青年編番外編1
西の平原での、十字軍との苛烈な死闘が終わって二日。
血と硝煙の臭いがまだ微かに残る大地に、見渡す限りの巨大なファリード軍の野営地が広がっていた。
パチパチと爆ぜる無数の篝火が、夜の闇を黄金色に染め上げている。遠くからは、生き残った兵士たちが安いエール酒を呷り、下品に笑い合う声が風に乗って響いていた。
その喧騒から少し離れた小高い丘の上。
大帝国の影を統べる諜報部隊長、ザイドは、切り株の上に胡座をかき、干し肉をかじりながら眼下に広がる陣営を見下ろしていた。
「……またイカサマの練習? 本当に暇な男ね」
不意に、背後から鼻を突くような安酒の匂いと、ザルカ特有の甘くスパイシーな香油の匂いが混ざり合って漂ってきた。
ザイドが振り返るより早く、背中をドンッと小突かれる。そこに立っていたのは、ザルカで出会って以来、妙に腐れ縁となっている気の強い女密偵であった。
彼女はザイドの隣の倒木に腰掛けると、手にした投げナイフの刃に油を染み込ませた布を当て、シュッ、シュッと規則正しい音を立てて手入れを始めた。
「暇じゃねェよ。俺は諜報部隊のトップとして、我が軍の首脳陣を観察してんだ」
ザイドは手の中のサイコロをジャラリと鳴らし、本陣の奥深く、煌々と明かりが灯る巨大な天幕へと視線を向けた。
そこには、大帝国シャジャルの正統なる王位継承者、ファリードの姿がある。
ザイドは裏社会のドブ泥を啜って生きてきた男だ。人間の汚い欲望も、嘘も、裏切りも、嫌というほど見てきた。だからこそ分かる。あの十七歳に成長した若き覇王の、異常なまでの完成度が。
神々しいまでの美貌。いつの間にか帝国最強の騎士カディルをも凌駕しつつある圧倒的な剣技。
そして、軍師マーシャの描く悪辣な盤面を瞬時に理解し、冷徹に実行に移す王としての器。
どこからどう見ても、隙のない完璧な王そのものだ。
「……完璧すぎるんだよな、うちの殿下は」
「完璧? 昨日の賭けで私に負けた銀貨十枚、まだ払ってもらってないんだけど。あんたの頭の出来は全然完璧じゃないわね」
「今俺の話をしてねェだろ! 殿下の話だ!」
ナイフから視線すら上げない女密偵にツッコミを入れつつ、ザイドは身を乗り出した。
だが。『完璧な人間なんて、この世にいねェ。どんな聖人君子にも、必ずどこかに致命的な欠陥が隠れてるもんだ』ザイドは裏社会のドブ泥を啜って生きてきた男だ。人間の汚い欲望も、嘘も、裏切りも、嫌というほど見てきた。
だからこそ分かる。
「……で、 俺はここ最近の殿下とマーシャの兄貴の行動を観察して、ついにその恐ろしい真実に辿り着いちまったのさ」
「へえ」
女密偵は興味なさそうに相槌を打ち、ナイフの刃先を月明かりに透かした。
「まず、マーシャの兄貴の『鉄壁すぎるガード』だ」
彼は、ここ最近の殿下と、もう一人の上司である『軍師マーシャ』の行動を観察するうちに、ある一つの、ひどく恐ろしく、そして納得のいく仮説に辿り着きつつあったのだ。
彼は気心の知れた女密偵に、自身の名推理を意気揚々と語り始めた。
* * *
ザイドが最初に違和感を覚えたのは、いつもつるんでいる悪友、マーシャの『鉄壁すぎるガード』だった。
(……思い返せば、あの兄貴、異常なくらい肌を見せねェんだよな)
数ヶ月前の激戦の後。
泥と血と汗に塗れた陣営で、ザイドはいつものようにマーシャの肩をバシッと叩き、気安く誘ったのだ。
『お疲れさん、兄貴! 近くの川で一緒に汗流そうぜ! 背中くらい流してやるよ!』
男同士、戦場での裸の付き合いなど当たり前だ。
だが、マーシャは薄汚れたターバンの奥で露骨に嫌な顔をし、「……私は一人で入る。近寄るな」と、殺気を放って頑なに拒絶したのだ。
それだけではない。
別の街を占領した夜、戦勝祝いに繰り出そうとした時のことだ。
『兄貴! 今日は俺の奢りだ、パーッと極上の女でも買いに行こうぜ! ザルカの酒場でとびきりの踊り子を……』
『私は忙しい。明日の陣形図の修正がある』
『ええ〜っ!? またかよ! 兄貴、たまには息抜きしねェと頭狂っちまうぞ!』
結局、ザイドはいつも一人で夜の街へ遊びに行く羽目になる。
酒はザルカの古酒から安エールまで底なしに飲むくせに、女遊びの誘いには一切乗ってこない。
それどころか、他の傭兵たちが下品な色恋沙汰で盛り上がっていると、どこか冷ややかな目で遠巻きに見ているだけなのだ。
(……あの兄貴、まさか女に興味がないのか……?)
ザイドの中で、小さな疑惑の種が芽生えた瞬間だった。
そして、その疑惑を『確信への変化』へと育て上げたのは、他でもないファリードの異常行動である。
(……マーシャの兄貴もおかしいが、最近の殿下の『過保護っぷり』は、明らかに常軌を逸してるぜ)
ザイドは焚き火に木の枝を放り込み、大きな溜息をついた。
自分がマーシャの肩を組んで「よォ兄貴!」と笑いかけたり、勝利の宴で酒瓶を回し飲みしようとしたりするたび。
『――気安く触れるな!』
どこからともなく、白銀の甲冑を鳴らしてファリードが現れ、ザイドの腕の骨が砕けるかと思うほどの凄まじい力で、その手を弾き飛ばしてくるのだ。
そして、般若のような形相で「軍師の体調はまだ万全ではないのだぞ!」と理不尽にキレられる。
(……いや待てよ。おかしいだろ)
ザイドは腕を組み、密偵の脳細胞をフル回転させた。
(殿下は、あのザルカの女領主、アミーナ様みたいな絶世の美女が胸元を押し当てて擦り寄ってきても、氷みたいに冷たい目をしてたじゃねェか。……それなのに、俺の隣で、あの小汚い外套を着たマーシャの兄貴が「ケホッ」と小さく咳き込んだだけで、血相を変えてすっ飛んでくるぞ……?)
美女の誘惑には微塵も動じず、泥だらけの小柄な男の体調不良には大パニック。
これが単なる有能な家臣への気遣いの範疇に収まるのか?
そして数日前。
ザイドの疑惑のパズルは、あの十字軍との戦いで起きたアミーナの裏切り事件によって、最後にして最大のピースがカチンとハマり、完全なる「確信」へと至ったのである。
(……あれは、本当に肝が冷えたぜ)
ザイドは当時の天幕の空気を思い出し、ブルリと身震いした。マーシャが前線で孤立し、アミーナが意図的に見殺しにしたと報告したあの瞬間。 ファリードは一切の躊躇なく、自陣の最大のパトロンであるアミーナの首筋に剣を突きつけたのだ。
『私が玉座に就くその日まで、お前が私の隣以外で勝手に壊れることは、絶対に許さないと』
アミーナに向かって、マーシャへの狂おしいほどの執着を宣言したファリード。
(えええええ!? 莫大な軍資金と超絶美人の女領主を捨てて、あんな泥だらけのチビで口の悪い男を助けに行くのかよ!?)
当時のザイドの脳内は、ツッコミの嵐だった。
(軍事的にどう考えてもおかしいだろ!! 王様なら、普通は泣く泣く軍師を切り捨てて、大金持ちのパトロンを選ぶのが定石じゃねェのか!?)
だが、ファリードは猛スピードで馬を飛ばし、敵陣のど真ん中に突っ込んでいった。 そして、十字軍の刃が迫る絶体絶命の危機からマーシャを救い出し、その小柄な身体を自身の分厚い胸の中に、逃げ場のない力で強く、痛いほど強く抱きしめたのだ。
『お前は軍師である前に、私のものだ。……二度と、私の目の届かない場所で自身を危険に晒すな』
あの時、戦場の泥濘の中で、マーシャを抱きすくめながら囁いたファリードの声。
その場に居合わせたザイドは、密偵の耳でしっかりと聞き取ってしまっていた。
その瞬間。ザイドの頭の中で、雷に打たれたような閃きと共に、すべてのピースが完璧な一枚の絵として繋がったのである。
(――間違いない……!)
ザイドは、焚き火の前で天を仰いだ。
(殿下の致命的な性癖。……それは『男色』だ!! しかも相手は、よりによってあの小汚いマーシャの兄貴!!)
絶世の美女を袖にし、小柄な男の部下を熱烈に愛している。
だから女を遠ざけ、マーシャに他の男が触れるのを異常に嫌がっていたのだ。そしてマーシャが女遊びに行かず、一緒に風呂に入るのを拒んだのも……自分が殿下から熱烈な愛を向けられていることを隠し、関係を悟られないための、健気なカモフラージュだったに違いない!!
「……くぅ〜っ!」
ザイドは、自身の名推理の完成に打ち震え、感動のあまり目頭を押さえた。
「王族ってのは、正妃を迎えて血を繋がなきゃならねェのに……。殿下は、あんな日陰者の男に本気の恋を……っ。なんて悲恋だ……」
ザイドは夜空の星を見上げ、グッと拳を握りしめた。
「だが、安心しな。俺は兄貴も殿下も好きだ。二人の『禁断の恋』は、このスラム一の伊達男ザイド様が、密かに全力でサポートしてやらねェとな!」
バシィィィンッ!!!
「痛ェェェェッ!?」
ザイドの回想は、女密偵による容赦のない「耳の引っ張り」によって強制終了させられた。
「痛ェ! 痛ェって! 何すんだよお前!!」
「……あんた、密偵のトップのくせに、本当に目が節穴なのね」
女密偵は、ザイドの耳をギリギリと捻り上げながら、心底呆れ果てた、氷のようなゴミを見る目を向けた。
女の勘、いや、少しでも観察眼があれば、ファリードがマーシャに向ける視線が男同士の禁断の恋などという次元のものではなく、もっとドロドロに煮詰まった一人の女に対する強烈な執着であることくらい、すぐに分かるはずなのだ。
おまけに、あの軍師の不自然なサラシの巻き方や体つき。どう見ても男ではない。
プロの密偵失格である。
「あー……もういいわ。あんたはそのままでいなさい。その方が面白いから」
女密偵はザイドの耳から手を離し、やれやれと首を振った。
「その代わり、私の貴重な時間をあんたの馬鹿な妄想に付き合わせた罰金。……分かってるわね?」
「痛ェ痛ェ! 分かった、分かったよ! 今夜はお前の奢りでいいから!」
ザイドが涙目で耳をさすりながら情けなく笑うと、女密偵は満足げにナイフを鞘に納め、夜の闇へと消えていった。
「……ちくしょう、痛ェな。だが、俺の推理は完璧なはずだ」
ザイドは赤くなった耳をさすりながら、一人でグッと拳を握りしめた。
「王族ってのは血を繋がなきゃならねェのに、なんて悲恋だ……。だが、俺は兄貴も殿下も好きだ。二人の『禁断の恋』は、この俺が密かに全力でサポートしてやらねェと!」
真実など欠片も知らない密偵の、完全に歪んだ忠誠心であった。




