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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
王都奪還編

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17/43

青年編1


――それはもはや、戦争と呼ぶにはあまりに無残な、一方的な「狩り」であった。



――あれから、三年の月日が流れた。


大帝国シャジャルの心臓部、王都グラナダを指呼の間に望む肥沃な大平原。初夏の陽光を浴びて黄金色に輝くはずであったその地は現在、鉄と血、そして絶望の咆哮に塗りつぶされていた。


叔父マレクが「逆賊の残党を捻り潰せ」と差し向けた、帝国正規軍二万。白銀の甲冑を纏い、定石通りの美しい密集陣形で進軍するその姿は、数年前であればファリードたちが恐怖に震えて逃げ惑う、圧倒的な武の象徴であったはずだ。


だが、今の彼らの前には、ただの動く標的に過ぎない。


「……愚かな。定石に縛られた軍など、ただの盆栽だな」


戦場を一望する小高い丘の上に設営された、巨大な本陣の天幕。

 数万の軍勢を統べる総指揮官の椅子に座るマーシャは、外套をバサリと翻し、地図上に並べられたチェスの駒を模した木片を、冷徹な目で見下ろしていた。


そのターバンの奥で光る黒曜石の瞳は、かつてより遥かに深く、底知れぬ魔性を帯びていた。彼女にとって、眼下で繰り広げられる何千、何万の命のやり取りは、完璧に計算された盤面上の数式に過ぎない。


「ザイド、手筈通りに」


マーシャが静かに呟くと同時に、戦場の遥か後方、敵正規軍の補給線で、突如として巨大な火柱が上がった。

 爆発音と共に、食糧や予備の武器を積んだ荷馬車が次々と炎に包まれる。


「な、なんだ!? 後方が燃えているぞ!」

「補給部隊が全滅!? 馬鹿な、いつの間に!」


敵陣営にパニックが走る。

 それは、数年をかけて辺境のドブな中のネズミから最強の諜報部隊長へと這い上がったザイドの傑作であった。彼は数日前から敵の進軍ルートを完璧に読み切り、補給路に可燃性の油を撒き、伏兵を潜ませていたのだ。

 足を止められた正規軍。彼らの定石は、開戦の一撃で粉砕された。


「……次はタリク。鉄の壁を見せてやれ」


マーシャが次の駒を動かす。

 補給を絶たれ、焦燥に駆られた正規軍の重装歩兵団が、捨て身の突撃を敢行する。かつてのファリード軍であれば、その重戦車の如き突撃に粉砕されていただろう。


だが、今のファリード軍の最前列を固めるのは、あのガレブ渓谷で飢えと渇きを凌ぎ、タリクの鉄拳制裁によって鍛え上げられた、元山賊たちの重装歩兵団だ。


「――構えェッ!!」


普段声をあまり発さないタリクの地鳴りのような号令と共に、数千の兵士が一斉に巨大な鉄盾を地面に突き立てた。ガチャァンッ! と、完璧に統制された金属音が平原に響き渡る。

 一糸乱れぬ鉄壁の陣。それはもはや、人間の集団ではなく、一つの巨大な鉄の城壁であった。


ズガァァァンッ!!


正規軍の突撃が、タリクの盾の壁に正面から激突する。

 だが、鉄壁は微じろぎもしない。逆に、突撃の衝撃を受け止めきれなかった正規軍の兵士たちが、自らの勢いで盾に叩きつけられ、次々と圧死していく。

 かつての略奪者たちは、今や世界で最も残酷で、強固な守護者へと変貌を遂げていた。


「……仕上げだ。殿下、行って」


マーシャが最後の駒、白銀の王冠を模した木片を、敵陣の中央へと叩きつけた。


本陣から放たれた一筋の狼煙。

 それを合図に、タリクの鉄壁の陣が左右に割れた。

 そこから現れたのは、全身を鏡面のように磨き上げられた白銀の甲冑で固めた、数千の精鋭騎馬隊。


その先頭を走るのは、数年の歳月を経て、少年から大人の男へと脱皮しつつある、危うい色気と鋭さを孕んだ若き王、ファリードであった。 かつての華奢な肩幅は広く逞しくなり、黄金の髪を風に躍らせるその姿は、未完成ゆえの神々しい美しさと、触れれば怪我をするような鋭利な覇気を放っていた。


かつての華奢な肩幅は広く逞しくなり、黄金の髪を風に躍らせ、金色の瞳には幾千の死線を潜り抜けた冷酷な覇気が宿っている。その姿は、神々しいまでの美しさと、触れれば理性を焼き切られるような、暴力的なまでの魅了を放っていた。もはや、直視することさえ叶わない、極上の毒のような美貌。


「――我らが敵は、玉座を汚す逆賊マレクのみ! 我が槍に続く者たちよ、その命を我に預けよ!!」


その声は、まだ少年の面影を微かに残しながらも、低く響き始めた青年の声であった。

 その声に呼応し、背後の騎馬隊が地鳴りのような咆哮を上げる。


ファリードと、彼の傍らを固める精鋭部隊長カディルが率いる白銀の奔流は、陣形が崩壊し、パニックに陥った正規軍の中央へと、真っ直ぐに雪崩れ込んだ。


それは、まさに蹂躙。

 ファリードが振るう長槍の一撃が、敵兵を甲冑ごと微塵に砕き、カディルの長剣が、敵の将領を瞬時に首と胴を泣き別れにさせる。

 圧倒的な武力、圧倒的な速さ、そして圧倒的な美しさ。

 ファリードの精鋭騎馬隊は、二万の正規軍を、まるで熱したナイフでバターを切り裂くように、残酷かつ美しく食い破り、敵陣を完全に貫通した。


夜が白み始めた頃、平原に残されたのは、二万の正規軍の死体の山と、ほとんど死者も出さずに完全勝利を収めた、ファリード軍の白銀の軍旗だけであった。


小高い丘の上、マーシャは外套の裾を風に躍らせ、鼻で笑って地図を閉じた。


 



――同刻、王都グラナダ、皇帝の居城。


豪奢な香香が漂う玉座の間には、辺境の蹂躙劇とは対極にある、氷のような静寂と、濃厚な死の気配が充満していた。


「……報告しろ。討伐軍は、今どこまで進軍した」


玉座にふんぞり返る叔父マレクは、最高級のワインを満たした銀杯を弄びながら、気だるげに問いかけた。

数年前、兄皇帝を暗殺し、兄王子を暗殺し、甥のファリードを追い落として手に入れた玉座。

だが、その顔には皇帝としての威厳はなく、ただ過去の罪に怯え、猜疑心に苛まれた小悪党の焦燥だけが刻まれていた。


玉座の下、床に額を擦り付けていた伝令の兵が、ガタガタと身体を震わせながら、掠れた声を上げた。


「……ほ、報告いたします。マレク皇帝陛下……っ! ガレブ平原にて、ファリード陣営と激突した討伐軍二万は……」


「……はやく言え。捻り潰したのだろう?」

「――全滅いたしましたッ!! 一人の生き残りも、王都へ戻ることは叶いませんでしたッ!!」


ジャランッ!!!


マレクの手から銀杯が落ち、赤いワインが絨毯の上に、血の池のように広がった。


「……何だと?」

マレクはゆっくりと立ち上がり、信じられないものを見る目で伝令を見下ろした。その顔から一瞬にして血の気が引き、土気色に変わる。


「馬鹿な……っ! たかが数年前、三十人の敗残兵と共に辺境へ逃げた、あの若造だぞ!? なぜ……なぜこれほどの短期間で、二万の正規軍を全滅させる軍を持てるのだ!!」


マレクは狂ったように咆哮し、傍らにあった高級な陶器の壺を壁に叩きつけた。

 破片が飛び散り、家臣たちが恐怖にひれ伏す。


「殿下……いえ、逆賊ファリードの軍は、今や我らの知る辺境の敗残兵ではございません」


玉座の影、暗がりに控えていたマレクの側近が、震える声で補足した。


「奴らの軍は、一糸乱れぬ統制と、我が軍の戦術を完全に先読みした悪魔的なまでの計略を用いております。……そして、そのファリードの背後には、我らの情報網でも素性が一切不明な、一人の男がついているとのこと……」


「男……?」


「はい。年齢も出身も不明。ただ、その者こそが数万の軍を盤上のチェス駒のように動かし、我が軍の定石をすべて読み切り、罠に掛ける……兵たちの間では、畏怖を込めてこう呼ばれております。――『悪魔の軍師』、と」


「『悪魔の軍師』……っ!!」


マレクはその名を口にした瞬間、総毛立つような恐怖を覚えた。

 

 今まで自身が成したこと、それらに対するすべての怨念が、悪夢となって、自分の喉元に牙を向けている。


「……異邦の、小柄な……悪魔め……っ!」


マレクはガタガタと膝を震わせ、崩れ落ちるように玉座に座り込んだ。

 二万の軍を失い、最強の私軍が王都に迫っている。このままでは、自分が玉座から引きずり下ろされ、あの白い絨毯の上に、自分の血が流れることになる。


「……待ちなさい、マレク様」


その時。玉座の間の最奥、カーテンで仕切られた暗がりから、老婆のような、だがひどく澄んだ声が響いた。

 マレクお抱えの占星術師であり、帝国裏の知恵袋とされる、怪しげな老婆だ。


「……『悪魔』には、『神の知恵』をぶつけるのが定石ですわ。……マレク様、貴方が恐れるその『悪魔の軍師』に対抗できる、唯一の『切り札』が、帝国にはまだ眠っております」


「切り札……?」


「はい。……王立アカデミーを首席で卒業し、大帝国の定石をすべて暗記した上で、それを自らの手で書き換えた、若き天才。……その者が描く盤面は、神の如き正確さと、悪魔の如き冷徹さを持った、まさに『絶対的な王道』」


老婆は薄暗がりの中で、裂けた口でニヤリと笑った。


「その者を呼び寄せなさい。……悪魔の軍師が辺境の異端な知略を使うなら、こちらは大帝国の正統なる知略をもって、その盤面ごとすり潰して差し上げましょう。……その者こそが、帝国の、そしてファリード様の宿敵となるでしょう」


マレクの金色の瞳に、仄暗い希望の光が宿った。


「……すぐに、その者をここへ呼べ! どんな報酬でも構わん! あの悪魔を、ファリードを、私の目の前で地獄に突き落とせるなら……ッ!!」


――こうして、王都グラナダにて、もう一人の天才の覚醒が告げられた。

 辺境を蹂躙した泥濘の悪魔マーシャと、大帝国の正統なる知略を継ぐ神の化身の、熾烈を極める知略戦の幕が、今、切って落とされようとしていた。



* * *



王都の防衛線をわずか数里先に睨む、肥沃な大平原。

 かつて三十人から始まった泥舟だった陣営は、今や見渡す限りの地平を埋め尽くす、数万の天幕からなる巨大な軍事都市へと変貌を遂げていた。

 赤と金を基調とした無数の軍旗が、初夏の乾いた風にバタバタと翻る。外からは、大地を揺らす幾万もの軍靴の響きと、槍がぶつかり合う鈍い金属音、そして屈強な兵士たちの地鳴りのような咆哮が絶え間なく響き渡っていた。踏み荒らされた青草の匂いと、むせ返るような鉄と馬の汗の匂いが、この地が紛れもない勝利の地であることを示している。


その巨大な本陣の中心。王族のみが使用を許される、ひときわ豪奢な指示幕舎である天幕の内部には、外の喧騒を遮断するように、分厚く見事なペルシャ絨毯が幾重にも敷き詰められていた。


部屋の中央に置かれた巨大な石机。そこに広げられた大帝国シャジャルの全土図を、マーシャは眉間にシワを寄せて見下ろしていた。

 何万もの命を動かす立場になっても、彼女の姿は三年前と何一つ変わっていない。自身の長い髪を隠す薄汚れたターバンと、華奢な身体をすっぽりと覆い隠すダボついた男物の外套。


「……相変わらず手のかかるヒヨッコだ。こんな平原のど真ん中に陣を敷けば、補給線が伸びきって側背を突かれるだろうが」


マーシャは短剣の切っ先で地図の一部を苛立たしげに叩き、独り言のように悪態をついた。彼女の脳内では、未だにあの重い甲冑に潰されそうになっていた十四歳の少年の姿が基準になっているのだ。


その時。

幕舎の外が、にわかにざわめき立った。


『――殿下のお戻りだ! 道を開けよ!』


怒号のような号令と共に、天幕の周囲を固めていた屈強な近衛兵たちが、息を呑んで一斉にその場に跪く。ガチャリ、と鋼の擦れ合う音が波のように広がっていく。


天幕へと続く真紅の絨毯の上を、”彼”が歩いてくる。

 すれ違う女性たちの反応は、もはや尋常ではない。盆に果実や冷たい葡萄酒を乗せて歩いていた女官や侍女たちは、彼の姿を視界の端に捉えた瞬間、まるで落雷にでも打たれたように足を止め、顔を火のように赤く染めて深く頭を下げる。

 畏怖。だがそれ以上に、直視すれば理性を焼き切られそうになるほどの、暴力的なまでの魅了。彼女たちの震える吐息が、甘い熱となって周囲の空気を溶かしていく。


バサァッ、と。

 分厚い天幕の入り口が乱暴に開かれた。


「……遅いぞ、殿下。右翼の布陣の修正案だが――」


マーシャは手元の地図から一切目を離さず、かつてと同じように低い声で話しかけた。

 だが、返事はなかった。代わりに、背後から音もなく近づいてきた巨大な影が、石机の上の地図と、マーシャの小柄な身体をすっぽりと覆い隠した。


背中から伝わってくる、尋常ではない質量の気配と、戦場の血気を帯びた熱。

 マーシャが怪訝に思って息を吸い込んだ、その瞬間。


「……その布陣には、あえて隙を作ったのだ。敵の右翼を奥まで誘い込み、泥濘に沈めるためにな」


頭上から降ってきたのは、かつての少年の涼やかな声ではない。

 鼓膜の奥を甘く痺れさせ、骨の髄まで響くような、深く、低く、圧倒的な威圧感を孕んだ青年のバリトン。


「ッ……!?」


驚いたマーシャがバッと顔を上げた。

 すぐ目の前。彼女の背丈を遥かに見下ろす位置に、白銀の甲冑を纏った御歳十七になったファリードが立っていた。


かつてマーシャと同じ視線にあった華奢な肩幅は、今や分厚く逞しい大人の骨格へと変貌を遂げている。極上の白絹に金糸で刺繍が施された豪奢な外套を羽織り、血と泥に塗れた実戦用の銀甲冑を着こなすその姿は、息を呑むほど精悍だ。

 だが、何よりも恐ろしいのはその顔立ちである。

 幼さを残していた輪郭は鋭く削ぎ落とされ始めているが、大人の男の逞しさと、少年の繊細さが同居する、今だけの残酷なほど美しい造形を誇っていた。


ファリードは腰を屈め、マーシャの顔を覗き込むようにして至近距離で微笑んだ。 それは、無自覚に漏れ出し始めた大人の色香と、彼女を自身の支配下に置きたいという少年の強引な独占欲が混ざり合った、ひどくアンバランスで危険な笑みだった。


誰もがひれ伏す、完全なる王の姿がそこにある。


「な……」


マーシャが後ずさろうとした隙を、ファリードは与えなかった。

 ガンッ、と重い金属音を立てて、彼の手を覆う銀の籠手が石机の両端を突く。背後は机、左右はファリードの分厚い両腕。マーシャの小柄な身体は、彼の腕の中に完全に閉じ込められた。


「見上げてばかりでは、首が痛くなるだろう。軍師殿」


ファリードは腰を屈め、マーシャの顔を覗き込むようにして至近距離で微笑んだ。

もはや無自覚な少年の笑みではない。自身の女を狂わせる美貌の威力を完璧に計算し、自らが欲する相手に対して意図的に行使する、極めて危険で猛獣の笑みだった。


距離の近さと、かつてとは逆転した圧倒的な体格差。

 マーシャは一瞬だけペースを乱され、ターバンの奥の目をわずかに見開いた。だが、すぐに自身の動揺を悟られまいと、不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「……図体がデカくなったからといって、軍議中に威圧するな。邪魔だ、どけ」

「威圧しているつもりはないさ。お前が小さすぎるだけだ」


低く笑いながらも、ファリードの腕は石机から退かない。

 その時。彼の金色の瞳が、不意に冷ややかな光を帯びて下へと向けられた。

 視線の先にあるのは、机に手をついたマーシャの左手首。かつて採石場で発狂してまで死守し、彼が『秘密』を知ったあの夜も身につけていた――彼女の故郷への切符であるボロボロのミサンガだった。


(……この数万の軍勢も。今、目前に迫っている帝国の玉座も。すべてはお前がその細い手で描いた盤面だ)


ファリードはゆっくりと右手を持ち上げ、革手袋に包まれた指先で、マーシャのターバンの端――その奥にある黒髪に触れるように、そっと撫でた。

 マーシャが「ん?」といぶかしげに首を傾げるが、ファリードの胸の奥底で渦巻く感情は、決して彼女には見えない。


(だが。私がその玉座に座り、王冠を戴いたその瞬間。お前はこの鍵を持って、私の手の届かない世界へと消えてしまうのだろう?)


指先から伝わる彼女の微かな体温。

 それを確認した瞬間、ファリードの金色の瞳が、夜の海のように仄暗く、黒く濁った。


(……ならば。この憎き戦乱すら、永遠に終わらなければいいとさえ思ってしまう。……お前をこの世界に、私の腕の中に、囲っておけるのなら)


「……おい、殿下。聞いてるのか」

「ああ、聞いているとも」


ファリードは完璧な王の笑みを貼り付けたまま、マーシャの細い手首に巻かれたミサンガからゆっくりと視線を上げた。

 盤面を支配しているのは軍師だ。だが、その軍師ごと世界を飲み込もうと、美しき覇王の底知れぬ愛執が、静かに、そして確実に牙を剥き始めていた。



* * *



バサリ、と分厚い天幕の入り口が下ろされ、ファリードの背中が夜の闇へと消えていく。

 彼の足音が完全に遠ざかったことを確認した瞬間。マーシャは張り詰めていた糸が切れたように、石机の上に両手をつき、肺の底に溜まっていた熱い息を長く吐き出した。


(……最近、あのヒヨッコの距離感がおかしい)


マーシャは石机の冷たい感触に額を押し当て、微かに熱を持った自身の頬を無意識に撫でた。

 ほんの三年前まで、彼はいつもマーシャの小柄な背丈に合わせて視線を下げ、教えを乞うような幼い瞳を向けていたはずだ。

 だが、今は違う。大人の骨格を手に入れた彼は、事あるごとに息がかかるほどの至近距離まで距離を詰め、逃げ道を塞ぎ、あの甘く低く響く声で囁きかけてくる。


(……まさか、私が女だと気づいているのか?)


マーシャの脳裏に、氷のような疑念が過る。

 だが、ファリードは決定的な言葉を一度も口にしていない。あれは単に、絶対的な権力者となった彼なりの主君としての威圧なのか。それとも、美しい容姿を自覚した青年特有の、質の悪い、からかいなのか。

 裏社会を生き抜き、向けられる殺意や悪意を読むことにかけては天才的なマーシャだったが、誰からも向けられたことのない好意や執着という感情の読み方だけは、彼女の辞書には存在しなかった。

 ただ、彼のその底なしに綺麗な金色の瞳に見つめられるたびに顔に集まる、自分でも制御できない微かな熱を持て余し、彼女はひどく苛立たしい戸惑いの中にいた。


「……暑苦しい奴だ。さっさと自分の天幕で寝ればいいものを」


マーシャは強引に思考を断ち切り、熱を逃がすように天幕の入り口へと歩み寄った。

 分厚い布を少しだけめくり、外の夜風を顔に受ける。


――そこには、視界を埋め尽くすほどの巨大な陣営の夜の風景が広がっている。 国王軍率いる2万の軍に勝利した後とはいえ、その犠牲は少なく、いつもと変わらないその景色。


数万の兵が駐屯する平原には、夜空の星を地上に引き降ろしたかのような無数の篝火が焚かれている。パチパチと爆ぜる薪の音と、兵士たちの穏やかな笑い声が、夜風に乗って微かに届いてくる。

 三十人の泥舟だった敗残兵の集まりは、この三年という長い歳月を経て、確固たる『国』の縮図へと成長していた。


すぐ近くの諜報部隊の天幕からは、酒を煽る軽快な笑い声が聞こえる。

 数千の密偵を束ねる将軍となったザイドだ。相変わらず女遊びはやめない男だが、今はザルカで出会った気の強い女密偵に耳を引っ張られ、「痛ェ痛ェ! 分かった、今夜はお前の奢りでいいから!」と情けなく笑っている。完全に尻に敷かれているが、その声には、裏社会のドブネズミだった頃にはなかった日常の安らぎが満ちていた。


少し離れた補給部隊の荷馬車のそばでは、防衛の要となった巨漢のタリクが、焚き火の前に丸太のように座っている。

 その隣には、かつて黒岩族の村で彼が矢から庇ったあの小柄な少女の姿があった。立派な看護班員に成長した彼女は、タリクにだけ向けて甲斐甲斐しく手作りの夜食を手渡している。タリクは相変わらず無言だが、大きな手で不器用に彼女の頭を撫で、少女が花が咲いたように笑う。そこには、血の繋がりを超えた確かな父と娘のような絆がある。


また、見張り塔の下では、精鋭部隊を率いるカディルが立っていた。

 彼の傍らには、ザルカから外交武官として出向してきているレイラの姿がある。彼女がふざけてカディルの背中に抱きつこうとし、カディルが「よ、よせ! 兵が見ている!」と顔を真っ赤にして狼狽えている。だが、彼の手は彼女を突き飛ばすことはなく、むしろ彼女が足元の石につまずきそうになった瞬間、誰よりも早くその腰を抱き留めていた。不器用だが、優しくも温かい、大人の逢瀬。


そして、陣営の最奥にある不気味な医療テントでは、医療と毒物を統括する将軍となったイブンが、二年間に出会った異民族の天才薬草術師の女性と、肩を並べて怪しい緑色の煙でも煮詰めているのだろう。「ここはもう少し毒草を足すべきですぞ」「あら、それじゃあ患者が死んじゃうわよ、あなた」と、恐ろしくも気の合う最強の毒物夫婦として、我が物顔で陣営の裏を牛耳っている。


彼らはもう、明日死ぬかもしれない敗残兵ではない。

 新しい役職を得て、それぞれが愛する人や守るべき家族を見つけ、この広大な世界に深く、逞しく「根」を張っているのだ。


「…………」


マーシャは、めくっていた天幕の布を、力なく下ろした。

 バサリ、という音と共に、仲間たちの温かい光景も、笑い声も、すべてが分厚い布の向こう側へと遮断される。

 灯りの少ない本陣の天幕に取り残されたマーシャの胸の奥に、氷のような、冷たい孤独が急速に広がっていった。


(……私だけだ)


マーシャは暗がりの中で、自身の左手首を右手で強く握りしめた。

 そこにあるのは、限界まで擦り切れ、元の色すら分からなくなったボロボロの『ミサンガ』。


軍師として数万の軍を動かし、王の右腕として頂点に上り詰めた。だが、その地位が高くなり、陣営が巨大になればなるほど、彼女は自分だけが何者でもないという事実を無残に突きつけられる。

 性別を偽り、年齢を誤魔化し、冷徹な悪魔の仮面を被って、途方もなく長い時間をこの世界で過ごしてきた。この陣営の誰も、自分と同じ空気を吸い、笑い合っている仲間たちでさえ、自分の本当の素顔も、本当の性別も、そして『ましろ』という本当の名前も知らない。


彼らのことは大好きだ。共に死線を潜り抜けた、大切な仲間だ。

 けれど、自分はこの世界に根を張ることはできない。元の世界に帰る手がかりは依然としてゼロのままで、自身だけがこの広大な世界から、ただ一人完全に取り残されている。


(……帰りたい)


薄暗い天幕の中で、マーシャはボロボロのミサンガを額に押し当てた。 その擦り切れた糸の感触が、狂った世界を生き抜くために意図的に蓋をしていた遠い故郷の記憶を、容赦なく脳裏へと引きずり出す。

鼻を突く血と硝煙の匂いではなく、中学校の帰り道に通った、あの桜並木の青臭い匂いが恋しかった。


胃を荒らす硬い干し肉と泥臭い水ではなく、友達と寄り道したコンビニの温かいおでんや、甘いお菓子の味が無性に恋しかった。 常に誰かの寝首を掻く計算や、何万という他人の命をすり潰す明日の盤面を考えるのではなく。


使い古した自転車のブレーキをキーキーと鳴らしながら、ただ友達と他愛もない恋バナをして笑い合える、あの退屈で、途方もなく安全で愛おしい日常。


自分が血に塗れた「悪魔の軍師」などではなく、ただの『ましろ』という十五歳の少女でいられた、あの優しすぎる世界へ。


(……さみしい)


薄暗い天幕の中。

 今まで、多忙な軍議と、血と戦乱の匂いで誤魔化し、必死に目を背け続けてきた感情。この世界に落ちてからは生きるのに必死で、こんな気持ちを思い起こす余裕なんてなかった。

「帰りたい」「痛い」「誰かに、嘘をついていない本当の自分を抱きしめてほしい。

 そんな、あの日この世界に落ちてきた十五歳の少女のまま凍りついていた弱々しい感情が、限界を超えて決壊しそうになる。


「……っ」


マーシャの黒曜石の瞳から、視界を歪ませる熱いものが込み上げた。

 ぽつり、と。数年ぶりの涙が、石机の上の地図に黒い染みを作ろうとした、その瞬間。


――パァンッ!!!


マーシャは、自身の両頬を、両手で痛いほど強く、弾けるような音を立てて平手打ちした。


「……馬鹿なことを、考えるな」


ひりつくような痛みが、彼女の意識を強制的に冷酷な現実へと引き戻す。

マーシャは暗闇の中、掠れた、獣のような低い声で自分自身を威嚇した。


「私は軍師だ。誰にも弱みを見せるな。……ここで泣けば、私は二度と、一人で立ち上がれなくなる」


マーシャは震える手を腰に伸ばし、師匠ルスランから受け継いだ『双短剣』の冷たい柄を、指の関節が白く抜け落ちるほどに強く握りしめた。

 手のひらに食い込む鋼の痛みが、彼女を冷徹な悪魔の輪郭へと無理やり押し留める。溢れ出そうになった人間としての感情を、泥水と共に心の最奥、分厚い氷の底へと封じ込めた。


「……強くあれ。誰にも心を許すな」


誰もいない、広すぎる天幕の中。

 冷たい石机の前で、自分自身に呪いをかけるように呟く小柄な背中。

 その姿は、数万の軍勢を支配する天才軍師などではなく、ただ暗闇の中で故郷の糸にすがりつく、ひどく痛々しく、孤独な迷子の少女そのものだった。

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