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――太陽暦七百八十四年。
数百年にわたり大陸の中央を支配してきた大河の覇者、大帝国シャジャルは、内側から致命的な亀裂を生じていた。
事の発端は、絶対的なカリスマで多神教の民を束ねていた先王の崩御、そして王弟マレクによる玉座の簒奪である。
マレクは先王の直系である第一王子を暗殺し、残された第二王子に「兄殺しの逆賊」という汚名を着せて王都から追放した。
この内乱という血の匂いを嗅ぎつけ、国境の外から二つの巨大な獣が動き出した。
北からは、機動力で略奪を繰り返す騎馬民族『蒼き狼』の軍勢が。
西からは、「唯一絶対の光の神」を掲げ、異教徒を浄化せんと分厚い銀甲冑で進軍してくる神聖国家の十字軍が。
三つ巴の覇権争い。かつて寛容と繁栄を誇った帝国は、いまや宗教と権力が入り乱れる、血で血を洗う泥濘の時代へと突入していた。
* * *
シャジャル帝国の辺境に位置する、吹き溜まりのような傭兵酒場。
饐えた麦酒が染み付いた床板が、歩くたびにねちゃりと嫌な音を立てる。安煙草のヤニと、羊肉の脂が焦げる煙が視界を黄色く濁らせ、目と喉をチカチカと刺激していた。
下品な笑い声と怒号、そして硬貨がぶつかる音が交錯する薄暗い店内の隅。薄汚れたターバンを巻いた小柄な傭兵が、喧騒に溶け込むようにして無言で硬い干し肉をかじっていた。十九歳になったマーシャだ。
”あの日”以来、彼女は一切の「戦術指南」を断り、単独で動く暗殺の下働きだけで日銭を稼いでいた。どれほど多額の金貨を積まれても、絶対に他人の軍の采配を振るうことはなかった。
「……やっと、見つけた。お前が、『異邦の軍師』と噂されるマーシャだな」
突然、酒場の濁った空気を切り裂くように、まだ声変わりしきっていない涼やかな声が降ってきた。
声には、凍えるような夜道を歩き通してきた疲労と、すがるような安堵の吐息が混じっている。
マーシャが警戒を悟らせないよう、視線だけをゆっくりと上げると、そこには深くフードを被った二人の人影があった。
一人は、顔の左側に生々しい火傷の痕を持つ、隙のない長身の剣士。
そしてもう一人は――言葉を発したと同時にフードがふわりと滑り落ち、酒場の油ランプの光を弾く、白金色の髪を覗かせた少年だった。
(……小さいな)
それが、マーシャの最初の感想だった。
フードの奥から覗く素顔は、ため息が出るほど整っていた。太陽の光を編み込んだような白金色の髪。長い睫毛に縁取られた、大粒の琥珀のような金色の瞳。透き通るような白い肌には、戦場の泥よりも、王宮の豪奢な絨毯がよく似合う。
だが、その肩幅はひどく華奢で、座った時の目線は、一五〇センチ台である小柄な私とほとんど変わらなかった。
(……面倒事だ)
マーシャの冷めきった脳内で、瞬時に警鐘が鳴った。
この血と泥とヤニにまみれた酒場には、およそ不釣り合いなほどの圧倒的な美貌。マントは泥で汚れているが、生地は極上の絹だ。そして何より、外套の端を握りしめるその指先には、剣を振り続けた者にできる分厚い剣ダコが一つもなかった。
どこかの没落貴族か、追われる身の王族か。
いずれにせよ、関われば命がいくつあっても足りない、巨大な盤面における中心部だ。
「私の陣営に来て、軍師として力を貸してほしい。……私の無力な采配では、もう兵を救えないんだ」
少年は、その細い肩に世界のすべてを背負わされたような、ひどく重圧に押し潰されそうな声で深く頭を下げた。
その後ろで、剣士が「殿下、このような薄汚い小童に頭を下げるなど」と不快そうに舌打ちをする。
マーシャは干し肉を飲み込み、冷たく凪いだ黒曜石の瞳で少年を一瞥した。
さっさと断って、この場を立ち去る。そのつもりだった。
だが、頭を下げた少年の、微かに震える金色の瞳と視線が絡んだ瞬間。マーシャの指先が、微かに、本当に微かに強張った。
少年の瞳は、自身の無力さに対する怯えと絶望で揺らいでいる。
だが、完全に死に絶えてはいなかった。その奥底には「死にたくない」「生きたい」という、ひどく純粋で、泥臭い渇望の火種が確かに燻っていたのだ。
それは、誇り高い王族の目ではない。
かつて採石場で、震える手で血まみれの岩を握りしめ、ミサンガを胸に抱えて発狂する寸前だった、無力な「十五歳のましろ」だった自身の瞳と、ひどく似ていた。
(……やめろ)
マーシャは内心で自分自身を鋭く殴りつけた。
感情移入など、死への入り口でしかない。あの目は、助けを求める溺死者の目だ。手を伸ばせば、今度こそ自分自身が暗い水底へと引きずり込まれる。
マーシャはゆっくりと立ち上がり、腰に帯びた師匠の形見である「双短剣」の柄に左手を触れた。
冷たい鉄の感触が、師匠の腹から溢れ出した生温かい血の記憶をフラッシュバックさせ、彼女の心を再び冷酷な氷で閉ざす。
「……人違いだ。沈みかけの舟に乗る趣味はない。それに私は、私の命以外、もう二度と背負わない」
マーシャは氷のように冷たく言い放つと、すがるような少年の視線を強制的に振り切り、酒場の喧騒の中へと背を向けた。
これが、逃亡の王子ファリードと、心を閉ざした軍師マーシャの、最悪の出会いだった。
――そして数日後。彼女は自身の誓いを自ら破り、彼を助けるために死線の張られた砦へと、血まみれになって舞い戻ることになる。
他人の命を捨てるほどの薄情者には、結局なりきれなかった己を呪いながら。
しかし、
私が冷たく拒絶した翌日も、そしてその次の日も。
吹き溜まりの傭兵酒場に、あの白金色の髪をした少年は現れた。
雨上がりで一段とひどくなった、湿っぽい汗とカビの臭いが充満する店内。
少年は、酒場の粗暴な傭兵たちに肩をぶつけられ、舌打ちをされながらも、私の座る暗がりのテーブルへと真っ直ぐに向かってくる。
「……何度来ても同じだ。帰れ」
私が干し肉から目を離さずに言い放っても、少年は向かいの粗末な丸椅子に座り、ただじっと私を見つめてきた。
その瞳の奥にある、縋るような、けれど決して折れない強い光。それがひどく目障りだった。
厄介なのは、彼一人ではなかった。
少年が来ない時間帯には、彼の取り巻きたちが次々と私の前に姿を見せ始めたのだ。
ある時は、頭にターバンを巻いた態度や言動から推測するにスラム育ちの密偵だろうか、彼が音もなく私の隣に座り、ピカピカに磨かれた銀貨を一枚、テーブルの上を滑らせてきた。
『うちの雇い主、ああ見えて結構頑固でさ。兄貴、一回だけでも話を聞いてやってくれないか?』
ある時は、顔に傷のあるあの長身の剣士が、店の入り口から私を射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけ、無言の圧力をかけてきた。
またある時は、見上げるほどの巨漢が、私のテーブルに湯気を立てる温かい豆のスープを無言でコトリと置き、微かに頭を下げて去っていった。
さらには、薬草の匂いをさせた偏屈そうな医術師らしき男が、少し離れた席からニヤニヤと私の脈る首筋を観察してきたりもした。
(……変な連中だ)
傭兵の寄せ集めとは違う。それぞれが全く別の生き物でありながら、あの今にも壊れそうな美しい少年を中心にして、奇妙な引力で繋がっている。
五日目の夜。
外では雷雨が酒場の屋根を激しく打ち据えていた。
少年は、ずぶ濡れの麻のフードを被ったまま、また私の前に座った。雨の冷気と、上質な絹が濡れた匂いが漂う。
「……頼む。南の正規軍の動きが早い。私の軍略では、もう彼らを死地から逃がせない。お前の力が必要なんだ」
饐えた麦酒と羊の脂が焦げる煙が充満するテーブル越し。
絞り出すような声に、私は干し肉をかじる手を止め、彼の顔をじっと見つめた。
(……そもそも、おかしい)
私は、油ランプの火を避けるように目を細めた。
私が「異邦の軍師」として名を馳せているのは、血生臭い裏社会や、末端の傭兵界隈だけの話だ。王宮という美しい鳥籠で育ったはずのこの少年が、なぜ私の存在を知っている? 誰が彼に、私という毒薬の噂を吹き込んだのか。
背後に立つ顔に傷のある剣士も、こんな薄汚れた小間使いのような私に、主君が頭を下げることをひどく嫌悪している。
不気味だ。関われば、間違いなく底なしの泥沼に引きずり込まれる。
「あんた、自分の立場が分かっているのか」
絞り出すような声。
私はため息をつき、腰に帯びた双短剣の柄を指先でなぞった。
私の低い声に、少年がビクッと肩を震わせる。
「最近、この酒場で面白い噂を聞いた。大河を支配する大帝国シャジャルで政変があったそうだな。先代の王が死に、弟が玉座を奪った。そして、正当な王位継承者である王子は『逆賊』の汚名を着せられ、辺境へ追放された……と」
少年の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。
テーブルの下で、彼の膝が微かに震えている。
「その美しい顔。手入れされた白金色の髪。隠しきれない上質な絹の服。……あんた、シャジャルの逃亡王子だな」
図星だった。少年の金色の瞳が、恐怖で大きく見開かれる。
私は身を乗り出し、テーブル越しに彼の顔に近づいた。
「いいか。私があんたを助ける義理は一つもない。それどころか、今ここで私が『シャジャルの王子がいるぞ』と叫べばどうなると思う? あんたの叔父が懸けた莫大な賞金目当てに、この店の傭兵どもが束になってあんたの首を刎ねに来る。私自身が、あんたの首を現王に売り渡した方が、よっぽど割の良い仕事になる」
それは、脅しだった。
これ以上私に関わるな。他人の命など背負いたくない。さっさと絶望して、私の前から消えろ。
甘やかされた王族なら、ここで泣き叫ぶか、護衛の後ろに隠れて逃げ出すはずだ。
だが。
少年は逃げなかった。
彼は血の気の引いた青白い顔のまま、ガチガチと鳴りそうになる奥歯を必死に噛み締め、テーブルの上で両手を強く、爪が食い込んで血が滲むほどに握りしめた。
「……私の首で、金が手に入るなら。それでいい」
掠れた、けれど確かに芯のある声。
私は、思わず息を止めた。
「私の首を売って構わない。だが、その金で……どうか、残されたあの三十人の兵たちと、私を支えてくれた四人を逃がしてくれないか。彼らは、私のような無能な王族のために死んでいい命じゃないんだ」
少年の瞳には、死への純粋な恐怖があった。だが同時に、自分を犠牲にしてでも仲間を生かしたいという、ひどく不器用で、泥臭い覚悟が燃えていた。
それは、誇り高い王の振る舞いではない。
ただ、大切なものを守るために、泥水をすすってでも足掻こうとする人間の、剥き出しの命の色だった。
(……やめろ)
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に、自身の腹を槍で貫かれながらも、私を逃がすために血まみれで笑った師匠の顔がフラッシュバックする。
『こんなところで、立ち止まるな』という師匠の呪いが、手首のミサンガを通じて私の全身を焼く。
私の胸ぐらを掴んで揺さぶってくる、この少年の「生」への執着。かつて採石場で発狂する前のマーシャのように「生きたい」という微かな渇望を瞳の奥に宿している事に私は気づいてしまった。そして、彼の姿に師匠が命懸けで守ろうとした「何か」を重ねてしまっていた。
完全に凍りついていたはずの私の心に、ひびが入る音がした。
「……馬鹿なことを言うな。死人の依頼なんか受けるか」
私は乱暴に立ち上がり、椅子を蹴るようにして背を向けた。
動揺を悟られないように。無意識に震えそうになる自分の両手を、外套の下で強く握りしめる。
「二度と来るな。次に顔を見せたら、本当に首を刎ねる」
氷のように冷たく言い捨て、私は雷雨の夜の闇へと逃げるように歩き出した。
背中越しに、少年が深く、痛いほど深く絶望の溜息をつく気配がした。
私は断った。正しく断ったはずだった。
だが――それから三日後。
彼の陣営が敵の追手に完全に包囲され、大河のほとりの砦に追い詰められたという噂を聞いた時。
私は気づけば、自身の誓いを破り、血まみれになりながらもあの絶望の砦へと向かって地を蹴っていたのだった。




