第三部7
王都グラナダの空は、大帝国最強の盾の死を悼むように、静かな薄曇りに覆われていた。
凱旋の熱狂が落ち着いた数日後。王立墓地の広大な石畳の広場にて、タリクの盛大な国葬が執り行われていた。
数多の白い百合で飾られた重厚な棺。その前にすがりつき、声を枯らして号泣しているのは、かつて黒岩族の村で彼に命を救われた、看護班の若い少女だった。
「タリク様……っ、うわあああんッ! どうして……っ、私、また夜食の干し肉、いっぱい持ってきたのに……っ!」
彼女は、タリクが夜営のたびに不器用に微笑んで受け取ってくれていた手作りの包みを胸に抱きしめ、子どものように泣きじゃくっている。
その背中を、カディルが痛ましげに目を伏せて撫で、ザイドは空を仰いで必死に涙を堪えていた。
列列の最前列。喪服の代わりに漆黒の外套を纏ったマーシャは、静かに友の棺を見つめていた。
白百合のむせ返るような香りと、冷たい風が頬を撫でる。
彼女はもう、迷子のように涙を流すことはなかった。自身の胸の奥深くに、大盾の重さと、彼が遺してくれた温かい記憶をしっかりと刻み込む。
(……見守っていてくれ、タリク)
マーシャは黒曜石の瞳に、揺るぎない決意の炎を灯した。
(お前が命懸けで守ってくれたこの平和を。私が生きる『居場所』を……もう二度と、誰にも壊させはしない)
悲しみを強靭な意志へと変え、マーシャは静かに、しかし絶対の誓いを立てたのであった。
* * *
【編集者より】
タリクという大きな犠牲を払った後だからこそ、カディルが守り抜いた「日常」の温かさが胸を打つ、極上の感動シーンですね。
血生臭い戦場から帰ってきた生真面目な騎士の葛藤、レイラの深い愛情、そしてマーシャが小さな命に触れて「タリクが何を守りたかったのか」を悟る展開。ご指定の感情の機微と情景を、胸が熱くなるような限界の出力で執筆いたしました。
第10章:鋼の騎士と、受け継がれる明日
大帝国最強の盾として散ったタリクの盛大な弔いが終わり、王城の居住区にようやく静かな夕暮れが訪れた頃。
数週間に及ぶ過酷な西の港塞都市への遠征から帰還した近衛騎士団長カディルは、重い足取りで自身の屋敷の門をくぐった。
彼の身を包む白銀の甲冑には、新大陸帝国との死闘を物語る無数の傷と、どうしても洗い落とせなかった赤黒い血のシミがこびりついている。顔の火傷の痕には深い疲労が刻まれ、その広い背中は、長年背中を預け合ってきた戦友を失った深い喪失感で、ひどく小さく見えた。
ギィ……と、屋敷の重厚な扉を開ける。
「――おかえりなさいませ、旦那様」
玄関の柔らかな灯りの中に立っていたのは、かつてのザルカ帝国外交武官としての鋭い制服姿ではなく、温かく柔らかな平服に身を包んだ妻・レイラであった。
彼女は、夫が無事に帰還した安堵と、彼がどれほどの悲しみを背負って帰ってきたかを察したように、美しい瞳に涙をいっぱいに浮かべて微笑んでいた。
「ぱぱー!」
その時。レイラの足元から、舌足らずで甲高い、鈴を転がすような声が響いた。
二人の間に生まれた、二歳になる愛娘だ。小さな影がトテトテと頼りない足取りで石畳を駆け寄ってくると、カディルの足元にすがりつき、短い腕を一生懸命に上へと伸ばして「だっこ!」とねだってきた。
過酷で血生臭い修羅の戦場から帰ってきたカディルは、その柔らかく穢れのない体温と声に、ハッと我に返った。
しかし、生真面目すぎる彼は、咄嗟に後ずさりして一歩後ろへ下がってしまった。
「ま、待ちなさい! 父の鎧は、まだ敵の血と泥の穢れが落ちきっていない。お前のその綺麗な服が汚れてしまう……っ」
血生臭く、友を死なせてしまった無力な自分が、まだこの純真で美しい娘に触れてはいけないのではないか。
そう戸惑い、自身の汚れた分厚い籠手を見つめるカディル。
しかし、レイラが静かに歩み寄ると、彼女はその白く滑らかな両手で、カディルの血と泥に塗れた鋼の籠手を、躊躇うことなく優しく包み込んだ。
「レイラ……?」
「この穢れは、決して恥じるべきものではありません。……私たち家族と、この帝国を命懸けで守り抜いてくださった、誇り高き名誉の証ではありませんか」
レイラは夫の大きな手を取り、そっと自身の頬へとすり寄せた。
「貴方が矢面に立ち続けてくれたから、私たちは今日もこうして笑っていられます。……娘も、ずっとずっと、貴方をお待ちしておりましたよ」
その慈愛に満ちた言葉に。カディルの隻眼から、張り詰めていた糸が切れたように、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
彼はガシャンと膝をつくと、冷たく硬い鎧のパーツが当たらないように細心の注意を払いながら、自身の足元にすがりつく愛娘の小さな身体を、震える大きな手でそっと、しかし力強く抱きしめた。
「あぁ……っ。ただいま、戻った……っ」
嗚咽を漏らす鋼の騎士と、彼を温かく包み込む家族の姿。
「……相変わらず、堅苦しい旦那だ。娘が抱っこをねだってるんだ、血の匂いくらい気にするな」
その時、開け放たれた屋敷の門の影から、ダボついた外套を羽織ったマーシャが、ひょっこりと顔を出した。
「ぐ、軍師殿!?」
カディルは慌てて涙を拭い、居住まいを正して立ち上がろうとしたが、マーシャはヒラヒラと手を振ってそれを制し、ゆっくりと近づいてきた。
「もう軍師殿と畏まらなくていい。平原の宴でバレたんだ、もう男のフリはしない。……それにしても、見ない間に随分と大きくなったな」
マーシャは小柄な背丈を活かしてカディルの前にしゃがみ込み、彼の腕の中にいる二歳の娘と目線を合わせた。
レイラが深々と、床に崩れ落ちんばかりの敬意を持って頭を下げる。
「軍師様……。旦那様を、無事に私たちの元へ帰していただき、本当に、本当にありがとうございます」
「よせ。私が彼に助けられたんだ。アデンの市街地では、彼やタリクがいなければ、私はとっくに挽肉になっていた」
マーシャは優しく微笑みながら首を振った。
すると、カディルの腕の中にいた娘が、見慣れない「黒い瞳の綺麗なお姉ちゃん」を不思議そうに見つめ、小さな手を伸ばして、マーシャの艶やかな黒髪をそっと引っ張った。
「こ、こら! 軍師殿になんという無礼を……っ!」
カディルが顔面蒼白になって大慌てするが、マーシャは「痛い痛い」と笑いながら、娘のふっくらとした柔らかい頬を、自身の剣ダコだらけの荒れた指先でそっと撫でた。
――その、温かく、穢れのない小さな命の感触。
マーシャの脳裏に、瓦礫の中で血に染まって微笑んでいた、タリクの最期の顔が過った。
あの優しき大盾が、自らの命を懸けて守り抜きたかったもの。それは、単なる大帝国の領土や、地図上の線引きなどではない。
カディルやレイラ、そしてこの小さな娘が、明日もこうして温かい家で笑い合える『ありふれた日常』だったのだと。
(……ああ。やっぱり私たちが戦う盤面は、決して間違っていない)
マーシャは心の奥底で静かに納得し、意地悪な笑みを浮かべてカディルを見上げた。
「……良い娘だ。カディルの不格好な火傷の痕じゃなく、レイラの美貌に似て本当によかったな」
「む、娘は私の自慢の宝ですぞ! それに、私の顔は歴戦の――」
カディルが顔を真っ赤にして反論し、レイラが口元を押さえてクスクスと笑い声をこぼす。いつもの、彼ららしい騒がしくも温かいやり取り。
「しばらくは戦もない。今日はゆっくり家族で過ごせ、カディル」
マーシャは立ち上がり、踵を返した。
そして、夜の帳が下り始めた王都の空を見上げながら、背中越しに静かな、しかし鋼鉄のように硬い『誓い』を落とした。
「……カディル。タリクが命を懸けて守ったこの子たちの未来を。今度は私たちが、絶対に、最後まで守り抜くぞ」
その言葉の重みに。
カディルは腕の中の娘をレイラへとそっと預け、大帝国の最強の騎士として、そして一人の父親として、自身の前を歩く悪魔の軍師に向かって、深く、深く一礼した。
「御意に。――我が命に代えましても」
静かな夕暮れの王都に響いたその誓いは。新大陸帝国という未知の絶望へと立ち向かう彼らの、決して折れることのない新たな盾となったのである。
葬儀が終わり、静寂を取り戻した王城・玉座の間。
高い天井からステンドグラス越しの光が差し込む大空間の中央には、大帝国を統べる覇王ファリードの巨大な玉座が鎮座している。
そして、その玉座のすぐ右隣。
そこには、王の座よりも一段だけ低い、豪奢な彫刻が施された『もう一つの椅子』が置かれていた。
この二年間。ファリードが王城の権力を完全に掌握して以降、誰一人として座ることを許されず、触れることすら死罪とされた絶対不可侵の領域。
それは、彼がいつか舞い戻る自身の半身のためだけに、血を吐くような孤独の中で守り続けてきた『軍師の椅子』であった。
コツン、コツンと。
大理石の床を鳴らし、マーシャが玉座へと続く赤い絨毯を歩いていく。
かつての小汚い少年の出立ちではない。帝国の最上級の絹で仕立てられた、深い蒼の豪奢なドレス。艶やかな黒髪を結い上げ、息を呑むほどに研ぎ澄まされた大人の女性の美貌を堂々と晒した彼女は、誰の目から見ても、覇王の隣に並び立つに相応しい威厳に満ちていた。
ファリードは玉座に座ったまま、無言で彼女の歩みを見つめている。
その金色の瞳の奥で、長すぎた孤独と渇きが、音を立てて満たされていくのが分かった。
マーシャはファリードの隣まで歩み寄ると、ドレスの裾を優雅に払い、二年間空席だったその椅子へと、静かに、そして堂々と腰を下ろした。
「……座り心地は悪くないな。手入れが行き届いている」
マーシャが不敵に口角を上げると、ファリードは堪えきれないように、腹の底から低く、悦びに満ちた笑い声を漏らした。
「当然だ。……お前以外の者が座るなど、想像しただけで叩き斬りたくなる」
ファリードの大きな手が、肘掛けに置かれたマーシャの手に重なり、指を絡めて強く握り込まれる。
主の不在だった帝国に、ついに最後の、そして最も重要なピースがはめ込まれた。覇王と悪魔。二人の魂の共犯関係が、真の意味で完成した瞬間であった。
* * *
翌日。玉座の間で開かれた、新大陸帝国迎撃に向けた大規模な御前会議。
王都に居残っていた大貴族や重臣たちがズラリと居並ぶ中、平和な政の再開を告げるはずのその場は、冒頭から信じられないほどのパニックに陥っていた。
「……以上の戦後処理に加え、本日、皆に伝えておくべき決定事項がある」
玉座から見下ろすファリードが、淡々と、しかし場を支配する絶対的な声で告げた。
「ここにいる女性を、大帝国シャジャルの『正妃』として迎える」
――シーン、と。
水を打ったような静寂が数秒続いた後、玉座の間が爆発したような騒然たる空気に包まれた。
「な、なんだとォッ!?」
「せ、正妃!? 側室ではなく、正妃だとおっしゃるのか!!」
貴族たちが顔を真っ赤にして叫び、目を剥いている。
彼らがパニックに陥るのも無理はなかった。この二年間、彼らはファリードに取り入ろうと、自派閥の息のかかった絶世の美女や令嬢たちを、あの手この手で王宮へ送り込んできた。
だが、ファリードはそれらの女たちを、路傍の汚物を見るような絶対零度の視線でことごとく冷酷に退けてきたのだ。「我が王は、生涯独身を貫くおつもりか」と噂されていた矢先の、唐突すぎる結婚宣言。
しかも、玉座の隣で涼しい顔をして座っているその女は、誰も見たことがない異国風の顔立ちをしている。
彼女がかつての泥だらけで口の悪い「悪魔の軍師」であることなど、美しいドレス姿の今の彼女を見て、誰一人として気づくはずもなかった。
「へ、陛下! 恐れながら申し上げます!!」
恰幅の良い大貴族の一人が、血相を変えて進み出た。
「どこの馬の骨とも知れぬ、血統も不確かな外国の女を正妃に迎えるなど、帝国の歴史に対する冒涜にございます! 第一、我々が差し出した由緒正しき姫君たちを差し置いて、あのような――」
「――私の言葉が、聞こえなかったか?」
大貴族の抗議を、ファリードの底冷えするような低い声が完全に叩き潰した。
空気が凍りつく。玉座から見下ろすファリードの金色の瞳は、一切の感情を排した、紛れもない『殺戮者』の目であった。
「私は貴様らに許可を求めたのではない。決定事項を伝えたのだ」
チャキッ……と。ファリードの背後に控える近衛騎士団長カディルが、無言で剣の柄に手をかける。
「これは、私が玉座に就く前から決まっていた、私の生涯で唯一の誓いだ。……私の決定に異を唱える者は、一族もろともこの王都から追放し、二度と帝国の土を踏ませぬものと思え」
「ひっ……!」
圧倒的な覇王の威圧感と、微塵の冗談も通じない本気の殺気を前に、大貴族は腰を抜かして床にへたり込み、他の重臣たちも青ざめて一斉に平伏した。
恐怖による完全なる沈黙。誰一人として、反論の声を上げる者はいなくなった。
その痛快極まりない光景を玉座の隣で眺めながら、マーシャは呆れたように小さく息を吐いた。
「……相変わらず、無茶苦茶な暴君だな、あんたは」
「暴君で構わん。お前を私の隣に縛り付けておけるなら、歴史にどれほど悪名を残そうと安いものだ」
ファリードは玉座の肘掛けに頬杖をつき、恐怖に震える貴族たちなど見向きもせず、ただひたすらに愛おしそうにマーシャだけを見つめて微笑んだ。
「それに。私の命などとうに、この恐ろしい悪魔に握られているのだからな」
公の場での、重すぎる愛の告白と完全なる降伏宣言。
マーシャは顔を微かに朱に染めながらも、不敵で、この世界で最も美しい悪辣な笑みを浮かべ、彼の差し出した手をしっかりと握り返した。
誰も逆らうことのできない覇王と、その手綱を握る異界の悪魔。史上最凶の夫婦が誕生した瞬間であった。




