第三部 11
新大陸帝国の脅威を泥濘の底へと沈め、王都グラナダに大帝国の軍旗が凱旋してから数ヶ月。
王城の最奥にある正妃の私室には、血と硝煙の匂いの代わりに、初夏の柔らかな陽光と、淹れたての茶から立ち上る甘い香りが満ちていた。
「……羽ペンのインクが、羊皮紙に滲んでいるぞ。過保護な王様」
日当たりの良い窓辺の長椅子。マーシャは、自身の大きく膨らんだ腹部の上に小さな白い布を広げ、不器用な手つきで産着の刺繍を進めながら、ターバンを外した黒髪を揺らして呆れたように息を吐いた。
部屋の隅の執務机には、白絹の王服を纏ったファリードが座っている。だが、彼の手元の書類は一向に減る気配がなく、その金色の瞳は先ほどからずっと、マーシャの腹部と彼女の指先の動きだけを、瞬きすら忘れたように凝視し続けていたのだ。
「私はただ、その長椅子の背もたれが、お前の重心の変化に耐えきれず折壊するリスクを、物理的に計算していただけだ」
「この数ヶ月で三回も特注の補強材を入れさせた椅子が折れるか。書類の山が崩れる前に、さっさと署名を終わらせろ」
相変わらずの、少し噛み合わないやり取り。マーシャは肩をすくめ、再び手元の布地へと視線を落とした。
平和な、そしてひどく退屈な日常。かつて戦場という盤面で命のやり取りをしていた日々が嘘のように、今の彼女の周りには、微かな布の擦れる音と、柔らかな風の音しか存在しない。
マーシャは、ポン、と内側から蹴られた自身の腹部を、両手でそっと包み込んだ。
手のひらに伝わる、確かな熱と胎動。
(……不思議なものだな)
マーシャの脳裏に、ふと、遠い遠い故郷の記憶が過った。
自転車のブレーキ音。夕暮れの台所から漂う、温かい夕食の匂い。風邪を引いて熱を出した夜、額に置かれた冷たくて優しい手のひらの感触。
両親の顔は、長い血みどろの歳月の中で、霞がかかったように曖昧になりつつある。自分が突然あの世界から消え、彼らがどれほど泣いたのか、今の自分がどんな扱いになっているのかは、もう永遠に知る術はない。
だが、あの温かい体温の記憶だけは、魂の奥底に鮮明に焼き付いている。
マーシャは産着の布を強く握りしめ、喉の奥がツンと熱く痛むのを、ゆっくりと飲み込んだ。
(お父さん、お母さん。あんたたちが私に注いでくれた愛情の形は……ちゃんと私が、この世界で繋いでいくよ)
悪魔の軍師として何百もの命をすり潰してきた彼女の顔に、今はもう、氷のような冷酷さはない。そこにあるのは、ただ静かに腹の中の命を慈しむ、一人の「母」としての穏やかな微笑みだった。
* * *
そして、ついにその夜が訪れた。
「……っ、はぁッ、はぁっ……!」
分厚いカーテンが下ろされた寝室に、むせ返るような汗の匂いと、マーシャの苦痛に満ちた荒い呼吸が充満する。
どれほどの時間が経っただろうか。全身の骨が内側から砕け散るような激痛の果てに、唐突に、鼓膜を震わせるほどの甲高く、力強い産声が王城の夜の静寂を切り裂いた。
「オギャアアァァァッ!!」
「……あ……っ」
疲労困憊で視界が泥のように霞む中、マーシャはゆっくりと重い瞼を押し上げた。
彼女のすぐ横で、大帝国を恐怖で統べる若き覇王が、膝をつき、肩を激しく震わせていた。
ファリードの白金色の髪は汗で額に張り付き、その白絹の服はシワだらけになっている。彼は、血と羊水にまみれた小さな命を、まるで世界で最も脆い硝子細工でも扱うかのように、自身の分厚く大きな手で、不器用に、ひどく恐る恐る抱き上げていた。
「……ああ。私の……私たちの……っ」
ファリードの喉から、嗚咽のような掠れた声が漏れる。
冷徹な覇王の仮面など、そこには微塵もなかった。彼の金色の瞳から、ポロリと大粒の水滴が零れ落ち、赤ん坊を包む真新しい白い布に小さな染みを作る。
彼が震える腕で不器用に揺らしながらあやすと、赤ん坊がゆっくりと目を開けた。
マーシャと同じ漆黒の柔らかな産毛。そして、その奥から覗いたのは、ファリードと同じ、息を呑むほどに透き通った金色の瞳だった。
「……名前は、『レイ』だ」
マーシャは、ひび割れた唇を動かし、掠れた声で静かに告げた。
「レイ……。良き響きだ。どのような意味があるのだ?」
涙を拭おうともせず、ファリードが優しく問いかける。
「私の故郷の言葉で、『黎明(夜明け)』さ。……あんたと二人で抜けた、あの長くて暗い夜の終わりだ」
マーシャは、微笑みながらファリードの腕の中にある小さな頬に、そっと指先を触れた。
それは、彼に対する心からの真実。
そして同時に、彼女がかつて日本から来た『ましろ』であったという、誰にも言えない秘密を、そっとこの世界の未来へと忍ばせた瞬間だった。元の世界への未練を断ち切り、彼女自身のルーツが、この異世界の大地に確かに根を下ろした、何よりの証明。
「……黎明、か。ああ、この大帝国を照らす、極上の夜明けだ」
ファリードは泣き笑いのような表情で、マーシャの額に、深く、深い愛おしさを込めて熱い口づけを落とした。
* * *
数日後。初夏の爽やかな風が、王立墓地の青々とした草を揺らしていた。
抜けるような青空の下、むせ返るような白百合の甘い香りが、鼻腔を静かにくすぐる。
マーシャは、冷たい石の墓碑の前に立ち、そっと右手をその表面に這わせた。
彼女の左手首にはもう、あのボロボロのミサンガはない。だが、その代わりに彼女の腕の中には、温かく、甘いミルクの匂いを漂わせる柔らかな命が、すやすやと穏やかな寝息を立てて抱かれていた。
「……タリク。あんたが命懸けで守ってくれた日常に、新しい命が芽吹いたよ」
マーシャの低い語りかけに、風が吹き抜け、木々の葉がザワザワと応えるように鳴った。
「旦那! だから首の座っていない赤子を、剣を持つような手つきで抱えるなと言っているだろうが! 落ちたらどうするッ!」
「カディル、すまない。だが俺には娘がいる。あやしかたは心得ているつもりだ。 ほら、レイ様、たかいたかーい」
「ヒッヒッヒ、落としたら私の特製麻痺薬をザイドの全身に塗り込みますぞ」
背後の広場からは、お忍びの平服でついてきたザイドやカディル、イブンたちの、相変わらず騒がしくも容赦のないやり取りが風に乗って聞こえてくる。
「……騒々しい連中だ。あの馬鹿どもには、レイの剣の指南は絶対に任せられんな」
ファリードが呆れたようにため息をつきながら、マーシャの隣へと歩み寄り、彼女の腰にそっと腕を回した。
「あんたの過保護も大概にしろよ、王様」
マーシャは悪態をつきながらも、自身を支えるその大きく温かい体温に、自然と体重を預けていた。
もう、どこにも迷子だった自分の影はない。
血塗られた盤面を越え、日本への未練も完全に炎の中へ葬り去った。彼女の足は今、この大帝国の土を誰よりも強く、確かに踏みしめている。
マーシャは、腕の中で眠るレイの黒髪にそっと唇を落とし、隣で獰猛に、けれどこの上なく優しく微笑む夫の横顔を見上げた。
彼らと共に歩む、騒がしくも愛おしい明日という新しい盤面が、どこまでも眩しく広がっていた。




