青年編2
――その数日後。
大帝国の正規軍二万を破り、王都グラナダへの進軍を控えたファリード陣営に、新たな、そして最悪の脅威が急接近していた。 西の国境を越え、異教徒を浄化せんと進軍してきた神聖国家の十字軍である。彼らはファリード軍の側背を突く形で、数万の兵力をもって怒涛の進撃を開始したのだ。
マーシャは即座に本陣からカディル率いる別働隊を切り離し、十字軍の迎撃へと向かった。
彼女はいつものように地形を冷徹に読み切り、自軍の被害を最小限に抑えるための合理的な包囲殲滅の盤面を敷いた。伏兵を配置し、敵を狭所に誘い込んで一網打尽にする、完璧な計算式のはずだった。
だが、開戦直後。
マーシャの冷徹な盤面は、想像を絶する「理不尽」によって紙屑のように破り捨てられた。
十字軍の兵士たちは、死を全く恐れていなかったのだ。 マーシャが仕掛けた火計や罠の中に、彼らは神への殉教を悦びとする狂った笑顔を浮かべながら、声高らかに賛美歌を歌って飛び込んできた。
人間の生存本能に基づく恐怖や、痛覚による後退を大前提として組み上げられたマーシャの論理的な戦術は、この常軌を逸した『狂信』の前には一切通用しなかったのである。
予想外の狂気の突撃により、手薄だった陣形の要所が次々と食い破られる。
「陣形を立て直せ! 崩されるな!」というカディルの怒号も虚しく、味方の兵士たちが次々と狂信者の刃に倒れ、血飛沫を上げて泥水に沈んでいく。
その凄惨な光景が、マーシャの網膜を真っ赤に染め上げた。
『――マーシャ、逃げろ!!』
脳裏に、強烈なフラッシュバックが襲いかかる。
自身の采配ミスによって敵の伏兵を読みきれず、師匠ルスランが腹を貫かれて死んだ、あの絶望の谷底の記憶。
(違う……! 私のせいじゃない、私の計算は完璧だったはずだ……っ!)
(また、私のせいで人が死ぬのか……! 私が盤面を間違えたせいで……!)
極度のトラウマと罪悪感が、マーシャの思考をショートさせた。 過呼吸に陥り、視界がぐにゃりと歪む。ガタガタと激しく震える手から、軍を動かすための指揮棒が、力なく泥の中へと滑り落ちた。
狂信者たちの賛美歌と、肉の焦げる異臭が平原を地獄へと変えていた。
恐怖に呑まれ、指揮棒を落としたマーシャの眼前で、カディルは絶望的な数的不利の中、単騎で敵陣を押し留めていた。
その最中、巨大な戦槌を振り回す十字軍の将校が、神の裁きとばかりにカディルへと襲いかかった。
かつてのカディルであれば、その一撃を華麗な剣技で躱し、騎士としての美しき一太刀で反撃していただろう。だが今の彼は、泥と血に塗れた地面を転がり、敵の懐へ泥臭く飛び込んだ。
甲冑ごと体当たりをぶちかまし、戦槌の軌道を力技で逸らす。そして、刃ではなく、自身の長剣の硬い柄を、狂信者の顔面へと容赦なく叩き込んだ。
鼻骨が砕ける鈍い音。泥水に顔を突っ込んで倒れた敵を完全に踏み潰し、カディルは血まみれの顔を上げてマーシャを振り返った。
彼の隻眼に映ったのは、いつもの冷徹な悪魔などではなく。己の采配ミスで味方が死んでいく光景に耐えきれず、指揮棒を落としてガタガタと震え、過呼吸に陥っている脆弱な子どもの姿だった。 その瞳の奥に渦巻く暗い絶望の色。それはかつて荒野の行軍中、彼女がカディルに見せた、守るべき者を、己の無力さで死なせた者特有の、過去の罪悪感に囚われた亡霊の目そのものであった。
(……このままでは、こいつは過去の亡霊に喰い殺されてしまう)
カディルは奥歯を強く噛み締めた。彼自身もまた、炎の中で兄王子を救えなかった自責の念から、長く死に場所を探す亡霊として生きてきた。だからこそ、今の彼女がどれほどの地獄の淵に立たされているかが痛いほどに分かった。
だが、今のカディルは違う。ザルカのバルコニーでレイラに己の傷を肯定され、泥と炎の中で生き抜く誇りを取り戻した彼にとって、過去のトラウマはもう己を縛る呪いではなかった。
(今度は、私が貴様をその泥沼から引き摺り戻す番だ!)
「貴様は『悪魔の軍師』だろうが!!」
その声は、戦場の喧騒を切り裂き、マーシャの鼓膜を激しく震わせた。
「過去の亡霊に怯えるな! 貴様はもう、あの絶望の谷底に一人でいるわけではない! 私が……私たちが生きている限り、貴様に二度と、同じ絶望は味わわせん!!」
それは、自身もまた「炎から主君を救えなかった」という過去の亡霊に苦しめられてきた男だからこそ放てる、魂の咆哮であった。 彼の背中は、死に場所を探す殉教者のものではない。誇りのためでも、騎士道のためでもない。
「大切な主君と、共に背中を預ける仲間を生かすため」だけに剣を振るう、泥臭くも真に気高い騎士の姿がそこにあった。
(……歴史の定石じゃない。こいつらは、自身の意志で、私の盤面を超えていくのか)
かつて、師匠を失った日に「自分の命以外、もう二度と背負わない」と誓い、他者をチェスの駒だと割り切ろうとしたマーシャ。だが、彼女が冷徹に動かしてきたはずの駒たちは、いつの間にか彼女の絶望を庇い、共に泥を被ってくれる『家族』になっていたのだ。
マーシャの瞳の奥底に、再び黒曜石の獰猛な光が灯った。
彼女は震える手で、足元の泥に落ちていた指揮棒を強く握り直す。
「……言ってくれるじゃないか、堅物の旦那」
狂気には、狂気以上の圧倒的な光をぶつけるしかない。狂信者たちの唯一の弱点、それは絶対的な神の威光に依存しているというその一点だ。
「ザイド! 敵陣の後方、一番高く掲げられている『十字軍の聖印』を燃やせ! タリク、カディルの側面を死守しろ! ――殿下!!」
マーシャの張りのある号令が、戦場に響き渡った。
その声を待っていたとばかりに、白銀の騎馬隊を率いたファリードが、圧倒的な覇王のオーラを纏って前線へと躍り出た。
「神の救済だと? 笑わせるな」
ファリードの姿を見た瞬間、狂信者たちの動きがピタリと止まった。
血と泥に塗れた戦場において、ただ一人、一切の穢れを知らぬかのような圧倒的な美貌。金色の瞳から放たれる、人間離れした覇気と魔性。それは、彼らが盲信している見えざる神よりも、遥かに暴力的で、ひれ伏さずにはいられない現人神の姿そのものであった。
「貴様らが縋る偽りの光など、私がこの槍で粉砕してやる」
ファリードの長槍が、神の代行者を名乗っていた敵の将軍の胸板を、分厚い甲冑ごと美しく貫いた。
同時に、後方でザイドの手によって彼らの心の支えであった『聖印の旗』が炎上して崩れ落ちる。
『あ、ああ……神よ……!』
絶対的であったはずの信仰が、ファリードの威光の前に砕け散った。
死を恐れなかったはずの狂信者たちの瞳に、初めて恐怖の色が浮かぶ。統率を失い、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく十字軍。
マーシャの盤面を、仲間たちの絆と王の覇気が完全に上書きし、勝利を毟り取った瞬間であった。
* * *
しかし、その激戦の夜。
血と戦禍の匂いが色濃く残る巨大な本陣の天幕。たった一人で暗がりに戻ったマーシャの心は、勝利の余韻どころか、決定的な絶望と孤独に打ちのめされていた。
「はぁっ……ひゅっ……っ!」
マーシャは石机の脇にへたり込み、自らの細い首を両手で絞めるようにして、過呼吸に喘いでいた。
カディルたちは今日、マーシャの盤面に従うだけの駒ではなく、自身の意志と絆で死線を越え、この世界で本物の騎士や戦士として確かな成長を遂げていた。
それに対し、自分はどうだ。
(私は……ただの『偽物』だ)
本当の自分は、天才軍師などではない。日本の歴史書の知識を借りて、悪魔の仮面を被って強がっているだけの、臆病で無力なましろという少女のままなのだ。
自身の采配ミスで敵の狂気を読みきれず、陣形を崩壊させた。またしても、自分のせいで数え切れない味方の兵士が死んだ。
『――マーシャ、逃げろ!!』
血を吐くルスランの姿が、今日死んでいった兵士たちの姿と重なり、容赦なくフラッシュバックする。
マーシャは血の幻覚に塗れた自身の両手を見つめ、ガチガチと歯の根を鳴らして震えた。
「私が……私が、殺すところだった。カディルも、タリクも、殿下も……っ!」
マーシャは自身の左手首に巻かれた、擦り切れ、色もわからなくなったミサンガを、縋るように胸に抱きしめた。
だが、元の世界へ帰る手がかりは、三年経った今も依然としてゼロだ。自分はこの世界の人間ではないのに、この血塗られた泥沼から一生抜け出せないのではないか。誰にも本当の性別を、異世界から来た迷子なのだと言えない。
その絶対的な孤独と恐怖に、彼女の心は完全に決壊した。
「かえ、りたい……っ。誰か、たすけて……っ」
マーシャは暗い天幕の床で膝を抱え、獣のように声を殺して泣き崩れた。軍師としての矜持も、悪魔の仮面も、今はもう跡形もなかった。
「はぁっ……ひゅっ……っ!」と喘ぐ。
精神的な恐怖だけでなく、数年間、胸を分厚いサラシで限界まで締め付け続けてきた肺が悲鳴を上げていた。空気が上手く吸えず、無理に作っていた低い声のせいで喉の奥から鉄の血の味がする。
物理的な息苦しさと孤独感が彼女の心を完全に決壊させた。
その時。
バサリ、と天幕の布がめくられ、ファリードが足音もなく入ってきた。
「……ッ!!」
マーシャは心臓が跳ね上がるのを感じ、必死に乱暴な手つきで涙を拭い取った。
無理やり立ち上がり、暗闇に紛れて背中を向けたまま、低く冷徹な軍師の声を装う。
「……何の用だ、殿下。今日は私の失態だ。……軍師失格だ。私は采配を誤り、味方を危機に晒した。どんな罰でも受ける」
冷淡に自身を罰しようとするその言葉。だが、背を向けている彼女の小さな肩は、ひどく、今にも砕け散りそうなほどに小刻みに震えていた。
ファリードは無言のまま、マーシャの背後へとゆっくりと歩み寄った。 薄暗い天幕の中。彼の金色の瞳は、傷つき、泣き震えている小柄な少女の背中を、痛切な想いで見下ろしていた。
(……この結び目を解いて。すべてを知っていると告げてしまいたい)
ファリードはゆっくりと右手を上げ、マーシャの顔を厳重に覆い隠している薄汚れたターバンの端へと指を伸ばした。 王としての圧倒的な力で、彼女の偽りの仮面をすべて引き剥がし、もう無理をして男を演じなくていいと、自身の広い腕の中に囲い込んでしまいたい。
強烈な衝動が、彼の理性を焼き切れそうになる。
だが。
ファリードの指先は、ターバンの布地に触れる寸前の空中で、ピタリと止まった。
(……いや。今ここで私がそれを暴けば、彼女は己を保っていた『軍師としての誇り』すら失い、完全に壊れてしまう)
限界まで追い詰められている今の彼女から、最後の鎧を奪うことは、救済ではなく破壊だ。 ファリードは奥歯を噛み締め、伸ばした手をギリッと強く握り込む。彼女が自身の意志で秘密を明かしてくれるその日まで、彼女の軍師としての仮面を守り抜く。それは、彼なりの不器用で、痛みを伴う男としての忍耐であった。
ターバンに伸ばしかけた手を、ファリードは軌道を変え、必死に震えを隠そうとしているマーシャの両手の上から、覆い被せるようにガシッと掴んだ。
「……殿下?」
痛いほど強く、絶対に逃げ場のない力。マーシャが驚いて振り返ろうとするが、ファリードは背後から彼女を閉じ込めるように身を屈め、その動きを封じた。
「己を罰するのはやめろ。お前の盤面が崩れたのなら、私がこの剣で何度でもこじ開ける」
「だが……私のせいで、また人が死んだ。それに私は……っ」
マーシャの脳裏を過るのは、最近恐ろしいほどのスピードで風化していく『日本の記憶』だった。
通学路の桜の匂い、両親の顔、味噌汁の味。元の世界へ帰るという執着。それらが、この世界で仲間たちやファリードと過ごす時間が大きくなるにつれて、靄がかかったように薄れてきている。帰らなければならないのに、彼らへの情が湧いて、過去を忘れかけている自分への強烈な罪悪感と恐怖。
「私は、空っぽだ……っ。皆のように根を張れる大地もないのに、帰る場所すら見失いそうで……!」
「黙れ」
ファリードはマーシャを優しく抱きしめる代わりに、自身の顔を、彼女の肩越しに顔のすぐ横まで寄せた。 甘く、低い吐息がマーシャの耳朶を打つ。
そして、ファリードの金色の瞳が、夜の海のように仄暗く、粘ついた執着の色に濁った。
「過去が薄れ、迷子になるのが恐ろしいか。……ならば、忘れればいい。お前が過去を失うというのなら、私が今、何度でもお前に触れてこの世界の熱を教えよう」
それは、弱った者を癒やす甘い救済の言葉ではない。
「お前に根を張る大地がないと言うなら、私が……この私が、お前をこの世界に繋ぎ止める錨になる。……お前は、私をこの血塗られた覇道へと引きずり込んだのだ。ならば、その責任は最後まで取れ」
「私が玉座に就くその日まで。お前が私の隣以外で、勝手に一人で壊れることは……この私が、絶対に許さない」
鼓膜の奥を甘く痺れさせる、王の絶対的な命令。そして、彼女のすべてを自身の支配下に置こうとする、暗い呪縛であった。
「ッ……」
マーシャは、自身の正体を暴かれるかもしれないという恐怖と、彼から向けられる強烈な熱――『お前が絶対に必要なのだ』と強引に必要とされている事実に、金縛りに遭ったように動けなくなった。
(私は……殿下が玉座を手に入れるまで、この呪縛から逃れられないのか……)
震えるマーシャの心に広がるのは、恐ろしいほどの支配感。
だが、過去の記憶の風化に怯え、故郷への未練を捨てきれずに宙ぶらりんになっていた彼女にとって、その強引すぎる執着と彼が宣言した『錨』という言葉こそが、今の彼女にとってここに居てもいいという唯一の免罪符でもあった。
恐怖と、故郷を忘れかけている罪悪感。
そしてほんのわずかな安堵に身を震わせながら。 マーシャは故郷への想いを心の奥底で引きずりつつも、自身を世界に繋ぎ止めてくれるファリードの大きくて熱い手のひらの感触に縋るように、静かに目を閉じるのだった。




