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南の陣に潜り込め。敵の足を、泥濘に引きずり込むんだーその下知が下された瞬間。淀んだカビの臭気が充満していた砦の一室で、完全に停滞していた死の空気感が、生への渇望へと反転した。
床に片膝をついていたカディルが、剣の柄を握る手をピタリと止め、目を見開いた。王族の誇り高き死こそが唯一の道だと信じて疑わなかった忠臣の瞳に、激しい動揺と、ほんのわずかな熱が浮かぶ。
部屋の隅で毒を調合していたイブンは腕を組み顔を上げ、巨漢のタリクがゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
「……上出来だ」
マーシャは、床に散らばった毒の染みを一瞥し、ターバンの奥で獰猛な笑みを浮かべた。
感傷に浸る時間は一秒もない。彼女は机上の地図を指で叩き、即座に冷徹な歯車を回し始める。
「ザイドは単身で南の陣へ。敵の欲を突け。私とタリクは北の騎馬隊の陣へ向かい、火を放つ。……殿下とカディル、イブンは、残った兵と共にこの扉を内側から塞ぎ、絶対に音を立てずに息を殺していろ。外から扉を叩かれても、私の声がするまでは絶対に開けるな」
それは提案ではない。戦場を支配する軍師としての、絶対的な命令だった。
――大河シャジャルの潮が、音もなく引き始めていた。
砦の南側、大河との間に広がる湿地帯から、水が引いた後の泥の生臭い匂いが、冷たい夜風に乗って這い上がってくる。
雨が降りしきる暗闇の中、ザイドは音もなく泥の上を滑っていた。
南に布陣するシャジャル帝国正規軍。等間隔で配置された篝火の光と雨音の隙間を縫うように、彼は身を低くして斥候の背後へ忍び寄る。
ヒュッ、と雨を切り裂く微かな風切り音。
ザイドの手から放たれた投げナイフが、見張りの兵の喉元に深々と突き刺さった。声も出せずに崩れ落ちる体を抱きとめ、彼は手慣れた動作で死体を暗がりへと引きずり込む。
(ひどい鉄の臭いだねぇ……。だが、これで役者は揃った)
ザイドは泥だらけの指で、まだ温かい死体から胸当てと兜を素早く剥ぎ取り、自身の細い体へ無理やり被った。サイズが合わずガチャガチャと鳴るが、パニック状態の闇夜であれば十分な偽装だ。
彼は顔に敵の血糊を無造作に塗りたくり、わざと息を乱しながら、南の陣の中心、指揮官の天幕へと向かって泥の中を駆け出した。
「た、大変だッ!!」
ザイドの悲痛な叫び声が、雨の陣営を切り裂いた。
「北の蛮族が、抜け道を見つけて砦に突入したぞ! このままでは、逆賊の王子の首が奪われる!!」
天幕から飛び出してきた正規軍の指揮官の顔色が、松明の光の中で一瞬にして変わった。
王子の首。それは、現王マレクから莫大な恩賞が約束された、絶対的な「手柄」だ。それを、野蛮な騎馬民族などに横取りされるわけにはいかない。
マーシャの予測通り、偽情報は指揮官の「欲の綻び」を完璧に突き破った。
「なんだと!? 陣形など構うな! 重装歩兵団、直ちに砦へ向かえ! 王子の首を我らが押さえるのだ!!」
功を焦った怒号が響き渡る。
何百という分厚い鋼の鎧を着込んだ重装歩兵たちが、大地の泥がどのような状態になっているかも確認せぬまま、盲目的に砦の南側湿地帯へと行軍を開始した。
* * *
南の陣が騒がしくなり始めたのと同時刻。
砦の北、なだらかな丘陵地帯に広がる『蒼き狼』の騎馬隊の陣では、小柄な暗殺者と巨漢の盾持ちが死線を潜っていた。
雨は本降りとなり、視界は最悪だ。
マーシャは泥に両手を突っ込み、顔面から首筋にかけて冷たい泥をたっぷりと塗りたくった。人の肌の白さは、闇夜で最も目立つ的になるからだ。
『泥を被ることを恐れるな。視界を奪い、倒れた敵の頸動脈に刃を突き立てろ』
かつて師匠ルスランから叩き込んだ殺しの教えが、冷たい雨の中でマーシャの血肉を熱く沸き立たせる。
マーシャは四つん這いの獣のように地を這い、油断していた騎馬隊の見張りの足元へ潜り込んだ。
立ち上がる反動を利用し、師匠から受け継いだ「双短剣」を敵の喉笛へクロスさせるように突き立てる。肉を断つ嫌な感触と共に、噴き出した熱い血がマーシャの泥だらけの顔を洗った。
悲鳴を上げる間も与えず、音もなく次々と見張りを処理していく。
「……チッ」
だが、闇夜でも鼻の利く蛮族の斥候が、血の匂いに気づいた。
三人。マーシャへ向かって同時に弓を引き絞る。
弦が弾ける音。マーシャが泥へ飛び込もうとした瞬間、彼女の頭上を覆うように、巨大な鉄の壁が立ち塞がった。
――ガァンッ!!
巨漢のタリクが構えた大盾が、三本の矢を分厚い鉄で弾き返す。
「いけ、マーシャ」という彼の無言の気配に呼応し、マーシャは盾の死角から弾丸のように飛び出した。雨で滑るぬかるみを逆利用して敵の懐へ滑り込み、下段から双短剣で二人の膝の腱を同時に刈り取る。
崩れ落ちた敵の顔面を、タリクが巨大な盾の縁で躊躇なく叩き潰した。
「……上出来だ」
血路が開かれた。陣の深部、数百頭の馬が繋がれている天幕周辺。
タリクが背負っていた壺から大量の油をぶち撒け、マーシャが火打ち石で火を放つ。
ボウッ、と生まれた小さな炎。
その時、大河シャジャルから吹き付ける強烈な夜風が、砦を叩いていたのと同じ風が、丘陵の炎を恐ろしい勢いで煽り立てた。
炎は油の川を走り、瞬く間に天幕と馬屋を巨大な火柱で包み込む。
「ヒヒィィィィンッ!!」
火に狂った数百頭の馬が、いななきと共に暴れ狂い、柵を蹴り破った。
寝込みを襲われ、燃え盛る天幕から這い出してきた騎馬隊の兵士たちが、自身の馬の蹄に次々と踏み潰されていく。陣地は完全に統率を失い、阿鼻叫喚の地獄と化した。
マーシャは炎の熱風を頬に受けながら、ターバンの奥で獰猛な笑みを浮かべた。
本能で炎から逃れようとする馬たちは、火の手がない南の方角へと無意識に駆け出していく。行く手を阻む砦の堅牢な石壁を避けるように、馬の群れは大河沿いの断崖に沿った唯一の低地へと雪崩れ込んだ。そこは砦を大きく迂回し、南の湿地帯へと直結する「死の回廊」だった。
パニックに陥った騎馬隊の怒涛の奔流が、泥濘と正規軍が待ち受ける死の罠へと一直線に雪崩れ込んでいった。
* * *
夜が白み始めた頃。
砦の南、潮が引いた湿地帯に踏み込んだ正規軍の重装歩兵たちに、絶望の瞬間が訪れていた。
「な、なんだこれは……! 足が、抜けないッ!」
一人が叫んだ時には、すでに数百人が泥濘の中心にまで踏み込んでいた。
自身の身を守るはずの分厚い鋼の鎧。その莫大な重量が、水を含んだ底なしの泥へと彼らを容赦なく引きずり込んでいく。足を抜こうともがけばもがくほど泥は深く絡みつき、彼らは完全に身動きの取れない「巨大な鉄の塊」と化した。
陣形は崩壊し、泥に顔を突っ込んで窒息する者が続出する。
そこへ、砦の石壁を掠めるように大河沿いの低地から溢れ出してきた、パニック状態の騎馬隊が怒涛の勢いで南下してきた。
「敵だ! 南の陣の連中が、我々を待ち伏せしていたぞ!」
「蛮族どもめ、砦を抜け出し我々を襲う気か!」
手柄を横取りされたと思い込んでいる正規軍と、火の混乱で敵味方の区別がつかない騎馬隊。
両者は、この大混乱の中で互いを完全に「敵」と認識した。
ズガァァァンッ!!
泥濘でもがく重装歩兵の群れに、恐怖で狂った騎馬が正面から激突する。
槍が甲冑を貫き、馬の蹄が兜を砕く。泥と血の飛沫が数十メートルの高さまで舞い上がった。
動けない重装歩兵は騎兵を馬上から泥へ引きずり下ろし、短剣で首を掻き切る。騎兵は泥に沈む歩兵の顔面を馬で踏み潰す。そこには騎士道の欠片もない、ただ醜く凄惨な、同士討ちの体勢が出来上がっていた。
* * *
血の匂いと、何千という断末魔の絶叫が、大河の風に乗って砦の壁を打ち据える。
砦の蔦の絡まる窓枠から、十四歳のファリードは、その地獄のような光景を震える瞳で見下ろしていた。
ほんの数時間前。
三千の軍勢を前に、自分たちはただ「誇り高く死の毒を煽る」ことしかできない、無力な死体になるはずだった。
しかし、一人の異邦の軍師が、敵の「手柄を独占したいという欲」と、「潮の満ち引きという理」を利用しただけで、三千の軍勢は砦の石壁に指一本触れることなく、泥の中で勝手に自滅していく。
(……これが、盤面を動かすということか)
ファリードの背中を、悪寒と、そして奇妙な熱が駆け巡る。
軍師マーシャの描いた絵図の、恐ろしいほどの美しさと残酷さ。
陽光が地平線から差し込み、霧が晴れ始めた頃。
砦の周囲に広がっていたのは、もはや軍隊の形をなさない、鋼と肉の巨大なゴミ溜めだった。
泥の中に埋まり、重すぎる鎧の重みで息絶えた正規軍。その上に折り重なるように倒れた騎馬隊の死骸。生き残った数少ない兵たちも、泥に塗れて戦意を喪失し、ただ茫然と虚空を見つめている。
ファリードは、音を立てて開かれた砦の重い門から、ゆっくりと外へ踏み出した。
ブーツの底に、ねちゃりと敵の血が混じった泥がまとわりつく。かつての彼なら、その汚れに顔を顰めただろう。だが今の彼は、その不快な感触さえも、自分が生きている証として噛み締めていた。
門の脇、返り血で真っ黒になった外套を羽織り、壁に寄りかかって座り込んでいる小柄な影があった。マーシャだ。
彼は双短剣を鞘に納めることも忘れたまま、虚空を見つめている。その横顔には、勝利の歓喜も、敵への憎悪もない。ただ、ひとつの仕事を終え、また一歩、元の世界から遠ざかったことへの、底知れない疲労だけが刻まれていた。
「……マーシャ」
ファリードがその名を呼ぶ。
マーシャはゆっくりと視線を上げ、金色の瞳をした少年に、わずかだけ口角を上げた。
「……最悪の初陣だったな、殿下」
「ああ。だが、最高の結果だ」
ファリードは、震える手で自身の泥だらけの甲冑を叩いた。
兄の形見はもう、彼を圧し潰す重石ではない。泥汚れにまみれ、傷ついたこの銀の鎧こそが、彼が自らの意志で勝ち取った王の衣となったのだ。
こうして、大陸を揺るがす三つ巴の覇権争いの中に、ひとつの異端の陣営が産み落とされた。
知略を武器にする異邦の少女と、苦境の中に立つ覚悟を決めた美貌の王子。
彼らが次にどの盤面を動かすのか。歴史の歯車は、凄まじい音を立てて回り始めたのである。
後世の歴史家たちは、この一夜の出来事を畏怖を込めてこう記す。
――『シャジャルの泥濘の奇跡』と。
わずか三十名の敗残兵が、三千の精鋭を「指一本触れさせずに」壊滅させたこの戦いは、軍事史上もっとも不可解で、もっとも冷徹な逆転劇として語り継がれることになった。




