青年編7
(……いや、待て。こいつは王都の防衛を統括する要だ。もっと奥まで踏み込めば、水路の鍵の在り処や、さらなる軍機を引き出せるかもしれない)
マーシャは帯に隠し持った毒針に触れていた指先の力を、ゆっくりと抜いた。
今ここで暗殺して逃走するのは容易い。だが、それでは軍師としての最善手を取りこぼすことになる。彼女は冷徹な天秤に己の身を乗せ、暗殺者としての殺意を奥底へと沈め、腹を括った。
「……ふふっ、そんなに急がないでくださいませ、閣下。わたくしも、閣下と二人きりになりとうございましたわ」
マーシャは毒針から手を離し、将校の太い腕に自ら体重を預けて艶っぽく微笑んでみせた。
「おお! そうかそうか、俺の魅力が分かるか! さあ来い!」
将校は下卑た笑い声を上げ、マーシャの細い腕を乱暴に引っ張った。
大広間から続く、赤い絨毯が敷き詰められた廊下。両脇の部屋からは、むせ返るような甘い香炉の煙と共に、男女の生々しい嬌声や、ベッドがきしむ粘着質な音が漏れ聞こえてくる。
それは、人間の最も原始的な欲と金が交錯する、娼館特有の濃厚な空気感だった。
(……くそっ、気味が悪い)
マーシャの背筋に、生理的な嫌悪感と、得体の知れない恐怖が這い上がる。
彼女は暗殺の技術も、戦場での死線のくぐり方も知っている。だが、それはあくまで命の奪い合いにおける知識だ。女性としての身体の成熟期を、生きるか死ぬかの極限状態の中だけで過ごしてきた彼女にとって、男女の情事やそれに伴う行為は、知識として知っているというだけの、完全に未知の領域であった。
連れ込まれたのは、天蓋付きの巨大なベッドが部屋の半分を占める、悪趣味なまでに豪奢な個室だった。
部屋に入るなり、将校は鍵を乱暴にかけ、マーシャの華奢な肩を力任せにベッドへと突き飛ばした。
「あっ……!」
柔らかな羽毛の海に身体が沈み込む。
すぐに、将校の巨体と、酒と汗の饐えた匂いがマーシャの上に重くのしかかってきた。
「さあ、見せてみろ。そのヴェールの下の顔も、その上等な絹の下の身体も、全部俺のものだ」
男の太い指が、マーシャの首元に伸びてくる。
圧倒的な体格差と、理性を失った男の抗えない暴力的な力。戦場とは全く異なる、逃げ場のない密室での粘着質な力に、マーシャの身体が本能的な恐怖でガタガタと震え出す。
(震えるな……っ! 情報を引き出すんだ、軍師として、あの盤面を完成させるために……っ!)
マーシャは自身の恐怖を必死に噛み殺し、震える唇に無理やり色っぽい笑みを貼り付けた。
将校の首に両腕を回し、その耳元で甘く囁く。
「……閣下。わたくし、強い殿方が好きですの。もっと、貴方の武勇伝を聞かせて……地下水路の鍵は、貴方のようなお強い方が持っていらっしゃるの……?」
「ガハハ! 当たり前だ! 水路の鍵は、俺の屋敷の地下金庫に――」
将校が得意げに口を滑らせた、その時だった。
彼の下卑た欲望が限界に達し、マーシャの言葉を最後まで聞くことなく、強引にその深紅の踊り子衣装の襟元を掴んだ。
「話は後だ! 今は俺を気持ちよくさせろ!!」
ビリィッ!! 無惨な音を立てて、マーシャの素肌を覆っていた薄絹の衣装が乱暴に引き裂かれた。 彼女がひた隠しにしてきた白い肩と、サラシを外した無防備な胸元が、冷たい空気に晒される。
「っ……!」
初めて経験する、戦場の刃とは全く違う『力ずくで女の尊厳を剥ぎ取られる』という生々しい暴力。
マーシャの背筋に、強烈な吐き気と生理的な恐怖が駆け上がり、暗殺者としての訓練された身体が一瞬だけ、ほんのコンマ数秒だけ硬直してしまった。 だが、彼女の黒曜石の瞳から、冷徹な殺意の光が消えることはなかった。
(……十分だ。地下水路の鍵の在り処は吐いた。貴様はもう、用済みだ!)
マーシャは震える唇を固く引き結び、硬直した身体を無理やり意志の力で動かした。将校の汚らわしい唇が自身の肌に触れるより早く、帯に隠し持っていた猛毒の針を抜き放ち、男の頸動脈へと的確に突き立てようとした。
彼女自身の手で、この豚の息の根を止める。 その致死の反撃が届く、まさにその絶対絶命の寸前の瞬間だった。
――バァァァァァァンッ!!!!!
重厚な木造の扉が、蝶番ごと弾け飛ぶような凄まじい音を立てて蹴り破られた。 木っ端微塵になった扉の破片が室内に散らばり、廊下から雪崩れ込んできたのは、娼館の甘ったるい空気を一瞬で凍結させるほどの、絶対零度の殺気だった。
「な、何奴だッ!? ここを誰の部屋だと――」
激怒して振り返ろうとした将校の怒声は、そこにある存在を見た瞬間、恐怖に引き攣ってヒュッと止まった。
粉砕された扉の向こうに立っていたのは、身分を隠すための黒い大外套を深く被った、長身の青年だった。
だが、どれほど粗末な布で隠そうとも、その内側から放たれる圧倒的なオーラと、空気を震わせるほどの重圧は隠しきれない。
ファリードであった。
彼の金色の瞳は、部屋の惨状――深紅の衣装を無惨に引き裂かれ、恐怖に顔を歪めて押し倒されているマーシャの姿――を見た瞬間、完全に人の理性を捨て去った修羅へと変貌を遂げた。
「あ……」
将校が、本能的な死の恐怖に震え上がった次の瞬間。
ファリードは一切の言葉を発することなく、瞬きをする間にベッドサイドへと距離を詰めた。
そしてそのまま、ファリードはギリッと奥歯を噛み鳴らし、怒りで呼吸を荒げたまま、将校の顔面を容赦なく横から打ち抜いた。
メチャッ、というおぞましい骨の砕ける音が室内に響き渡る。
百キロ近い巨漢の高官が、まるで紙屑のように宙を舞い、部屋の壁に激突して力なく崩れ落ちた。顔面の骨を砕かれ、歯を撒き散らして血の海に沈む将校。
外の廊下からは、異変に気づいた娼婦たちや客の悲鳴が上がり、娼館は完全にパニック状態に陥っていた。
「で、殿下……! なぜここに……っ」
マーシャは破かれた衣装の胸元を震える手で押さえながら、信じられないものを見る目でファリードを見上げた。
王族である彼が、たった一人の軍師のために、敵地のど真ん中である王都の娼館で、あまつさえ高官を殴り飛ばすなど、常軌を逸している。
だが、ファリードはマーシャの言葉を、低く、押し殺した声で遮った。
「……黙れ」
ファリードは自身の肩を覆っていた漆黒の大外套をバサリと翻すと、ベッドの上で震えるマーシャの小柄な身体を、頭の先から足首まで、完全に、すっぽりと包み込んだ。
「っ……」
それは、露出した彼女の素肌を隠すためだけではない。
彼女のすべてを、他の誰の目にも――一ミリの素肌すら、この世界のいかなる有象無象にも――絶対に見せないという、独占欲の表れだった。
漆黒の外套の内側は、微かな血と鉄の匂い、そしてファリード自身の体温に満ちていた。
先ほどまで感じていた男の暴力的な恐怖を完全に遮断する、厚く、絶対的な王の檻。
ファリードは外套ごとマーシャの身体を軽々と横抱きに抱き上げると、血の海に沈む将校を一瞥することすらなく、パニックに陥る娼館の廊下へと、自身の感情を必死に抑え込むように、誰にも止められない重い足取りで歩み出していった。
*
娼館の護衛たちが異変に気づき、怒号が飛び交うより早く。
ファリードは漆黒の大外套でマーシャを完全に包み込んだまま、夜の闇に紛れて王都の入り組んだ裏路地へと強引に飛び出した。
月光すら届かない、冷たい石壁に囲まれた袋小路。
ファリードはマーシャを下ろすなり、逃げ場を塞ぐように彼女の華奢な背中を冷たい石壁へと強く押し付けた。
ドンッ、と、退路を断つように彼の両腕が壁につかれる。
「……離せ! 情報を手に入れたんだ! 水路の構造も、敵の軍師の存在も!」
マーシャは外套の中で身をよじり、自身の正当性を主張してファリードを睨みつけた。
「そもそも、なぜあんたがわざわざ危険を冒して王都に……っ!」
「危険なのは、お前の方だ!!」
ビクッ、とマーシャの肩が跳ねた。
それは、出会ってから今まで、一度たりとも向けられたことのないファリードの激しい怒声だった。
しかし、外套の隙間から見上げた彼の顔に浮かんでいたのは、単なる怒りではない。彼女のあまりにも妖艶で美しい踊り子姿に対しての強烈な戸惑いと、それを他の男に見られたという嫉妬、そして狂おしいほどの独占欲で、彼の金色の瞳は火のように熱を帯びていたのだ。
「……私の言葉が、聞こえなかったのか」
ファリードは低い声で唸ると、マーシャの顔の下半分を覆っていた薄布のヴェールに指をかけ、乱暴に引き剥がした。
現れたのは、娼館の灯りに映えるよう紅を引かれた、艶やかで美しい唇。
「あ……」
マーシャが息を呑むと、ファリードはその熱を帯びた指の腹で、彼女の赤い唇の輪郭を、自身の痕跡を上書きするように、ねっとりとなぞった。 指先から伝わる彼の異常な熱と、修羅の道を歩んできた証である硬い剣ダコのザラついた感触。
それに唇を撫でられ、マーシャの背筋に強烈な電流のような痺れが走る。
「私は言ったはずだ。私が玉座に就くその日まで、お前が私の隣以外で勝手に生傷を作ることも。そして……」
ファリードは顔を近づけ、マーシャの耳元で、ひどく甘く、低く濁った声で囁いた。
「その姿を、私以外の他の男に見せることも、絶対に許さないと」
「ッ……」
至近距離で絡み合う吐息。彼から漂う、男としての危険な色香が、マーシャの冷静な思考を焼き切っていく。
「お前は軍師である前に、私のものだ。……二度と、私の目の届かない場所で自身を危険に晒すな」
それは王命でも、軍規でもない。ただの一人の男としての、むき出しの愛執。
マーシャの心臓が、かつてないほどの早鐘を打った。今まで手のかかる子どもだと思っていた少年が、いつの間にか自分を完全に閉じ込め、力で支配しようとする大人の男の目をしている。
その事実に気づき、彼女の頬がカッと熱を帯びる。
裏社会の恐怖とは全く違う、どうにかなりそうなほどの動揺が彼女を支配し、ファリードの顔がゆっくりと近づいて――
『――殿下ァーーッ!! どこへ行かれたのですか!!』
その瞬間。路地裏の入り口から、空気を読まないカディルの馬鹿でかい声と、慌ただしい金属鎧の足音が響き渡った。
「ッ!?」
「……チッ」
ファリードが舌打ちをして、ほんのわずかにマーシャから視線を外した。
その一瞬の隙を、戦場を生き抜いてきた暗殺者が見逃すはずがなかった。マーシャは真っ赤になった自身の顔を隠すように、ファリードの腕の下を猫のようなしなやかさで潜り抜けたのだ。
「ま、待て、マーシャ!」
「水路の図面はザイドに回して裏付けを取る!! 私は隠れ家に戻るからな!!」
マーシャはファリードの漆黒の外套に自身の身体をすっぽりと包み直したまま、顔から火が出そうなほどの動揺を隠し、暗殺者仕込みの身軽さで路地裏の木箱を蹴り上げ、一瞬にして屋根の上へと飛び乗った。
「こ、こら! 逃げるな!!」
「過保護なヒヨッコめ、頭を冷やしておけ!!」
マーシャが夜の闇路へと猛スピードで消えていったところへ、ようやくカディルが息を切らして駆け込んできた。
「で、殿下! ご無事ですか!? ……ん? 殿下、貴方の身分を隠すための大事な大外套はどこへ!?」
カディルが屋根の上の影と、ファリードの姿を交互に見比べる。
「……まさか殿下! 先ほどの妖婦に誑かされ、あまつさえ殿下の外套まで盗まれたのですか!? なんという悪女……! 今すぐ追手を放ち、あの踊り子を切り捨てて外套を取り戻してまいります!!」
自身が着せたとも言えず、妖婦(軍師)を斬り捨てると息巻く生真面目な忠臣。 ファリードは額に青筋を浮かべながら、限界を迎えた声で唸った。
「……黙れ、カディル。今すぐ私の視界から消えないと、お前を斬るぞ」
「で、殿下ァ!?」
夜の王都の路地裏。
初めての熱情から逃げ出した小柄な軍師と、完全にお預けを食らって殺気を放つ覇王、そして何も知らない不憫な騎士の、ドタバタ劇の幕引きであった。




