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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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青年期7.5

娼館での夜から数日後。  


王都グラナダ攻略に向けた最終軍議が開かれる本陣の天幕は、かつてないほどの奇妙な緊張感に包まれていた。 マーシャは分厚い外套を鼻先まで引き上げ、ターバンを深く被り直していた。石机の上の地図を睨みつけながらも、視界の端に映るファリードの姿を、意図的に、そして不自然なほどに避けている。


(……顔が、まともに見られない。あの時の声と、唇の感触が……っ!)


 路地裏でのあの熱情。マーシャの脳裏には、彼に顎を掬われ、熱を帯びた指先で自身の唇をなぞられた記憶が、焼き付いて離れない。彼がもはや無力なヒヨッコなどではなく、自分を力で組み伏せ、理性を焼き切るほどの色香を持った大人の男であるという事実を、否応なしに思い知らされたのだ。


 ファリードの方はといえば、表面上は冷徹な覇王の顔を作っていた。だが、マーシャが自分と目を合わせまいと明らかに動揺しているその姿を見るたび、彼の金色の瞳の奥では、酷く甘く、昏い愛執と優越感が静かに渦巻いていた。


(……意識している。あの悪魔の軍師が、私を一人の男として)


「えー、コホン。……報告いいか、兄貴」


 二人の間の異様な空気に理由も分からず居心地の悪さを感じていたザイドが、わざとらしく咳払いをし、羊皮紙を広げた。


「兄貴が娼館の豚から聞き出した地下水路の件、俺の部隊で裏を取ったぜ。ビンゴだ。城壁を越えずとも、旧市街の地下から王城の最下層……禁書庫のあたりまで直通のルートが確かに存在する」


 その報告に、将軍たちの表情が引き締まる。マーシャは熱くなった頬を両手で軽く叩き、無理やり軍師としての冷徹な顔を貼り付けた。


「よし。……ならば、作戦は二面展開でいく」


 マーシャは指揮棒で、王都の地図を真っ二つに分断するように叩いた。


「王都には今、叔父マレクの残存兵力と、あの厄介な天才軍師ゼインがいる。正面から総攻撃を仕掛ければ、奴は必ず完璧な定石通りの防衛戦を敷き、泥沼の消耗戦になる。だからこそ、表と裏で盤面を割る」


 マーシャの描いた絵図。

 それは、大平原に陣を敷く数万の本軍が、タリクの盾とイブンの毒煙幕を先頭に「総攻撃」を仕掛けるふりをして、敵の主力を城壁側に完全に釘付けにする陽動作戦。  そしてその隙に、少数精鋭が地下水路から潜入し、手薄になった王城の最下層を制圧し、一気に中枢へ向かうという強襲作戦であった。


「なっ……! 殿下自らが、そのような暗く危険な地下水路から潜入するなど! 王のなされることではございません!」


 案の定、カディルが顔を赤くして猛反対した。


「陽動を殿下が率い、潜入は我々暗殺のプロに任せるべきです!」

 だが、ファリードはカディルの抗議を静かに手で制した。


「却下だ。……敵の天才軍師は、定石を書き換える男だ。必ずこちらの裏をかき、地下水路にも伏兵を忍ばせているはず。暗殺の技術だけでは突破できない局面が必ず来る。私の武力が絶対に必要だ」


 ファリードは立ち上がり、石机越しにマーシャを見下ろした。


「それに。軍師を、私の目の届かない危険な暗がりに、一人で行かせるわけにはいかない」

「ッ……!」


 軍事的な合理性を装いながらも、その実、ただ彼女を己の手元から一秒たりとも離したくないという強烈な独占欲。  マーシャは顔をカッと熱くし、「す、好きにしろ! あんたの武力が必要なのは確かだからな!」と早口で言い捨て、逃げるように天幕の出口へと向かった。


「軍議はこれまでだ! 殿下、私、カディル、ザイドの四人で水路から潜入する! 明日の夜明けと共に作戦を開始する。各自、準備を怠るな!!」


 バサリと天幕を出て行こうとするマーシャの背中へ、ファリードが低く、甘い声で言葉を投げる。


「無理はするな、マーシャ。……明日は私が、お前を守り抜く」

「……過保護なヒヨッコめ」


 マーシャは振り返らずに悪態をついたが、その顔がヴェールの下で限界まで赤く染まっていることを、覇王だけは正確に見抜いていたのだった。


ー王都グラナダへの総攻撃を翌日に控えた、決戦前夜。

 静まり返った本陣の天幕の中で、ファリードは一人、石机の上に置かれた『白銀の甲冑』を、油を染み込ませた布で静かに磨き上げていた。


それは、大帝国シャジャルの正統なる第一王子であり、マレクの反乱によって命を落とした、ファリードの亡き兄の形見であった。


かつて、辺境のガレブ渓谷へ逃げ延びたばかりの十四歳の頃。この甲冑は、ファリードの華奢な骨格にはあまりにも大きすぎた。身に纏うたびに、死んだ兄の重圧と「兄の代わりになれない無力な自分」を突きつけてくる、決して逃れられない呪いの鎖のように彼を圧し潰していた。

 だが、過酷な三年間の戦場を経て、十七歳へと成長を遂げた今のファリードの広く逞しい肩幅と分厚い胸板には、まるで最初から彼のために誂えられたかのように、ぴったりと馴染むようになっていた。


ファリードは、甲冑の表面に残る消えない傷跡――炎の煤けた痕や、無数の剣の傷を、指先でゆっくりとなぞった。

 冷たい金属の感触が、決して忘れることのできない数年前の、王宮での記憶を鮮明に呼び覚ます。


* * *


華やかな大帝国の王宮、その広大な鍛錬場。

 そこにはいつも、太陽のように眩しく、熱を放つ男がいた。


『おおっ! さすがは第一王子殿下! 素晴らしい剣捌きです!』

『我らが大帝国の未来は、殿下の剛腕と共にある!』


大柄で逞しく、屈強な騎士たちを次々と薙ぎ払う兄。若き日のカディルをはじめとする古参の兵士たちが、盲目的な熱狂と忠誠の眼差しを向けるその男は、誰もが認める武勇とカリスマに満ちた「正統派の王太子」であった。


一方、歓声の沸く鍛錬場から遠く離れた日陰の回廊で。

 幼いファリードは、一人膝を抱えて歴史や法学の分厚い本を読んでいた。透き通るような白い肌と、華奢で傷一つない手足。王族としての威厳よりも、人を惹きつけてやまない妖しいほどの美貌ばかりが目立つ彼は、家臣たちから陰で美しすぎる木偶の坊と嘲笑されていた。


『第二王子殿下は、剣の柄より本の重さの方がお似合いだ』

『あれでは戦場には出られまい。兄君の足手まといにならねば良いが』


心ない嘲笑を耳にするたび、ファリードは俯き、己の細い腕を強く握りしめた。

 自分には決して手に入らない、圧倒的な強さと求心力を持つ兄への強烈なコンプレックス。だが、それ以上にファリードは、いつだって真っ直ぐに国を思い、誰にでも裏表なく笑いかける兄を、心から敬愛していた。


ある日、陰口を聞いて一人うつむいていたファリードの前に、鍛錬を終えたばかりの泥だらけの銀甲冑を着た兄が現れた。


『貴様ら。私の自慢の弟を愚弄することは、この私が許さんぞ』


兄は家臣たちを厳しく一喝して震え上がらせて退がらせると、大きな手でファリードの白金色の髪を、愛情を込めてぐしゃぐしゃと撫でた。


『気にするな、ファリード。お前は私と違って頭が良い。その美しい頭脳と優しい心で、文官として不器用な私を支えてくれればいい』

『……兄上』

『剣を振るい、お前を守る盾になるのは、兄である私の役目だ』


兄はニカッと笑い、自身の着ていた豪奢な銀の甲冑の胸板を、ガチン、と力強く叩いてみせた。

 ファリードは、いつか自分も兄上のようになりたいと、その大きくて、どこまでも温かい背中を眩しく見上げていたのだ。


――しかし。その太陽は、理不尽な業火によって一瞬にして世界から奪われた。


先王の崩御直後に起きた、叔父マレクによる玉座の簒奪。

 深夜の王宮に火が放たれ、狂気に満ちたマレクの反乱軍が押し寄せてきたあの夜。兄はファリードを逃がすため、あの銀の甲冑を纏い、単身で燃え盛る回廊へと囮になって飛び込んでいった。


『殿下ァァァッ!!!』


若きカディルが絶叫し、己の顔の半分を業火で焼かれながらも炎の中へと飛び込んでいった。だが、多勢に無勢。

 ファリードが隠し通路の奥から最後に見たのは、炎の向こう側で、何十本もの槍に全身を貫かれながらも、最期まで弟を逃がすために立ち塞がり、血を吐いて散っていった兄の姿だった。


『見ろ! 第一王子を殺したのは、あの弟だ! 兄殺しの逆賊ファリードを逃がすな!!』


マレクの残忍な笑い声と共に着せられた、兄殺しの逆賊という無実の汚名。

 ファリードはただ泣き叫び、兄の残した甲冑の一部を抱えて、泥水の中を逃げることしかできなかった。底知れぬ自身の無力さと、すべてを失った絶望だけを胸に刻んで。


カディルがあの火傷の痕を隠すことなく戦場に立ち続けているのは、太陽であった兄を救えなかった己への戒めであり、兄が命懸けで守ったファリードを、今度こそ命に代えても守り抜くという、血を吐くような忠誠の証でもあった。


* * *


「……殿下。こんな夜更けに何をしている」


不意に、天幕の入り口からかかった低い声で。

 ファリードは燃え盛る過去の業火から、静寂の現在へと引き戻された。


天幕に入ってきたのは、ダボついた外套を着た軍師、マーシャであった。

 彼女は石机の上に置かれた、磨き上げられた白銀の甲冑を見下ろし、ターバンの奥の黒曜石の瞳を細めた。


「明日は、それを着て王都へ入るのか」


マーシャの問いに、ファリードは布を置き、静かに頷いた。


かつて、十字軍に包囲されたガレブの砦で死を覚悟した時。十四歳の彼は「私は最期まで、あなたのようにはなれませんでした」と絶望し、兄の代わりのような、誇り高く綺麗な死を望んでいた。

 太陽になれなかった、出来損ないの木偶の坊として死んでいくのだと。


だが、今は違う。

 命への執着を剥き出しにした『悪魔の軍師』と出会い、共に這いずり回り、敵を謀略で陥れ、泥と血を啜って修羅の道を歩んできた。自分はもう、誰からも愛される「太陽のような正統派の兄」の真似事をするつもりはない。


「……兄上のように、光で民を導くことは、私にはできなかった。私は兄上のように優しくも、正しくもない」


ファリードは石机から立ち上がり、白銀の甲冑の胴を手に取り、自らの身体へと身に纏った。

 ガシャン、と重厚な鋼の音が鳴る。

 月光に照らされたファリードの顔には、かつてのコンプレックスに苛まれた少年の影はない。そこにあったのは、冷酷で、獰猛で、世界を恐怖で支配する覇王の底知れぬ笑みであった。


「……だが」


ファリードは、自分を地獄の底へと導いた共犯者――マーシャを真っ直ぐに見据えて告げた。


「恐怖と血で王都を支配し、叔父マレクの首を刎ねることはできる」


甲冑の表面に残る、兄が受けた無数の傷跡。

 ファリードは己の胸板を、かつての兄と同じように、力強く叩いた。


「この傷だらけの甲冑は、もはや兄の真似事をするための枷ではない。……私自身の覇道で、王座を取り戻すためのものだ」


それは、太陽の影に怯えていた己の過去との、完全なる決別の宣言であった。

 マーシャは、闇として世界を統べる覚悟を決めたその若き王の姿を見上げ、ターバンの奥で満足げに、そしてひどく妖艶に口角を上げた。


「……よく言った。それでこそ、私が盤面を預けた王様だ」


明日は、すべての因縁に決着をつける日。

 白銀の甲冑を纏った修羅と、漆黒の悪魔の軍師は、血塗られた王都の玉座へ向けて、静かに決意の刃を研ぎ澄ませたのであった。

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