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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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青年編6


王都グラナダを指呼の間に望む、薄暗い地下の隠れ家。

最終決戦に向けた密命会議の場から、極秘の配置を決めると他の将軍たちを人払いし、石室の中にファリードと二人きりになったマーシャ。


マーシャは石机に王都の市街図を広げると、普段の冷徹な軍師の仮面をわずかに解き、ターバンの奥の黒曜石の瞳をかつてないほどの希望の光で輝かせた。


「……殿下。あと少しだ。この王都を落として地下の禁書庫に辿り着けば、私はようやく、故郷へ帰れるんだな」


それは、この血塗られた三年間の泥濘の果てに、ようやく掴みかけた希望に対する、無邪気で切実な喜びの声だった。


だが、その彼女の弾んだ声は、ファリードの良心を鋭い刃のように抉り取った。

自身が星の門の「代償」であることを隠蔽し、彼女の希望が絶対に叶わないと知ったまま、自らの覇道へと引きずり込んでいる。


(……ああ。いっそ今すぐ、その腰の双短剣を抜いて、この私の喉元に突き立ててくれ)


ファリードは、机の下で己の拳をギリッと、爪が肉に食い込んで血が滲むほどに強く握りしめた。


(私を稀代の嘘吐きだと罵り、醜いエゴで貴女の希望を永遠に握り潰そうとしているこの化け物を、どうか罰してくれ……ッ!)


罪悪感と自己嫌悪が、彼の内臓をドロドロに溶かし、悲鳴を上げている。

彼女の希望に満ちた瞳を見つめ返すことすら、本当は耐えがたかった。 だが、それでも彼は、狂おしいほどの愛執で彼女を手放すことができず、血を吐くような罪悪感を分厚い鋼の檻へと強引に封じ込めた。


「……ああ。そうだな、マーシャ。お前を必ず、その門の元へ連れて行ってやろう。」


ファリードが己の罪を重い鎖のように飲み込み、ひどく冷たく仄暗い瞳で返事をした、その直後。


「……さて。私は、王都の歓楽街にある高級娼館に『踊り子』として潜り込む」


マーシャは石机に広げた王都の市街図を指差し、淡々と告げた。

「敵の高位将校や貴族どもが、酒と欲に溺れて最も警戒を解き、口を滑らせる場所だ。王都の地下最下層にあるという『禁書庫』の正確な図面と警備配置を手に入れるには、奴らの懐に直接潜り込むのが一番手っ取り早い」


軍師としての、極めて合理的で冷徹な最善手。

 しかし、その提案を聞いた瞬間。机の向かいに立つファリードの美しい顔から、スッと一切の感情が抜け落ちた。

 彼の金色の瞳が、光の届かない深海のように仄暗く濁り、室内の温度が急激に下がる。


「……却下だ。危険すぎる」

「危険? 馬鹿を言うな。私は元々、傭兵業、暗殺の下働きで裏社会を生き抜いてきたんだぞ。娼館の裏口から潜り込む手引きなど造作もない」


「駄目だと言っている!!」


ドンッ!! と、ファリードの拳が石机を激しく叩き、マーシャがビクッと肩を震わせた。

 彼はギリッと奥歯を噛み締め、王としての余裕を完全にかなぐり捨てるように、必死に無茶苦茶な言い訳を並べ立て始めた。


「そ、それに、踊り子の衣装は布が少なすぎる! お前は背が低いのだから、見栄えが悪いだろう! 他の、もっと背の高い女にやらせろ!」

「は?」


突然の容姿に対する難癖に、マーシャはターバンの奥で目を丸くした。

「潜入に背の高さは関係ない。むしろ小柄な方が都合がいい。それに、男たちを油断させる妖艶な舞と、暗殺者特有の体捌きを両立できるのは私にしか――」

「とにかく駄目だ! お前が行くくらいなら、この私が踊り子の格好をして潜入する!!」


「…………は?」


マーシャは今度こそ、本気で己の耳を疑った。

 絶世の美貌とはいえ、今や身長は彼女を遥かに見下ろすほどに成長し、分厚い胸板と広い肩幅を持つ逞しい青年が、布の少ない踊り子の衣装を着て娼館の舞台で舞う。その姿を想像してしまい、マーシャは背筋に別の意味での悪寒を覚えた。完全にホラーである。


「……あんた、最近疲れてるのか?」


あまりにも必死すぎる引き留めと、意味不明な理屈を言い出したファリードに、マーシャはドン引きを通り越し、本気で彼の精神状態を心配する声を向けた。

 だが、ファリードの瞳は血走るほどに真剣だった。


「……お前のその、背中の傷をどうする気だ。あんな場所で素肌を晒せば、過去を怪しまれてただでは済まないだろう!」


それは、もっともらしい怪我の懸念を隠れ蓑にした、王の致命的な嘘であった。

 ファリードの胸の奥で渦巻いていた本音は、全く違う。陣営の誰にも知られていない彼女の女性としての柔らかな素肌を。自身ですら、あの日看病した夜にしか触れることを許されていない、その秘密を。


 王都の、酒の匂いと色欲にまみれた薄汚い豚どもに見られ、あまつさえその汚い手で触れられるかもしれない。その想像をしただけで、ファリードの理性のタガが狂音を立てて焼き切れそうになっていたのだ。


「傷なら、化粧と装飾でいくらでも隠せる。……とにかく、王都攻略においてこれは避けて通れない道だ」 「王命だ、マーシャ。絶対に行くことは許さん」


ファリードは有無を言わさぬ低い声で威圧し、天幕を出て行った。 残されたマーシャは、小さく息を吐き出し、一人で毒づいた。


(……やれやれ。あの過保護なヒヨッコめ。私が女だと知ってからというもの、少々陣営の奥に囲い込もうとしすぎているな。しかも自分が踊り子になるとか、激務でついに頭までおかしくなったか)


マーシャは石机の上に広げられた王都市街図を指先でなぞりながら、軍師としての冷徹な思考を回した。

叔父マレクも、敵の将校たちも、悪魔の軍師は小柄で薄汚い”男”だと信じ込んでいる。


だからこそ、夜の歓楽街で妖艶に舞う女の踊り子が、まさか敵軍の頭脳そのものだとは夢にも思わないはずだ。 完全なる認識の盲点。敵が最も警戒を解く色欲の懐へ、絶対に疑われない姿で入り込み、機密情報を根こそぎ抜き取る。これほど敵の裏をかく合理的で確実な戦術は他にない。


(感情で盤面を乱すなよ、王様。……この私が、敵の豚どもに尻尾を掴まれるはずがないだろう)


王の命令であろうと、彼女の真の目的は「元の世界へ帰るための禁書庫」に辿り着くことだ。 マーシャは自身のその理論と完璧な戦略への確信に従い、石机の地図を懐にしまい込むと、独断での潜入決行を固く決意したのだった。


* * *


数日後。王都グラナダの歓楽街の中心にそびえる、最も豪奢な高級娼館『黄金の鳥籠』。

 甘い乳香と、高価な酒の匂いがむせ返るように充満するその場所で、マーシャは独自の裏ルートと偽の身分証を使い、異国から流れてきた踊り子として完璧な潜入を果たしていた。


出番を待つ控室。鏡の前に立つ彼女の姿は、ファリード陣営の誰もが知る「小汚い傭兵の男」とは、完全に別人のものであった。


薄汚れたターバンは取り去られ、夜の闇を溶かしたような漆黒の長い髪が、金の装飾と共に艶やかに結い上げられている。

 彼女が最も気にしていた背中の凄惨な傷跡は、赤い金糸が縫い込まれた見事な透け感のある絹のベールと、背中から肩にかけて施された緻密なヘナタトゥー(ボディペイント)によって、逆に異国情緒溢れる妖艶な模様のように偽装されていた。


胸をきつく縛り上げていたサラシは解かれ、女性としての柔らかな曲線と、白く滑らかな素肌を惜しげもなく露わにした、深紅の踊り子衣装。

 そして、顔の下半分を覆う薄い赤絹のヴェール。そこから覗く、感情の一切読めない煌めく黒曜石の瞳は、男たちの庇護欲と、それを汚してみたいという残酷な征服欲を否応なく掻き立てる、近寄り難いほどの神秘的な美女を完璧に完成させていた。


「さあ、新入り。舞台へお行き。……将軍閣下たちが、退屈しておいでだよ」


遣手婆の合図と共に、マーシャは静かに息を吸い込み、喧騒の渦巻く豪奢な大広間へと足を踏み出した。


シャンデリアの眩い光の中、異国の弦楽器の妖しくテンポの速い旋律が鳴り響く。

 マーシャが舞台に現れ、その滑らかな裸足を床に滑らせた瞬間。酒と女の嬌声に満ちていた大広間の空気が、ピタリと止まった。


『……おい、見ろ。あんな極上の女、いたか?』

『新入りか? なんという美しさだ……まるで月の女神じゃないか』

『あの流し目……たまらん。今夜は俺がいくらでも金貨を積んでやるぞ!』


王都の貴族や将校たちから、どよめきと、生唾を飲み込む音が連鎖していく。

 マーシャは腰の鞘から、踊り用の美しい装飾が施された双短剣を抜き放った。それは彼女が長年戦場で培ってきた、身体の重心を完璧に操る歩法。殺戮の技術を、極限まで洗練させて舞へと昇華させた、恐るべき剣の舞であった。

 深紅の絹が翻り、白い素肌が光を弾く。ヴェールの奥の黒曜石の瞳が、客席の高官たちを値踏みするように流し目を送るたび、男たちは熱狂的な歓声を上げた。



ーーその熱気渦巻く客席の最奥。


 大広間の喧騒を見下ろすように一段高く設けられた、薄暗い最奥の天幕の中に、二つの影が陣取っていた。

 彼らがこの誰の目にも触れない特等席を確保できた理由は単純である。アミーナから没収したザルカの莫大な資金の一部を、惜しげもなく、異国の豪商の遊興費として遣手婆に握らせたからだ。


しかし、金に物を言わせて堂々と入り込んだはいいものの、天幕の中の空気はひどくぎこちなかった。


(……くっ。任務とはいえ、このむせ返るような甘い香水の匂いが服に染み付いたら、国元で待つレイラに帰還後なんと説明すればいいのだ。機嫌を損ねられでもしたら……)


護衛兼、豪商の番頭に変装したカディルは、腕を組みながら内心で冷や汗を流していた。

 露出の多い娼婦たちが艶然と微笑みかけてくるたびに、生真面目な騎士は顔を強張らせ、必死に視線を宙に泳がせている。


だが、その隣に座る主君の居心地の悪さは、カディルの比ではなかった。


夜の王都グラナダ。


大帝国シャジャルの心臓部であり、ファリードやカディルたちが生まれ育った、かつての美しき故郷。 だが、深いローブのフードを被って街を歩く二人の目に映る光景は、数年前の記憶とはあまりにもかけ離れていた。


叔父マレクが先王を暗殺し、玉座を簒奪してからの数年間。街の空気は、決定的に歪んでしまっていた。 かつて活気に満ちていた大通りには、マレクの重税と恐怖政治に怯える民たちが虚ろな目でうずくまり、路地裏には腐敗臭が漂っている。その一方で、マレクに取り入った特権階級の貴族や将校たちが集まる歓楽街だけが、異様なまでの極彩色と甘ったるい香油の匂いを放ち、狂ったような熱気を帯びていた。


「……これが、かつての誇り高き帝都だというのか」

隣を歩くカディルが、周囲の醜悪なコントラストに嫌悪感を隠しきれず、低く呻いた。 富と貧困、快楽と絶望。そのあまりにも残酷な格差は、マレクの暴政によってこの街の中枢が完全に腐り切っていることの何よりの証左であった。

「……マレクの猜疑心が、民から生気を奪ったのだ。もはやここは、私の知る美しい故郷ではない」 ファリードは冷酷な金色の瞳で、下劣な嬌声が響く歓楽街の明かりを睨みつけた。 優しい兄王子と共に過ごした温かい王宮の記憶は、数年前のあの理不尽な業火と共に焼き尽くされた。今、目の前に広がるのは、己の剣で切り裂き、血と恐怖で浄化せねばならない敵地に過ぎないのだ。」


目的の場所は、この腐敗の象徴とも言える王都最大の歓楽街の中心にあった。


豪華なローブを纏い、顔を隠すようにフードを目深に被っているファリード。 彼は夕刻、マーシャが陣営から姿を消したことに気づき、彼女が独断でこの娼館へ潜入したのだと確信して、血相を変えて王都へとやってきたのだ。


当然ながら、同行者である生真面目なカディルは最初、「あのような不潔で淫靡な場所に王族が赴くなど言語道断です!」と猛反対した。だが、ファリードは完璧に冷徹なる王の顔を作って、彼をこう丸め込んだのだ。


『カディル。無茶な軍師が、独断で敵の防衛将校に接触するため娼館へ潜入してしまった。奴の頭脳は我が軍の命綱だが、小柄な彼では、もし敵に素性がバレた時に腕力で力負けしてしまう。……軍師の命を失うことは、王都攻略の失敗を意味する。私と、帝国最強の騎士であるお前が後詰めとして潜入し、最悪の事態には軍師を救出する。これは王都攻略において絶対に必要な極秘任務だ』


その言葉に、カディルは『なるほど! さすがは殿下、軍師殿の無茶をカバーし、命を救うための尊い護衛任務でしたか! このカディル、いざという時は殿下の盾となり、必ずや軍師殿を救い出してみせましょう!』と完全に騙され、燃えるような使命感と共に付き従ってくれたのである。


……しかし。いざ勇んで潜入したはいいものの。

(な、なんだここは……っ。女たちが、あんな布きれ一枚で……!)


戦場では冷徹に何万の軍勢を動かす覇王の姿とは裏腹に、ファリードの女性に対する免疫は、完全に純情な十七歳の青年のそれであった。

 幼少期は王宮の厳格な規律の中で育ち、辺境に落ち延びてからは血と泥に塗れた男ばかりの傭兵キャンプしか知らない。人間の原始的な欲情と、酒と香油が入り混じる色めかしい娼館の生々しい雰囲気は、彼の許容量を完全に超えていた。


周囲から聞こえてくる男女の嬌声や、妖艶な熱気に完全に気圧され、ファリードの端正な顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。

 彼がローブのフードを鼻先まで深く被り、両手でギュッと握りしめているのは、逆賊の王子だと顔バレするのを防ぐためだけではない。この場違いな純情と、激しい照れを隠すためでもあった。


「……殿下。そのような端の席で縮こまっておられては、いざという時に軍師殿の救出に遅れが生じますぞ。一体、軍師殿はどこに……」


カディルは露出の多い娼婦たちから必死に目を逸らしながらも、使命感を奮い立たせ、広間を行き交う客の中から小柄な軍師の姿を探そうと首を巡らせた。


「あの小柄な身体で、このような色欲に塗れた魔窟に単独で潜入するとは……。万が一、血の気の多い酔っ払いに絡まれでもしたら、腕力のない軍師殿ではひとたまりもありません! 早く見つけ出して護衛せねば!」


真剣な顔で周囲をキョロキョロと見回すカディル。当然ながら、彼が探している小汚いターバンを巻いた小柄な男の姿など、この高級娼館のどこにもあるはずがなかった。


「……探すな、カディル。目立つ」

ファリードは真っ赤な顔をフードに隠したまま、ひどく低い声でカディルを制止した。本音を言えば、彼自身もマーシャがどこで何をしているのか気になって狂いそうだったのだが、今は自身の動揺を隠すことで精一杯だったのだ。


そんな中、異国の音楽が高らかに鳴り響き、大広間の舞台に深紅の衣装を纏った新入りの踊り子が現れた。


「……なんだ、あの踊り子は」


カディルが私情を振り払い、目をすがめて舞台を凝視する。


「あの双剣の足捌き……重心のブレの無さ。ただの舞ではない。どこかで見たような……?」


カディルはまだ、その目的も、舞台で扇情的な流し目を送る美女の正体も気づいていない。


――しかし。その隣に座る男は違った。


舞台の上の踊り子を見た瞬間。

ファリードの顔から、先ほどまでの初々しい照れや場違いな動揺が、冷や水を浴びたように一瞬にして消え去った。


異国の妖しい弦楽器の旋律に乗せ、深紅の衣装を纏った彼女は、両手に持った装飾的な双短剣を翻し、まるで重力を感じさせない滑らかな足捌きで舞台を舞っていた。 それは、ファリードがこれまで王宮で見てきたどんな洗練された舞踏よりも美しく、そして致命的なまでに危険な魅力を放っていた。


戦場での殺戮の技術を極限まで昇華させたような、無駄のないしなやかな肢体の躍動。 深紅の絹が翻るたびに、惜しげもなく晒された白い素肌がシャンデリアの光を弾く。顔の下半分を覆う薄い赤絹のヴェールと、夜の闇を溶かしたような漆黒の長い髪が、彼女の神秘的な美しさを一層際立たせている。


ファリードは、その圧倒的で魔性のような美しさに、文字通り呼吸を忘れ、心臓を鷲掴みにされたようにただ見惚れてしまっていた。


 だが。 ヴェールの奥で煌めく、あの見覚えのある怜悧な黒曜石の瞳と視線が交差した瞬間。

そして、妖艶なヘナタトゥーの下に隠しきれていない、かつて自分が湧水池のほとりで、そして熱に浮かされた夜に震える手で薬を塗り込んだ、あの背中の凄惨な傷跡の微かな輪郭を見た瞬間。


間違いない。

マーシャだ。


自分が誰の目にも触れさせまいと隠し続けてきた彼女のすべてが。あの普段は小汚いターバンと分厚い男物の外套で隠されている、女としての神秘的なまでの美しさが。 今、何百人もの薄汚い男たちの、色欲にまみれた視線に晒されている。


――ピキッ、と。 限界を超えた握力によって、ファリードの手の中の酒杯が音を立てて砕け散った。


 赤いワインが、血のように彼の指先から滴り落ちる。


「で、殿下!? お怪我が……!」

「カディル」


ファリードは血を流す手など意にも介さず、地獄の底から響くような、低く、重い声で命じた。


「裏口を固めろ。……あの踊り子に触れようとした蠅共は、一人残らずこの場で切り刻む」



熱狂に包まれた剣の舞が終わると、大広間の空気はさらに一段と濃厚な色欲の匂いを帯び始めた。

 舞台から降りたマーシャに課せられた次なる役目。それは、今夜彼女の初夜を最も高値で買い取る客を見定めるための、各テーブルへのお酌回りであった。


「さあ、殿方。新入りの美しい酌を受けておくれ」


遣手婆の甲高い声を合図に、マーシャはガラスの酒瓶と銀の盆を手に、着飾った貴族や将校たちが待つテーブルへと優雅な足取りで向かった。

 彼女の口から紡がれるのは、陣営で常に使っていた、喉を潰したような低い少年の声ではない。


「お気に召して光栄ですわ。……さあ、どうぞ」


それは、夜の闇に溶ける蜂蜜のように甘く、柔らかく、そしてひどくお淑やかな、彼女本来の女性の声であった。

 ヴェールの奥から送られる蠱惑的な流し目と、耳朶をくすぐる美声。胸元が露わになった深紅の衣装を揺らしながら酒を注ぐ彼女の姿に、男たちは完全に理性を吹き飛ばし、次々と金貨の袋をテーブルに叩きつけていく。


(……ちょろいな、王都の豚どもは。このまま本命の席へ向かうか)


内心で冷酷に客を値踏みしながら、マーシャは広間の最奥、薄暗い席の天幕へと向かった。


 ――しかし。


その天幕に近づくにつれ、マーシャの背筋に、尋常ではない氷のような悪寒が走った。

 心臓がバクバクと嫌な音を立てて早鐘を打つ。


(……なんだ、この異常な殺気は。客席の奥から、私を射抜くような……っ)


マーシャが恐る恐る席の天幕の布をくぐると、そこには異国の豪商に変装したカディルと、フードを目深に被った謎の男が座っていた。


(……チッ。何か悪いか、私は私の仕事を進めているだけだ! 過保護なヒヨッコめ、絶対にボロは出さないぞ)

マーシャは一瞬の動揺を完璧に隠し通し、プロの暗殺者としての度胸で完全に開き直った。


彼女はゆっくりとファリードのテーブルに近づくと、あえて彼に身をすり寄せるような妖艶な所作で深く腰を屈めた。 深紅の絹から惜しげもなくこぼれそうな白い胸元と、甘い香油の匂いがファリードの鼻先をかすめる。彼女はファリードの新しい酒杯にトクトクと赤いワインを注ぎながら、薄絹のヴェールの下で、挑発的なほど魅惑的な微笑みを浮かべてみせた。


「……そのように穴が空くほど見つめられまして、わたくし、恥ずかしいですわ」

 甘く、鈴を転がすような異国の踊り子の声。


「どこかで、お会いしたことがございましたでしょうか……?」


それは、「私は今、踊り子を完璧に演じている。邪魔をするな」という、軍師としての宣戦布告。


ファリードはギリッと奥歯を噛み鳴らした。この女は、他の男たちの前でもこうして胸元を晒し、甘い声で酒を注いで回っていたというのか。 限界を超えた嫉妬が、ファリードの理性を焼き切る。 ガシッ!!


「……っ!?」


ファリードの血の滲む大きな手が、酒を注ぐマーシャの細い手首を、逃げ場のない力で強引に掴み取った。


「……いや。私の知っている『飼い犬』とは……まるで違う」


ファリードは手首を掴んだまま、マーシャを逃がさないように顔を近づけ、鼓膜を甘く痺れさせるような、低く危険な声で囁いた。

「私の犬は、もっと小汚く、泥に塗れていて……主人の目の届かない場所で、こんな『はしたない真似』は絶対にしない」


言葉の裏に隠された、凄まじい独占欲と怒り。

だが、ファリードの感情のベクトルに全く気づいていないマーシャは、それを無断で色仕掛けの任務をしたことへの主君の怒りだと完全に勘違いし、ターバンの奥で――否、ヴェールの奥で、小悪魔のように目を細めた。


「まあ。そのかわいそうな犬は、きっとご主人様のために必死で泥を被っているのでしょうね」


マーシャは掴まれた手首を振り払わず、あえてファリードの耳元へと艶やかに顔を寄せた。

「……ご主人様が、こんな場所で夜遊びにお熱だとは知らずに」


挑発的な吐息がファリードの首筋にかかる。

ファリードは金色の瞳をどす黒く濁らせ、マーシャの手首を掴んでいた親指の腹で、かつてミサンガが巻かれていた素肌の柔らかな部分を、所有印を刻むようにねっとりとなぞった。


「ッ……」

マーシャの背筋に、戦場での殺気とは全く違う、ひどく甘くて危険な悪寒が走る。

(……なんだ、このヒヨッコ。変に色気付きやがって……っ)


予想外のファリードの反撃に、マーシャは微かに頬を赤く染めながらも、フワリと身を翻してその拘束から手首をすり抜けた。


「では、お連れ様とごゆっくり……」

マーシャは「してやったり」とばかりに艶やかに笑い、本命の標的である将校の席へと歩み去っていく。

残されたファリードは、彼女の体温が残る自身の手のひらを見つめ、ギリッと血の滲む拳を握りしめながら、その妖艶な後ろ姿を地獄の底のような瞳で睨みつけ続けていた。


一方、そのやり取りをすぐ横で見ていたカディルは、踊り子の正体に全く気づかないまま、隣の主君の異常すぎる行動に目を丸くして硬直していた。


(で、殿下……!? グラスを握り潰して手を怪我してまで、あの踊り子の腕をあんなに強引に掴むとは! おまけに、顔を近づけて何やら情熱的に囁き合っておられるではないか!)


カディルは、今までどんな絶世の美女が擦り寄ってきても氷のように冷遇していたファリードの、あまりにも男を剥き出しにした強引な振る舞いに、内心で激しく動揺していた。


(あのように一人の踊り子を食い入るように見つめ、人目も憚らず引き寄せて口説き落とそうとするとは……。いや、しかし殿下ももう十七歳、立派な青年の年頃であらせられる。あのような妖艶で露出の激しい美女に身をすり寄せられれば、王族といえど血が騒ぎ、獣になってしまうのも無理はないか……!)


生真面目な騎士は、まさか目の前で殿下が発情している(ように見える)相手が、自身が先ほどから必死に心配して探している「軍師殿」であることなど微塵も疑わず。

完全に的外れな方向へと一人で納得し、「これも大人の男への成長の証か」とウンウンと深く頷いていた。


* * *


ファリードの殺意に満ちた視線を背中に浴びながら、マーシャはついに本命のテーブルへと辿り着いた。


 今夜の最大の標的。叔父マレクの側近であり、王都の防衛を統括する太った将校だ。

彼はすでに強い酒に酔いしれ、顔を真っ赤にしてだらしない笑みを浮かべていた。


「お待ちしておりましたわ、閣下。……わたくしも、閣下のような立派な殿方の隣に座りたかったのです」


マーシャは甘ったるい声を作って将校の膝元に侍り、その太い腕に自身の柔らかな胸元をこれ見よがしにすり寄らせた。 離れた席の暗がりから、背中を焼き尽くすようなファリードの凄まじい殺気が突き刺さってくるのを感じたが、今は情報を引き出すのが最優先だ。


「おおっ、おお! 来たか、今夜の最高の花よ! さあ、俺にたっぷりと酒を注いでくれ!」

「はい、喜んで。……でも閣下、この美しい王都は今、西からの反乱軍が迫っていてひどく物騒だと聞きました。わたくしのような弱い女は、恐ろしくて夜も眠れませんの……」


マーシャは上目遣いで不安げに瞳を潤ませ、将校の胸板に細い指を這わせた。

「ガハハ! 案ずるな、このグラナダの城壁は分厚い。辺境の田舎者どもに破れるものか!」

「そう……ですよね。でも、もし万が一、城壁が破られて街に火が放たれたら……。わたくし、閣下のようなお強い方にずっと守っていただきたいのに……っ」


マーシャは怯えた小鳥のように身を震わせ、さらに深く将校の胸に顔を埋めた。 女の涙と美貌、そして「自分だけが頼りだ」とすがるような甘い言葉。防衛を統括する将校の薄っぺらな自尊心と庇護欲は、その見事な手管によって完全に満たされ、有頂天に達した。彼は己の権力と有能さをこの美しい女にひけらかしたくてたまらなくなったのだ。


「フハハ! 泣くことはない! もし城門が破られたとしても、この王都には敵を一網打尽にする『裏の牙』があるのだからな!」

「裏の牙……? まあ、閣下はそのような国の重大な秘密までご存知なのですか? なんて頼もしい……!」 「当然だ、俺は防衛の要だからな。特別に教えてやろう。……王城の地下には、複雑な地下水路が張り巡らされている。いざという時は、その水門を開けば、反乱軍ごと街を水没させられる構造になっているのだ!」


(……地下水路。城壁を越えなくとも、そこから王城内部、ひいては禁書庫へ直通できるルートがあるということか。極上の情報だ)


内心で完璧な戦術のピースがはまったことを確信しつつ、マーシャはさらに将校を持ち上げる。


「まあ、素敵! 閣下のおかげで安心いたしましたわ。……でも、反乱軍には『悪魔』と呼ばれる恐ろしい軍師がいるとか……いくら水門があっても、その者が悪知恵を働かせたら……」


「ふん! あんなものはただの田舎者の悪知恵だ! 皇帝陛下はすでに、王立アカデミーを首席で卒業した『真の天才軍師』を我が軍に招聘されたのだ! 奴が指揮を執る限り、あんな小生意気なヒヨッコどもなど、三日で全滅させてくれるわ!」


(……新しい天才軍師だと? 叔父マレクめ、厄介な札を切ってきたな)


マーシャは将校に酒を注ぎながら、頭の中で瞬時に情報を整理した。王都の地下水路の構造と、強力な敵軍師の存在。危険を冒して潜入した価値は、十分すぎるほどにあった。


(よし、十分だ。長居は無用……ズラかるぞ)


「閣下、わたくし、少しお色直しをしてまいりますわ。……後ほど、ゆっくりと」


マーシャは色っぽくウィンクを投げ、将校の膝から立ち上がろうとした。

 ――しかし。


「おいおい、どこへ行く」


欲情しきった将校が、マーシャの細い腕を強引に、ギリッと乱暴に掴んだ。


「お色直しなど必要ない。今夜は俺がたっぷり金貨を積んだのだ。さあ、今すぐ俺の個室へ来い。……そのヴェールの下を、俺のベッドの上でじっくりと見せてもらおうか」


将校はマーシャの腕を引き寄せ、下卑た笑みを浮かべて強引に立ち上がった。周囲の護衛兵たちも、ニヤニヤと笑いながら退路を塞ぐ。

 女の力では到底振り払えない強引な暴力。


(……チッ。仕方ない。情報を吐かせた以上、こいつの使い道はもうない。ここで頸動脈を掻き切るか)


マーシャの瞳から、妖艶な踊り子の光が一瞬にして消え去った。

 ヴェールの下で唇を冷酷に引き結び、軍師ではなく、裏社会を生き抜いてきた「暗殺者」の顔へと切り替わる。

 彼女は将校に引きずられながらも、重心を低く落とし、腰の帯に隠し持っていた『猛毒を塗った仕込み針』へと、そっと指をかけた。

 首の角度、護衛との距離、暗殺後の逃走ルート。すべてを0.1秒で計算し、針を突き立てようとした、その絶対絶命の瞬間であった。


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