第三部8
玉座の間でのパニックも冷めやらぬ、その日の夜。
すべてが終わり、外界の喧騒が完全に遮断された皇帝の私室。分厚い扉の鍵が下ろされたその密室で、覇王ファリードの暴走劇が幕を開けようとしていた。
「……なっ! ファリード、お前、なぜこんな物を……!」
湯浴みを終えて私室に戻ってきたマーシャは、天蓋付きの巨大なベッドの上に置かれた一つの衣装箱の中身を見て、火が出るほど顔を真っ赤にして後ずさった。
箱の中に綺麗に畳まれて入っていたのは、かつて王都の高級娼館『黄金の鳥籠』に、彼女が単独で潜入した際に着ていたもの。女性の柔らかな曲線と白い素肌を惜しげもなく晒す、透けるような深紅の絹の『踊り子衣装』であった。
「忘れたとは言わせない」
背後から、低く、甘い声が降ってきた。
振り返ると、寝衣の胸元をはだけさせたファリードが、逃げ道を塞ぐように立っていた。
その金色の瞳は、昼間、貴族たちを威圧していた冷徹な王のそれではない。夜の海のようにどす黒く、粘り気のある雄の愛執の色に、ドロドロに濁りきっている。
「……あの夜。お前は私の命令に背き、この破廉恥な姿で無数の薄汚い男どもの前に立ち、その素肌を晒した」
「あ、あれは任務で仕方なく……っ!」
「黙れ」
ファリードは一歩、また一歩と距離を詰め、マーシャをベッドの縁へと追い詰めていく。
「他の男たちが、お前に色欲の視線を向けているのを見た時。……私がどれほど理性を失いかけ、あの場の男どもの眼球をすべて抉り出してやりたいという衝動に駆られたか」
あの夜。娼館の密室で高官の汚い手が彼女に触れられそうになった瞬間、ファリードは限界を迎え、自身の漆黒の大外套で彼女の身体をすっぽりと包み込んで隠したのだ。
「あの夜の私の怒りと、狂いそうなほどの絶望が、どれほどのものだったか……。今夜、お前にたっぷりと教えてやろうと思ってな」
ファリードの大きな手が、マーシャの顎をすくい上げる。
王としての絶対的な権力と、一人の男としての我儘を全開にした、甘く逃げ場のない命令が下された。
「着替えろ、マーシャ。そして、私のためだけに……あの時の『剣の舞』を踊れ」
* * *
シャラン、と。
足首に巻かれた金の装飾が、微かな音を立てた。
渋々ながらも深紅の絹を身に纏い、恥じらいで頬を朱に染めながら、マーシャはただ一人の覇王のためだけに、ゆっくりとステップを踏み始めた。
手にした双短剣が空を切り、しなやかな肢体が滑らかに躍動する。
薄い絹越しに透ける白い素肌。そして、背中に描かれた妖艶なヘナタトゥーと、それと交差するように刻まれた、彼と共に生き抜いてきた名誉の傷跡。
死の刃を振るう恐ろしい『悪魔の軍師』の姿と、息を呑むほどに色香を放つ『絶世の美女』の姿が完全に融合した、狂おしいほどに美しい舞。
ベッドに腰掛け、特等席でそれを独占するファリードの理性が、途中で保つはずがなかった。
「……っ」
舞が終わるか終わらないかのうちだった。
ファリードは無言で立ち上がると、音もなく彼女の背後へと回り込み、その極端に細い腰を強引に引き寄せた。
「ひゃっ……ファリー……っ!?」
マーシャが声を上げる間もなく、彼女の身体はふわりと宙に浮き、そのまま分厚い羽毛のベッドへと深く押し倒された。
手から零れ落ちた短剣が、絨毯の上で鈍い音を立てる。
「……他の男に送っていたあの妖艶な流し目も。この白い肌も。……すべては、私のものだ」
覆い被さってきたファリードの高い体温が、深紅の絹越しに直接伝わってくる。
彼の大きな手が、マーシャの露わになった太腿を、そして腰の曲線を、壊れ物を、けれど絶対に手放したくない己の所有物を確かめるように、執拗に撫で回した。
「誰にも見せたくない。……私だけで、壊れるまで愛し尽くしたい」
あの夜からずっと、彼の中に蓄積され続けてきた強烈な嫉妬と独占欲が、今、完全に限界を突破して決壊した。
ファリードの熱い唇が、マーシャの首筋から鎖骨へ、そしてタトゥーの描かれた胸元へと、這うように深い烙印を刻み込んでいく。
「あ……っ、ふぁ、りーど……っ、だめ、そんなとこ……っ」
快感と羞恥に、マーシャの黒曜石の瞳から涙が滲む。
どんな絶望的な盤面でも冷静に計算を弾き出す軍師の頭脳が、彼が与える圧倒的な熱と色香の前に、跡形もなくドロドロに溶かされていく。
「私が玉座に就くまで……と言った、あの地下での呪縛は、とうに解けている」
ファリードはマーシャの耳元に顔を寄せ、彼女の鼓膜を甘く痺れさせる低い声で囁いた。
「これからは、私の生涯が終わるその瞬間まで……お前をこの腕の中から逃がしはしない」
「……っ」
もはや、抗う術など何もなかった。いや、最初から抗うつもりなどなかったのだ。
マーシャは完全に一人の女性として降伏し、震える両腕を彼の広く逞しい背中へと回し、その熱に自身のすべてを委ねた。
「……好きにしろ、私の王様。……もう、どこへも行かないから」
その甘い降伏宣言に、ファリードの金色の瞳が、かつてないほどの深い愛おしさに細められる。
覇王は、自身の生涯を懸けて愛し抜くと決めた最愛の女の唇を深く塞ぎ。過去の嫉妬と現在の圧倒的な愛をすべてぶつけるように、朝が来るまで、彼女を好き放題に、甘く、激しく蹂躙し尽くした。
血と泥に塗れた長い長い修羅の道の果て。
大帝国を統べる覇王と、その手綱を握る異界の悪魔は、重く閉ざされた真夜中の鳥籠の中で、この世界で最も幸せで、狂おしいほどに甘い極上の夜明けを迎えたのであった。




