第三部 9
初夏特有の、微かな湿気を孕んだ生ぬるい風が、バルコニーの薄絹のカーテンを気だるげに揺らしている。
大帝国シャジャルの王城、その最奥に位置する正妃の私室。磨き上げられた大理石の床に、ステンドグラスを透過した極彩色の光が落ち、部屋の四隅に置かれた香炉からは、むせ返るような乳香の甘い匂いが粘りつくように立ち上っていた。
大貴族たちを恐怖で黙らせ、マーシャがこの大帝国の正妃として玉座の隣に座るようになってから数ヶ月 。
王都の復興や細々とした政務は優秀な文官たちが完璧に回しており、戦場という「盤面」を失った軍師の手元には、動かすべき駒が一つも残されていない。
「……退屈だ」
マーシャは長椅子の背もたれに寄りかかり、手にした羽ペンで羊皮紙の端を無意味に突いた。インクの黒い染みが、じわじわと広がっていく。
退屈の原因は、平和だけではない。
彼女の首筋――豪奢な深い蒼のドレスの襟元からわずかに覗く白い肌には、いくつもの赤黒い痕が刻まれていた。
夜になれば、あの時彼に強要された深紅の『踊り子衣装』 を再び纏わされ、朝の光が差し込むまで、逃げ場のない力と熱で甘く激しく愛し尽くされる。少しでも彼女の姿が視界から消えれば、白銀の甲冑を鳴らして血相を変えた覇王が城中を捜し回る始末だ。
(……このままでは、平和ボケで頭が腐る)
マーシャは首筋の痕を指先でなぞりながら、小さく息を吐いた。彼の狂おしいほどの愛執は、純金で設えられた決して鍵の開かない堅牢な『鳥籠』そのものだ。辟易しながらも、その重すぎる熱をどこか心地よく受け入れてしまっている自分自身に、彼女は密かに呆れていた。
* * *
その数日後。
王城の一角にある作戦室では、乾いた紙の擦れる音だけが響いていた。
「……以上が、北西部族からの供物の目録となります。武具の欠損は……」
カディルが顔の火傷の痕をしかめながら、分厚い報告書を読み上げている。窓際では、ザイドが退屈そうに自身の爪を噛み、大きな欠伸を噛み殺していた。
「麦の備蓄はどうなっている。来月は雨期に入る、西の街道の舗装が遅れれば輸送が滞るぞ」
マーシャは手元の地図に羽ペンを走らせながら、カディルの報告を遮って別の話題を振る。
「ハッ、街道の整備は手配済みです。しかし、軍師殿……いや、妃殿下。書類ばかり見ておいでですが、お加減でも?」
カディルの言葉に返事をしようと顔を上げた、その瞬間だった。
――グラリ、と。
視界が唐突に泥のように歪み、強烈な目眩がマーシャの脳髄を揺らした。胃の底から、せり上がるような激しい吐き気が襲い来る。
「……っ」
マーシャの手から羽ペンが滑り落ち、彼女の小柄な身体が石の床へと崩れ落ちそうになる。
「マーシャッ!!」
玉座の代わりとして置かれた上座の椅子から、弾かれたように飛び出したのはファリードだった。彼は床に落ちた羊皮紙を乱暴に踏み躙り、顔面を蒼白に引き攣らせてマーシャの身体を抱きとめた。
「おい、しっかりしろ! どうした、マーシャ!」
ファリードの金色の瞳が、かつてないほどのパニックに揺らいでいる。彼を包む圧倒的な覇王のオーラが完全に霧散し、ただ怯える少年のように彼女の冷たい頬を叩いた。
「誰か、すぐにイブンを呼べ! 毒か!? 誰が私の軍師に毒を盛った!!」
ファリードが狂ったように怒号を飛ばす中、作戦室の重い扉が開き、医療・毒物部隊長のイブン が怪しげな薬瓶をぶら下げて駆け込んできた。
「おやおや、なんという騒ぎで。……失礼いたしますぞ」
イブンはファリードの腕の中にいるマーシャの細い手首を取り、静かに脈を診る。ザイドとカディルが息を呑んで見守る中、イブンはいつもの不気味な笑みを浮かべる代わりに、目を丸くして、やがてヒッヒッヒと肩を揺らして笑い出した。
「……イブン。貴様、何がおかしい。早く解毒剤を……ッ」
ファリードが殺気を込めて剣の柄に手をかけた、その時。
「ヒッヒッヒ……落ち着かれよ、陛下。毒ではありませんぞ」
イブンは恭しく頭を下げ、歓喜に満ちた声で告げた。
「軍師殿のお腹には、陛下との『新たな命』が、しっかりと根を張っております」
その言葉が響いた瞬間。作戦室は、水を打ったような完全な静寂に包まれた。
* * *
「……ましろ。本当か、本当にお前の中に……私の子供が……っ」
ファリードの唇から、震えるような吐息が漏れた。
彼の金色の瞳から、冷徹な覇王の仮面が完全に剥がれ落ちる。彼はマーシャの身体を、まるで世界で最も脆く、尊いガラス細工でも扱うかのように、自身の分厚い胸の中へ優しく、愛おしそうに抱きしめた。
「うおおおおッ!! やったぜ姉御ォ!! 殿下、バンザイ!!」
「おお……っ! 神よ、我らが大帝国に新たなる光を……っ!」
ザイドが歓喜の雄叫びを上げ、カディルが男泣きに泣きながら床に平伏する。
喧騒の中、マーシャは自身の平らな腹部へと、そっと両手を当てた。
(私が、母親に……?)
日本の平和な教室の風景。そして、採石場で泥水を啜り、他人の命を盤面ですり潰してきた血塗られた過去。年齢も名前も偽り、ただの孤独な迷子だった自分が、この異世界で彼との間に、確かな『命』を繋ごうとしている。
マーシャの黒曜石の瞳から、ポツリと、温かいものがこぼれ落ち、ファリードの腕を濡らした。
だが、その奇跡の感動も束の間だった。
「……カディル、ザイド。直ちに王城の警備を三倍に増やせ」
ファリードが、マーシャを抱き抱えたまま、突如として修羅のような真顔で命を下した。
「これからは一歩も外に出るな! 歩く時は私が抱き抱える! 政務も軍議もすべて私がやるから、お前はずっとベッドで寝ていろ!!」
「……は?」
マーシャの涙が一瞬にして乾いた。
雨の日に分厚い外套を無理やり被せた時 の比ではない。それは、愛という名目を借りた、常軌を逸した「軟禁状態」の宣言だった。
「ふざけるな! 私は軍師だ、ベッドに縛り付けられてただ寝ているなんて……っ」
「王命だ! お前と子供の身に何かあれば、私は世界を焼き尽くすぞ!!」
顔を真っ赤にして本気で叫ぶ覇王に、マーシャは頭を抱え、深く深い溜息をついたのだった。
* * *
新しい命の誕生という知らせに、王城が隠しきれない喜びに沸き立とうとしていた、まさにその時。
バンッ!! と、作戦室の扉が乱暴に蹴り開けられた。
「ほ、報告ゥッ!!」
転がり込んできたのは、西の港湾都市アデンを再建していた守備隊の兵士だった。その身体は泥と血に塗れ、肩で激しい息をしている。むせ返るような血の匂いと、焦げた硝煙の臭気が、室内の温かい空気を一瞬にして凍結させた。
「西の海より……かつてアデンを襲った数十隻の黒船 を遥かに凌ぐ……空を覆い尽くすほどの『黒船の本隊』が来襲!!」
「なんだと……ッ!」
カディルが弾かれたように立ち上がる。かつて退けた敵は、単なる先遣隊に過ぎなかったのだ。
兵士は血を吐くような声で、さらなる絶望的な事実を告げる。
「敵を率いる将軍は、降伏勧告の使者を通じ、自らをこう名乗りました……。かつて大帝国に星の門を創り、それを諦めて西の海へ去った『異界の悪魔の末裔』であると!!」
マーシャの心臓が、早鐘を打った。
禁書庫の古い羊皮紙に記されていた、『星の門を諦め、鉄の船を造り西の海の果てへと去っていった者たち』 。それは、マーシャと同じく異世界からこの地へ落ち、そして独自の進化を遂げた同郷の者たちの末裔。
彼らは、大帝国を完全に滅ぼすため、近代兵器の総力を結集させて押し寄せてきたのだ。
ファリードの腕の中で、マーシャは平らな腹部を庇うように強く握りしめ、開け放たれた窓の向こう、西の空を睨みつけた。
血と泥に塗れた第三部の盤面が、新たなる命を懸けた絶望の戦端を開こうとしていた。
嵐の予兆を孕んだ、生温かく湿った風が作戦室の窓から吹き込み、机上の羊皮紙をバタバタと煽った。
太陽は分厚い鉛色の雲に飲み込まれ、大理石の床に落ちていた極彩色の光は、重苦しい灰色の影へと塗り潰されている。遠くで、地鳴りのような雷鳴が微かに響いた。
「……カディル。近衛の第一から第三大隊を直ちに城門前に集結させろ。ザイドは斥候を西の街道へ放て」
ファリードは、地図から一切目を離すことなく、淡々とした声で指示を飛ばした。
彼は腰の剣帯のバックルをガチャリと外し、革のベルトを一段きつく締め直す。その手つきは機械的なほど正確だが、指の関節が白く抜け落ちるほどに力が入っていた。
「お前はここで休んでいろ」
ファリードは、部屋の隅に立つマーシャへ背を向けたまま、ぽつりと落とした。
その声には、一切の反論を許さない、氷のような拒絶が張り付いている。
「私が全軍を率いて、奴らを一人残らず海の底へ沈めてくる」
白銀の甲冑が擦れる冷たい音を響かせ、彼は作戦室の重い扉へと歩み出そうとした。
「待て」
マーシャの口から出た声は、ひどく掠れ、喉の奥に鉛が詰まったように重かった。
彼女は石机の縁を強く握りしめ、目眩で傾きそうになる視界を無理やり定位置に固定する。
ファリードは足を止めなかった。扉の取っ手に、彼の大ぶりな手が掛かる。
「相手は……私と同じ現代の知識を持つ、『同郷の末裔』だ」
マーシャは、机の上にあった文鎮を無造作に床へ蹴り落とした。ゴトリ、という鈍い音が部屋に響き、ファリードの肩が微かに揺れる。
「紙の上の陣形なんて意味がない。大砲の雨を正面から受ければ、いくらお前でも死ぬぞ!」
「私が盾になる。……お前と、その腹の命に、指一本触れさせはしない」
ファリードは扉から手を離さず、壁を向いたまま頑なに吐き捨てた。
マーシャは奥歯を強く噛み締め、口内に広がる鉄の味を飲み込んだ。
彼女は机から手を離し、ふらつく足取りを気力だけで支えて、彼の背中へと歩み寄る。そして、彼の背を覆う漆黒の外套ごと、その分厚い胸倉を乱暴に掴み上げて自分の方へ振り向かせた。
「……私を、この世界に一人で残すつもりか」
マーシャの指先が、小刻みに震えていた。
見開かれたファリードの金色の瞳と、至近距離で視線が絡み合う。彼から漂う、麝香と冷たい鋼の匂いが鼻を突いた。
「あの地下で、帰るための切符を燃やしたんだ。あんたの隣以外に、私が息をする場所なんてない。……あんたがいなくなったら、私はこの訳の分からない狂った世界で、一人でどうやって生きていけっていうんだ」
胸の奥が、ギリギリと音を立てて軋む。肺に空気が入っていかず、呼吸が浅くなる。
ファリードの瞳の奥が、苦痛に歪んだ。彼の手が、マーシャの震える指を解こうと伸びてくる。
だが、マーシャはその手をピシャリと払い除け、空いた左手で、自身のまだ平らな腹部を庇うように強く押さえた。
「あんたを死なせて、この子を父親無しにする気か!」
マーシャの脳裏に、瓦礫の中で血に塗れて微笑んでいた、タリクの冷たい顔がフラッシュバックする。鼻腔の奥で、硝煙と土の匂いが蘇った。
「タリクが……あいつが命を懸けて守ってくれたこの平和な日常を、私は絶対に壊させない!!」
マーシャは、自身の顔をファリードの眼前に突き出した。
そこにあるのは、安全な鳥籠で守られることを望む小鳥の目ではない。腹に宿した命を守り抜くという強烈な生存本能と、敵の喉笛を的確に喰いちぎる『悪魔の軍師』としての、獰猛で底知れぬ黒い光だった。
「私は悪魔の軍師だ。お前と、この子が生きる世界を守るための盤面は、私が描く」
マーシャは胸倉を掴んでいた手を離し、ファリードの銀の胸当てを、軽く、だが確かな重さを込めて叩いた。
「……地獄の底まで付き合うと言っただろうが、私の王様」
嵐の風が強まり、作戦室のランプの炎が激しく揺らいだ。
ファリードは息を呑み、金縛りに遭ったようにマーシャを見つめていた。彼の喉仏が上下に動く。
やがて、彼の胸の奥から、深く、重い吐息がこぼれ落ちた。
「……本当に、お前には敵わない」
ファリードの唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。それは、完全なる敗北を認めたような、しかし、世界で最も恐ろしく価値のある宝を抱え込んだ覇王の、最高に誇らしげで獰猛な笑みだった。
彼は両腕を広げ、マーシャの小柄な身体を、彼女の腹部に負担をかけないよう細心の注意を払いながら、自身の熱い胸の中へと力強く閉じ込めた。
「ああ。私の命も、この帝国の未来も、すべてお前の盤面に預けよう」
耳元で低く響くその声に、マーシャは彼のごつごつとした背中に腕を回し、顔を埋めた。
窓の外で、ついに大粒の雨が石畳を叩き始めた。
だが、二人の間に迷いはもう一欠片も存在しなかった。
身重の天才軍師と、無敵の覇王。互いの命と業を完全に背負い合った最強の共犯者は、我が子と大帝国の未来を守り抜くため、未知の脅威が待つ最終決戦の盤面へと、並び立って出陣していくのだった。




