第三部6
新大陸帝国の軍勢を退け、黒焦げの瓦礫と化したアデンの市街地を奪還した日の夜。
ファリード軍の面々は、艦砲射撃の被害を奇跡的に免れていた、アデン総督の白亜の豪邸へと通されていた。
「おお……っ! 我らが救世主、大帝国の若き覇王陛下! 恐るべき西の蛮族どもを見事打ち破られたその御威光、このアデン総督、感服の極みでございます!」
豪奢なシャンデリアが煌めく大広間。
戦いの最中は地下壕の奥底で震えていた総督が、見事な手のひら返しでファリードに取り入ろうと、豪勢な料理と美女の舞を用意し、顔をテカテカと光らせながら揉み手をしていた。
「ささっ、どうか今宵は、この美酒と宴で戦の疲れを存分に癒やしてくだ――」
「……黙れ」
大広間の空気が、一瞬にして完全に凍結した。
上座に座るファリードは、差し出された黄金の酒杯を一瞥だにせず、路傍の石ころを見るような冷徹な瞳で総督を見下ろしていた。
彼の背後に控えるカディルやザイドたち将軍も、誰一人として酒に手をつけていない。彼らの甲冑や衣服は、敵の返り血と、そして何より『大帝国の最も優しき盾』であったタリクの血で、どす黒く染まったままだった。
「酒も、女も、貴様のその耳障りな声も不要だ。……我らは喪に服す。ただ静かな部屋と、棺を一つ用意しろ」
その氷点下の声に、総督はヒッと喉を鳴らし、ガタガタと震えながら平伏した。
大広間に満ちていた場違いな祝宴の熱気は、圧倒的な死の匂いと悲痛な静寂によって、完全に塗りつぶされたのだった。
その夜。屋敷の奥まった静かな一室に安置された、真新しい木の棺。
揺らめく蝋燭の灯りの中、ファリードとマーシャ、そして将軍たちは、血塗れの鎧を脱ぐこともせず、誰一人言葉を発することなく、ただ静かに友の魂へと祈りを捧げ続けていた。
* * *
深夜。総督の屋敷の最奥、ファリードにあてがわれた豪奢な寝室。
月明かりだけが差し込む静寂の暗闇の中、重厚な扉が、音もなくゆっくりと押し開かれた。
忍び込んできたのは、美しく透けるような夜着を纏った、総督の娘であった。
十九歳という若さでありながら、神々しいまでの美貌と大陸を統べる絶対的な権力を持つ覇王。彼女は分厚い絨毯の上を裸足で歩き、微かな寝息が聞こえる天蓋付きのベッドへと、しなやかな獣のように近づいていく。
(……この若き王の寵愛さえ得られれば、私と一族の未来は盤石なものになるわ)
娘は甘く、むせ返るような香水の匂いを漂わせながら、シーツに包まる男の逞しい輪郭へと、熱を帯びた白い手を伸ばした。
自身の美貌に、男が抗えるはずなどないと確信し、甘い吐息を漏らそうとした、まさにその瞬間。
(――甘ったるい、反吐が出そうな匂いだ)
暗闇の中。寝たふりをしていたファリードは、音もなく氷の瞳を開いていた。
ドロドロの権力闘争が渦巻く王宮で育った彼にとって、甘い香水と露出の多いドレスで擦り寄ってくる女など、毒を隠し持った暗殺者か、己の権力を貪ろうとする浅ましい豚でしかなかった。
何より、ファリードの脳裏には、かつての同盟相手であった美女アミーナが、浅ましい嫉妬からマーシャを見殺しにしようとした『あの夜の激しい憎悪』が今もドス黒くこびりついている。
己の権力に群がってくる女はすべて、自身のたった一つの宝を脅かす、駆除すべき害悪でしかないのだ。
(温室で着飾っただけの肉体など、ただの肉の塊だ。泥と返り血に塗れ、私のために悪辣に笑うあの『悪魔』以外、私を昂らせるものなどこの世に存在しない)
完全に狂っている覇王の美意識。
娘の白い手がシーツに触れるより早く、銀の閃光が暗闇を切り裂いた。
「――誰の許可を得て、私の空間に入った」
娘の首筋に、氷のように冷たい長剣の切っ先が、ピタリと押し当てられた。
「……え?」
娘の血の気が一瞬で引く。
ベッドに横たわっていたはずのファリードは、寝衣のまま、いつの間にか彼女の背後の暗闇に音もなく立ち尽くしていた。
振り返った娘の目に映ったのは、魅了された男の顔などでは断じてなかった。
月光に照らされたその金色の瞳に宿っていたのは、路傍の汚物を見るような、絶対零度の殺意と、生理的な嫌悪。
「ひっ……へ、陛下……お慰めをと……っ」
「私の視界から消えろ」
ファリードの声は、怒声ですらなかった。ただひたすらに冷たく、感情の欠片も存在しない、絶対的な死の宣告。
「その吐き気のする香水の匂いを、一秒でも早くこの部屋から消し去れ。……次に私の部屋の空気を汚せば、一族もろともこの街から追放する」
「あ、あああ……っ!」
首筋に触れた刃の冷たさと、本物の覇王の恐るべき殺気。そして女としての自身の価値を1ミリも認めない完璧な拒絶に触れ、娘は悲鳴すらまともに上げられず、腰を抜かさんばかりの勢いで寝室から逃げ出していった。
* * *
パタパタパタッ! と、娘が泣きながら廊下を走り去っていく足音。
その騒ぎを聞きつけ、隣の部屋の扉がガチャリと開き、ラフな異国の寝衣姿のマーシャが、欠伸を噛み殺しながら顔を出した。
「……どうした、殿下」
マーシャは廊下の奥へ消えていく娘の後ろ姿と、剣を持ったまま不機嫌そうに立つファリードを交互に見比べ、黒曜石の瞳を細めた。
「なるほど、相変わらずおモテになることで。せっかくの総督直々の夜伽の相手を、剣を突きつけて追い出すとは……勿体ないことをする」
「……」
「十九歳の立派な男のくせに、変なところばかり潔癖なままで――」
マーシャが冗談めかして彼をからかおうとした、その言葉の途中で。
ガシッ、と。
ファリードの手がマーシャの腕を無言で掴み、そのまま強引な力で、自身の寝室の暗がりへと彼女を引きずり込んだ。
バタンッ! と扉が閉められ、マーシャの背中が冷たい石壁へとドンッと押し付けられる。
「な、なんだよファリード。冗談だろ……っ」
暗闇の中。逃げ場を塞ぐように両腕を壁についたファリードの顔が、マーシャの目の前まで迫る。
先ほどまでの女に向けた冷酷な覇王の顔は、そこには微塵もなかった。あるのは、今日一日の死闘と親友の喪失に傷つき、ひどく不器用で、どうしようもなく感情を昂らせた「一人の男」の熱情だけだった。
「……お前以外の体温など、想像するだけで虫酸が走る」
ファリードは低い声で唸るように呟くと、手にした剣を床に放り捨て、そのままマーシャの細い首筋へと、すがるように深く顔を埋めた。
(なぜ他の女を抱かないのか。……王として世継ぎを残すのは義務だ。だが、もし私が他の女の肌に触れ、少しでも熱を分け与えてしまえば。ただでさえ、いつでもこの世界から消えてしまいそうなあの根無し草の軍師は、「ああっ、あんたも普通の王様になったんだな。なら私の役目は終わりだ」と、あっさりと私の隣から去っていくに違いない。 ……それが恐ろしいのだ。彼女の冷徹な天秤から、私が「唯一無二の存在」として弾き出されることが。だから私は、彼女以外の誰にも指一本触れるわけにはいかないのだ。私のすべてを彼女に捧げ続けなければ、あの悪魔を繋ぎ止めておくことなどできないのだから)
「ひゃっ……!」
肌に直接触れる、彼の高い体温。
ファリードはマーシャの髪と肌の匂いを、自身の肺の奥底まで満たすように深く、深く吸い込んだ。あの吐き気のする香水の匂いではない。硝煙と泥を洗い流した後の微かな石鹸の匂いと、彼が世界で最も愛おしいと感じる、彼女自身のひだまりのような熱。
「あ、おい……ファリード、重いぞ……」
「私には、お前だけがいればいい」
マーシャの制止の言葉を、耳元で囁かれる重すぎる愛の誓いが完全に飲み込んでいく。
彼の分厚い胸板が、マーシャの小柄な身体を押し潰すように強く密着し、逃げ場を与えない。
「他の誰にも、指一本触れさせないし。……私も、お前以外には絶対に触れない」
タリクを失った今日。王として完璧な盤面を引き直したファリードの心もまた、見えない血を流していたのだ。だからこそ、彼は己の半身であり、唯一の心の拠り所である彼女の存在を、魂を削るように求めている。
「……っ」
首筋に落とされる、熱く、執拗な口づけ。
大人の雄としての圧倒的な色香と、捨て犬のような脆さが同居するその熱量に、マーシャの頭の中で警鐘を鳴らしていた軍師の理性が、完全に溶かされていく。
(……本当に、このどうしようもない王様は……)
マーシャは顔を真っ赤に染めながら、抵抗しようとしていた両手の行き場を失い。
やがて観念したように、小さく息を吐いて、自身の身体を包み込んでいるファリードの広く逞しい背中へと、そっと両腕を回した。
「……分かった。……分かったから、今日はもう、少しだけ力を抜いて」
不器用な慰め。だが、ファリードにとってそれは何よりの救いだった。
ファリードの腕の力がさらに強くなり、彼は夜の暗闇の中で、自身の最愛の軍師の熱と匂いをただひたすらに貪り、深い安堵の中へと溺れていった。
* * *
血と硝煙に塗れたアデンを出発したファリード軍は、数週間に及ぶ重苦しくも誇り高い行軍を経て、ついに大帝国の中心――王都グラナダの近郊へと辿り着いた。
吹き抜ける風が、張り詰めた潮風から、王都周辺の豊かな麦畑と乾いた土の匂いへと変わっていく。
馬蹄の規則正しい響きに混じり、木製の荷馬車が軋む音が静かに続いている。その荷馬車には、大帝国の最も優しき盾であったタリクの棺が、道中で手向けられた無数の白い花に包まれて、穏やかに眠っていた。
なだらかな丘を越え、陽光を反射して眩く輝くグラナダの白亜の城壁が視界に飛び込んできた瞬間。
馬上からその威容を見上げたマーシャの胸に、数え切れないほどの激情が、波のように押し寄せては引いていった。
三年前。あの城壁の地下深く、冷たく暗い『禁書庫』で、日本への帰還を叶える星の門が砕け散った日。
絶望の中でミサンガを引きちぎり、「あんたを王にして、私がこの異世界で一番の権力者になってやる」と、彼と共に地獄へ落ちる覚悟を決めた因縁の地。
そして二年前。彼を無事に玉座へと就かせ、平和が訪れた途端に、自分の存在意義と居場所を見失ってしまった場所。
血と泥に塗れた盤面でしか生きられない自分に嫌気が差し、逃げるようにこの街から旅立った日の、足元のひどい覚束なさ。
かつての彼女は、どこまでいっても「異世界から来た孤独な迷子」でしかなかった。日本へ帰ることもできず、かといってこの血生臭い世界に馴染み切ることもできない、宙ぶらりんな魂。
――だが、今は違う。
マーシャは背後の荷馬車、静かに眠るタリクの棺を振り返った。
命を懸けて自分たちを守り抜いてくれた、不器用で温かい家族。彼を失った悲しみと喪失感は、決して消えることはない。しかし、彼が遺してくれた大盾の重さと温もりが、マーシャの魂をこの異世界の大地へと、確かな質量をもって縫い付けていた。
視線を前に戻せば、カディルが友への誓いを胸に背筋を伸ばして進み、ザイドが悲しみを堪えながらも前を向いている。
そして隣には、白銀の甲冑を纏い、威風堂々と軍を率いる一人の覇王がいる。
どんなに離れても、決して自分を手放そうとしなかった不器用で恐ろしい男。
彼にすべてを明け渡し、大人の女として深く愛されたあの夜を経て。マーシャの中にあった「迷子」の孤独は、もう跡形もなく消え去っていた。
ギィィィッ、と。
王都の巨大な正門が、凱旋する軍勢を迎え入れるために重々しい音を立てて開かれていく。歓迎の鐘の音が、高く、遠くまで響き渡る。
その時だった。
隣を並走していたファリードが、手綱から片手を離し、マーシャへとそっと手を伸ばしてきた。
彼は、マーシャの左手――かつて日本のミサンガが巻かれており、今は彼自身が熱い執着の口づけを刻み込んだその手首を滑り降り、彼女の手のひらを、縋るように、そして決して逃がさない強さで力強く握りしめた。
剣ダコだらけの、大きくて温かい手。
マーシャが驚いて顔を向けると、ファリードは前を向いたまま、その金色の瞳を柔らかく細め、ひどく甘く、深い安堵を込めた声で囁いた。
「……おかえり、私の軍師」
その言葉は、王から家臣への労いではない。
ただの一人の男が、長い長い空白の時間を経て、ようやく自身の腕の中へと戻ってきた最愛の半身へと贈る、魂の祝福だった。
マーシャは握られた手の熱に、胸の奥がじんわりと、泣きたくなるほど温かくなるのを感じながら。
ターバンの奥で、今までこの世界で見せたどんな顔よりも美しく、柔らかい笑みを浮かべて、彼の手を強く握り返した。
「ああ。……ただいま、ファリード」
それは、悪魔の軍師マーシャが、本当の意味でこの異世界に根を下ろし、ここを『自身の帰る場所』として見据えた瞬間であった。
タリクの魂と共に、誇り高く正門をくぐる大帝国の軍勢。
未知なる新大陸帝国との、さらなる苛烈な激乱が待ち受ける第三部の盤面へ向けて。覇王と悪魔の最強の共犯者は、ついに二人の因縁の地であり、真の居場所である王都グラナダへと、美しくも重厚な凱旋を果たしたのである。




