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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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28/43

青年期8

王都グラナダの地下に葉脈のように張り巡らされた、古代水路。

地上で数万の本軍が激突している陽動の喧騒は、分厚い石壁と土に完全に遮断され、ここまでは一切届いてこない。 淀んだ泥水と青黒い苔に覆われた冷たい石畳の上を、四つの影が足音を殺して進んでいた。


「……図面通りだ。この先を右に折れ、螺旋階段を登れば、王城の最下層、禁書庫の真下に出るはずだぜ」 先頭を歩くザイドが、わずかな光を頼りに囁く。

そのすぐ後ろで、マーシャは懐から取り出した羊皮紙の図面と自身の記憶を照らし合わせ、小さく頷いた。


「油断するな。敵の軍師ゼインは、侮れない男だ。私たちがここを通ることも織り込み済みで、必ずどこかに死の罠を張っている」 マーシャの低い声に、松明を掲げているカディルが油断なく長剣の柄に手をかけ、周囲の暗闇を鋭い隻眼で睨みつけた。


水路の中は、鼻を突くようなカビと腐水の匂いが充満し、足元はひどく滑りやすかった。


「おっと……」 苔に足を取られ、マーシャの小柄な身体が僅かに横へ傾いた、その瞬間。

「気をつけろ」 背後から伸びてきたファリードの分厚い鋼の籠手が、彼女の細い腰をガシッと力強く支え留めた。


「……ッ、悪い。だが、近すぎるぞ殿下。自分で歩ける」

「私が『お前を守り抜く』と言ったはずだ。お前は盤面だけを見ていろ」


暗闇の中でもはっきりと分かる、ファリードの金色の瞳に宿る熱と、絶対に彼女から離れまいとする覇王の重圧。昨夜の軍議での宣言通り、ファリードはマーシャの背後にピタリと張り付き、あらゆる死角からの脅威を己の武力で弾き返す盾として、文字通り一歩も離れようとしなかった。

マーシャはターバンの奥で顔を微かに熱くしながらも小さく息を吐き、再び真っ暗な前方へと向き直る。


(来るなら来い、大帝国の天才軍師。お前の完璧な鳥籠を、力ずくでこじ開けてやる)


静寂。遠くで響く水音だけが、極限まで張り詰めた彼らの思考を打っていた。

しかし。

暗く、冷たい古代水路の奥深く。


ポチャン、という水滴の音が響いた直後、カディルが掲げていた松明の炎が、不自然な風を孕んでフッと掻き消えた。

「――来るぞッ!!」


暗闇の中、ザイドの獣のような警告が水路に木霊した。 完全なる漆黒。その中から、水音すら立てずに何十もの黒い影が、天井や壁の窪みから一斉に襲い掛かってきた。王都防衛を担う、帝国最強の暗殺部隊である。


(……読まれていたか!)


マーシャは即座に双短剣を抜き放ち、暗闇の中で敵の刃を弾き返した。

 大帝国の定石をすべて書き換えた新たな天才軍師。彼は、悪魔の軍師が真正面からの平原戦だけで満足するはずがないと見抜き、この複雑怪奇な地下水路のルートすらも予測し、伏兵を潜ませていたのだ。


「ええい、狭くて大剣が振れんッ!」

 カディルの苛立った声が響く。人一人が通るのがやっとの狭いレンガの水路では、帝国騎士の誇る長剣も、ファリードの長槍も、壁につかえて本来の威力を全く発揮できない。


「旦那と殿下は下がって壁になれ! ここは俺と兄貴の独壇場だ!!」


ザイドの叫びと共に、マーシャは即座にアイコンタクトを交わし、暗闇の中で迎撃陣形キルゾーンを構築した。

 カディルとファリードの大柄な身体で水路を塞がせ、あえて頭上に一筋の隙を作る。そこから侵入しようと群がる敵を、ザイドの毒刃とマーシャの双剣で確実に狩り尽くす。大帝国の定石を逆手に取った、必殺の罠のはずだった。


――しかし。

 次の瞬間、マーシャは背筋が凍りつくような戦慄を覚えた。暗殺者たちが、その完璧な囮に一切見向きもせず、予期せぬ行動に出たのだ。


「なっ……!?」


暗殺者たちは無謀にも、隙間を狙うのではなくカディルの大盾とファリードの槍に向かって正面から身を投げ出した。そして自らが串刺しになることも厭わず、その死体の重みで前衛の動きを完全に封じ込めたのである。

 定石をあえて捨てる、冷酷極まりない人間の壁。


(私の思考が……読まれている!? 定石の裏をかくことすらも!)


これこそが、敵の若き天才軍師ゼインの恐るべき有能さであった。

 彼は悪魔の軍師ならば狭所で必ず罠を張ると完全に読み切り、その戦術的誘いを徹底して無視させた。数十人の兵を捨て石にしてでも、最も痛みを伴う本陣の急所――すなわち軍師マーシャの首、ただ一つに的を絞るよう、暗殺部隊に絶対の命令を下していたのだ。


「ちィッ、こいつら狂ってやがる!!」


ザイドの焦燥の声が響く。死を恐れぬ精鋭たちが次々と暗闇から湧き出し、死体となってでも前衛を強引に押さえ込む。

 激戦の中、マーシャが前方の敵の心臓を貫いた直後。ゼインの冷酷な采配によって陣形を崩された、その一瞬の致命的な隙だった。


「……死ね、悪魔の軍師ッ!!」


水路の天井に張り付いていた本命の暗殺者の一人が、音もなく落下し、マーシャの完全な死角から猛毒を塗った凶刃を振り下ろした。

 回避は間に合わない。ザイドもカディルも遠すぎる。死を覚悟し、マーシャが奥歯を噛み締めた、絶対絶命の瞬間。


「――私の軍師に、気安く触れるな」


地獄の底から響くような、怒りと殺意に満ちた低い声。

 ガキンッ!! という激しい鋼の衝突音と共に、マーシャの小柄な身体が、強引な力で背後へと引き寄せられた。


「……え?」


暗殺者の凶刃を自らの分厚い鋼の籠手で直接受け止め、そのまま強引に敵の腕ごとへし折ったのは、ファリードであった。

 彼は長槍を捨て、腰に帯びていた肉厚な短剣を抜き放つと、マーシャを庇うように抱き寄せたまま、敵の首を無慈悲に両断した。鮮血が頭上から降り注ぐ。


「で、殿下……っ」


暗く狭い水路の壁際。マーシャは、ファリードの胸の中に完全に閉じ込められる形になっていた。

 耳のすぐ横で、彼の力強い心臓の鼓動がドクン、ドクンと鳴っている。背中に庇われたマーシャを包み込んでいるのは、昔自身の後ろで震えていた少年の華奢な身体ではない。

 暗闇の中でもはっきりと分かる、鋼のように硬く、分厚い胸板。彼女の頭をすっぽりと覆い隠してしまうほどの広く逞しい肩幅。そして、彼女の腰を抱き寄せる、絶対に逃げられない熱を持った力強い腕。


降り注ぐ敵の返り血からマーシャを守るように、ファリードがさらに強く彼女を抱きすくめる。彼の身体から漂う、むせ返るような雄の匂いと、圧倒的な覇王の気配。


(……ああ、そうか。こいつはもう、私が守ってやらなければならない無力なヒヨッコなんかじゃない)


天才軍師の完璧な策を力ずくで粉砕し、自分を鳥籠のように完全に包み込んでいるこの男は。誰よりも強大で、恐ろしく、そして危険な大人の男なのだと。マーシャは自身の心臓が早鐘を打つ音を聞きながら、どうしようもない絶対的な支配感を痛感させられていた。


「怪我はないか、マーシャ」

「……あ、ああ。問題ない。……離してくれ、敵が来る!」

「私の背中から絶対に離れるな」


ファリードは有無を言わさぬ声で命じると、マーシャを背後に庇ったまま、修羅の如き圧倒的な武力で前方の暗殺者たちを次々と肉片に変えていった。


* * *


ファリードは有無を言わさぬ声で命じると、マーシャを背後に庇ったまま、修羅の如き圧倒的な武力で前方の暗殺者たちを次々と肉片に変えていった。


だが、相手はゼインが差し向けた大帝国最強の精鋭暗殺部隊だ。

いくらファリードたちが超人的な力を持っていようと、数十人を相手にして無傷で済むはずがなかった。

唯一の救いにして最大の勝機は、この場所が「人一人がやっと通れる狭い地下水路」であったことだ。


敵は大軍の利を活かして包囲することができず、正面からの波状攻撃を強要される。この完全な地形の利を利用し、四人は死に物狂いで連携した。 マーシャを背後に庇うファリードと、長剣を捨てて肉弾戦で壁となるカディルが前衛で敵の波を強引に堰き止め、その隙間から同業者殺しの技術を知り尽くしたザイドが毒刃で確実に急所を抉り、マーシャが冷静に死角を突いて崩していく。


息つく暇もない死闘。敵の凶刃がカディルの甲冑を削り、ファリードの頬を掠め、ザイドの肩を切り裂く。暗闇の中、互いの呼吸と泥を這う音だけを頼りに、彼らは何十回、何百回と刃を振るい続けた。


* * *


そして。


満身創痍で血路を開き、何十人もの暗殺者の死体を泥水に沈め。 全員が肩で激しい息を吐き、血と泥に塗れた四人の少数精鋭部隊は、ついに王城の最下層、分厚い鉄の扉の奥に隠された古びた『禁書庫』へと辿り着いた。


「はぁっ……はぁっ……」


ギギギ……と、長い年月を経て錆びついた扉を、血まみれのカディルが残された気力を振り絞って力任せに押し開ける。 そこは、王都の地下にこれほどの空間があったのかと驚くほど、巨大で広大な石造りの空洞だった。壁一面には朽ち果てた無数の書架が立ち並び、何百年分もの埃とカビの匂いが充満している。


そして、その巨大な空間の中央。

 黒曜石で造られた不気味な巨大なアーチと、その手前に鎮座する不気味な石の祭壇。アーチには、帝国の文字ではない、星々の瞬きを模したような異界のルーン文字がびっしりと刻まれていた。


「星の門……っ!!」


そのアーチを見た瞬間。どんな凄惨な死地にあっても決して揺らがなかったマーシャの黒曜石の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。 間違いない。これこそが、十字軍の禁書に記されていた、異界へと繋がる扉だ。


「あった……! これで、これで……『日本』に帰れる……っ!」


声の低さを偽装することすら忘れ、彼女の口から零れ落ちたのは、鈴を転がすような、年相応の少女の震える声だった。 張り詰めていた悪魔の軍師の分厚い仮面が、音を立てて完全に崩れ落ちる。 マーシャは泥にまみれた自身の左手首、ボロボロになったミサンガを両手で痛いほど強く握りしめ、足をもつれさせながら祭壇へと駆け寄り、その場に泣き崩れた。


この七年間の、吐き気を催すほどの死の恐怖も、泥水を啜る日々も。自身が作り出した盤面で人が死んでいく重すぎる罪悪感も。すべては、この扉を開き、元の平和な世界へ帰るための代償だったのだ。


「帰れるよ……っ、ましろ……っ。お父さん、お母さん……っ!」


異国の響きで嗚咽を漏らし、祭壇にすがりついて子どものように声を上げて泣きじゃくるマーシャ。 そのあまりにも異常な光景に、同行していたザイドとカディルは、雷に打たれたように完全に硬直していた。


「あ、兄貴……? どうしたんだよ、急に泣き出して……それに、今の声……」


ザイドが信じられないものを見る目で、震える声を絞り出す。


「日本? ましろ? 呪文か何かか? そもそも、いかなる地獄でも顔色一つ変えなかった軍師殿が、なぜあのような、か弱き少女のように……っ」


カディルもまた、目の前の光景が全く理解できず、混乱の極致に陥っていた。彼らにとって、冷徹な悪魔が素の感情を剥き出しにして泣き崩れる姿は、大軍に囲まれるよりも遥かに恐ろしく、理解不能な異常事態であった。


だが、ただ一人。 ファリードだけは、剣を下ろしたまま、無言で彼女の小さな背中を痛切な想いで見下ろしていた。 彼だけが、彼女が『別の世界』から来た迷子であり、この扉が彼女の唯一の希望であることを知っている。


(……マーシャ)

その希望が叶うということは、すなわち、彼女が自分の手の届かない世界へと消え去ってしまうこと。


あるいは、星の門を開く代償として、正統なる王族である己の命を捧げねばならないという残酷な事実を意味していた。 歓喜に震える彼女の背中を見つめるファリードの金色の瞳には、他の将軍たちには決して読めない、底知れぬ罪悪感と、彼女を絶対に手放したくないという仄暗い愛執が、ドロドロと渦巻いていた。


マーシャは祭壇の上に置かれていた、門の起動方法を記した分厚い儀式書を震える手で開き、羊皮紙のページをめくった。


「門を開くための代償……っ。星の門を起動し、異界への道を開くためには……」


だが。

 マーシャの歓喜の涙は、そのページを見た瞬間、一瞬にして凍りついた。


「……え?」


肝心の、門を開くための代償と起動方法が書かれているはずのページが。

 まるで何者かが乱暴に引きちぎったかのように、無惨にも根元から破り取られていたのだ。


「嘘……なんで、破れて……っ。ここを読めば、扉が……」


マーシャがパニックに陥り、震える手で破れたページの切れ端を撫でた、その時だった。


『――無駄だ、悪魔の軍師よ。その門が貴様らのために開くことは、永遠にない』


パチパチパチ、と。

 禁書庫の暗がりから、冷酷で乾いた拍手の音が鳴り響いた。


「!?」


 ファリードとカディルが瞬時に武器を構える。

 書架の奥から、無数の松明の光と共に現れたのは、黄金の甲冑を纏った叔父マレク皇帝と、その傍らで冷たい微笑みを浮かべる、豪奢なローブを着た見知らぬ若者――彼こそが、帝国の定石を書き換え、先ほど地下水路で恐るべき策を講じた、新たな天才軍師ゼインであった。

 周囲を、完全武装した皇帝の近衛兵たちが何重にも取り囲む。


「……待ちくたびれたぞ、ネズミども。平原の戦いは陽動、本命はこの王城の地下水路……すべて我が軍師の読み通りよ!!」

 マレク皇帝が、勝利を確信した下劣な笑い声を上げた。


「なぜ、ここが……!」マーシャが叫ぶ。

「貴様の思考など、手にとるように分かる」

 若き天才軍師ゼインが、嘲笑うようにマーシャを見下ろした。

「貴様が『異界の悪魔』の知識を持つ者ならば、必ずこの禁書庫を目指す。だからこそ、水路で適度に削り、この袋小路へと誘導してやったのだ。……貴様のその、浅ましい希望を完全に打ち砕くためにな」


天才軍師は、手の中で丸めた古い羊皮紙を弄びながら、残酷な真実を暴露した。


「探しているのは、その本の破れたページか? 無駄なことだ。その門を開くには、正統なる王族の『命』を、すべての血の一滴に至るまで祭壇に捧げねばならぬのだからな!」


「……えっ?」

マーシャの心臓が、ドクンとひどく嫌な音を立てて止まった。

王族の命。すべての血。 その言葉の意味を理解するより早く、天才軍師の冷酷な宣告が、彼女の脳髄に容赦なく叩き込まれる。


「理解したか、愚かな軍師よ! お前が異界へ帰るための代償は、お前がそこまで傅き、玉座に座らせようとしてきた、そのファリードの命そのものなのだ! 奴の首を刎ね、その血を祭壇に注がねば、お前は一生、元の世界へは帰れない!!」


「嘘だ……」

マーシャの口から、空気が漏れるような掠れた声がこぼれた。

指先から完全に力が抜け、抱きしめていた儀式書が祭壇の上にバサリと落ちる。


「で、殿下の命が……代償……!?」

「そんな……じゃあ兄貴は、故郷に帰るために殿下を殺さなきゃならねェってのか……!?」


カディルとザイドが、そのあまりにも残酷な真実に絶望の声を上げる。陣営の誰も、そんな事実を知らなかったのだ。


マーシャはゆっくりと、まるで錆びついた操り人形のようにギギギと首を動かし、自身の背後を守るように立っているファリードを振り返った。 自分を帰すためには、彼を殺さなければならない? 彼と共に、泥水を啜ってでも生き残ろうと足掻いてきたこの三年間は、己の王を殺すための道程だったというのか? そんな残酷な真実があっていいはずがない


「……殿下。嘘だと言ってくれ。あいつの出鱈目だろう? 王族の血なんて……っ、あんたは、何も知らなかったんだろう!?」


声が震えていた。絶対に嘘だと言って欲しかった。


だが。

振り返ったマーシャが見たのは、その残酷な真実を否定することなく。ただひたすらに仄暗く、どす黒い愛執を宿した金色の瞳で彼女を見つめ返す、ファリードの底知れぬ狂気の顔であった。


「……ああ。王都に進軍する前、捕らえた異端審問官からすべてを聞き出していた。……儀式書を破り捨てたのも、私だ」


その淡々とした、だが確かな自白。 マーシャの心臓を、見えない巨大な氷の腕が鷲掴みにした。

自身の命が代償だと知った上で。

彼はマーシャに王都を落とせば帰れると嘘をつき、彼女に戦をさせ、あまつさえ自分を帰す気など毛頭ないまま、この絶望の袋小路へと引きずり込んだのだ。


「なぜ隠していた……ッ!!」


マーシャの喉から、血を吐くような絶叫が破裂した。


「あんたの命が対価なら、私が帰る方法なんて最初からなかったじゃないか!! 私が、どれだけの思いで……どれだけの血を流してこの盤面を……ッ!!」

「言えば、お前は絶望して壊れてしまうだろう。……それに」


ファリードは、周囲を何十人もの敵の刃に囲まれている絶体絶命の窮地にあって。

まるでこの世界に、マーシャと自身の二人しか存在していないかのように。 狂おしいほど甘く、そして血を吐くような悲痛な声で叫んだ。


「私には、お前を帰すことなどできない! 自分が死んでお前を一人残すことも、お前が私の手の届かない世界へ消えてしまうことも……私は、絶対に手放したくなかったのだ!!」


それは、王としての合理も、主君としての矜持も、他者への思いやりもすべて投げ捨てた、ただ一人の男としての、醜くも純粋すぎるエゴイズムであった。


「……っ」

マーシャの黒曜石の瞳から、ポロポロと絶望の涙がこぼれ落ちた。


『日本への帰還』。


三年間、血みどろの泥濘を這いずり回り、師匠を失ったトラウマを抱えながらも、心を殺して他人の命を盤面ですり潰し続けてきた、唯一の理由。 それが今、完全に絶たれたのだ。 しかも、自分が信じて背中を預けていた、絶対的な味方からの究極の裏切りによって。


『カッカッカッ! 傑作だな! 己の軍師に嘘を吐き、希望をちらつかせて利用してきた小童こわっぱと、無様に踊らされた哀れな迷子!』


マレク皇帝の醜悪で狂ったような哄笑が、禁書庫に木霊する。


「さあ、どうする悪魔の軍師よ! 帰るために己の王を殺すか? それとも、ここで揃って我らの錆となるか!!」

希望から一転、突き落とされた無限の絶望。


帰還の扉の真ん前で、マーシャは信じていた世界そのものが音を立てて砕け散っていくのを感じながら、ただ真っ暗に染まっていく視界の中で立ち尽くしていた。


マレク皇帝が、腹を抱えて醜悪な哄笑を響かせる。


『さあゼインよ、その滑稽な道化どもを串刺しにしてやれ!』

『御意に』


天才軍師ゼインの冷酷な合図と共に、近衛兵たちが一斉に槍を構え、包囲の輪を縮めてくる。 死が、確実な足音を立てて迫っていた。


(……ああ。私は、ここで死ぬのか。日本に帰ることもできず、ましろという名前すら誰にも知られないまま)


マーシャの視界が、スローモーションのようにぼやけていく。

採石場で鞭打たれ、泥水をすすった地獄の日々。

自分の采配ミスで腹に風穴を開け、血を吐いて死んでいった師匠ルスランの温もり。

心を完全に殺し、他人の命を盤面ですり潰し続けてきた、この血塗られた七年間。


すべては、日本へ帰るためだった。

お父さんとお母さんに会って、「ましろ」という普通の女の子に戻るためだった。


なのに。

この狂った世界で一番背中を預けていた、たった一人の王様に、その希望を根底から騙され、利用されていたのだ。


(ふざけるな。殺してやりたい……っ、こいつを今すぐ殺して、私も死んでしまいたい!)


マーシャは自身の左手首に巻かれた、日本のボロボロのミサンガを強く握りしめた。

怒りと絶望で、爪が肉に食い込み血が滲む。


――だが。 最期の瞬間に、彼女が脳裏に思い描こうとした日本の平和な教室の風景は、どうやっても砂嵐のようなノイズがかかり、思い出すことができなかった。

代わりに、圧倒的な熱量と極彩色の色彩を持って彼女の魂を激しく揺さぶったのは。


『お前のその傷だらけの背中を守れるのは、王となるこの私だけでいい』

自身を騙してまで手放そうとしなかった、あの夜のファリードの狂気的で不器用な熱。


『私が生きている限り、貴様に二度と同じ絶望は味わわせん!』

己の火傷のトラウマを乗り越え、泥だらけになって盾となってくれたカディルの背中。


『兄貴ィ! 今日も最高だったぜ!』

下品に笑い合いながら、毒刃で自身を死角から守ってくれたザイドの顔。


『傷口が腐って蛆が湧いても知りませんぞ』

悪態をつきながらも、徹夜で自分たちの傷に痛いほどの薬を擦り込んでくれたイブンの偏屈な優しさ。


そして、言葉を発さずとも、どんな死地でも必ず自分の矢面に立ち、無言で一番具の多い木椀を押し付けてくれたタリクの岩のような温かさ。


(……なんで。なんで、こんな時にあいつらの顔ばかり浮かぶんだよ)


マーシャの黒曜石の瞳から、どうしようもない大粒の涙がボロボロと溢れ出した。


自分を騙したファリードが憎い。許せるはずがない。

でも、彼は自分のために、自分の玉座を危険に晒してでも、ただの一度も自分を手放さなかったのだ。 あの純粋で怯えていた少年が、自分というちっぽけな存在をこの世界に繋ぎ止めるためだけに、狂気に染まるまで愛してくれた。


(私は……『ましろ』は、もうとっくにこの地獄で死んでいるじゃないか)


日本に、私の居場所はもうない。 私の本当の魂の形は、泥に塗れ、他人の血を浴びて笑い合う、この狂った世界の悪魔なのだ。


マーシャは、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳から、怯えた迷子の涙が完全に蒸発して消え去る。代わりに宿ったのは、自分を騙した残酷な世界と、自分を愛し狂った覇王の業を丸ごと喰らい尽くすほどの、黒曜石の獰猛な輝きであった。



ブチィッ!!!


敵の刃が迫る絶体絶命の禁書庫に、糸の千切れる鈍い音が響いた。 マーシャは自らの右手で、日本との唯一の繋がりであり、自身の人間性の最後のストッパーであった左手首のミサンガを、一切の躊躇いなく力任せに引きちぎったのだ。


「……マ、マーシャ?」


ファリードが驚愕に目を見開く。 マーシャは、七年間血反吐を吐いて守り抜いてきた『ましろの命綱』を、無造作に泥水の中へと投げ捨てた。 そして、自身を絶望の淵へと突き落とした元凶――ファリードの胸倉を両手で乱暴に掴み上げ、彼を真っ向から力強く睨みつけた。


「あんたは本当に、馬鹿で不器用で、救いようのないクソガキだ」

「……っ」

「私の希望を騙し取り、七年間の血みどろの苦労を全部無駄にしやがって。……あんたの命ひとつで帳消しになるなんて、到底割に合わない!」


マーシャは、ファリードの胸倉を掴んだまま、彼の金色の瞳の奥底に棲む狂気を丸ごと睨み返し、地獄の底から響くような声で吼えた。


「あんたを王にして、私がこの異世界で一番の権力者になってやる! お前の玉座も、その命も、これから流れる血も! 全部、私を騙した代償として死ぬまで搾取してやるからな!!」


それは、日本への帰還という希望を自らの手で完全に断ち切り。覇王に与えられた鳥籠に囚われるのではなく、騙した残酷な世界と覇王そのものを自らの手で支配する『悪魔の軍師マーシャ』として生きていくことを選んだ、魂の咆哮であった。


その言葉を聞いた瞬間。

ファリードの金色の瞳が、信じられないものを見るように限界まで見開かれた。

自分が嘘を吐いたせいで、彼女は絶望して壊れるか、あるいは自分を殺して帰還を選ぶかのどちらかだと思っていた。だが彼女は、自身が用意した狂気という名の鳥籠すらも力ずくで食い破り、悪魔として自らの意志で己の隣へと降り立ってくれたのだ。


ファリードの端正な顔から、絶望と焦燥が完全に消え去る。 次いで浮かび上がったのは、歓喜と狂気、そして底知れぬ愛執が入り混じった、ゾッとするほど美しく、獰猛な覇王の笑みであった。


「……ああ。それでこそ、私の軍師だ」


死地を取り囲む敵兵の存在すら完全に忘れ去られた、二人だけの異常な空間。 覇王と悪魔の魂が、決して逃れられない泥濘の中で、完全な共犯者として結びついた瞬間であった。


* * *


『ふん、絶望のあまり狂ったか。……やれ! 一人残らず殺せ!!』


 ゼインが冷酷に腕を振り下ろす。


だが、マーシャの唇には、不敵で悪辣な笑みが浮かんでいた。

 彼女がミサンガを引きちぎり、星の門を諦めたということは。すなわち、盤面における『勝利条件』が完全に変わったことを意味する。


「ザイド!! 手持ちの爆薬と油をすべて、あの『星の門』と祭壇に叩き込め!! カディル、殿下はそれを援護しろ!!」


『……なっ!?』

 天才軍師ゼインの端正な顔が、初めて驚愕に歪んだ。


「貴様、何を言っている!? それは異界へ繋がる唯一の扉にして、帝国の国宝だぞ!!」

「私にはもう、必要のないガラクタだ! 壊れろォッ!!」


大帝国の歴史書をすべて暗記し、定石の殻に籠もっていたゼインにとって。マーシャが自身の最大の目的である星の門を自ら破壊するという行動は、あまりにも非合理的で、予測の範疇を完全に超えていた。

 彼は門を背にして陣形を組ませていた。それが、致命的な仇となった。


「ヒャハハハッ! さらばだ神様、いや悪魔様か!!」

 マーシャの意図を瞬時に理解したザイドが、懐からありったけの可燃性の油と特製爆薬を取り出し、祭壇のど真ん中へと投げ込んだ。


ドゴォォォォォォンッ!!!


地下空間を揺るがす、凄まじい大爆発。

 帝国の国宝であった黒曜石の星の門が、無惨に砕け散り、巨大な破片となって皇帝の近衛兵たちの上に降り注ぐ。

 爆発の衝撃で禁書庫の天井が崩落を始め、周囲は完全に瓦礫と土煙のパニック状態に陥った。


『ぐあっ!? 門が……門がァッ!!』

『おのれ、狂人どもめ! 防衛陣形を立て直――』


「遅いぞ、定石馬鹿」


ゼインが近衛兵に指示を飛ばそうとした瞬間。

 土煙を切り裂いて、白銀の甲冑を纏ったファリードが、修羅の如き速度でゼインの眼前に肉薄していた。


「我が軍師の盤面に、貴様らの生き残る道など用意されていない」


ファリードの長槍が、雷光のような一閃となって虚空を薙ぐ。

 天才軍師ゼインは悲鳴を上げる間もなく、その顔を胸骨ごと叩き割られ、血飛沫を上げて壁まで吹き飛ばされた。


『ひっ……ひぃぃぃっ!? ゼ、ゼイン!? 馬鹿な、無敵の布陣が……っ』

 頼みの綱であった天才軍師を一瞬で失い、マレク皇帝は腰を抜かして泥水の中に座り込んだ。


「カディル、ザイド! マレクを捕縛しろ!!」

「「御意ッ!!」」


カディルとザイドが踏み込もうとした瞬間、決死の覚悟を決めた皇帝の近衛兵たちが、肉の壁となって通路に立ち塞がった。

『皇帝陛下とゼイン様をお逃がししろォッ!!』


崩落する禁書庫の中で、マーシャは自身の新しい王の隣に立ち、泥に塗れた顔で獰猛に笑った。


 日本へ帰る道は永遠に失われた。だが、彼女の心にもう迷いはない。

 大平原の陽動と、地下水路からの強襲。悪魔の軍師が描いた裏の盤面が、帝国の定石を完全に食い破り、ついに王都グラナダの心臓部を抉り取った、最高の逆転劇であった。


ザイドの放った爆薬が引き起こした大爆発により、禁書庫は紅蓮の炎と崩落する瓦礫の地獄と化していた。

 無惨に砕け散った星の門の残骸。それは、マーシャがこの三年間、泥水を啜ってでも縋り付いてきた日本への帰還という希望が、物理的に、そして永遠に消え去ったことを意味していた。


彼らは顔面を砕かれた天才軍師ゼインと、腰を抜かして震えるマレクを強引に両脇から抱え上げ、崩落する禁書庫から王城の地上へと続く隠し階段へ猛スピードで撤退していく。 残された数十人の完全武装の精鋭たちが、殿しんがりとして燃え盛る書架の間から、マーシャとファリードを確実に足止めせんと殺到してきていた。


絶体絶命の死地。

 しかし、マーシャは帰還の希望を失って泣き崩れることはなかった。


「……っ」


マーシャは自身の右手の中に残っていた、引きちぎられた日本のミサンガを見つめた。

 そして、一切の未練を断ち切るように、燃え盛る禁書庫の炎の中へと、それを躊躇いなく放り投げたのだ。

 チリッ、と音を立てて、彼女の過去を繋ぐ最後の糸が灰となって消えていく。


「マーシャ……」

 目を見開くファリード。


マーシャは振り返り、敵の返り血に塗れたファリードの大きな手を、自身の両手で力強く、ガシッと引いた。

 黒曜石の瞳には、もう迷子のような涙はない。ただ、この狂った世界で彼と共に悪魔として生き抜くという、凄絶な覚悟だけが炎に照らされてギラギラと輝いていた。


「帰る場所が、なくなったんだ」


マーシャは、迫り来る無数の刃を前にして、不敵に、そしてこの世界で最も美しい笑みを浮かべて叫んだ。


「あんたの隣以外、私が生きる場所はない。……責任取れよ、ヒヨッコ!!」


その言葉が、ファリードの鼓膜を打った瞬間。

 彼の中でずっと燻り続け、決して満たされることのなかった狂おしいほどの飢餓感と愛執が、ついに完全なる形で満たされた。

 彼女はもう、自分が無理やり鳥籠に閉じ込めなければ逃げてしまう小鳥ではない。自らの意志で翼を折り、この血塗られた地獄で自身の隣を歩むことを選んでくれたのだ。


「……ああ。地獄の底まで連れて行く」


ファリードの金色の瞳に、かつてないほどの圧倒的な歓喜と、底知れぬ覇気が宿った。

 二人は背中合わせに構えた。もはや守るべき無力な少」と過保護な軍師でもなければ、大人の男と庇われる女性でもない。

 互いの命と業を完全に背負い合う、最強の”共犯者”が誕生した瞬間であった。


「道を空けろ、雑兵ども。我が軍師の御通りだ!!」

「行くぞ殿下、私の歩幅に合わせろ!!」


ファリードの振るう長槍が炎を切り裂いて敵の胴体を薙ぎ払い、その死角から潜り込んだマーシャの双短剣が、敵の喉笛を的確に掻き切る。

 阿吽の呼吸。二人は迫り来る精鋭部隊を圧倒的な武力と体捌きで蹂躙し、燃え盛る禁書庫から、地下水路のさらに深部――王都の心臓部を巡る『中枢水門』へと血路を開いていった。


* * *


一方、地上。大平原で展開されていた表の盤面では、かつてないほどの激戦が繰り広げられていた。


「押し返せェッ! 陣形を崩すな!!」

 タリクの悲痛な怒号が響く。イブンの毒煙幕も、敵の計算し尽くされた風向きの操作によって無効化されつつあった。


城壁の上。地下から逃げ延び、顔の半分を血まみれの包帯で覆った天才軍師ゼインが、冷酷な目で戦場を見下ろしていた。

「無駄な足掻きだ。悪魔の軍師が地下で死んだ今、貴様ら烏合の衆など、大帝国の絶対的な定石の前にはただの塵芥に過ぎん」


ゼインの指揮は、文字通り完璧であった。戦術の教科書を極限まで洗練させた彼の布陣の前に、ファリード本軍はジリジリと王都の城壁から引き離され、壊滅の危機に瀕していた。


だが、ゼインが勝利を確信した、その時。


ズゴォォォォォォォンッ!!!!!


大地を揺るがすような凄まじい地鳴りが、大平原ではなく、ゼインの足元――王都の城壁の内部から鳴り響いた。


「な、なんだ!? 地震か!?」

「ゼイン様! じ、城門の内部から……凄まじい水音が!!」


それは、マーシャが娼館でマレクの側近から聞き出していた、王都防衛の最終兵器。

『いざという時は、その水門を開けば、反乱軍ごと街を水没させられる構造になっている――』


地下を突破したマーシャは、その防衛設備を完全に逆手に取ったのだ。

 彼女は水門の巨大な制御レバーを破壊し、本来ならば外の平原へと向かうはずの激流を、すべて王都の防衛設備と城壁の内部に向かって強制的に逆流させたのである。


バァァァァァァァァンッ!!!!


難攻不落を誇った王都の巨大な鋼鉄の城門が、内側からの異常な水圧に耐えきれず、大音響と共に吹き飛んだ。

 城門の内側から、何万トンという泥水の激流が、防衛用のバリケードも、中にいた帝国兵たちもすべてを飲み込みながら、大平原へと吐き出されていく。


「ば、馬鹿なッ!!」

 城壁の上で、天才軍師ゼインは己の目を疑い、絶叫した。

「盤面の定石では、城の内部などに水など来るはずがない!! 水門の構造をどうやって……いや、水で城壁を内側から破壊するなど、いかなる兵法書にも載っていない狂気の沙汰だッ!!」


計算と紙上の理論しか知らない天才軍師の脳は、完全に理解を拒絶し、パニックに陥っていた。


激流が吐き出され、半壊した城門の瓦礫の上。

 泥水の中から這い上がってきたのは、頭から泥と血を被りながらも、二本の短剣を手に獰猛な笑みを浮かべるマーシャと、彼女の背中を守るように立つファリードであった。


「……盤面そんなもんはなァ」


マーシャは城壁の上で呆然とする天才軍師を真っ直ぐに見据え、地獄の底から響くような声で、冷酷に引導を渡した。


「紙の上じゃなく、泥の中で描くもんだ」


定石の完全なる粉砕。

 城門が内部から崩壊したのを見たタリクとイブンが、歓喜の咆哮を上げる。


「城門が開いたぞォォォッ!!」

「殿下と兄貴に続けェッ!! 全軍、突撃ィィィッ!!」


地下から合流したカディルとザイドを先頭に、士気を最高潮まで爆発させた数万のファリード本軍が、牙を剥いた獣の群れのように、開け放たれた王都へと怒涛の勢いで雪崩れ込んでいった。

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