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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
立志編

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4/11

4 回想1

ーーーー話は4年前に遡る。



泥の味は、いつも鉄の匂いがする。



“ましろ”は雨に叩かれていた。

ぐちゃぐちゃに掻き乱された地面に顔を埋めるたび、この世界の冷たさが肺の奥まで入り込んでくる。


指先に残る、肉を断った時のあの嫌な感触。こびりついた鮮血は雨に流されることもなく、体温を奪いながらぬるりと肌に張り付いていた。


(……帰りたいな)


喉の奥まで出かかったその言葉を、私は無理やり飲み込む。

声に出せば、今この瞬間に保っている私という一人の人間の存在が、ガラス細工みたいに粉々に砕けてしまいそうだった。


最後にはっきりと覚えているのは、眩しいくらいの初夏の陽光だ。

自転車に乗って中学校の卒業式が終わった直後の春休み、仲の良い友達の家に遊びに向かう時に通る、あの桜並木の道。これから友達の家で恋バナを聞く予定だったど、内心では、早く帰って昨日の夜読みかけだった歴史書を読んで陣形図の解析をしたい、なんて考えていたっけ。

使い古した自転車のブレーキが、いつものようにキーキーと甲高い音を立て、自転車のカゴには読みかけの分厚い歴史小説が入っていた。

サドルに伝わる小刻みな振動、桜並木をくぐると香る、青臭い木の匂い。そんな、どこにでもある、退屈で、でも温かかった日常。


ポカポカと陽だまりのような太陽の光、

サドルの振動、

キーキー鳴るブレーキの音。


温かい日常の記憶は、突然、暴力的なほどの熱と光によって圧し潰された。


(……え?)


目を開けた瞬間、視界は真っ白な光に灼かれた。

アスファルトの匂いではなく、鼻腔を突いたのは乾ききった砂の匂いだ。

ペダルを漕いでいた足の下には自転車はなく、熱を帯びた砂の海が広がっていた。


遥か頭上、ありえないほど巨大で邪悪な太陽が、容赦なく私を照りつけている。

ジーンズにTシャツ、お気に入りのトートバッグを持ったままの姿で、私は砂漠の真ん中にポツンと立っていた。


「……何、ここ」


掠れた声を出した途端、喉の奥が張り付くように痛んだ。

周囲には、地平線の彼方まで続く砂の丘しかない。陽炎が揺らぎ、世界が歪んで見える。


現実感がなかった。夢を見ているのだと思った。

私は何度も目を凝らし、自分の頬を抓り、トートバッグの中からスマホを取り出そうとした。

スマホは、画面が真っ暗なまま、熱を帯びて沈黙していた。電波も、バッテリーも、この世界では何の意味も持たなかった。


「お母さん……お父さん……」


誰かに縋りたくて、私は両親の名前を呼んだ。

でも、その声は砂漠の静寂に吸い込まれ、誰にも届かなかった。

孤独。その言葉の真の意味を、私は初めて知った。

私は、広い、広い、誰もいない砂の世界に、たった一人で放り出されたのだ。


それから、私はただ歩き回った。

どちらが東で、どちらが西なのかもわからない。ただ、太陽の熱から逃れたくて、どこかに日陰はないかと、フラフラと歩き続けた。

水もない。食料もない。

時間の感覚さえ薄れていく。

砂に足を取られるたび、体力は奪われ、意識が遠のいていく。

何度も倒れ、そのたびに、砂の熱さに悲鳴を上げながら起き上がった。

肌は赤く灼け、唇は裂け、喉は焼けるように熱い。

トートバッグは、どこかで落としてしまった。


(もう、無理……)


意識が薄れ、地面に倒れ込んだ時。

遠くから、鈴の音のようなものが聞こえた。

幻聴だと思った。でも、その音は次第に大きくなり、地面を揺らす地響きへと変わった。


私は、最後の力を振り絞って顔を上げた。

砂埃の向こうから、巨大な影が近づいてくる。

それは、牛に引かれた、頑丈な木製の檻だった。


檻の上には、薄汚れた衣服を纏った男たちが乗っていた。

彼らの顔は、今まで見たこともないような、外国人っぽい、薄汚くて残酷そうな容姿をしていた。

彼らの瞳には、私に対する同情や慈悲は一切なく、ただの好奇な獲物を見つけたような、冷徹な光が宿っていた。だけど、疲れていた私は初めて出会った人らしき人を見つけたのに安心して自分から近づいていった。


「……助け、て……」


私は、掠れた声で彼らに助けを求めた。

一人の男が、檻から降りて、私に近づいてきた。

彼は、何かを言っている。日本語を話すような柄には見えないが、言語は聞き取れる。でも、何を言っているのか、所々しかわからない。

「……砂……」「……子ども……」「……金……」

断片的な単語が、日本語の文脈で聞こえる。でも、全体が理解できない。

地名か、固有名詞か、彼らの使う独自の言葉なのか。


私が困惑していると、男は突然、腰にぶら下げていた鞭を振り上げた。


「――ッ!?」


鋭い痛みと、皮膚が裂ける音が、私の体を貫いた。

私は、地面に倒れ込み、悲鳴を上げることもできずに震えた。

初めて会ったこの世界の人間は、私に言葉を教える代わりに、鞭で虐待した。

精神が、音を立てて削られていく。


男は、私を乱暴に引きずり上げ、檻の中に放り込んだ。

抵抗する力なんて一欠片も残っていなかった。


檻の中には、他にも薄汚れた身なりの人々が乗っていた。彼らは、皆、俯き、生気のない瞳で地面を見つめていた。

檻が、牛に引かれて動き出す。

木製の格子が軋み、揺れ、異臭が立ち込める。


檻の中から、私は地平線を見つめた。

太陽が、ゆっくりと沈んでいく。

この世界は、私が知っている世界ではない。

日本ではない。地球ですらないのかもしれない。

それだけは、確信できた。


(これから、どうなってしまうんだろう……)


私は、檻の隅で膝を抱え、震え続けた。

希望なんて、どこにもなかった。

ただ、過酷な現実が、私を圧し潰そうとしていた。


私は、生きる意欲を失いかけながらも、心の奥底で、帰りたいという、小さな、でも確かな願いを抱き続けていた。



* * *



頭上から突き刺さる太陽は、まるで世界そのものを焼き尽くそうとする巨大な火の玉のように見えた。

 視界の端が陽炎でぐにゃりと歪む。


切り出された巨大な石灰岩の照り返しが眼球を焼き、呼吸をするたびに白く細かい粉塵が喉の奥にへばりついて、ひどい嘔吐感を引き起こす。

 こもった汗と、血と、そして排泄物の饐えた臭い。

 ここは、見知らぬ世界の最底辺。人買いに奴隷として売られた者たちが、死ぬまで石を運び続ける巨大な採石場だった。


「歩け! 止まるな薄汚い奴隷ども!」


空気を裂くような破擦音と共に、革の鞭が背中を打つ。

 肉が裂け、血が飛沫を上げる鈍い音が響いても、ましろはもう悲鳴を上げることはなかった。ただ、焦点の合わない目で足元の赤茶けた土を見つめ、自分の体重よりも重い石の入った籠を引きずって前へ進む。


この地獄に落とされてから、何度目の月を見たかもう分からない。

 最初は泣き叫んだ。「助けて」「日本に帰して」「警察を呼んで」と。だが、そんな言葉はこの世界では何の価値も持たなかった。泣けば蹴り飛ばされ、助けを求めれば鞭が飛んでくる。


 私は、もう泣くことさえ忘れていた。

 爪は剥がれ、全身は日焼けと泥で真っ黒に汚れ、衣服はぼろ切れのように体に張り付いている。

 ただ一つ、左手首に巻かれた、ボロボロに擦り切れたミサンガだけが、私がかつて「ましろ」という普通の女の子であったこと、そして帰るべき家があることを証明する、奈落の中で一筋差した光だった。


そんな地獄のような日々の中で、私には唯一、人間としての心を繋ぎ止めさせてくれる存在がいた。


同年代の、この国のちょっと変わった日本語で言葉を話す少女。

 彼女もまた、奴隷としてここに連れてこられていた。


『目を合わせちゃ駄目。殺されるわ』

『パンは飲み込まずに、唾液でふやかして少しずつ胃に入れるの。でないと吐き出してしまうから』


この世界の目に見えないルールも分からず、罰として鞭に打たれるましろに気付き、泥の払い方から、監視役の機嫌の見分け方まで、生きるためのすべてを教えてくれたのがマーシャだった。


「……マシーロ? マシャー? ……うーん、うまく言えないや」


初めて名乗り合った時、彼女は私の「ましろ」という名前をうまく発音できず、困ったように眉をひそめていた。


「私の名前は、マーシャ」

「……マーシャ。私の、マシロ、と、音が似ているね」


私が自分ではきちんと話せているつもりだが拙いのであろう、この国の言葉でそう言うと、彼女はパッと顔を輝かせ、「本当だ! 似ているね!」と、汚れきった顔で鈴が鳴るように笑った。

 その瞬間、私たちは、過酷な採石場の中で、唯一無二の友達になった。


二人で励まし合い、わずかな食糧を分け合い、夜は身を寄せ合って暖をとった。

 彼女がいるから、私はまだ「人間」でいられた。



『それは何?』

『……ミサンガっていうの。お守り。遠い故郷の、お父さんとお母さんと、お揃いの……』

『そう。……なら、絶対に手放しちゃ駄目よ。それが、あなたが人間である最後の証なんだから』


そしてとマーシャは優しく微笑んで、ましろの顔に泥を塗りたくった。「女だとバレたら、夜の天幕に連れて行かれる。絶対に隠し通して」と祈るように言いながら。


 しかし、その数日後。ましろを庇うようにして監視役の前に立ったマーシャが、天幕へ引きずり込まれていった。


翌朝、戻ってきたマーシャの瞳からは、完全に生気が失われていた。

 美しい亜麻色の髪は泥と血にまみれ、ただ機械のように石を運ぶだけの抜け殻になってしまった。ましろは自分の分の硬い黒パンを少しだけ千切り、彼女の手のひらに押し込んだが、マーシャはそれを握る力すら失っていた。


「……大丈夫。歩いて。立ち止まったら、殺される」


ましろは泣きそうな声で囁く。

 だが、限界は唐突に訪れた。


ガシャァァン!!


マーシャの足がもつれ、抱えていた石材が地面に散乱した。

 舌打ちと共に近づいてきた巨漢の監視役は、一切の躊躇いもなく、先端にスパイクのついた鉄の棍棒を振り上げた。

 スイカを叩き割ったような、ひどく湿った破裂音。

 マーシャの頭部が無造作に粉砕され、ましろの頬に生温かい飛沫がべっとりと張り付く。つい先日まで、生きる術を優しく教えてくれた彼女の顔は、もうどこにもなかった。


「さてと。おい、そこのチビ。お前がこの肉塊を谷底へ捨ててこい」


男が鼻で笑う。ましろは声も出せず、ガタガタと全身を震わせていた。

 圧倒的な暴力と理不尽。脳が恐怖でショートし、悲鳴すら上がらない。

 動かないましろに苛立った男が、ましろの胸ぐらを太い手で乱暴に掴み上げる。宙に浮いたましろの袖ぐりのした、私の左手首のミサンガが、ふつりと外へこぼれ落ちた。


「あァ? なんだこのボロい紐は」


看守が、私のミサンガに、汚れた手を滑り込ませた。

 ましろの呼吸が止まった。


「汚ねェガラクタ隠し持ってやがって。こんなもん、何の役にも立たねェよ」


男が嘲笑と共に、その紐を引きちぎろうと力を込めた瞬間。


――プチッ。


ミサンガの糸が一本、切れる小さな音がした。

 それと同時に、ましろの脳内で張り詰めていた「理性」の糸が、完全に決壊した。


覚醒なんかじゃない。

 ただ、両親との繋がりと、マーシャが守ってくれた命をゴミのように扱われたことに対する、どうしようもない絶望と、発狂に近い防衛本能だった。


「ぁ……ァアアアアアアッ!!!」


言葉にならない獣のような金切り声を上げ、ましろはなりふり構わず男の腕にしがみついた。

 そして、ニナの教えなどすべて忘れ、ただ生きるために、男の首の肉に思い切り歯を突き立てた。


「いッ!? な、なんだこの奴隷は!!」


男が悲鳴を上げ、太い腕でましろの頭を殴りつける。ゴツン、と鈍い音が響き、目の前が真っ白になるほどの痛みが走る。それでも、ましろは絶対に歯を離さなかった。引き剥がされまいと腕を振り回し、泥の中に転がっていた尖った石を無我夢中で掴み取る。


(殺される! 殺される! 殺される!)


恐怖で涙と鼻水を流しながら、ましろは目を固く瞑り、ただがむしゃらに、自身の手に握った石を男の顔面めがけて何度も、何度も叩きつけた。

 偶然、その一撃が男の眼球を深くえぐる。


「ギャァァァァッ!! 目が、目がァァ!!」


男がましろを放り出し、顔を押さえて泥の中をのたうち回る。

 ましろは泥まみれになって転がり、荒い息を吐きながら、千切れかけたミサンガを胸に強く抱きしめた。全身が痙攣するように震え、ヒッ、ヒッと過呼吸のような音が喉から漏れる。

 先程まで威張っていた傭兵の姿などはもうなく、目の前の蝿だと思っていた奴隷に追い詰められ、生きるために発狂しただけの、か弱く哀れな小動物のような姿だった。





「……ほう」


その惨状を、採石場の高台から見下ろしている隻眼の男がいた。

 偶然、この場所を訪れていた歴戦の傭兵だ。


男の視線は、泥と血に塗れ、涙を流しながらも石を握りしめて威嚇する小柄な奴隷に釘付けになっていた。

 その小さな体格。泥に汚れた黒い瞳。

 それは、数年前に病でこの世を去った、男の亡き娘の年齢とひどく重なっていた。


だが、決定的に違うものがある。

 あの怯えきった瞳の奥で燃えている、どんな逆境でも生き延びようとする、醜くも純粋な「生きることへの執着」だ。


(……あのままでは、すぐに他の看守に殺されるだろうな)


男は小さく息を吐くと、腰の袋から金貨を取り出した。

 娘の面影を重ねたという感傷だけではない。あそこまで自分を捨てて生き汚く食らいつけるのなら、戦術を叩き込めば、化けるかもしれない。


「おい、人買い。あの血まみれの奴隷、いくらだ」


傭兵は元締めに金貨を投げつけた。

「オレが買い取る。アレには、生き抜くための『執念』がある」



* * *



あの地獄から抜け出して、数ヶ月が経っていた。


私を金貨で買い取った隻眼の男は、名をルスランと名乗った。彼は特定の主人を持たず、各地の戦場や隊商の護衛を渡り歩いて日銭を稼ぐ、流れの傭兵だった。

 私は荷物持ち兼「弟子」として彼に連れられ、赤茶けた荒野を放浪することになった。


ルスランは、私がどこから来たのか、なぜあんな採石場にいたのか、私の過去についてはただの一度も聞かなかった。

 ただ、私を買い取った初日。私の黒い髪と深い黒曜石のような瞳、そしてこのオリエントの大陸では珍しい、凹凸の少ない平坦な顔立ちを見るなり、彼は自身の荷物から薄汚れた長い布を無造作に投げ渡してきた。


『その珍しい黒髪と顔立ちは、余計な好奇の目や、悪意を持った人買いを引き寄せる。ターバンとして頭に巻き付けろ。……ただの小汚い、地元のガキに見えるようにな』


言われるがままに顔の半分と髪を布で隠し、胸にきつくサラシを巻き、私は「少年傭兵マーシャ」としての偽装を固めていった。


そして、日々の過酷な旅の道すがら、ルスランは私に「身を守り、敵の命を確実に絶つための武術」を文字通り身体に叩き込んだ。

 それは、王宮の騎士たちが学ぶような美しく誉れ高い剣術などではない。生きるか死ぬかの極限状態において、どうすれば相手の喉笛を掻き切れるかという、徹底して泥臭い殺しの技術だ。



「立て。死者には息をする必要などないぞ、小娘」


頭上から降ってきたのは、地鳴りのように低い、声。

ましろは咳き込みながら、震える両腕で地面の泥に手をつき、必死に身体を起こす。彼女の右手には、刃を潰された模擬戦用の重い短剣が握られていたが、その切っ先は情けないほどに震えていた。


ルスランは、悠然と見下ろしてくる。その顔の半分には古い刃傷が走り、残された片目が、鷹のように鋭くましろの弱点を射抜いていた。


「……っ、あぁっ!」


ましろは泥を蹴り立て、無我夢中で師匠の胸元へ短剣を突き出した。

平和な日本で育った彼女の頭にある「戦い」とは、剣と剣を打ち合わせるものだ。だが、その常識は次の瞬間にへし折られる。

師匠はましろの短剣を真っ向から受けることはしなかった。軽く身をかわし、ましろの突進の勢いを利用して、彼女の膝の裏を重い軍靴の踵で容赦なく蹴り払ったのだ。


「がっ……!?」


体勢が崩れ、顔面から泥の中へ叩きつけられる。すかさず、師匠の分厚いブーツの底がましろの背中を踏みつけ、肋骨が軋むほどの圧力をかけた。


「何度言えばわかる。お前のような小柄な女が、正面から俺のような巨漢と打ち合って勝てるわけがない。正々堂々と戦うな。一撃で腕の骨を折られて終わるぞ」


背中を踏み躙られ、呼吸すらままならないましろの耳元で、師匠は冷酷に事実を叩きつける。


「騎士道などという甘ったるい幻想は、あの採石場に置いてきたはずだ。お前は犬だ。泥を被ることを恐れるな。地面を這いずり、敵の目を泥で潰せ。視界を奪い、装甲の薄い膝裏の腱を斬れ。そして、倒れた敵の頸動脈に刃を突き立てろ」


圧力が消え、ましろは泥水を吐き出しながら荒い息を繰り返した。

涙と鼻水、そして泥で顔がぐちゃぐちゃになっている。だが、彼女の瞳の奥底にある黒い執念の炎は、決して消えていなかった。

ましろは足元の泥を両手で掬い上げると、立ち上がりざまにそれを師匠の唯一の目めがけて投げつけた。


「……ほう」


師匠が腕で泥を払った一瞬の隙。

ましろは獣のように地を這う姿勢で跳躍し、師匠の膝裏めがけて木剣を薙ぎ払う。師匠は間一髪でそれを避け、ましろの首根っこを掴んで放り投げた。

再び泥の中を転がるましろだったが、師匠は初めて、その傷だらけの顔に微かな笑みを浮かべた。


「……悪くない。だが、刃の返しが遅い。次は喉笛を狙え」


それが、この見知らぬ狂った世界で、ましろが生き残るための術を学ぶための、血反吐を吐くような日々の始まりだった。



荒野の夜は、昼間の凶悪な熱気が嘘のように、骨の髄まで凍りつくような冷気に包まれる。

岩陰に身を寄せ、身を潜めるようにして焚かれた小さな野営の火。パチパチと爆ぜる乾いた木の枝の音が、夜の静寂に吸い込まれていく。


ましろは焚き火のそばに胡座をかき、師匠から放り投げられた硬い干し肉をかじっていた。

唾液でふやかさなければ噛みちぎることもできない、塩と獣の臭いがきつい肉。だが、採石場で啜っていた泥水に比べれば、それは生きていることを実感できる極上の晩餐だった。


火の明かりに照らされたましろの姿は、すでにかつての面影を完全に失っている。

師匠の命令により、胸は分厚い麻のサラシできつく締め上げられ、呼吸をするたびに鈍い痛みを放っている。顔の下半分を汚れたターバンで覆い、喉の奥を意図的に押し潰すことで、掠れた低い声しか出さないように訓練されていた。


「女だとバレれば、どんな手練れでも寝首を掻かれて終わる。今日からお前は、性別を持たない傭兵だ」


それが、師匠が彼女に与えた唯一の装甲だった。


ふと、肉をかじるましろの右手首が、焚き火の赤い光に照らされた。

そこには、泥と血でどす黒く変色し、所々が擦り切れかけた『ミサンガ』が巻かれていた。採石場の看守に千切られそうになりながらも、彼女が発狂してまで死守した、両親とのお揃いの紐。

ましろは無意識に、左手の指先でその擦り切れた糸をそっと撫でていた。


「……まだ、そんな汚い紐を捨てずにいるのか」


水筒の酒を煽っていた師匠が、焚き火越しにましろの手首を見据えて言った。

ましろはビクリと肩をすくめ、とっさに右手首を自身の外套の袖に隠そうとした。この世界では、感傷は弱さだ。隙を見せれば、この師匠にすら見捨てられるかもしれないという恐怖が常に付きまとっている。


だが、師匠の声には、いつものような厳しい叱責の響きはなかった。


「……約束、なんだ」


ましろは、訓練した低い掠れ声で、ぽつりとこぼした。

「絶対に、切らしちゃいけない。……これを手放したら、私は、私が何者だったか、全部忘れてしまう気がするから」


元の世界へ帰れる。両親、そして友人たちに会う。

その途方もなく遠い希望だけが、彼女を精神が狂ったバケモノに堕ちることから、ギリギリのところで繋ぎ止めている命綱だった。


師匠は無言のまま、焚き火に太い薪を一本放り込んだ。

火の粉が夜空へ舞い上がり、彼の残された片目に宿る、深く古い悲しみの色を照らし出した。


「……俺にも、昔、家族がいた」


不意に紡がれたその言葉に、ましろは顔を上げた。

常に鉄の鎧を纏い、感情の揺らぎなど見せたことのない隻眼の男の、初めて見せる背中だった。


「妻と、娘が一人。……生きていれば、ちょうどお前と同じくらいの年頃だっただろうな」


師匠の視線は、ましろではなく、揺らめく炎の奥の、遠い過去を見つめていた。


「ここは、奪うか奪われるかしかない世界だ。俺は傭兵として剣を振り回し、他人の血を浴びて金を稼いだが……結局、一番守りたかったものは守れなかった。俺が戦場に出ている間に、住んでいた村が帝国の残党狩りに遭った。……戻った時には、妻も娘も、黒焦げの肉塊になっていたよ」


淡々と語られる凄惨な過去。ましろは、肉を噛むのをやめ、ただじっとその言葉に耳を傾けた。

悲しみというよりは、もはやどうにもならない諦観。この残酷な世界で、数え切れないほど繰り返されてきたであろう不条理の歴史が、男の傷だらけの顔に刻み込まれていた。


「俺があの採石場で、お前を金貨で買った理由がわかるか?」


師匠が、視線を炎からましろへと移した。


「哀れな小娘に、娘の面影を重ねたからじゃない。……あの時、お前は仲間の奴隷の頭を砕かれても声を出さなかった。だが、その胸元からあの『紐』が奪われそうになった瞬間、初めて狂ったように牙を剥き、倍以上ある男の首を噛みちぎった」


師匠の片目が、ましろの右手首のミサンガを鋭く射抜く。


「お前は、自分の命のためじゃなく、その『過去への繋がり』を守るためだけに発狂した。……そのどうしようもなく醜く、ひたむきな執念が、俺には酷く眩しく見えたんだ」


師匠は水筒の蓋を閉め、ゆっくりと立ち上がった。

巨木のような背中が、星空を隠すようにましろの前に立つ。


「その紐が、お前を『人間』として生かす鎖なら、絶対に手放すな」


低く、しかしこれまでにないほど確かな熱を帯びた声が、夜の荒野に響いた。


「お前がどこから来たのか、どこへ帰りたいのか、俺にはわからない。だが、帰りたい場所があるなら、何が何でも生き延びろ。誰かに奪われる前に、お前が奪え。……自分の血を流したくなければ、他人の血を頭から浴びろ」


それは、娘を守れなかった一人の男が、生きるために修羅の道を選んだ少女へ贈る、最も残酷で、最も優しい祝福と言えるだろう。


「……ああ」


ましろは、右手首のミサンガをもう一度、強く握りしめた。

擦り切れた糸の感触が、手のひらに食い込む。

日本の中学の校舎。キンキンに冷えたみかんジュース。笑い合う友人たち。

その鮮やかな記憶に、意図的に蓋をする。今日から、その記憶を取り出すことは二度とない。この地獄を抜け出し、元の世界への扉を開くその日まで。


「私は、帰る。……そのために、あんたの技術を全部盗んで、生き抜いてやる」


ターバンの下で、ましろ――いや、狂犬マーシャは、暗殺者のように冷たい瞳で師匠を見据え、獣のように低く唸った。


「言ったな。なら、明日は泥臭く生き残る方法から教え直してやる。覚悟しておけ、マーシャ」


師匠が鼻で笑い、外套にくるまって岩陰に横たわる。

焚き火の熱が、冷え切ったましろの頬を微かに温めていた。

彼女は自身の右手首を胸に抱き寄せるようにして目を閉じた。この日から、彼女は完全に日本人であることを捨て、他者の命を刈り取るための刃として、その形を研ぎ澄ましていくことになるのだった。

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