたのだ。
その音を聞いた瞬間。
マーシャの心臓が、肋骨を突き破らんばかりに暴力的な跳躍を見せた。
視界が泥のように歪む。鼻腔の奥に、アデンの市街地で嗅いだ、あのむせ返るような血の匂いが鮮烈に蘇る。
『――軍師殿ッ!!』
脳裏にフラッシュバックするのは、空から降ってくる死の鉄球。それを真正面から受け止めようとして、飴細工のようにひしゃげた分厚い鋼の大盾。そして、瓦礫の中で右腕を失い、夥しい血の泡を吐きながら微笑んだ、あの優しき巨漢の顔。
「っ……、ぁ……」
マーシャの喉の奥がヒュッと鳴り、呼吸が止まる。指先から急速に血の気が引き、氷のように冷たくなった。
隣に立つカディルもまた、隻眼を大きく見開き、剣の柄を握る指の関節が白く抜け落ちるほどに硬直していた。彼の顔の火傷の痕が、痛ましいほどに引き攣っている。
死の鉄球が、空の彼方から黒い点となって本陣へと迫り来る。
かつてなら、タリクがその岩のような巨体で立ち塞がり、すべてを弾き返してくれた。だが今はもう、あの優しき大盾はどこにもいない。
「マーシャッ!!」
ファリードが血相を変え、白銀の甲冑を鳴らしてマーシャの前に飛び出そうとした。カディルもまた、己の肉体を盾にしようと身を投げ出そうとする。
二人とも、彼女とお腹の子を守るためなら、一瞬の躊躇もなくその身を粉にする覚悟だった。
――だが。
「動くなッ!!」
マーシャの鼓膜を劈くような、鋭く、鋼鉄のように硬い怒号が本陣に響き渡った。
飛び出そうとしたファリードとカディルの足が、その凄まじい気迫に縫い留められる。
マーシャは、自身の大きなお腹を両腕でしっかりと抱き抱えるように庇いながら、二人を鋭く睨みつけていた。
恐怖に震えていたはずの黒曜石の瞳から、迷子の影は完全に消え失せていた。
そこにあるのは、腹に宿した小さな命を何が何でも生かし抜くという「母としての強烈な生存本能」と、盤面ですべての命を天秤にかける『悪魔の軍師』としての獰猛な黒い光だった。
「私のために、これ以上誰の命も盾にさせない!」
マーシャは、足元の泥を強く踏み締め、迫り来る砲弾から決して目を逸らさずに叫んだ。
「タリクが命を懸けて守ってくれたこの命を、私は……私の力で守り抜く!!」
誰かの自己犠牲の上に生き延びることは、もう終わったのだ。彼女は、悲しみの過去を断ち切り、自らの知略を最大の武器として振るう覚悟を決めていた。
「ザイド!! 今だ、やれェェェッ!!」
マーシャの号令が戦場を切り裂いた。
「へへッ、待ってましたぜ姉御ォ!!」
本陣の影に控えていたザイドが、懐から合図の赤い狼煙を空高く打ち上げた。
敵の大砲部隊は、さらなる一斉射撃を行おうと、平原の特定の中央ラインまで重い鉄の筒を前進させていた。
――その瞬間。
ズゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!
大砲の放つ轟音とは全く異なる、大地の底から湧き上がるような不気味な地鳴りが連鎖した。
「な、何だ!? 地震か!?」
新大陸帝国の砲兵たちがパニックに陥る中、彼らの足元の地面が、突如として広範囲にわたりメキメキとひび割れ、すり鉢状に巨大な陥没を起こし始めたのだ。
「うわぁぁぁぁッ!?」
悲鳴と共に、何十トンという重量を持つ近代的な大砲が、馬や砲兵たちもろとも、深く掘り下げられた地割れの底へと次々と飲み込まれていく。土煙が天を突き、敵の陣形は一瞬にして崩壊した。
本陣へ向かっていた砲弾も、発射の瞬間に地盤が傾いたことで大きく軌道を逸らし、マーシャたちの遥か後方の無人の荒野に着弾して虚しい土柱を上げるにとどまった。
「……タリクの盾は鋼だった。彼がその身を挺してくれたから、私たちは今ここに立っている」
マーシャは、土煙の上がる敵陣を冷徹に見下ろしながら、低く、しかし戦場中に響き渡る声で告げた。
「だが、私の盾は『盤面』だ! 鉄の筒ごと、泥の底へ沈め!!」
彼女は、敵がアデンから上陸してこの平原に到達するまでの数日間、ザイド率いる工作部隊に命じて、戦場の地下に巨大な「空洞(坑道)」を掘り進めさせていたのだ。
そして、敵の重い大砲部隊がその直上に配置されたタイミングを見計らい、地下の支柱を一斉に破壊させた。近代兵器の最大の強みである「圧倒的な重量」を、そのまま自らを生き埋めにする枷へと反転させる、常軌を逸した大規模トラップ。
紙の上の近代戦術しか知らない同郷の末裔に対し、泥に塗れて這いずり回ってきた悪魔の頭脳が、見事に定石を食い破った瞬間だった。
「おおおおおッ!! 敵の筒が沈んだぞォッ!!」
「さすがは我らが軍師殿だァァッ!!」
最大の脅威であった大砲を無力化され、大混乱に陥る新大陸帝国軍を前に、帝国兵たちの士気が爆発的に跳ね上がる。
「……見事だ、私の軍師」
ファリードが、マーシャの横顔を深く、狂おしいほどの愛おしさと誇りを込めた目で見つめた。
彼はゆっくりと白銀の長剣を抜き放ち、月光のような輝きを放つその切っ先を、崩壊した敵陣へと真っ直ぐに突きつけた。
その背中で、白銀の甲冑がカチャリと冷たく、重厚な音を立てる。
「全軍、私に続けェェェッ!!」
ファリードの覇気を含んだ咆哮が、雷鳴のように平原を震わせた。
「我が軍師と、亡き友が開いた血路だ! 一歩たりとも無駄にするな!! 新大陸の愚か者どもに、大帝国の泥の味を教えてやれ!!」
「「「応ォォォォォォォォッ!!!」」」
ファリードを先頭に、カディル、ザイドが率いる数万の白銀の騎馬隊と重装歩兵が、地鳴りを上げて怒涛の突撃を開始する。
大砲という牙を抜かれた新大陸の軍勢は、もはや怒り狂う大帝国の精鋭たちの敵ではなかった。剣が火薬を凌駕し、覇王の蹂躙が戦場を完全に支配していく。
マーシャは、本陣の天幕の前で、自身の膨らみ始めたお腹を両手で優しく包み込んだ。
硝煙の匂いはまだ残っているが、吹き抜ける風の奥に、確かな新しい時代の匂いが混じり始めている。
「……見ていてくれ、タリク。ここから先は、私たちが……この子と生きる、未来だ」
彼女は黒曜石の瞳を細め、愛する男の背中が切り拓く圧倒的な勝利の光景を、ただ静かに、そして誇らしく見守り続けていた。




