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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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30/43

青年期10

玉座の奪還から数週間。


 ファリードの正式な戴冠式を数日後に控えた王都グラナダは、長きにわたる暴政からの解放に沸き返り、街中が祝祭の熱気に包まれていた。


しかし、その喧騒から遠く離れた王城の高くせり出したバルコニーで。

 マーシャは一人、どこまでも高く澄み切った初夏の青空を、ただ虚ろな瞳で見上げていた。


吹き抜ける風には、かつての鉄と血、焦げた肉の匂いはない。王都の庭園から運ばれてくる、ジャスミンと甘い果実のむせ返るような香りが満ちている。

 それは、彼女がこの三年間、血反吐を吐きながら求め続けてきたはずの『平和』そのものであった。


(……ああ。空が、青いな)


マーシャはバルコニーの冷たい大理石の手すりに体重を預け、かつて日本のミサンガが巻かれていた自身の左手首を、無意識に右手で擦った。

 あの地下の禁書庫で、ミサンガを引きちぎり、炎に投げ捨てた時の、魂が焼き切れるような高揚感と覚悟。あの時は、絶体絶命の死地の中で、ファリードの狂気を正面から受け止めることだけが、自分がこの狂った世界で息をするための唯一の正解だと信じ込んでいた。


玉座を奪還してからの数週間。王城は休む間もないほどの戦後処理に追われていた。

 マレク派の粛清、乱れた法典の再整備、近隣諸国への特使の派遣。ファリードは朝から晩まで無数の文官たちに囲まれ、血と泥に塗れた覇王から、大帝国を統べる真の皇帝へと見事な速さで脱皮しつつある。


彼が政務の書類にサインをするその後ろ姿は、もはや野蛮な軍師の奇策など一切必要としていないように見えた。

 だが、どれほど政務に忙殺されていようと、ファリードがマーシャを蔑ろにすることは一秒たりともなかった。むしろ、その逆だ。

 彼は、マーシャが日本への帰還を諦め、自分の隣を選んでくれたという圧倒的な歓喜と高揚感に酔いしれていた。政務の合間を縫っては一日に何度も彼女の元を訪れ、極上の食事と柔らかな絹の寝台を与え、彼女を絶対に危険の届かない部屋の奥深くへと囲い込もうとした。


『お前はもう、泥を被る必要はない。戦場の血の匂いも、暗殺の恐怖も忘れて……ただ私の側で、安全に微笑んでいればいい』


ファリードは、まるで壊れ物を扱うように甘く、優しく彼女を抱きしめ、囁き続けた。

 それは、彼が三年間ずっと焦がれ続けてきた彼女を自身の絶対安全な鳥籠に繋ぎ止めるという、不器用で重すぎる愛の完成形であった。


だが。そのファリードの甘すぎる愛と過保護こそが、今のマーシャの足元から冷たい水のように這い上がってくる残酷な現実の正体だったのだ。


カディルは王都の治安維持に奔走し、ザイドは帝国の新たな情報網の構築に飛び回っている。陣営の仲間たちも皆、この新しい平和な国での確固たる役職と居場所を忙しく築き始めている。


その中で、ただ一人。

 人間の生存本能と死の恐怖を利用し、盤面で命を刈り取るための才能しか持たない悪魔の軍師だけが。この平和で美しい王宮の景色から、完全に浮き上がってしまっていた。


戦いが終わり、アドレナリンという麻薬が完全に切れた今。

 何もない穏やかな日常の静寂の中で、残酷な現実が足元からヒタヒタと這い上がってくる。


(日本には、もう永遠に帰れない)


頭では分かっている。自分で決めたことだ、納得もしている。

 それでも、ふとした瞬間に、もう二度と戻ってこない「あの遠い日々」が脳裏を過るのだ。

 温かい湯船。安全なコンビニエンスストア。両親の小言。死の恐怖など微塵も存在しなかった、あの退屈で愛おしい日常。


それらをすべて永遠に失ったこの世界で、自分は一体、何のために生きていけばいいのだろうか。


(叔父マレクを倒し、玉座を奪還した今。……この平和な空の下に、『悪魔の軍師』の居場所なんて、どこにもないじゃないか)


マーシャの唇から、自嘲の吐息がこぼれた。


自身の才能は、人の生存本能と死の恐怖を利用し、盤面で命を刈り取るためのものだ。

 平和な政など、大帝国の法を学んできた優秀な文官たちに任せておけばいい。


事実、ここ数日の御前会議は、彼女にとって拷問に近いものだった。

 文官たちが税の計算や法案の整備について熱心に議論を交わす中、マーシャはただ一人、欠伸を噛み殺して窓の外を眺めていた。誰の血も流れない、命のやり取りが存在しない盤面。そこには、彼女の脳髄を沸き立たせる悪魔の計算式が入り込む余地など一ミリもなかったのだ。


さらに彼女を苛立たせているのは、夜の静寂だった。

 王城にあてがわれた、最高級の羽毛布団と、絶対に敵襲の来ない安全な寝室。


だが、その完璧な平和が、逆にマーシャの神経を酷く逆撫でした。血と硝煙の匂いがしない清潔な空気がひどく息苦しく、寝返りを打つたびに、無意識のうちに枕の下に隠した双短剣の柄を痛いほど強く握りしめてしまっている自分に気づく。

 敵の足音に怯える必要のない安全なベッドの上で、彼女は双短剣を握りしめたまま、浅く、酷く疲れる眠りを繰り返していた。


(……狂っている。私は完全に、壊れてしまったんだ)


マーシャはバルコニーの手すりを強く握りしめ、自嘲の笑みを深めた。

 地獄から抜け出すために戦ってきたはずなのに。いざ平和を与えられると、血と泥に塗れた盤面でしか正常に息ができない化け物になってしまっていたのだ。


軍師としての役目を終えた自分には、何が残るのか。

 年齢も、名前も、さらには性別すらもすべて偽り、分厚いサラシで自身の本質を締め上げている。この世界に『ましろ』という実態はどこにも存在しない。平和な光の下では生きられない、ただの空っぽの亡霊だ。


「……兄貴。こんな所にいたのか」


背後から、心配そうな声が掛かった。

 振り返ると、盆に高級な菓子を乗せたザイドと、生真面目な顔をしたカディルが立っていた。


「最近、飯もろくに食ってねえだろ。厨房から王族用の菓子をかすめてきたぜ。甘いもんでも食って……」

「軍師殿。体調が優れぬのなら、無理をせず休まれよ。戴冠式までは我々がすべてを取り仕切るゆえ」


かつて背中を預け合った仲間たち。彼らの気遣いが温かい。

 だが、その温かさすらも、今のマーシャにとっては自身と世界を隔てる分厚いガラスのように感じられた。彼らはこの世界で生き、この世界で死んでいく確固たる実態を持っている。根無し草の亡霊である自分とは違うのだ。


「……すまないな。ただ、少し気が抜けただけだ」


マーシャは力なく笑い、彼らの視線から逃げるように顔を背けた。

 ザイドとカディルが痛ましげに顔を見合わせた、その時。


「退がれ、お前たち」


静かな、だが絶対的な王の威圧感を纏った声と共に、豪奢な王服に身を包んだファリードがバルコニーへと歩み出てきた。

 ザイドたちが一礼して足早に去っていく。


バルコニーに、再び二人きりの静寂が落ちる。

 ファリードは無言のままマーシャの傍らへ歩み寄ると、手すりに置かれていた彼女の冷たい手を、自身の大きな両手で痛いほど強く、ガシッと包み込んだ。


「……殿下。私は、もうこの平和な国には」

「お前が今、何を考えているかなど分かる」


ファリードの金色の瞳が、マーシャの虚ろな黒曜石の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 戦乱が終わり、空っぽになって消えてしまいそうな彼女の魂を、どうにかしてこの現世に縫い留めようとする、痛切で、狂おしいほどの熱。


「お前はあの夜、言ったはずだ。私を王にして、お前がこの世界で一番の権力者になってやると」

「あれは戦いの中での話だ。叔父マレクは死に、戦争は終わった。これからの政は、大帝国の法を学んできた文官たちの仕事だ」


マーシャは、自身の左手首を無意識に庇うように握りしめ、自嘲するように目を伏せた。

「人間の死の恐怖を利用し、他人の命を盤面ですり潰すことしかできない……私のような悪魔の居場所なんて、平和で陽の当たる世界にはどこにもない」

「ならば、お前はもう悪魔などではなくていい」


そのファリードの言葉に、マーシャは息を呑んで顔を上げた。


「これからの世界は、私が治める。お前が二度と戦場の血と泥に塗れなくて済む、安全な国に創り替えてやる。……だから、お前はもう冷徹な盤面など描かなくていい。ただ私の側で、守られていればいいのだ」


ファリードはマーシャの小さな身体を、己の広く分厚い胸の中へと強引に引き寄せた。

 ドン、と顔が押し付けられた彼の胸の奥から聞こえる、力強く、自信に満ちた鼓動。ファリードにとっては、それが三年間焦がれ続けた彼女を自身の絶対安全な鳥籠に繋ぎ止めるという、彼なりの不器用な愛。


「盤面がなくなったのなら、私が新しい盤面を作ってやる。……お前に居場所がないと言うのなら、私の隣という場所を、永遠にお前の玉座にしてやる」


頭上から降ってくる、熱を帯びた甘い囁き。

 だが、その愛に満ちた言葉のすべてが、今のマーシャには「お前の牙を抜き、私の綺麗な鳥籠の中で飼い殺してやる」という残酷な宣告に聞こえていた。


この男の甘い庇護下に収まれば、自分は間違いなく、彼に生かされるだけの空っぽの亡霊になってしまう。彼と対等な共犯者として隣に立ち続けるためには、この美しすぎる鳥籠を、自らの足で一度食い破らなければならないのだ。


「お前は、私を地獄の底まで連れて行くと誓ったのだ。……平和の退屈などに、お前を連れ去られはしない。お前は私のものだ、マーシャ」


それは、目的を失った亡霊を強引に現世へと縛り付ける、呪いのような言葉。

 マーシャは彼の腕の中で、その強すぎる熱に焼かれながら、そっと目を閉じた。


(……ああ、あんたは本当に。私を縛り付けることにかけては、天才的だ)


この男が私を手放さない限り。私がこの世界から完全に消え去ることは、きっとできないのだろう。

 マーシャは自身の心を決めるように、自身を抱きしめる覇王の背中へと、そっと両腕を回したのだった。


* * *


それから時は流れた。

 ファリードの正式な戴冠式を明日に控えた夜、王都グラナダは祝祭の前夜祭で熱狂に包まれていた。

玉座の奪還から数週間。 ファリードの正式な戴冠式を明日に控えた夜、王都グラナダは祝祭の前夜祭で熱狂に包まれていた。


城の広場からは、平和の訪れを心から祝う仲間たちの賑やかな笑い声が、微かに夜風に乗って聞こえてくる。


王都の治安維持に奔走しながらも、ザルカから来たレイラと不器用で温かい逢瀬を重ねているカディル。


密偵の元締めとして王都の裏を牛耳りながら、美味い酒と気の強い女密偵に囲まれて上機嫌に笑うザイド。


相変わらず無口だが、黒岩族の少女から花冠を貰って困ったように、けれどひどく優しく微笑んでいたタリク。


そして、王城に新たな薬草園を与えられ、異民族の妻と共に怪しげな薬の調合に嬉々として没頭しているイブン。


血と泥に塗れた三年間。


生きるか死ぬかの死線を共に潜り抜け、いつしか自分にとってかけがえのない家族になっていた彼らは皆。この平和な世界で確固たる居場所を見つけ、心からの笑顔を取り戻していた。


(……ああ。よかった)


王城の裏門。

マーシャは、自身の相棒である黒馬に最低限の荷物を積み込みながら、煌びやかな城の明かりを振り返って目を細めた。 寂しくないと言えば、嘘になる。

だが、彼らが平和な日常を手に入れて笑い合っているあの温かい光景を見届けたからこそ。他人の命を盤面ですり潰す悪魔の軍師としての自分の役目は、ここで完全に終わったのだと、心から安心して手放すことができたのだ。


(私はもう、彼らを生かすために非情な決断を下す必要はない)


だからこそ、これからは私自身のために。私が命を懸けて生きることを決めたこの世界が一体どんな場所なのか、縛られることなく自分の目で見てみたいんだ。

マーシャはただ一人、闇に紛れて城を去ろうとしていた。 すっかり見慣れたダボついた外套。だが、その背中には、かつての戦場での鋭い覇気や重圧はなく、どこか晴れやかな旅人の身軽さがあった。


* 


喧騒から遠く離れた王城の裏門。

 マーシャは、自身の相棒である黒馬の横に立ち、革の鞍帯くらおびを無言で締め上げていた。最低限の荷物だけを積み込み、ただ一人、闇に紛れて城を去ろうとしている。

 すっかり見慣れたダボついた外套。だが、その背中には、かつての戦場での鋭い覇気はない。


「……どこへ行くつもりだ、マーシャ」

 背後から、氷のように冷たく、そしてひどく焦燥に駆られた声が響いた。


振り返らなくともわかる。ファリードだ。彼は明日の戴冠式用の豪奢な礼服も着崩したまま、息を切らして立っていた。

 マーシャは振り返らず、手綱の結び目を指先で弾いて確認する作業を止めなかった。

「……この馬、少し右の蹄鉄がすり減ってるな。明日、打ち替えさせた方がいい」

「質問に答えろ!!」

 ファリードが荒々しく距離を詰め、手綱を弄っていたマーシャの細い腕を、ギリッと痛いほど強く掴んで引き寄せた。


バサリ、と革の手綱が手から滑り落ち、馬がブルルと低く鼻を鳴らす。

 彼の金色の瞳は、かつて娼館の路地裏で見せたような、あるいはそれ以上の、狂おしいほどの執着とパニックに揺らいでいた。


「明日がお前の、いや、我々の戴冠式だというのに……こんな夜更けに荷物をまとめて、どういうつもりだ! どこへ行く気だ!!」


 マーシャは、自身の腕を掴むファリードの大きな手を、そっと、だが確かな拒絶の意志を持って払い除けた。

「……見回りご苦労なこった、新皇帝陛下。夜露が降りる前に、温かいベッドへ戻れ」

 冷たく突き放し、再びサドルバッグの留め具へと手を伸ばす。


「旅、だと……? ふざけるな。お前は私に誓ったはずだ、私の隣にいると!」

「ああ。だが、戦争は終わった」

 カチン、とサドルの金具を音を立ててはめ込み、マーシャはようやく静かに振り返って、ファリードを見上げた。


その黒曜石の瞳は、ファリードが思わず息を呑むほどに、凪いだ海のように空虚で、空っぽだった。


「叔父マレクは死に、あんたは玉座を手に入れた。……平和になったこの国に、悪魔の軍師の居場所なんてどこにもないんだよ、ファリード」


日本にはもう、永遠に帰れない。

 だが、この世界に「ましろ」という少女の実態もない。生きるか死ぬかの極限状態で盤面を描くことだけが、彼女をこの世界に繋ぎ止める唯一の命綱だったのだ。平和になった途端、その命綱はプツリと切れ、彼女は自分が何者なのか、何のために生きているのかが完全に分からなくなってしまったのである。


「私は今まで、地図の上でしかこの世界を見てこなかった。……だから、少しフラットな視点で、この世界を歩いてみたい。私が生きることを決めたこの世界が、一体どんな場所なのか、自分の目で見てみたいんだ」


「そんなことのために、私を置いていくというのか……っ!」

 ファリードは歯を食いしばり、再びマーシャを力ずくで自身の胸の中へ閉じ込めようと腕を伸ばした。


「行かせない! お前に居場所がないと言うなら、私が作ってやる! 私の隣を、お前の永遠の玉座にしてやる! お前は私のものだ!!」


すがりつくような、呪いのような覇王の言葉。

 だが、マーシャは彼に抱きすくめられるより早く、その広い胸板にドンと両手をついて、彼を真っ直ぐに突き放した。


「鳥籠の中に閉じ込められたら、私は本当に消えて無くなってしまう」

「っ……」


「私を……ただの死んだ亡霊にしないでくれ。ファリード」


その悲痛で、酷く脆い懇願に。

 ファリードの腕が、空を掻いたままピタリと止まった。


(……閉じ込めてしまえばいい)


ファリードの胸の奥底で、ドス黒い獣が暴れ狂っていた。


 今の彼には、大帝国を統べる絶対的な権力と武力がある。彼女の手足を黄金の鎖で縛り、外界の光が一切届かない王城の最奥に繋ぎ止めることなど、いとも容易いことだ。

 そうすれば、彼女はもう二度と自分の目の届かない場所へ消えることはない。

一生、自分だけのものとして所有できる。強烈な独占欲が、理性を完全に焼き切ろうとしていた。


だが、その衝動を実行に移そうとした瞬間。

 ファリードの脳裏に、かつて戦場の泥濘で絶望を笑い飛ばし、獰猛に輝いていた彼女の黒曜石の瞳がフラッシュバックした。

 自分の手で彼女の翼を折り、この玉座の隣に無理やり縛り付ければ、彼女の魂は完全に死に絶え、そして何より、自分は彼女から決定的に憎まれ、拒絶されてしまうだろう。あの悪魔のように美しく、自身が狂おしいほど愛してやまない強烈な輝きは、二度と戻ってこないただの抜け殻になってしまうのだろう。


誰よりも彼女を愛し、誰よりも彼女のすべてに執着しているからこそ。ファリードは彼女を手放さなければならないという残酷すぎる矛盾を、血を吐くような思いで理解してしまったのだ。


ギリッ、と。ファリードの両の拳が震えるほど強く握り込まれ、革手袋の奥から赤い血が滲み落ちた。

 全身の骨が軋むほどの男としての、忍耐であった。


己の内なる狂気的な所有欲を必死に殺し、彼は深く、長く、絶望的な溜息をこぼして、空を掻いていた腕をゆっくりと下ろした。


「……2年だ」


ファリードは、地獄の底から絞り出したような声で告げた。


「お前のその放浪を許すのは、2年だけだ。その間に、私はこの荒れた帝国を盤石なものに作り替える。……だが、2年経ってもお前が王都に帰ってこなければ」


ファリードの金色の瞳に、危険な色の炎が再び灯る。


「私が自ら大軍を率いて、世界の果てまでお前を捜しに行く。どんな手を使ってでも、お前を玉座に縛り付ける。……いいな」


それは、不器用すぎる覇王からの、精一杯の譲歩と愛の誓いだった。

 マーシャはターバンの奥で、ほんの少しだけ、かつてのように柔らかく口角を上げた。


「……ああ。せいぜい立派な皇帝になっておくんだな、過保護なヒヨッコめ」


夜明け前の青白い光の中。

 マーシャは馬に跨り、馬の腹を軽く蹴った。自身のすべてを受け入れ、そして手放してくれた唯一の共犯者に背を向けて、名もなき旅人として広大な世界へと足を踏み出していった。


* * *


――それから、2年の歳月が流れた。


大帝国シャジャルは、若き覇王ファリードの苛烈かつ理知的な統治により、かつてないほどの繁栄と平和を享受していた。 そして、帝国の西の果て。海に面した活気あふれる巨大な港塞都市『アデン』。


潮風が吹き抜ける賑やかな市場の片隅で、一人の小柄な旅人が、屋台の串焼きを齧りながら海を見つめていた。 ダボついた外套。だが、ターバンはもう巻いていない。短く切り揃えられていた漆黒の髪は背中の中ほどまで伸び、風に揺れている。 二十四歳となったマーシャであった。


(……2年、か)

彼女は串焼きを飲み込み、眩しい海原に目を細めた。 この2年間、彼女は身分を隠して大陸中を旅した。


北の雪山、南の砂漠、かつて自身が戦場とした平原。農民と酒を飲み、商人の護衛をして日銭を稼ぎ、名もなき旅人として人々の暮らしに触れてきた。


そこで彼女が見たのは、退屈な日常などではない。

自分たちが血反吐を吐き、泥水を啜ってでも創り上げた盤面の果てに芽吹いた、「美しく、尊い人々の営み」そのものだった。 子どもたちが飢えることなく笑い合い、商人が活気に満ちて行き交う平和な世界。その大地のどこを歩いても、彼らを厳しくも温かく統べる『若き覇王』の威光と慈悲が、確かに隅々まで行き渡っていた。


(……自分が何者かを探す旅だったけれど)


マーシャの黒曜石の瞳に、ひだまりのような柔らかい光が灯る。


(気付けば、この美しい世界と……これを不器用に、必死で守り抜いているあの男のことが、たまらなく愛おしくなっている自分がいたよ)


日本に帰ることはできない。だが、もう悲しくはない。

自分が命を懸けて生きることを決めたこの世界は、こんなにも美しかったのだ。 そろそろ、王都のあの五月蝿くて過保護なヒヨッコが、2年の期限切れを理由に大軍を率いてすっ飛んでくる頃合いだろう。


彼が力ずくで迎えに来る前に、今度は自分から、あの玉座の隣へ帰ってやろう。 マーシャがそう決意し、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がろうとした、その時だった。


――ドゴォォォォォォォンッ!!!!!


突如として、大地を根底から揺るがすような凄まじい爆発音が、港の方角から鳴り響いた。

 空を切り裂く、聞いたこともないような異質な咆哮。直後、港の防衛設備を担っていた堅牢な石造りの見張り塔が、まるで飴細工のように吹き飛び、火柱が天を焦がした。


「な、なんだ!?」

「ひぃぃっ! 敵襲だァッ!! 海から、化け物が……ッ!」


市場の民衆がパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑う。

 マーシャは逃げる群衆に逆らい、港が一望できる高台へと身を翻した。


彼女の黒曜石の瞳が捉えたもの。

 それは、水平線の彼方から押し寄せる、見たこともない鋼鉄の装甲で覆われた、漆黒の巨大船団だった。帆ではなく、黒い煙を吐き出して進むその異形の船からは、魔法でも投石機でもない、未知の大砲が火を噴いている。


海を挟んだ向こうの未知なる大陸。

帝国の定石も、歴史の知識も一切通用しない、『新大陸帝国』による圧倒的な武力侵攻の始まりであった。


「……なんだ、ありゃあ」


マーシャは、燃え盛る港塞都市の業火を瞳に映しながら。

 ポツリと呟き――2年間、平和な世界で完全に死に絶えていたはずの唇を、三日月のように深く、獰猛に吊り上げた。


血が沸騰するような、確かな熱。

 平和な世界では見つからなかった自身の魂の実態が、その硝煙の匂いを嗅ぎ取った瞬間、極彩色の火花を散らして完全に覚醒したのだ。


「……ふふっ、あははははっ!」


マーシャは風に黒髪を躍らせながら、腹の底から歓喜の笑い声を上げた。

 自分が何者かなんて、悩む必要はなかったのだ。盤面が燃え上がり、理不尽な死が押し寄せるこの地獄こそが、自身の唯一の居場所だったのだから。


「仕方ない。そろそろ戻ってやるか」


マーシャは腰の双短剣を抜き放ち、チャキッ、と鋭い金属音を響かせた。


「王都の過保護な王様には、刺激が強すぎる敵のお出ましだ」


――大帝国全土を巻き込む新たな戦火。

 悪魔の軍師の帰還と共に、未知の侵略者との、生存を懸けた第三部の死闘の幕が、今、切って落とされた。

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