第三部4
ファリードが公務へと向かい、「黒船来襲」の凶報を受けた数時間後。
すでにお昼を回った頃、マーシャは分厚いペルシャ絨毯が敷かれた皇帝の寝所で、ようやく鉛のように重い瞼を開いた。
「……っ、痛ッ……」
起き上がろうとした瞬間。全身の関節と筋肉が軋むように悲鳴を上げ、マーシャは思わず顔をしかめてシーツに突っ伏した。
かつて戦場で死線を潜り抜けた時以上の、全く別の疲労感と腰の痛み。昨夜から今朝にかけて、十九歳に成長したファリードの底知れぬ飢餓感と執着に完全に押し切られ、理性をドロドロに溶かされるような熱で何度も抱き潰された生々しい記憶がフラッシュバックする。
(……あのヒヨッコめ、手加減というものを知らないのか……ッ!)
マーシャは火が出るほど赤面し、シーツを頭から被りそうになった。
しかし、自身の身体を包むシーツのすぐ横には、誰かが綺麗に畳んで用意してくれた『女性用の動きやすい異国の旅装』と、ピカピカに磨き上げられた彼女の愛用の『双短剣』が置かれていた。
ファリードだ。彼が朝、出立する前に用意しておいてくれたに違いない。
その不器用な気遣いに少しだけ頬を緩ませた直後。天幕の外から、平和な王城には似つかわしくない、兵士たちの慌ただしい足音と怒号が飛び込んできた。
『急げ! 武器庫を開けろ!!』
『西の防衛線が突破されたぞ!!』
その只事ではない空気に触れた瞬間、マーシャの顔から羞恥が完全に消え去り、瞬時に「悪魔の軍師」の冷徹な顔へと切り替わった。
彼女は痛む身体に鞭を打って急いで着替えを済ませると、双短剣を腰に帯び、本陣の作戦室へと駆け出した。
* * *
作戦室では、かつてないほど緊迫した空気が張り詰めていた。
「……西の港湾都市が、すでに火の海だと!? 敵の兵力は!」
「分かりませぬ! 敵は上陸せず、海に浮かぶ巨大な『鉄の船』から、雷のような轟音と共に城壁を粉砕する見えない弾を撃ち込んできているのです!」
顔の火傷の痕を険しく歪めるカディルや、青ざめて地図を睨みつけるザイド。彼らの前に立ち、ファリードが腕を組んで冷徹に戦況を分析している。
「……相変わらず、騒がしい連中だ」
そこへ、凛とした女性の旅装姿のまま、マーシャが作戦室に足を踏み入れた。
「ぐ、軍師殿! お加減はよろしいのですか!?」
昨夜の「宴の抜け出し」を知っているカディルたちが、気まずさと安堵が入り交じった顔で慌てて道を開ける。それをよそに、マーシャは真っ直ぐに地図の前に立つファリードの隣へと並んだ。
ファリードは彼女の無事な姿を見ると、周囲の将軍たちには絶対に見せない、酷く甘く、愛おしそうな瞳を一瞬だけマーシャに向けた。
(無理をするなと言っただろう)と目で語りかけてくるその覇王に、マーシャは(お前のせいだ)と鋭く睨み返す。
しかし、ファリードはすぐにその熱を隠し、再び絶対的な覇王の冷徹な仮面を引き締めた。
「マーシャ、状況は聞いたか。西の海から未知の敵だ」
「ああ。……『鉄の船』に、遠距離から城壁を砕く轟音。間違いないな」
マーシャの黒曜石の瞳が、獰猛な理知の光を放つ。
「お前たちも見たはずだ。三年前、王都の地下の禁書庫にあった古い記述を。……『星の門を諦めた一部の悪魔たちは、鉄の船を造り、西の海の果てへと去っていった』という一文をな」
「なっ……! では、あれは!」
カディルが息を呑む。
「そうだ。かつてこの大陸に星の門を創った『異界の悪魔』たちの末裔。……私たちの戦術の常識が一切通じない、近代兵器(火薬と銃砲)を持った新大陸帝国の軍勢だ」
圧倒的な未知の脅威。防衛線を容易く粉砕する、理不尽な暴力。
しかし、マーシャの唇には、絶望ではなく不敵で悪辣な笑みが浮かんでいた。
「定石が通じないなら、私たちが新しい定石を創るまでだ。……カディル、タリク!」
ビクッ、と名指しされた二人が背筋を伸ばす。
「前回と同様に盾を構えて密集陣形を組むのではなく 、戦場に着いたら直ちにスコップを持て! 平原の地面を深く掘り、泥の中に潜る『塹壕』を構築するんだ!」
「わかった!」
さらに彼女は、部屋の隅でニヤニヤと笑っているイブンへと鋭く指示を飛ばした。
「イブン! あんたの毒物部隊の出番だ。前と同じく毒は抜いていい、とにかく発煙性の高い薬草をかき集めろ! 何度も言うが敵の火器の最大の弱点は、視界がなければ狙いが定まらないことだ。平原全体を濃霧(煙幕)で覆い尽くせ!」
「ヒッヒッヒ! お任せを、軍師殿!」
そこまで指示を出し終えると、マーシャはふう、と息を吐き、机の上の地図を獰猛な瞳で睨みつけた。
「だが、塹壕と煙幕はあくまで『防ぐ』ための盾にすぎない。ここからが本番だ。奴らの火器を完全に無力化し、狩り尽くすための『矛』……私の故郷の歴史(攻城戦)の知識を教えてやる」
マーシャは短剣の切っ先で、地図上の平原の横を流れる「川」と、自軍の「前衛」を指し示した。
「カディル。鉄の大盾はすべて捨てろ。代わりに、陣営中の生木や竹を集め、濡らした毛布と一緒にロープでガチガチに縛り上げた『巨大な木の束(竹束)』を大量に作れ」
「き、木の束、だって? 鉄の盾すら紙屑のように貫く敵の武器を、木で防げると?」
「防げる。いや、木だからこそ止まるんだ」
マーシャの物理法則に則った自信満々の言葉に、将軍たちが息を呑む。
「敵の『鉄の筒』から放たれる鉛の弾は、硬い鉄板は容易く貫通する。だが、柔らかく分厚い木の繊維と、たっぷり含ませた水気には、回転と威力を吸収されて途中で止まるんだ。これを転がしながら前進する『動く防壁』にする」
「なんと……!」
「そしてタリク! 敵のあの大砲……威力は凄まじいが、弱点はその『異常な重さ』だ。塹壕を掘るついでに、平原の横にある川の堰を切り、戦場に水を流し込め! 煙幕で前が見えない中、奴らが重い大砲を前進させればどうなる?」
その言葉に。
裏社会で数々の罠を仕掛けてきたザイドが、ハッとして悪党の笑みを浮かべた。
「……鉄の車輪が泥に沈み込んで、身動きが取れなくなる……!」
「その通りだ。どれだけ強力な近代兵器だろうと、底なしの泥沼に沈めば、二度と筒の向きを変えられない『ただの重い鉄のガラクタ』だ」
マーシャは地図に短剣を深々と突き立て、極悪非道な軍師の笑みを満面に浮かべた。
「奴らの綺麗な陣形と最新鋭の兵器を、私たちの最も得意な『泥試合』に引きずり込んでやる」
未知の兵器という理不尽な暴力に対し、軍師が即座に叩き出した「近代戦術へのアップデート」。
単なる防御に留まらない、敵の特性(貫通力と重量)を完全に逆手に取った泥臭くもえげつない戦術の数々に、将軍たちの顔から未知への恐怖が消え去り、獰猛な闘志が蘇っていく。
「……行くぞ、お前たち」
ファリードが、マーシャの描いた新しい盤面に絶対の信頼を置き、覇王の剣を抜き放った。
彼の金色の瞳は、これほどまでに頼もしく、誰よりも悪辣な自身の半身(軍師)への誇りと愛執で満ち溢れていた。
「我が軍師の命に従い、新大陸の愚か者どもを大帝国の泥濘に引きずり込め!!」




