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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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青年編4

切り立った岩肌に囲まれた枯れ谷は、完全に死の泥濘と化していた。


 崖上からの援護も、後方の退路を確保する味方もいない。アミーナの裏切りによって完全に孤立したマーシャとカディルたち約八百の別働隊は、狂信に駆られた三千の十字軍による波状攻撃の真っ只中に取り残されていた。


「ひるむな! 盾を合わせろ! 一歩でも引けば全滅だぞ!!」


カディルの声はすでに限界まで掠れ、血を吐くような悲痛な響きを帯びていた。彼の銀甲冑は無数の傷を負い、敵の返り血で赤黒く染まりきっている。

降り注ぐ矢の雨と、神の名を叫びながら自らの命を投げ打って突撃してくる狂信者たち。

味方の兵が一人、また一人と無惨に刃に倒れ、泥水の中に沈んでいく。


「……はぁっ、ひゅっ……!」


前線のすぐ後ろ。マーシャは泥にまみれたターバンを乱し、肩で激しい息をしながら、迫り来る敵兵の喉元へ愛用の双短剣を突き立てていた。


 返り血が顔を洗い、両腕は鉛のように重い。自身の体力がもはや限界をとうに超えていることは、誰よりも自分が一番よく理解していた。どんなに天才的な頭脳を持っていても、ここは理不尽な暴力が支配する戦場だ。盤面が崩壊すれば、小柄な彼女の身体など、ただの枯れ枝のように折られてしまう。


(……ここで、死ぬのか?)


迫り来る死の気配。だが、マーシャは血まみれの奥歯をギリッと噛み締めた。

 薄れゆく意識の中、彼女の脳裏に鮮明に蘇ったのは、数年前の吹き溜まりの傭兵酒場での記憶だった。

 追っ手に怯え、自身の無力さに絶望しながらも、それでも生きたいという強烈で泥臭い執着を燃やし、小汚い傭兵の少年にすがってきたあの十四歳の王子。その必死な瞳に、かつて異世界に放り出され、採石場で発狂してまで生き延びようとした自分自身の惨めな姿を重ねてしまったこと。


『他人の命など、もう二度と背負わない』

 師匠を失った日にそう誓っていた自身が、あの日、彼を助けるために再び死地へと舞い戻ってしまった。


(ふざけるな。……あのヒヨッコを玉座に座らせて、私の報酬を受け取るまでは)


マーシャは自身の左手首、泥にまみれたボロボロのミサンガを強く握りしめた。

 これが、元の世界、日本へと帰るための、たった一枚の切符なのだ。


(私は絶対に、こんなところで死ぬわけにはいかない……っ!)


マーシャが双短剣を構え直した、その時。

 彼女の死角を突き、巨大な大剣を振り被った十字軍の巨漢が、狂ったような笑顔で飛び込んできた。

 回避は間に合わない。カディルも遠すぎる。死神の刃が、マーシャの頭上へと無慈悲に振り下ろされようとした、絶対絶命の瞬間。


――ズガァァァァンッ!!!


大地を揺るがす凄まじい地響きと共に、十字軍の厚い包囲網が、背後から力任せに、物理的に食い破られた。


「……なっ!?」


敵兵が驚愕して振り返った瞬間、血肉を吹き飛ばしながら一陣の白銀の旋風が雪崩れ込んできた。

 先頭を駆けるのは、白銀の甲冑を敵の返り血で真っ赤に染め上げた覇王、ファリードである。


「そこを退けェッ!!!」


ファリードの怒号が、狂信者たちの賛美歌を掻き消し、戦場を切り裂いた。

 馬の速度を乗せた彼の一撃が、マーシャに迫っていた巨漢の敵兵の胴体を、大剣ごと無慈悲に両断する。鮮血の雨が降り注ぐ中、ファリードは馬が止まるのも待たずに飛び降り、泥の中に崩れ落ちそうになっていたマーシャの小柄な身体を、自身の腕で強く、痛いほど強く抱きとめた。


「マーシャ! 無事か……!」

「遅いぞ、ヒヨッコ……ッ」


マーシャは荒い息を吐きながら、ファリードの硬い銀甲冑の胸の中で顔を上げた。

助かった。

その安堵で全身の力が抜けそうになる。だが、彼女の軍師としての冷徹な思考は、まだ完全に生きていた。彼女は、後詰めが来なかった理由――アミーナの裏切りと、その意図をすでに悟っていたのだ。


「……なぜ、あんたがここにいる。本陣はどうした!?」


マーシャは血まみれの手でファリードの胸倉を掴み、彼を激しく叱責した。


「アミーナは……彼女の軍資金と莫大な兵力がなければ、私たちは王都を囲めないんだぞ! まさか、私を助けるために彼女と揉めたのか!? 愚か者め……自身の最大のパトロンを切り捨ててどうする! あんたは王として……っ!」


軍師として、彼の覇道を守るため。マーシャは己の命の危機など後回しにして、彼の軍事的な非合理を責め立てた。

 しかし、ファリードはマーシャの叱責を遮るように、彼女の胸倉を掴む血まみれの両手を、自身の大ぶりな手で上から固く、逃げ場のない力で握り込んだ。


マーシャが見上げた彼の金色の瞳は、かつて酒場で怯えていた少年のものではなかった。

 すべてを支配し、己の欲望と執着を最優先する若き王の、仄暗く、どす黒い色に完全に染まりきっていた。


「……アミーナは、私が捕縛した。有益だろうとなんだろうと、私の命に背き、お前を見殺しにしようとした罪は万死に値する」

「馬鹿な……ッ! 私一人の命と、数万の軍の行く末を天秤にかける奴があるか!!」


「天秤になど、かけていない」


ファリードは、ひどく低く、甘く、そして狂気を孕んだ声で囁き、マーシャの顔を自身の顔のすぐ近くまで引き寄せた。二人の吐息が絡み合い、血と硝煙の匂いの中で、ファリードの危険な色香がマーシャの理性を焼いていく。


「私はあの夜、お前に命じたはずだ。私が玉座に就くその日まで、お前が私の隣以外で死ぬことは、絶対に許さないと」


ファリードの強い力が、マーシャの華奢な体を自身の胸へと強引に押し付ける。


「お前の命の価値を決められるのは、この私だけだ。……ザルカの金だろうと、帝国全土の土地だろうと、お前一人には釣り合わない」


「っ……」


それは、軍事的な論理や王の合理を完全に無視した、ファリードの狂おしいまでの執着と、不器用すぎる愛の証明であった。


「私を玉座へ連れて行くと言ったお前の誓いを、私が誰にも邪魔させはしない」


その底知れない熱と、自身を決して手放そうとしないファリードの腕の絶対的な強さに、マーシャの反論の言葉は完全に封じ込められてしまった。


(ああ、そうか……。こいつも、私と同じだ)


自分の命など、この異世界において、とっくに使い捨ての駒だと思っていた。

 けれど、このどうしようもなく不器用で、残酷で、美しすぎる青年へと成長してしまった少年は。世界を敵に回し、自らの玉座を危険に晒してでも、自分という小さな存在を、この世界に必死に繋ぎ止めようとしてくれているのだ。

 その歪んだ、けれどあまりにも確かな体温に触れ、マーシャの胸の奥底で凍りついていた孤独が、音を立てて溶け出していく。


マーシャは、ファリードに握り込まれた自身の左手首のミサンガを、服越しに強く握り返した。

 かつて吹き溜まりの酒場で、生きることに執着する彼に、自身の姿を重ねた日のことを思い出しながら。

 マーシャはファリードの白銀の甲冑の胸元に、力なく、けれど確かな安堵と共に、コツンと額を預けた。


「……仕方ないな。あんたがそこまで言うなら」


マーシャはターバンの奥で、ほんのわずかに、だがひどく優しく唇を吊り上げた。


「最後まで付き合ってやるよ、私の王様」


戦場の泥濘の中で交わされた、血塗られた誓い。

 狂信者たちの怒号が響く中、覇王は自身の最も大切な半身を抱きしめたまま、残敵を殲滅すべく、冷酷な目で自らの白銀の騎馬隊へと突撃の号令を下した。


ファリードの分厚い銀甲冑に額を預け、彼が放つ強烈な熱と鼓動に包まれたほんの数秒。

 それは、絶望の泥沼に沈みかけていたマーシャの魂が、現世へと引き戻されるには十分すぎる時間であった。


「……男なんかとイチャついている場合じゃないぞ、殿下」


マーシャはファリードの胸板を両手で力強く押し返し、その腕の中から抜け出した。

 ファリードがわずかに目を見張る中、彼女が顔を上げる。泥と血に汚れたターバンの奥、かつて死の恐怖に怯えていた黒曜石の瞳に、再び『悪魔』と称された獰猛な理知の光が完全に灯っていた。


「私の盤面を食い破った狂気、そのツケは高く払わせる。……盤面をひっくり返すぞ」

マーシャは泥だらけの指で、乱戦状態の谷底の地形と、狂信者たちの動きを素早く見渡した。


――ズズズズズ……ッ!!


その時。

ファリードが先陣を切ってこじ開けた血路を通って、地鳴りのような足音が谷底に響き渡った。


「軍師殿ォォッ!! ご無事ですかァッ!!」

「殿下と軍師殿をお守りしろ! 前へ出ろォッ!!」


本陣からファリードに続いて全速力で出撃してきた、タリク率いる重装歩兵団と、イブンの医療・毒物部隊が、怒涛の勢いで戦場へとなだれ込んできたのだ。

アミーナに裏切られ、八百の別働隊だけで孤立していた絶望の盤面に。今、王の帰還と共に数万の新たな手札となる本軍が完全に合流を果たしたのである。


十字軍の強さは、死を恐れない”狂信”だ。

どれほど凄惨な死の恐怖を与えようと、彼らの心は折れない。 だが、その強さは同時に、致命的な弱点でもある。彼らの狂気は、個人の強靭な精神力によるものではない。

「巨大な旗」や「聖印」といった、視覚的で絶対的なシンボルを仰ぎ見ることで維持される、集団的なトランス状態、自己暗示に依存しているに過ぎないのだ。


先ほどの局地戦で、ザイドが部隊の旗を燃やした瞬間に奴らがパニックに陥ったのが、その決定的な証拠だった。シンボルが破壊され、神が自分たちを守れなかったと認識した瞬間、トランス状態は強制的に解除される。麻痺していた痛覚と死への本能的な恐怖が一気に蘇り、彼らはただの脆弱な人間に成り下がる。


「ザイド! 先ほどの局地戦と同じ手を使うぞ! 今回狙うのは敵本陣のど真ん中、一番デカい『光の聖印』だ!」


マーシャの叫びに、合流したばかりのザイドが、ポンッと自身の短剣を放り投げて悪党の笑みを浮かべた。


「へへっ、任せな兄貴! 神様を丸焼きにするのは、さっきで手慣れたもんだぜ!」

過去の歴史書の定石など、もういらない。マーシャは、自身の予測を遥かに超えて成長した、異常な能力を持つ仲間たちをフル活用した、彼女だけの悪辣極まりない戦術を即座に立案した。


「まずは奴らの足を止める! イブン!! タリク!! 前へ出ろ!!」


戦場を切り裂く、軍師の鋭い号令。


「死を恐れないなら、肉体そのものを強制停止させるまでだ!」


マーシャの意図を瞬時に察知し、後方で待機していた医療・毒物部隊長のイブンが、マッドサイエンティスト特有の不気味な嗤い声を上げた。


「ヒッヒッヒ! お任せを、軍師殿! 痛みが効かぬのなら、息の根を物理的に止めればよいのですな!」


イブンの指示により、防毒布で口を覆った部隊の兵士たちが、荷馬車から下ろした無数の黒い木樽を、十字軍の密集地帯へと次々に放り投げた。

 樽が地面に激突して砕け散った瞬間、中から赤紫色の特製の劇薬の煙が爆発的に噴き上がった。腐肉茸の絞り汁と、気管を焼く猛毒の粉末を調合した、イブン特製の毒煙幕である。


「ゲホッ!? ガァッ……!!」


どれほど神への信仰が篤かろうと、人間の生体構造から逃れることはできない。毒煙を吸い込んだ狂信者たちは、目から血の涙を流し、気管を激しく焼かれて血を吐きながら、次々とその場に崩れ落ちた。


「タリク!! 壁を作れ! 煙をこちらへ流すな!!」


マーシャの叫びと同時に、巨漢のタリクが最前線へと歩み出た。

 彼の背後に続くのは、完全武装の重装歩兵団だ。タリクの無言の挙手と共に、数百の巨大な大盾が地面に叩きつけられ、鉄壁の防壁が瞬く間に構築された。

 毒煙から味方を完全に守りつつ、煙に巻かれて足が止まり、それでもなお突進してこようとする十字軍の残兵を、物理的な鉄の壁で完全にシャットアウトする。


「……今だ、ザイド!!」


前線が膠着したその一瞬の隙。十字軍の足が止まったことを見逃さず、死の谷底を這い回る黒い影があった。

 ザイド率いる諜報部隊である。彼らは毒煙と泥濘に紛れ、誰にも気づかれることなく、十字軍の最後尾、敵本陣の最深部へと音もなく潜入していた。


彼らの狙いは、敵将の首ではない。

 敵陣の中央で高く掲げられ、狂信者たちの精神的支柱となっている、純金で彩られた巨大な『光の聖印』であった。


「へへっ、神様にはもう一度派手に燃えてもらおうか!」


ザイドが悪党の笑みを浮かべ、聖印の土台に可燃性の油をたっぷりとぶち撒けた。火打ち石が弾け、火種が投げ込まれる。


ボウッッ!!

 という爆発音と共に、十字軍の絶対的な象徴であった聖印が、天を衝くような凄まじい業火に包まれた。


『な……っ!? お、おお……っ!?』


背後で上がった異常な熱と光に、前線の狂信者たちが一斉に振り返る。

 彼らの目に映ったのは、自分たちが絶対の救済だと信じて疑わなかった神のシンボルが、醜く焼け焦げ、炎を上げて無惨に崩れ落ちていく光景であった。


『神が……我らが神が、燃えている……!?』

『なぜだ! なぜ神は異教徒の炎を防いでくださらないのだ!!』


その瞬間。十字軍の兵士たちの口から、狂ったような賛美歌がピタリと止んだ。

 絶対的な信仰の対象が破壊されたことによる、パニック。痛覚を麻痺させていた狂気が解け、彼らの瞳に初めて動揺と、死に対する恐怖が蘇ったのだろう。


「敵の心が折れたぞ! ――今だ、カディル!!」


マーシャの咆哮が戦場を支配した。

 その声に応え、先ほどの死闘で全身血まみれの満身創痍であったカディルが、限界を超えた力で前衛へと躍り出た。

 彼は血塗られた長剣を上段に構え、美しくも洗練された帝国正統の剣技で、動揺して隙だらけになった敵の盾兵を次々と切り裂く。


「道を開けいッ!! 我らが覇王の御前であるぞ!!」


カディルがこじ開けた中央突破の血路。

 そこを、白銀の甲冑を纏ったファリードが、愛馬と共に疾風のごとく駆け抜けた。

 燃え盛る聖印の炎を背に受ける彼の姿は、圧倒的な覇王のオーラと、戦場を支配する死神の美貌を兼ね備えていた。


「我が軍門を阻む神など、この世には存在しない!」


ファリードは王としての絶対的な威圧感を放ちながら、動揺して立ち尽くす十字軍の総指揮官の目前へと肉薄した。


「ば、化け物め……神の裁きを……ッ!」

「裁くのは、私だ」


敵将が震える手で剣を振り上げるより早く。

 ファリードの振るった長槍が、一閃の光となって虚空を薙いだ。


ドサリ、と。

 神の代行者を名乗っていた総指揮官の首が、兜ごと宙を舞い、泥水の中へと無惨に転げ落ちた。首を失った胴体から、血の噴水が吹き上がる。


『し、指揮官殿が討たれたァッ!!』

『逃げろ! 神は見放されたぞ!!』


指揮官とシンボルを同時に失い、完全に論理と恐怖を取り戻した十字軍の残兵たちは、武器を投げ捨て、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように完全な敗走へと転じていった。


土煙が晴れていく谷底で、マーシャは自身の震える右手を見つめた。

 己の過去の知識だけではない。仲間たちの意志と絆が、彼女の盤面と完璧に融合し、歴史の定石を超えて理不尽な狂信を打ち破ったのだ。


「……見たか、殿下」


マーシャは血と泥に塗れた顔で、馬上で槍を払うファリードを見上げ、誇らしげに獰猛な笑みを浮かべた。


「これが、私の……私たちが描く、新しい盤面だ」


西の空が赤く染まり始める中、覇王の軍勢が上げた勝鬨の咆哮が、大平原の果てまで力強く響き渡った。


* * *


西の平原での激戦が終わり、外では十字軍を打ち破った兵士たちの歓喜の勝鬨が大地を揺らしていた。

しかし、勝利の熱狂とは対照的に、巨大な本陣の天幕の内部は、肌を刺すような氷の静寂に包まれていた。


天幕の中央。冷たい石の床に引きずり出されたのは、ザルカの女領主アミーナであった。

 かつてファリードを魅了しようと着飾っていた真紅のドレスは泥と血に汚れ、豪奢な髪飾りは無惨に引き剥がされている。両手を荒縄で縛られ、屈強な近衛兵によって無理やり床に跪かされていた。


「離しなさいッ! 私を誰だと思っているの!?」


アミーナは血走った目で周囲を睨みつけ、玉座の代わりとして置かれた上座の椅子に深く腰掛けるファリードに向かって、金切り声を上げた。


「殿下! これは一体どういうこと!? 私は貴方の最大の同盟相手よ! 私の軍資金とザルカの傭兵団がいなければ、貴方は王都を囲むことすらできないのよ!!」


必死に自身の価値を叫ぶアミーナ。

 だが、上座から彼女を見下ろすファリードの金色の瞳には、一片の慈悲も、かつて彼女に向けた甘い微熱も存在しなかった。そこにあるのは、路傍の石ころを見るような、絶対零度の無関心と冷酷さだけだ。


「……黙れ」


ファリードの低く、静かな一言が、天幕の空気を完全に凍結させた。アミーナの喉がヒュッと鳴り、声が止まる。


「貴女は、私がこの世で最も重きを置く『命』を、己の浅ましい嫉妬のために盤面から消そうとした」


ファリードはゆっくりと立ち上がり、泥に塗れたアミーナの眼前へと歩み寄った。


「軍師マーシャ、我が盾カディルを意図的に孤立させ、見殺しにしようとした罪。それは、我が陣営の頭脳と兵力を破壊する反逆行為であり、同時に――私の意志に対する、万死に値する冒涜だ」


「ち、違うわ! 私はただ、貴方の隣にはあんな薄汚い男よりも、この私の方が相応しいと……っ! ザルカの富があれば、貴方はもっと早く帝国の頂点に――」


「貴女の富など、もはや不要だ」


ファリードは冷酷に言い放ち、アミーナを見下ろしたまま、天幕に居並ぶ将軍たちへ向けて厳烈な号令を下した。


「カディル。直ちにザルカの全権を掌握し、アミーナの全財産、及び傭兵団を我が軍の直轄として没収せよ。……そして、この女の身分を平民へと落とし、水も食料も持たせずに、ガレブの荒野へと永久追放しろ」


「な……っ!?」 アミーナの顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「お、お願い、誰か! 私を助けなさい! 奴らを殺せば、ザルカの金庫からいくらでも望むだけの金貨を出してあげるわ!!」

アミーナは床に這いつくばったまま、天幕の入り口に控えていたザルカの傭兵たちに向けて金切り声を上げた。 だが。

彼女の護衛であるはずの屈強な傭兵たちは、冷ややかな目で互いに顔を見合わせるだけで、誰一人として剣を抜こうとはしなかった。


「金が唯一の神」である独立都市ザルカの兵士たちを繋ぎ止めていたのは、忠誠心ではなく、ただの損得勘定である。目の前の底知れぬ恐怖を放つ覇王によって全財産を没収され、無一文の平民へと落とされた女に、もはや命を懸けて仕える価値など一欠片もない。それどころか、ここで刃向かえば自分たちの命すら危ういと、傭兵たちは冷徹に判断したのである。


「うそ……どうして……っ」


金で買った力は、金が尽きた瞬間に最も無情に牙を剥く。自分を助けようとする者がこの世界に一人もいないという冷酷な現実に直面し、アミーナの瞳から最後の光が消え失せた。


殺されるよりも残酷な宣告。泥水を啜って這い上がり、すべてを手に入れた北の未亡人から、そのすべてを剥奪し、再び何もない泥濘の底へと叩き落とす。自身の野心とプライドを最も残酷な形で粉砕されたアミーナは、絶望に顔を歪め、そのまま糸が切れたように床へと崩れ落ちた。


「連れて行け」


ファリードが顎をしゃくると、兵士たちが悲鳴を上げるアミーナを無造作に引きずって天幕の外へと連れ出していく。


その冷徹極まりない一連の光景を、カディルやザイド、タリクたち将軍は、息を呑んで見つめていた。

 自分に莫大な利益をもたらす絶世の美女と、強大な同盟国。それらを一切の躊躇なく切り捨て、一人の小柄な軍師を選び取った彼らの主君。

 彼らは悟った。かつて辺境へ逃げ延びたあの怯えた少年はもういない。玉座を取り戻すための操り人形でもない。今ここにいるのは、自身の意志と冷酷なまでの愛執で、他者の運命をすべて支配する『恐るべき真の王』なのだと。


「……御意に。我が覇王おうよ」


カディルが静かに、だがかつてないほど深い畏敬の念を込めて片膝をつき、頭を垂れた。それに呼応するように、ザイドも、タリクも、天幕のすべての者が、完全なる忠誠を誓って覇王の前に平伏したのだった。


* * *


アミーナの粛清から数日が過ぎ、十字軍の残党狩りと戦後処理が落ち着きを見せ始めた頃。

 マーシャは本陣の自身の天幕で、十字軍の野営地から押収された戦利品の数々を検分していた。


「……狂信者どもの荷物なんて、どうせ神への祈祷書と拷問器具くらいしかないだろうに」


マーシャは溜息をつきながら、山積みにされた羊皮紙の束をペラペラと捲っていた。

 しかし、その中に一冊、明らかに異質なオーラを放つ、黒い獣皮で装丁された古い書物が混ざっていた。表紙には、帝国の公用語とも、十字軍の聖典の文字とも異なる、奇妙な古代文字が刻まれている。


「なんだ、これは。……『異教徒の禁書』?」


十字軍が異端として接収し、いずれ燃やすつもりで保管していたのだろう。マーシャは訝しげにその禁書のページを開いた。

 古い羊皮紙の匂いと、カビの匂いが鼻を突く。

 そこに書かれていたのは、大帝国シャジャルの正史には決して記されていない、神話めいた「創世の異端録」であった。


『――数百年前。空の彼方より、星の海を渡って堕ちてきた異界の悪魔たちがいた。』


マーシャの指先が、ピタリと止まる。


『悪魔たちは恐るべき知識と力をもって、未開の地に大帝国シャジャルの礎を築き上げた。……やがて彼らは、王都の地下深くに星の門を開き、再び異界へと去っていった。』


さらに、その羊皮紙の端には、ボロボロに擦り切れた文字でこんな一文が書き足されていた。


『――意見を違え、星の門を諦めた一部の悪魔たちは、鉄の船を造り、西の海の果てへと去っていった。』

『帝国の歴代皇帝は、その真実を恐れ、門と悪魔の記録を王都グラナダの最下層、開かずの「禁書庫」に厳重に封印した――』


「……っ!」


ドクン、ドクン、と。マーシャの心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされた。

 異界の悪魔。空から堕ちてきた者。そして――星の門。


西の海へ去った者たちの記述など、今の彼女の目には全く入っていなかった。彼女の脳髄を完全に支配したのは、この世界には自分以外にも、過去に「別の世界」からやってきた人間が存在し、そして彼らが『自らの手で元の世界へ帰っていった』という、決定的な証拠だけであった。


「……帰れる」


マーシャは震える両手で、その古い禁書を胸に抱きしめた。

 元の世界へ帰るための「星の門」と、その起動方法を記した記録。それは、あの忌まわしき王都グラナダの地下、『禁書庫』に必ず眠っているのだ。


マーシャは自身の左手首を見た。

 泥と血に塗れ、今にも千切れそうになっている、日本のボロボロのミサンガ。元の世界との繋がりを示す、たった一本の細い糸。


「帰れる……! 帰れるんだ……っ!!」


マーシャの黒曜石の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、羊皮紙とミサンガを濡らした。

 それは、孤立無援の戦場でトラウマに怯えて流した絶望の涙ではない。途方もない孤独の暗闇に、初めて差し込んだ希望の光に対する、歓喜の涙だった。


(日本に帰ったら、まずは泥の匂いがしない温かいお風呂に一日中浸かろう。それから、冷えたみかんジュースを飲んで、お母さんの作ったご飯を食べるんだ。……ああ、そうだ。この世界の歴史をレポートにまとめたら、歴史の先生は腰を抜かすだろうな)


血塗られた軍師の顔を忘れて、ましろという一人の女に戻ってふにゃりと笑う。


(……待っていろ、王都グラナダ。マレク皇帝)


マーシャは涙を乱暴に袖で拭い、ターバンの奥の瞳に、かつてないほど強烈な野心の炎を燃え上がらせた。

 ただ報酬のためではない。あのヒヨッコとの約束のためだけでもない。

 帝国の玉座を奪還し、王都の最深部をこの手でこじ開けること。それが、彼女自身が日本へと帰還するための絶対条件へと変わったのだ。


自身の命運を懸けた希望への熱狂。

 彼女は、この直後にイブンが持ち込んでくる奇妙な鉄の筒と、自身が読み飛ばした西の海へ去った鉄の船の記述が、どのような最悪の線で繋がっているかに気づく由もなかった。


悪魔の軍師の盤面は、ついに最終目的地――王都グラナダの玉座と、その地下に眠る「星の門」へと一直線に狙いを定めたのだった。

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