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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
立志編

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2

大河シャジャルから吹き付ける夜風が、朽ちかけた石造りの砦を亡者のように叩き続けていた。

 風のたびに、蔦の絡まる窓枠がガタガタと悲鳴を上げる。淀んだ泥の匂いと、雨に濡れたカビの臭気が、密閉された空間に重く立ち込めていた。


部屋の中央に置かれた粗末な木机の前に、ファリードは座っていた。

 十四歳の華奢な肩には、数ヶ月前に戦死した兄王子の形見である、豪奢な銀の甲冑が乗せられている。骨格に合わないそれは、彼が呼吸をするたびに鎖帷子と擦れ合い、じゃらり、じゃらりと冷たく鈍い音を立てた。まるで、決して逃れられない呪いの鎖の音のように。


「……南の正規軍は、砦を半包囲する形で野営を張りました。北の丘陵地帯には、『蒼き狼』の騎馬隊の篝火が見えます。夜が明ければ、両軍同時に攻め込んでくるでしょう」


部屋の隅から、感情の抜け落ちた声が響く。

 大黒柱兼、最前線指揮のカディルだ。彼は薄暗いランプの光の端で、床に片膝をついたまま自身の長剣に油を引いていた。シュッ、シュッと布が鋼を滑る規則正しい音が、ファリードの胃の腑をじわじわと削り取っていく。


砦に残された兵は、わずか数十名。対する追手は南北合わせて三千に迫る。食糧は三日前に底をつき、負傷兵たちの呻き声が、薄い床板の下から絶え間なく響いてきていた。


ファリードの視線の先には、机に置かれた小さな銀の杯があった。

 軍医であるイブンが調合した、致死量の毒が溶けた葡萄酒だ。甘ったるい果実の匂いの奥に、舌が痺れるような薬草の鋭い香りが隠れている。


「殿下」


カディルが、剣を鞘に納めるカチャリという音と共に顔を上げた。左頬の火傷の痕が、揺れる炎に照らされて赤黒く浮かび上がっている。


「逆賊として叔父君の軍に捕らわれれば、どのような辱めを受けるか分かりません。北の蛮族に首を取られるのもまた然り」

「……分かっている」


ファリードの喉から出た声は、ひどく掠れていた。自身の声ではないようだった。


「亡き兄君であれば、敵の手に落ちる前に、自ら誇り高くその血を散らされたでしょう」


カディルの言葉は、鋭い氷の刃となってファリードの胸を貫いた。

 兄君であれば。その言葉を投げつけられるたび、ファリードは自身が空っぽの、王位継承者の後釜でしかないことを突きつけられる。

 部屋の入り口では、巨漢のタリクが巨大な盾を抱えたまま、岩のように目を閉じている。窓際では、ザイドが落ち着かない様子で自身の爪をガリガリと噛み、外の無数の篝火を睨みつけていた。部屋の奥では、イブンが新たな薬草をすり鉢で摺っている。ゴリ、ゴリという鈍い音が、ファリードの死への秒読みのように聞こえた。


誰も、ファリードに「生きろ」とは言わない。

 それが、この絶対的な死地における唯一の慈悲なのだと、頭では理解していた。


ファリードは、ひび割れた唇をきつく噛み締め、震える指先を銀の杯へと伸ばした。

 杯の表面は、石のように冷たかった。冷気が指先から全身へと這い上がり、奥歯がカチカチと鳴りそうになるのを、必死に顎の筋肉を強張らせて耐える。


砦の外からは、もはや風の唸りすらも掻き消すほどの重い地鳴りが迫っていた。

 南からは、大河の覇者として数百年の栄華を誇ったシャジャル帝国正規軍の、地を揺らす重装歩兵の行軍音。北からは、略奪と殺戮を好む『蒼き狼』の騎馬隊が打ち鳴らす、耳障りな銅鑼の音。


血の純潔を重んじ、神聖視されてきたシャジャル王家の血脈は、今や簒奪者である残忍な叔父マレクの裏切りによって、この辺境の朽ちた砦で完全に途絶えようとしていた。

 この毒を飲み干せば、自身が最後に残された正当な王位継承者であるという事実と共に、誇り高き大帝国の正史は永遠に闇に葬られる。叔父はファリードを逆賊として仕立て上げ、歴史を都合よく書き換えるだろう。


――ドォォンッ!


薄い壁を隔てたすぐ外で、ついに砦の城門を打ち破ろうとする丸太の激しい衝突音が響いた。石造りの床から伝わる凄まじい衝撃が、ファリードの細い膝をガタガタと震わせる。

 敵は、もう目の前だ。何百、何千というむき出しの殺意が、この無力な首を求めて殺到している。


王宮で[美しすぎる木偶の坊]と嘲笑されてきた自分には、一振りの剣で敵を退ける腕力も、絶望した兵士たちを鼓舞する覇気もない。

 そんな己にできる、唯一の「王族としての最後の仕事」。それは、叔父や蛮族に生け捕りにされて辱めを受け、シャジャルの名に泥を塗る前に、自ら死を選ぶことだけだった。



 ......兄上。 私は、最期まであなたのようにはなれませんでした。

 心の中でひっそりと謝罪を紡ぎ、杯を口元へ運ぼうとした、その時だった。


――バンッ!


蝶番の壊れかけた木の扉が、乱暴に蹴り開けられた。

 入り口に立つタリクがわずかに目を見開き、窓際のザイドが弾かれたように振り返る。


そこに立っていたのは、頭から泥水と血を被り、肩で激しく息をする小柄な影だった。

 マーシャだ。

 彼のターバンで巻かれた黒い髪はターバンごと雨で顔にへばりつき、薄汚れた外套からはぽたぽたと濁った水滴が落ちている。


「マー、シャ……? なぜ、ここに……」


ファリードは、虚を突かれたように目を見開いた。

 数日前、砦が包囲される直前。ファリードは、彼の奇想天外ながらも確かな生存能力を見込み、「私の軍師として、共に来てくれないか」と頭を下げて頼み込んだ。

 だが彼は、「沈みかけの泥舟に乗る趣味はない。私は故郷に帰るんだ」と冷たく言い放ち、一足先にこの砦を去っていたはずだった。


その彼が、今、敵の返り血に塗れ、満身創痍の姿でここに立っている。

 この完全に包囲された砦に戻ってくるために、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたのか。その事実が、ファリードの凍りついていた思考を激しく揺さぶる。


ファリードが瞬きをするより早く、彼は音もなく床を滑るように机に歩み寄った。


「……雇い主が勝手に死のうとしてるなんて、最悪の職場だな」


吐き捨てるような低い声と共に、彼の泥だらけの手が、ファリードの震える手から銀の杯を強引にひったくった。

 その際、彼の荒れた指先がファリードの手に触れた。ひどく冷え切っていたが、そこには確かに、血をたぎらせて死線を越えてきた人間の、強烈な熱があった。


マーシャは杯の中身を、石畳の床に無造作にぶち撒けた。

 ジュゥゥッ、と嫌な音を立てて、毒酒が石の隙間に吸い込まれていく。甘く鋭い匂いが、一気に部屋に充満した。


「貴様ッ……! 何の真似だ! 殿下の誇りを泥で汚す気か!」


カディルが激昂し、半ばまで剣を抜き放つ。タリクが素早くカディルの前に腕を差し出し、無言でその動きを制止した。


「誇り?」


マーシャは、自身の腰の双短剣には手を触れず、血と泥に塗れた顔でカディルを鼻で笑った。


「誇りで腹が膨れるなら、死ぬまでその剣でもかじってれば? 私は嫌だ。あんたたちの綺麗な最期につき合ってやる義理はない」


マーシャは真っ直ぐにファリードへ向き直ると、雨から死守していた一枚の羊皮紙を乱暴に机に広げた。近隣の地形が精緻に書き込まれた、粗末な地図だった。


「……数日前の話、受けてあげるよ、殿下」

「え……」

「あんたの軍師になってやるって言ってるの。ただし、条件が一つある」


彼の黒曜石のような瞳が、ランプの火を受けてギラリと獰猛な光を放つ。


「死なせない。生き残って、勝つよ。……私の指示に、絶対に従いなさい」


それは、身分をも超えた、圧倒的な生存への契約だった。


彼はそう吐き捨てると、外套の内側から、雨から死守していた一枚の羊皮紙を乱暴に机に広げた。近隣の地形が精緻に書き込まれた、粗末な地図だった。


「殿下、よく見ろ」


彼の泥だらけの指先が、ファリードの目の前で地図の一点を強く叩く。

 先ほど杯を奪われた際、彼の指がファリードの手に一瞬だけ触れた。その指はひどく荒れて冷え切っていたが、確かに、脈打つ生きた人間の熱を持っていた。その微かな熱が、ファリードの凍りついていた思考を強制的に現実に引き戻す。


「南の正規軍と、北の騎馬隊。両軍の目的は『殿下の首。今は牽制し合ってるけど、互いに手柄を独占したいはず。これは、付け入る最大の『綻び』になる」

「……綻びだと? 戯言を。三千の大軍を前に、この戦力で何ができるというのだ」


カディルがギリッと歯軋りをする。だが、マーシャは彼を一瞥もせず、ファリードの金色の瞳だけを真っ直ぐに射抜いた。

 彼の左手首には、泥に塗れて元の色もわからないボロボロの紐が巻かれている。彼は無意識に、右手の親指でそのミサンガを強く、血が滲むほどに押し込んでいた。


「正面からぶつかれば一秒で全滅する。だから、大河を使う」

「大河を……?」

「この砦の南側、大河との間に広がる湿地帯。明日の明け方、大河の潮が引けば、あそこは底なしの泥濘でいねいに変わる」


マーシャの瞳の奥に、生存することへの凄絶な執着と、理知的な光が宿る。


「隠密行動が得意そうなお前、夜明け前に南の陣に忍び込んで、『北の蛮族が抜け道を見つけて砦に突入した』と偽の情報を流せ。功を焦った叔父の重装歩兵は、慌てて砦に殺到する。……そして、泥濘に足を取られて鉄の塊と化す」


窓際のザイドが、ニヤリと口角を上げて投げナイフを弄った。


「北の騎馬隊には、私とこのデカブツで火を放つ。馬は火に狂う。混乱したまま南下した騎馬隊が、泥濘で身動きの取れない正規軍と激突すれば、あとは放っておいても勝手に殺し合うだろう」


淡々と、流れるように紡がれる凄惨な戦図。

 それは、誇り高い騎士道の欠片もない、徹底して敵の心理と地形を利用した「生き残るためだけの戦術」だった。

 イブンが、すり鉢の手を止めて「……悪辣な」と嬉しそうに低く呟いた。


「最後に決めるのは雇い主である殿下だ」


マーシャは机に両手をつき、顔をファリードの目の前まで近づけた。

 彼から、雨の冷たさと、鉄の錆びた匂いが漂う。


「『兄の代わり』としてここで綺麗な死体を晒すか。見苦しく足掻いてでも、あいつらの喉笛掻き切って生き残るか。……選べ」


突きつけられた二つの道。

 ファリードは、先ほどまで死の恐怖で震えていた自身の手のひらを見つめた。

 鎧は重い。兄の残した呪縛は、未だに彼の喉を締め付けている。だが、目の前にいる小柄な男の瞳に宿る、まだこんなところでは終われないという生への渇望が、ファリードの胸の奥で燻っていた小さな火種に風を送った。


ファリードは、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 カビと泥の匂いが肺を満たす。それは、生きているものだけが嗅げる匂いだった。


「……ザイド」


ファリードの声には、もう先ほどの掠れはなかった。


「へい、殿下」

「南の陣に潜り込め。敵の足を、泥濘に引きずり込むんだ」


その下知が下された瞬間、カディルが目を見開いた。

 マーシャの唇に、獰猛な笑みが浮かぶ。

 大河からの風が一段と強く吹き込み、砦の古い松明の炎が、まるで反逆の狼煙のように大きく燃え上がった。

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