青年編2.5
十字軍との激戦の夜。
自らの戦術が破綻したトラウマに怯え、天幕で泣き崩れていた軍師マーシャを強引に抱きすくめ、「私が玉座に就くその日まで、私の隣以外で壊れることは許さない」と、呪いのような言葉で縛り付けた直後。
マーシャの天幕から外へ出たファリードは、夜風の吹き抜ける暗がりに隠れ、ひっそりと大きく、ひどく重い溜息を吐き出した。
「……やりすぎたか」
彼は先ほどまでマーシャの震える両手を握り込んでいた自身の手のひらを見つめ、自嘲気味に顔を歪めた。
恐怖に震える小柄な少女を癒やすなら、もっと他に優しい言葉があったはずだ。王族としての教養には、甘い詩も、女性を口説くための洗練された話術も含まれている。
だが、いざ彼女を前にすると、胸の奥で暴れ狂う感情が制御できず、いつだってあんな高圧的で、強引な命令という形でしか彼女を繋ぎ止めることができないのだ。
ファリードは陣営の篝火を見つめながら、自身の不器用すぎる三年間に想いを馳せた。
* * *
すべては三年前。十四歳の頃の「純粋な使命感」から始まっていた。
ガレブ渓谷の採石場を落としたあの夜。湧水池で、偶然にもマーシャの素肌と、そこに刻まれた無数の凄惨な傷跡を見てしまった時。
ファリードの胸にあったのは、この過酷な世界で男を装い、血を吐くような努力で生き抜いてきた一人の少女に対する、純粋な敬意と悲壮な決意だった。
(私が、本当の王になる。……そして、この少女の小さな背中を守る『盾』となるのだ)
そう、月光の下で固く誓った。
だが、温室育ちの王宮で生きてきた彼にとって、血の気の多い男ばかりの傭兵の陣営で、一人の女性の秘密を守り抜くというミッションは、想像を絶する苦労と胃痛の連続であった。
例えば、戦勝祝いの酒盛りの夜。
パチパチと爆ぜる大きな焚き火を囲み、焼けた肉の脂と、鼻を突くような安酒の匂いが入り混じる喧騒の中。
荒くれ者の傭兵たちやザイドが、顔を真っ赤にして「マーシャの兄貴ィ! 今日も最高だったぜ! さあ飲もうや!」と、彼女の華奢な肩に遠慮なく腕を回そうと近づいてくる。
そのたび、ファリードは血相を変えて、不自然なほど素早く二人の間に割って入った。
『待て! 軍師は明日も朝が早く、頭脳を休めねばならん。酒の相手なら、この私がしよう!』
十四歳の、まだ酒など一滴も飲んだことのない彼が、ザイドの持つ粗悪で度数の高い酒瓶をひったくり、無理をしてガブガブと呷り始めたのだ。
『へ? で、殿下……!? 何を――』
普段は冷静なマーシャも、王族らしからぬ突然の奇行にターバンの奥で目を丸くして硬直した。
しかし、周囲の傭兵たちは大盛り上がりだ。ザイドが木樽の机をバンバンと叩きながら、『おおっ! 殿下が直々に相手をしてくださるたァ! いいぞ、その意気だ殿下ァ! 飲め飲めェ!』と囃し立て、周囲も手拍子でそれに続く。
結果、喉と胃を焼かれて盛大にむせ返り、涙目になるファリード。
その様子を見たカディルから『で、殿下ァ!? 王族たる者が、あのような下賤な酒を呷るなど、無茶が過ぎますぞ!!』と、翌朝まで延々と説教される羽目になる。二日酔いで頭を割られるような痛みに耐えながらも、ファリードは男たちの汚い手が彼女に触れなかったという事実だけで、密かに安堵の息をついていた。
「……思い返すだけでも、腹立たしい」
十七歳になった現在のファリードは、夜風の中で忌々しげに舌打ちをした。
ファリードがその後知った残酷な事実。それは、陣営の主力であるカディル、タリク、ザイド、そしてマーシャの四人は、揃いも揃って底なしの「ザル」だということである。
特にマーシャは酒に強く、今でも夜な夜なザイドと焚き火の傍で差し飲みをしては、あの低く作った声で楽しそうに笑い合っている。
今のファリードは、酒が飲めないわけではない。だが、実は決して強い方ではなかった。
彼は自身の酒癖をひどく警戒している。普段は覇王として他者を威圧し、冷徹に振る舞っている彼だが、限界を超えて酔っ払うと、幼少期のあの可愛らしい、優しい雰囲気が完全に表に出てしまい、誰に対してもふにゃりと甘く微笑んでしまうのだ。
本当は、マーシャとザイドの差し飲みに加わりたくて仕方がない。彼女と夜通し酒杯を交わし、その隣に座っていたい。だが、そんな緩みきった顔を晒せば、軍を統率する王としての威厳は地に落ちる。何より、大人の男としてマーシャを威圧し、彼女を自身の側に縛り付けるための恐ろしい覇王のイメージが台無しになってしまう。
だからこそ、彼は嫉妬で腸を煮えくり返らせながらも、自身の失態を彼女に見せまいと、軍議の場以外で彼女たちの酒盛りには決して加わらないよう、血の滲むような我慢を続けているのだ。
また、過酷な行軍中のこと。
泥と汗に塗れたマーシャが、こっそりと陣を抜け出し、近くの川で水浴びをしようとする。本人は裏社会の技術でうまく男の目を避けているつもりなのだろうが、ファリードの目は誤魔化せない。
彼がどれだけヒヤヒヤしたことか。
『全軍、止まれ! 王命である!』
ファリードは突然声を張り上げ、軍の進軍を停止させた。
『あ、あの川の上流は、現在敵の毒物混入の疑いがあり、水質調査中である! 調査が終わるまで、何人たりとも上流へ近づくことは相成らん!!』
そんな理不尽極まりない命令を下し、マーシャが水浴びをしている間、ファリード自らが川辺へ続く道の草葉の陰に立ち、仁王立ちで物理的に見張り番をしていたのだ。
風に乗って微かに聞こえてくる水音に、自身の心臓が破裂しそうなくらい早鐘を打っているのを必死に無視しながら。血走った目で、近づく兵士がいないか睨みを効かせる日々。
また、彼を最も悩ませていたのは、マーシャ自身の、女性としての危機感のなさであった。
元々、生きるか死ぬかの極限の世界で生きてきた彼女は、自身の身なりや羞恥心に対してひどく無頓着だった。
ある初夏の行軍中のこと。
突如として激しい通り雨に見舞われ、陣営の者たちがずぶ濡れになった。もちろんマーシャも例外ではなく、薄手の傭兵着が雨を吸い、彼女の白い肌にピタリと張り付いてしまったのだ。
彼女自身は「チッ、鬱陶しいな」としか思っていなかったが、ファリードの目は誤魔化せない。濡れた布越しに、胸をきつく縛るサラシの輪郭と、細くしなやかな腰のラインが、男たちの目から見ても誤魔化しようがないほど露わになっていたのだ。
『ッ!! マ、マーシャ! これを着てくれ!!』
周囲の兵士たちが気づくより早く。ファリードは顔から火が出るほど赤面し、自身の分厚くて大きな男物の外套を乱暴に剥ぎ取ると、マーシャの頭からバサリと被せた。
『……は? なんだこの分厚い外套は。今は夏だぞ、熱射病で死ぬ気か!』
『いいから着ておけ! 軍師は冷えが万病の元だ! 濡れたまま風に当たれば肺炎になる!』
『お前には少し小さくなったと言って渡してきているが……私には足首まで引きずるくらいデカいんだが!? 歩きにくい! 第一、暑い!』
『いいから絶対に脱ぐな! 王命である!!』
そうして、不自然にダボついた分厚い外套を真夏に無理やり着せ、彼女の体型を物理的に隠し通すことに成功したのだ。
当のマーシャは「最近のヒヨッコは過保護すぎて暑苦しい」と汗だくで文句を言っていたが、ファリードは彼女の姿が他の男の目に触れなかったという事実だけで、一人密かに安堵の息をついていたのだった。
* * *
「……はぁ」
夜風に吹かれながら、現在のファリードは、再び深々と溜息をついた。
自身はこんなにも、あの夜から三年間、彼女の秘密を守り、他の男の目が向かないように身を粉にして暗躍してきたというのに。
当のマーシャは、自身の秘密がバレていることなど微塵も気づいておらず、「最近の殿下は過保護すぎる」「図体がデカくなったからと威圧するな」などと、全く見当違いな文句ばかり言ってくる。
あまつさえ、ザイドとは酒瓶を回し飲みして軽口を叩き合い、カディルのことは「堅物の旦那」と呼んで、妙に信頼したような柔らかい笑みを向けるのだ。
(……なぜだ。私はこれほど、誰よりもお前だけを見ているというのに)
自身はもう、十四歳の無力な少年ではない。
背丈は彼女を遥かに見下ろすほどに成長し、骨格は大人のものへと変貌を遂げた。何万もの軍勢を冷徹に動かし、敵の将軍を瞬時に切り捨てる力も手に入れた。
世界中のすべてを自身の思い通りに支配できるようになったというのに。マーシャのことになると、途端に急激な感情のコントロールが効かなくなる。
彼女が他の男と笑い合っているのを見るだけで、胸の奥がムシャクシャして、苛立たしくて、理性が焼き切れそうになる。
本当は、花の一輪でも贈って甘く口説けばいいのかもしれない。だが、不器用な青年に、そんな洗練された真似ができるはずもなかった。
どう接していいか分からない。彼女が自分から離れていくのが恐ろしい。
だからつい、大人の男ぶって、彼女を壁際に追い詰め、威圧的な態度をとってしまう。
『私の隣にいろ』と。
強引で、偉そうな『王の命令』という形でしか、彼女の心と身体を自身の側に縛り付けておく術を知らないのだ。
「……私も、ひどく醜い男になったものだ」
ファリードは天幕の布越しに、彼女が眠っているであろう場所を真っ直ぐに見つめた。
彼がこれほどまでに、一人の少女に執着するのには理由がある。 それは、ただ彼女が女性として美しかったからではない。
絶望の淵で毒杯を煽ろうとしたあの夜。
血と泥に塗れながら「死なせない。生き残って、勝つよ」と、己の命を地獄の底から引き摺り上げてくれた、あの小さな、けれど力強い手の熱。
そして、湧水池で偶然見てしまった、彼女の華奢な背中に刻まれた無数の凄惨な傷跡。
あんなにも脆く、傷だらけの少女が。自身を王にするためだけに、女であることを隠し、血反吐を吐きながら『悪魔の軍師』という血塗られた仮面を被り、誰よりも重い業を一人で背負ってくれているのだ。
その事実が、ファリードの胸をどうしようもなく締め付けた。
いつからかは分からない。初めは「彼女の盾になりたい」という純粋な敬意と庇護欲だったものが、いつしか彼女が背負う孤独ごと丸ごと喰らい尽くし、自身の腕の中に永遠に閉じ込めてしまいたいという、狂おしいほどの愛執へと変貌してしまっていた。
(……お前が私のために血の泥濘を歩むというのなら。私はお前のために、この世界を焼き尽くす覇王となろう)
どれほど不器用であろうと、どれほど歪んでいようと、もう引き返すつもりはない。
この青い葛藤も、不格好な嫉妬も、すべてを飲み込んで。 彼女のすべてを手に入れるためだけに、覇王は再び冷徹な仮面を被り、血塗られた王都への道を見据えたのだった。




