第三部2
新大陸帝国による理不尽な侵攻を、塹壕と泥臭い白兵戦によって完全に退けたその日の夜。
王都へすぐには凱旋せず、血と泥に塗れた平原の野営地では、生き残った喜びと悪魔の軍師の帰還を祝う、盛大な再会の宴が開かれていた。
パチパチと爆ぜる大きな焚き火を囲む、将軍たちの特等席。
安いエール酒と、焼き上がったばかりの肉の匂いが漂う中、兵士たちのドンチャン騒ぎを眺めながら、マーシャは火の傍らに腰を下ろした。
「……相変わらず、騒がしい連中だ」
呆れたように笑いながら、マーシャが手元の酒杯を揺らす。
その瞬間。火を囲んでいたカディル、ザイド、タリク、イブンの四将軍が、揃ってビクゥッ!と肩を跳ねさせ、幽霊でも見たような顔でマーシャを凝視した。
「あ、兄貴……? 今、なんて……?」
ザイドが震える声で尋ねる。
「なんだ、ザイド。耳まで悪くなったのか? 騒がしい連中だと言ったんだよ」
凛とした、鈴の転がるような美しい女性の声。
かつて彼らが聞き慣れていた、低くて少ししゃがれた少年の声では全くない。
しかし、その人を小馬鹿にしたような悪辣な口調と、言葉の節々に滲む尊大な態度は、間違いなく彼らの知る、悪魔の軍師そのものであった。
「ぐ、軍師殿……っ、そのお声は、一体……!? まさか魔法で喉を!?」
カディルが混乱の極みに達して叫ぶ。
「魔法なんかあるか。……単に、気道と首の筋肉を締め付けて、喉を潰しながら無理やり低い声を作っていただけだ」
マーシャはケロッとした顔で、串焼きの肉を齧りながら答えた。
「流石にこの2年間、ずっと本来の女の姿で気楽に旅をしていたからな。声帯が元に戻ってしまって、もうあの低い少年声は出せんのだ」
「「「喉を潰して作ってたァ!?」」」 将軍たちの驚愕のハモりが、夜空に響き渡った。
「ヒッヒッヒ……なんという荒業。一歩間違えば一生声が出なくなるというのに、それをごく自然に何年間も日常で行っていたと……。さすがは悪魔の軍師殿、狂っておられる」
イブンが感心したように、そして少しドン引きしながら拍手を送る。 隣では巨漢のタリクが、「ウンウン」と涙ぐみながら、マーシャの器に山盛りの焼肉を無言で乗せていた。親戚の娘の成長を喜ぶ叔父のような顔である。
「……で。兄貴は、この長すぎる二年間、一体どこで何をしてたんだよ?」
ザイドがようやく驚きから立ち直り、エール酒を煽りながら身を乗り出した。
「俺たち、てっきり殿下と喧嘩でもして愛想を尽かしたのかと思って、ずっとヒヤヒヤしてたんだぜ」
「喧嘩じゃない。……ただ、少し客観的に、偏りのない視点で、この世界を見てみたかったんだ」
マーシャは焚き火の炎を見つめ、静かに微笑んだ。
「身分を隠して、大陸中を旅したよ。北の雪山から南の砂漠まで歩き回って、農民と一緒に安い酒を飲んだり、商人の護衛をして日銭を稼いだり……。あんたたちが泥水を啜って守り抜いた平和な世界は、美しくて、ひどく退屈で……最高だったよ」
その言葉に、将軍たちの顔に安堵と、確かな誇らしげな色が浮かぶ。
「なら良かった。……俺たちも、この二年間でずいぶんと変わったぜ」
ザイドが自慢げに胸を張る。
「俺は帝国の裏を牛耳る密偵の元締めだ。まあ、ザルカで出会ったあの気の強よ女に完全に尻に敷かれて、小遣い制になっちまったがな!」
「ヒッヒッヒ。私は妻と共に、王都に巨大な毒物研究所を設立しましたぞ。近頃は新種の毒を試す実験体が足りず、死刑囚の確保に難儀しておりましてな」
「私は王都の治安維持と、軍の再編に尽力しておりました。……それと、その、恥ずかしながら……レイラとの間に、近々子が産まれる予定でして」
顔の火傷の痕を真っ赤にして照れる堅物騎士カディルの爆弾発言に、「「「おおおっ!?」」」と陣営中から大歓声と祝福の口笛が上がる。
そして、隣に座る巨漢のタリクは、無言のまま、自身の太い首にかけられた小さな花冠の押し花の飾りを指差した。かつて黒岩族の村で助け、今は立派な看護班員となったあの少女からもらったものを、ずっと大切に身につけているのだ。 タリクは照れくさそうに笑い、マーシャの器にさらにドンッ!と巨大な骨付き肉を追加した。
「……ありがとう、タリク。皆も、それぞれちゃんと自分の根を張って生きていたんだな」
マーシャは山盛りの肉を頬張りながら、黒曜石の瞳を優しく細めた。 互いの空白の時間を埋め、血の繋がりを超えた『家族』としての絆を確かめ合う、かけがえのない温かい時間。 日本にはもう帰れない。だが、この血と泥に塗れた平原の夜空の下にこそ、自分が命を懸けて選び取った、絶対に手放したくない『本当の居場所』があるのだと、マーシャは心から実感していた。
――その温かい焚き火の輪へ向かって、暗がりから足早に近づいてくる背の高い影があった。 陣中の見回りを終えた、ファリードである。
表向きは、敗走した敵の残党を警戒するための王としての責務であった。 だが、白銀の甲冑の下で、彼の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、その胸の奥では爆発しそうなほどの飢餓感と情念が荒れ狂っていた。
(……二年間。どれほどこの日を待ちわびたか)
限界まで高ぶった自身の理性を夜風で少しでも冷まし、完璧な皇帝として彼女の前に立とうとしたのだが、完全に逆効果だった。 早く彼女の顔が見たい、声が聞きたい。 そして何より、あの焚き火の輪から、ザイドたち男の将軍たちと親しげに笑い合う彼女の声が聞こえてくるたび、腹の底がドス黒い嫉妬と焦燥で煮え繰り返りそうになるのだ。
(他の誰にも触れさせない。……今夜こそ、二度と逃げられないように、私の腕の中に永遠に閉じ込めてやる)
とうに理性のタガが外れかけているその愛執をひた隠しにし、ファリードは限界まで歩調を早めて焚き火の輪に加わった。 そして、当然のようにマーシャのすぐ隣――自身の最も愛おしい半身の横という、誰にも譲る気のない特等席へと、どっかりと腰を下ろした。
その瞬間。
二人の間に流れる重すぎる空気に全く気づいていない、生真面目なカディルが、突如として天を仰ぎ、滝のような涙を流して両手を組んだ。
「おおお……っ! 神よ、感謝いたします……!」
「カディル? どうした、頭でも打ったか」
マーシャが怪訝な顔をする。
「私には分かっていたのです! 殿下が女を遠ざけ、小柄な男の軍師殿ばかりを贔屓なさっていたことも……すべては、この美しき真の軍師殿へのご寵愛ゆえであったか!」
カディルは男泣きに泣きながら、ファリードに向かって深く平伏した。
「殿下が、妖婦に狂ったわけでも、男色に走られたわけでもなく……心から一人の軍師殿を愛しておられたのだと! おお……殿下は、正気であらせられた!!」
「ぶふっ!?」
エール酒を飲んでいたマーシャが、豪快に吹き出した。
(愛しておられたって! この堅物は、真っ直ぐすぎるだろ!!)
むせるマーシャの背中を、ファリードが「……その通りだ」と全く否定せずに、ひどく満足げな顔でポンポンと撫でている。
しかし、カディルの感動の涙とは対照的に。
焚き火の反対側で、ザイドの顔面から見る見るうちに血の気が引いていた。彼は己の両手を見つめ、ガチガチと歯の根を鳴らして震え始めたのだ。
「……ま、待てよ」
ザイドが青ざめた顔で、マーシャとファリードを交互に指差す。
「俺……昔、軍師殿が女だなんてこれっぽっちも知らねェ頃……この、女の肩を思いっきり組んで、安酒飲んで、馬鹿話してたよな……? 頭撫でてもらったこともあったよな……?」
ザイドの言葉に、ファリードの撫でる手がピタリと止まり、その金色の瞳が、スッと絶対零度の冷たさでザイドを射抜いた。
「ヒッ!?」
「……そうだ、ザイド。貴様、よく私の軍師に気安く触れていたな。当時のことを、今一度じっくり語り合おうではないか」
「あああああァァァッ!! だからかァァッ!!」
ザイドは頭を抱え、焚き火の前で土下座した。
「だからあの時! 俺が兄貴と肩を組むたびに、殿下が俺の腕をへし折りそうな目で睨みつけてきてたのか! お、俺、とんでもねェ地雷の上でタップダンス踊ってたんじゃねェか! よく生きてたな俺ッ!!」
パニックに陥り、「殿下、殺さないで! 悪気はなかったんですゥ!」と半泣きで謝る密偵の顔役の情けない姿に、マーシャは腹を抱えて大笑いした。
「あっはははは! お前たち、本当に馬鹿だな! いいかザイド、私はこれからもお前たちの『兄貴』だ。性別なんかで遠慮したら、前線に放り出すからな!」
「あ、姉御ォ……! 一生ついていきますぜェ!」
マーシャが笑い涙を拭い、宴の席が和やかな笑いに包まれた、その時だった。
「……ま、待たれよ」
突如、今まで感動の涙を流していたカディルが、雷にでも打たれたようにガタッと立ち上がった。
「どうした旦那、急に大声出して」
「殿下……! ということは、あの時……王都グラナダの高級娼館で、殿下が我を忘れて目を奪われ、あまつさえご自身の大外套で包み込んで連れ去った、あの深紅の衣装の絶世の『踊り子』も……!」
カディルの隻眼が、マーシャの顔と、ファリードの顔を交互に見比べる。
「ゲッ」
マーシャの顔が引き攣り、ファリードは気まずそうにスッと視線を明後日の方向へと逸らした。
「あ、あの夜! 殿下はあのような素性の知れぬ妖婦に王族の純潔を捧げるなどと私が止めたのにも関わらず……! あれが、軍師殿だったというのですか!?」
カディルの驚愕の叫びに、土下座していたザイドが弾かれたように顔を上げた。
「……ほう?」 ザイドの顔に、下世話で悪党らしいニヤニヤ笑いが浮かぶ。
「なんだなんだ堅物の旦那ァ、それは一体何の話だい? すげェ面白そうじゃねェか!」
「ヒッヒッヒ、殿下が娼館で踊り子を連れ去ったと? これは聞き捨てなりませんな」
イブンまでが怪しげな笑い声を上げ、将軍たちが一斉に焚き火から身を乗り出してきた。
「ち、違う! あれは任務で仕方なく踊り子に扮しただけで――」
マーシャが顔を真っ赤にして弁明しようとするが、ザイドはもう止まらない。
「おいおい殿下ァ! 俺たちには内緒で、軍師殿のあんな露出の多い姿やこんな姿を特等席でじっくり鑑賞してたってわけかい!? 抜け駆けはずるいぜ!」
「しかも、ご自身の大外套で包み込んでお持ち帰りとは……ヒッヒッヒ、若き覇王も随分と情熱的であらせられる」
「貴様らッ!! いい加減にしろ、あれは彼女の身を守るための緊急措置で……っ!!」
普段は冷徹な覇王ファリードが、耳の先まで真っ赤に染め上げて怒鳴り声を上げるが、完全に図星を突かれた狼狽っぷりである。
「だいたいお前が勝手に乗り込んでくるからややこしいことになったんだろうが、この過保護なヒヨッコ!!」
「お前が露出の多い格好で男共の前に立つからだろうが!!」
顔を真っ赤にして言い争う最強の二人を囲み、平原の夜空に将軍たちの爆笑が響き渡る。
ひとしきり笑い転げた後、イブンがエール酒の杯を置き、細い顎髭を撫でながらニヤリと笑った。
「ヒッヒッヒ……それにしても殿下。一体いつから、軍師殿が『女』であると気づいておられたのですかな?」
その率直な問いに、宴の席がピタリと静まり返った。
カディルもザイドも、興味津々といった顔でファリードに身を乗り出してくる。 ファリードは気まずそうに咳払いをし、焚き火から視線を逸らした。
「……五年以上前だ。ガレブ渓谷の採石場を落とし、最初の砦を占領した日の夜にな」
「「「さ、五年ッ!?」」」
「湧水池で、偶然……彼女が水を被っているところを見てしまったのだ」
将軍たちの驚愕の叫びが、夜空に木霊した。
「なっ、ということは……殿下は、あの出会って間もない頃からずっと、軍師殿の秘密を知りながら我々を騙していたと!?」
カディルが目玉が飛び出そうなほど驚愕する。
「道理で!!」 ザイドが、膝をバンバンと叩きながら立ち上がった。
「俺たちがこの二年間、殿下の気を引こうと、どんだけ極上の美女を寝所に送り込んでも、氷みたいな目で追い返されるわけだ! アミーナの時だって、見向きもしなかったもんなァ!」
「ええ、まったくですぞ」
イブンがやれやれと首を振る。
「あまりにも女を遠ざけ、ただひたすらに男の軍師の空席の椅子ばかりを見つめておられるものだから……陣営の者たちの間では、ついに陛下は男色に目覚められたという噂が絶えませんでしたからな」
「ぶふっ!」 それを聞いたマーシャが、たまらず酒を吹き出した。
「私もですぞ、殿下!」 カディルが再び天を仰ぎ、大真面目な顔で涙ぐむ。
「この二年間、大帝国のお世継ぎはもはや絶望的かと、私は毎夜天の神に祈っておりました! 殿下が道ならぬ恋情に狂ったのではと……あぁ、本当に、本当に正気であらせられてよかった!!」
「貴様らッ……! 勝手に人の性癖を捏造するな!!」
ファリードが顔を真っ赤にして怒鳴りつけるが、ザイドたちは「いやァ、心配させやがって!」とゲラゲラ笑い転げている。
マーシャは笑い涙を拭いながら、自身の隣で居心地悪そうにそっぽを向いているファリードを見上げた。
(……こいつ、この二年間。私がどこで何をしているかも分からないのに、どんな女にも見向きもせず、ただひたすら私だけを待っていたのか)
皇帝という絶対的な権力を手に入れながら、ただ一人の女のために純潔を守り抜き、周囲から男色だと疑われてお世継ぎを心配されるまで一人で耐え忍んでいた。 そのあまりにも不器用で、重すぎる一途な愛情。
「……馬鹿なヒヨッコだ、本当に」
マーシャは呆れたように小さく息を吐いたが、その黒曜石の瞳はひどく柔らかく細められていた。 彼女は自身の木杯を、不機嫌そうにしているファリードの杯へとカチン、と軽くぶつける。
「まあ、これでカディルの心配の種も一つ減ったわけだ。……私の不在を守り抜いた苦労に、乾杯といくか」
「……お前が言うな、お前が」
ファリードは恨みがましく睨みつけながらも、その金色の瞳の奥には、隠しきれないほどの深い安堵が揺らめいていた。
炎と笑い声に包まれた再会の宴の夜は、彼らの空白の二年間を埋めるように、いつまでも賑やかに続いていくのだった。
「……マーシャ」
ファリードが、ふと彼女の腰に腕を回し、自身の引き締まった体へと引き寄せた。皆の前だというのに、彼はもう自身の愛を隠そうともしない。
「なんだ、過保護な王様」
「おかえり」
そのひどく甘く、深い声に。
マーシャは一瞬だけ目を見開き、そして、照れ隠しのように手元の酒杯をファリードのそれにカチンとぶつけた。
「ああ。……ただいま、ファリード」
涼やかな美女の姿と、最高に悪辣で頼もしい悪魔の言葉。
炎と笑い声に包まれた再会の宴の夜は、大帝国の新たなる伝説の始まりとして、深く、皆の胸に刻まれることとなる。
*
血と泥に塗れた平原の夜。
数刻経っても、この焚き火を囲む再会の宴は、マーシャの帰還と性別判明のパニックも相まって、かつてないほどの熱狂と喧騒に包まれ、全く終わりが見えないでいた。
あちこちで酒樽の底が抜かれ、勝利と奇跡の生還を祝う歌が夜空に響き渡る。 幹部たちが囲む焚き火の特等席でも、すっかり調子を取り戻したザイドが顔を真っ赤にしてエール酒を煽り、普段は生真面目なカディルすらも「今夜ばかりは無礼講だ!」と嬉し泣きしながら杯を空け続けていた。
「いやァ、それにしても兄貴! あんたがこんな美しい女だったなんて、俺ァまだ夢を見てる気分だぜ!」 「まったくです。これからは軍師殿に、むさい野郎どもの真似などさせられませんな!」
ザイドがジョッキ片手にゲラゲラと笑いながらマーシャの肩をバシバシと叩き、カディルも嬉しそうに深く頷く。
元々酒に強いマーシャは「相変わらず暑苦しい奴らだ」と苦笑しながら、彼らから注がれる安いエール酒を気持ちよく喉に流し込んでいた。この泥臭くも温かい場所こそが、自分が選んだ居場所なのだと、心地よい充足感を感じながら。
――しかし。 その賑やかな、永遠に続くかと思われる宴の最中。
マーシャのすぐ隣に座っていた覇王ファリードの、大人の余裕という薄皮一枚で保たれていた理性が、ついに限界を迎えていた。
(……気安く、触れるな)
ファリードの金色の瞳が、マーシャの肩に置かれたザイドの手を、射殺さんばかりの絶対零度で睨みつける。 本来であれば、覇王である彼も勝利の美酒に酔いしれるべき夜だ。だが、彼の手にある木杯には酒ではなく、ただの冷たい白湯が注がれていた。
陣営の者にはひた隠しにしているが、ファリードは酒が弱い。限界を超えて酔えば、冷徹な覇王の仮面が剥がれ、ただの甘えたがりの少年の素顔が露呈してしまうからだ。 だが、今夜彼が一滴も酒を口にしない最大の理由は、それだけではない。
(今夜こそ、二度と逃げられないように私の腕の中に閉じ込めてやるのだ。……酔って理性を失うわけにはいかない)
そう。
彼は今日、二年間待ち焦がれた最愛の半身を、完全に自身のものにすると固く決意していたのだ。だからこそ、万全の素面で彼女を自身の天幕に連れ去るタイミングを、虎視眈々と、それこそ餓死寸前の肉食獣のように狙い澄ましていたのである。
だが、宴は終わらない。それどころか、愛しい彼女は無防備に他の男たちと肩を組み、楽しそうに笑い合っている。
ギリッ……と。 ファリードの手の中で、木杯がミシミシと悲痛な音を立てて軋んだ。
「……殿下?」
軋む木杯の音と、彼の放つ異様な空気に気づいたマーシャが首を傾げた、その瞬間。
ドンッ! と焚き火の薪が跳ねる音と共に、ファリードが無言で立ち上がった。 彼はマーシャの細い腕を、鋼鉄の万力のような力でガシッと掴み上げると、有無を言わさぬ力で彼女を強引に立たせた。
「で、殿下!? いきなり何を……」
「……軍師は疲れている。休ませる」
それだけを低く、地を這うような声で言い捨てると、ファリードはマーシャの腕を引いたまま、本陣の最奥にある自身の巨大な天幕へと、彼女を強引に引きずって歩き出した。
この二年間で完全に大人のそれへと成長した彼の歩幅と腕力に、小柄なマーシャは抵抗する隙すら与えられず、半ば引きずられるようにして連行されていく。
「お、おい! 待てファリード、私はまだザイドと飲んで――」
「黙って歩け」
振り返らずに背中越しに放たれたその声は、絶対零度よりも冷たく、そしてドス黒い炎のように激しく燃えていた。 その背中から立ち上る、理性を焼き切らんばかりの気迫と独占欲に、マーシャは本能的な危機感を覚え、息を呑んで言葉を失う。
一方、取り残された焚き火の輪では。
ザイドたちがジョッキを持ったままポカンと口を開けて見送る中、ただ一人、カディルだけがウンウンと深く頷き、感動の涙を拭っていた。
「おお……。再会の宴の最中であろうと、軍師殿のお身体の疲労を第一に気遣い、強引にでも休ませようとなさるとは……っ。なんという慈悲深き主君! 殿下のあの真剣な眼差し、やはり真の軍師殿へのご寵愛は本物であらせられる!!」
静寂を破ったのは、ただ一人、ウンウンと深く頷いて感動の涙を拭っている生真面目なカディルだった。
しかし、その的外れすぎる感動に、ザイドが持っていたジョッキをドンッと置いて、呆れたような、そしてひどく下世話な笑いを浮かべた。
「……いや旦那。いくらなんでも、アレは絶対そういう健全な休ませ方じゃねェと思うぞ」
「なんだと?」
「気づかなかったのかよ。あの時の殿下の目、完全に飢えきった男の目だったじゃねェか! 今頃あの巨大な天幕の中じゃあ、俺たちの兄貴が文字通り『食われて』……ギャァァァッ!?」
ザイドがニヤニヤと卑猥なジェスチャーを交えて邪推した瞬間、カディルの鉄拳がザイドの頭に容赦なく振り下ろされた。
「不敬であるぞザイド!! 殿下は高貴なる大帝国の王であらせられる! 疲労困憊の軍師殿に対し、そのような獣のような真似をなさるはずがない!! 今頃はきっと、温かい白湯でも飲ませて寝かしつけておられるはずだ!」
「い、痛ェッ!! だから旦那は堅物なんだよ! 二年間もあんな美人の軍師殿を待ってたんだぜ!? あの殿下が白湯なんかで我慢できるわけ――」
「ヒッヒッヒ。私はザイドに賛成ですな」
頭を抱えるザイドの横で、イブンがエール酒を舐めながら怪しげに笑う。
「あの殿下の気迫……。おそらく明日の朝、我が軍師殿は腰が立たなくなっておられるでしょう。念のため、極上の滋養強壮剤と痛み止めを調合しておかねばなりませんな」
「イブン!! 貴様まで何を……ッ!」
「いいぞザイド! イブンの旦那もわかってるゥ!」
カディルが顔を真っ赤にして激怒する中、周囲の傭兵たちも
「いやァ、ついにあのヒヨッコだった殿下が兄貴を食っちまうのか!」
「明日はお赤飯だな!」と、完全にザイドの邪推に同調してゲラゲラと笑い転げ始めた。
「ええい、貴様らッ! 殿下と軍師殿の神聖なる絆を、そのような下世話な妄想で汚すなァァッ!!」
カディルの悲痛な叫びも虚しく。 外での下世話な邪推と大爆笑が響き渡る中、防音性の高い本陣の天幕の奥深くでは、彼らの予想を遥かに超える熱量で、覇王による軍師の捕食がまさに実行されようとしていたのである。
* * *
バサリ、と。
重厚な天幕の入り口の布が下ろされ、外の宴の喧騒が完全に遮断される。
誰もいない、薄暗いランプの光だけが揺れる皇帝の私室。
その空間に足を踏み入れた瞬間――ファリードに被せられていた完璧で冷徹な皇帝の仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
「っ……!」
ファリードはマーシャの腕を引いたまま反転し、そのままの勢いで彼女の身体を天幕の太い支柱へとドンッ!と激しく押し付けた。
逃げようとする彼女の退路を塞ぐように、ドン、と両腕が壁につかれる。
「な……ファ、リード……?」
マーシャは息を呑んだ。
目の前に立つ男の姿が、自身の知る彼とあまりにもかけ離れていたからだ。
ファリードは苛立った手つきで首元の留め具を引きちぎるように外し、重い白銀の胸当てを床へと乱暴に投げ捨てた。現れたのは、分厚い胸板と、広い肩幅。
マーシャの小柄な身体など、彼が一歩踏み出せば、その巨大な影にすっぽりと飲み込まれてしまう。圧倒的な体格差と、男としての逃げ場のない威圧感。
(嘘だろ……。こいつ、こんなにデカかったのか……?)
マーシャの心臓が、警鐘を鳴らして早鐘を打ち始める。
自分は最高の相棒である軍師として戻ってきたつもりだった。だが、目の前で荒い息を吐き、自分を見下ろしているこの男の瞳に宿っているのは、相棒に向ける信頼などではない。
極限まで飢え、ついに獲物を捕らえた肉食獣の、狂烈で生々しい愛執そのものだった。
「ふぁ、ファリード……離れろ。近すぎ――」
「……二度と」
マーシャの制止を遮り、ファリードは限界を迎えた獣のように、彼女の華奢な首筋へと深く、乱暴に顔を埋めた。
「ひっ……!」
肌に直接触れる、彼の熱い吐息。唇の感触。むせ返るような、大人の男の匂い。
マーシャの背筋を、強烈な電流のような痺れが駆け抜けた。
「二度と、私の視界から消えるな」
首筋に顔を埋めたまま、ファリードが地獄の底から絞り出すような、ひどく掠れた声で囁く。
「お前がいない世界が、どれほど息苦しく、狂おしかったか。……これ以上待たされたら、私は海を干上がらせてでも世界を焼き尽くしていた」
「っ……」
5年越しの、重すぎるほどの愛執。そして2年間の孤独が溜め込んだ、異常なまでの飢餓感。
その圧倒的な熱量に触れ、マーシャは自分が決定的な勘違いをしていたことを、肌で、否応なしに痛感させられた。
(駄目だ。こいつはもう……私が手綱を握ってコントロールできるような、可愛いヒヨッコなんかじゃない!)
彼はもう、自分の帰還を相棒として綺麗に受け入れるつもりなど毛頭ないのだ。 自分を完全に飲み込み、二度と外界へ出られないように鎖で繋ぎ止める恐ろしい男へと、完全に変貌を遂げている。
「ま、待てファリード! 私はお前の軍師として戻って……っ、んんッ!?」
軍師としての理屈で思考を立て直そうとしたマーシャの唇は、降ってきたファリードの熱い唇によって、強引に、そして貪るように塞がれた。
「ん……っ! ふ、ぁ……っ!」
拒絶する暇など、一秒も与えられなかった。
彼女の恋愛感情が育つのを待つ? そんな悠長な真似を、餓死寸前の覇王ができるはずもない。
彼女が日本への帰還がなくなり、世界を旅した後、自分の元へ帰ってきたという、その事実だけで十分だった。言葉での確認も、彼女の覚悟もいらない。
必要なのは、彼女が二度と逃げ出せないという絶対的な既成事実だけだ。
「……っ、は、あッ……だめ、ふぁりーど……っ!」
息を継ぐ隙すら与えられない、深く、蹂躙するような口づけ。
マーシャの双短剣を振るう腕の力など、彼の大ぶりで熱を持った手にかかれば、いとも容易く頭上に縫い留められてしまう。
剣ダコの硬い指先が、マーシャの革鎧の隙間から滑り込み、二年間誰にも触れさせなかった熱い素肌を、所有印を刻むように執拗に撫で回す。
「お前が悪いのだ、マーシャ。……私をここまで狂わせたのは、お前だ」
唇を離したファリードの金色の瞳が、獲物を完全に仕留めた捕食者の、妖しく、残酷なほどに美しい色気を放って輝いた。 その視線に射抜かれ、マーシャの頭の中で、いかなる盤面でも冷静だった軍師の計算式が、ドロドロに溶けて跡形もなく崩壊していく。
「あ……ぁ……っ」
抗えない。
この男の狂気にも、執着にも、そしてこの恐ろしいほどの愛の熱量にも。
ファリードの大きな手が彼女の腰を抱き寄せ、そのまま力強く寝台へと押し倒した。
「もはや軍師などと呼ばせない。……お前は、私のものだ」
天幕の薄暗い影の中。
悪魔の軍師は、一切の退路を断たれ。覇王の圧倒的な色香と、狂おしいほど情熱的な愛の奔流に完全に飲み込まれ、その夜、ついに男女として、永遠に逃れられない深い絆を結んだのであった。




