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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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第三部番外編2 8の後

王都グラナダの空は、高く澄み切った初夏の青に染まっていた。 ジャスミンと甘い果実の香りが漂う王城の庭園で、マーシャは日陰の長椅子に腰を下ろし、自身の膝の上に乗った小さな命の重みを持て余していた。


「あー、こら。それは食べ物じゃないぞ」


マーシャの艶やかな黒髪を小さな両手で無造作に掴み、キャッキャと笑っているのは、近衛騎士団長カディルとレイラの間に生まれた、1歳になる愛娘だ。


先日、カディルの屋敷で初めて出会った時は、彼女の髪を不思議そうに引っ張るだけだったが、今やすっかりマーシャに懐き、母親のレイラが茶を取りに行っている間、こうして膝の上を占拠されていた。


そこへ、庭園の小道を一人の若い女性が通りかかった。 かつて黒岩族の村でタリクに命を救われ、今では立派な看護班員へと成長したあの少女だ。彼女の手には、白い百合の花束と、小さな布包みが握られていた。

「軍師様……いえ、マーシャ様。お日柄が良いですね」

「ああ。今日もお参りか?」

「はい。タリク様、私が持っていく夜食の干し肉をいつも喜んでくださったから。今日も、たくさん作ったんです」

少しだけはにかむように笑う彼女の目には、国葬の日に見せたような張り裂けるような悲しみはもうない。代わりに、大帝国の最も優しき盾が残してくれた温かい記憶が、彼女を確かに前へと歩ませていた。


マーシャは小さく頷き、彼女を見送った。

(……良い顔をするようになったな)

膝の上の小さな娘が、マーシャの頬に自身のふっくらとした柔らかな頬をすり寄せてくる。穢れのない、温かい命の感触。

これこそが、タリクが自身の命を懸けて守り抜きたかったありふれた日常なのだと、マーシャは改めて実感し、無意識のうちに娘の背中を優しく、一定のリズムでトントンと叩きあやしていた。

その単調で心地よいリズムを刻みながら、マーシャの黒曜石の瞳は、ふと遠い空の彼方を見つめた。


引きちぎったボロボロのミサンガ。もう二度と帰ることのできない、遠い故郷の日本。

顔を思い出すことすら少しずつ難しくなってきているけれど、たった一つだけ、鮮明に思い出せる感覚があった。 自分が風邪を引いた夜、あるいは転んで膝を擦りむいて泣いた時。

両親はいつも、今の自分と全く同じように、温かい手で背中をトントンと叩き、「大丈夫だよ、ましろ」と抱きしめてくれていたのだ。


(……お父さん、お母さん。私はもうそっちには帰れないけど。あんたたちが私に注いでくれた愛情の形は、ちゃんと私の身体が覚えてるよ)


血生臭い盤面で他人の命をすり潰すことしか知らなかった「悪魔」の胸の奥底に。 かつて両親からもらった無償の愛を、今度は自分がこの世界の新しい命へと繋いでいけるのだという、静かで確かな『母性』が芽生え始めていた。


「……随分と、母親らしい顔をするようになったな」

不意に、頭上から低い声が降ってきた。

振り返ると、執務を抜け出してきたのだろう。豪奢な王服を着崩したファリードが、庭園の木漏れ日を背に受けて立っていた。 彼はマーシャの膝の上の娘を一瞥すると、ほんの微かに、だが明らかに「自身の特等席を奪われている」ことに対する不満げな色を金色の瞳に滲ませた。

「なんだ、過保護な王様。まさか二歳児相手に嫉妬してるわけじゃないだろうな」

「……私がいつ、お前以外の人間に寛大だったことがある?」


 ファリードは呆れたように息を吐き、マーシャの隣にどっかりと腰を下ろすと、彼女の細い腰に遠慮なく腕を回してきた。相変わらず、彼女の体温を少しでも感じていなければ死んでしまうとでも言わんばかりだ。

マーシャは苦笑しながら、ファリードの白金色の髪と、端正すぎる顔立ちをマジマジと見つめた。

「……なあ、ファリード。少し、可笑しな想像をしてたんだ」

「想像?」

「もし、私たちに子どもができたらってな」

その言葉が出た瞬間、ファリードの肩がビクッと跳ね、金色の瞳が信じられないものを見るように大きく見開かれた。


「あんたに似た白金色の髪と金色の瞳で、やたらと尊大で生意気な男の子か。それとも、私に似て黒髪で、小賢しい女の子か……どっちにしろ、とんでもなく悪辣なガキが生まれそうだなと思ってさ」


 マーシャがクスクスと笑うと、ファリードは完全に固まったまま、耳の先まで朱に染め上げていた。 彼にとって、愛するマーシャとの間に二人の血を引く子どもが生まれるという想像は、狂おしいほどに甘く、同時に全く未知の領域だったのだ。

「……だが」

マーシャは意地悪く唇を吊り上げた。

「あんたのその異常な独占欲じゃ、自分の子どもにまで嫉妬して威嚇しそうだからな。私が子どもばかり構ってたら、『私の視界から消えるな』とか言って、赤ん坊相手に本気で大人気なく怒り狂う姿が目に浮かぶよ」

クスクスと笑い続けるマーシャに対し、ファリードはギリッと奥歯を噛み締め、真っ赤な顔のまま、ひどく真剣な、そして傲慢な覇王の顔を作って言い放った。


「……勘違いするな。お前と私の血を引く者ならば、世界のすべてを与えて誰よりも甘やかしてやる」 「ほう?」

「だが! お前の愛情の第一位が私から子どもに移ることだけは、絶対に許さん。お前の一番は、永遠にこの私だ」

二歳児と同じレベルで張り合おうとする大帝国の覇王の姿に、マーシャはついに堪えきれず、「あっははははっ!」と声を上げて笑い出した。

カディルの娘も、マーシャが笑うのを見て、釣られたようにキャッキャと笑い声を上げる。

「分かった、分かったよ。あんたが一番だ。本当に、手のかかる大きな子どもだよ、あんたは」

マーシャは笑い涙を拭いながら、ファリードの胸にコツンと額を預けた。

失われた故郷にはもう戻れない。けれど、この温かい陽だまりの中で、彼と共にこの世界に深く「根」を張り、いつか自分たちの未来を育てていくのだという確かな幸福感が、彼女の魂を隙間なく満たしていた。


「……覚悟しておけ、ましろ。お前がそんな想像をしたのだからな」 ファリードが彼女の耳元で、甘く、危険な色香を帯びた声で囁く。

吹き抜けるジャスミンの風の中、最強で最凶の夫婦は、血塗られた盤面の代わりに、自分たちだけの愛おしくも騒がしい「明日」という名の絵図を、幸せそうに描き始めていた。


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