イブンの独り言
ヒッヒッヒ。
人が致死の毒に侵され、苦悶の表情を浮かべる様を観察するのは私の無上の喜びですが……最近、我が陣営には、それよりも遥かに興味深い「毒」が蔓延しておりますな。
ガレブ渓谷を平定し、我らの陣営が数千の規模へと肥大化していくこの一年。
兵だけでなく、将軍たちもまた、この過酷な世界で各々の「根」を張り始めておりました。
例えば、カディルの旦那。あの面白味のない堅物騎士は、ザルカから来た外交武官のレイラ殿と、周囲の兵が赤面するような初々しい逢瀬を重ねております。
そして私自身も、先日の部族平定の折、実に素晴らしい知識を持つ異民族の薬草術師の女と出会いました。彼女との毒草の配合談義は、何時間していても飽きません。
過酷な泥舟だった陣営が、少しずつ家族のような温かな繋がりを持ち、それぞれが自身の居場所を見つけていく中。
ただ一人、時が止まったように変わらない者がおりました。 我らが頭脳、悪魔の軍師・マーシャ殿ですな。私自身、”彼”が何者なのか、どこからきたのか、全く存じ上げません。
常に男物の分厚い外套とターバンで身を隠し、誰にも本性を見せない。その小さな背中は、仲間たちが己の居場所を見つけ、変わっていく様子を、どこか遠くから見つめていることがありました。 それはまるで、分厚いガラスの向こう側から、自分だけがこの世界に取り残されているのを自覚しているような……ひどく寂しげで、孤独な亡霊の瞳でした。
*
そんな折。
軍師殿が先の激戦で肩口に矢を受け、高熱を出して倒れられました。 私が特製の解熱剤を調合し終えた矢先、私の薄暗く異臭の漂う天幕に、人目を忍んで訪ねてきた者がおりました。
我らが主君、ファリード殿下です。
「イブン。……傷跡が一切残らない極上の軟膏と、よく効く解熱剤を出せ。私が直接持っていく」
ヒッヒッヒ……おかしいですな。
殿下はこの一年で急激に背丈が伸び、今や軍師殿の身長をとうに追い越すほどに成長されました。成長期なのか、私の元にも関節の節々がミシミシするとか、骨が痛いとか相談にこられることがありました。
声変わりも始まり、軍議では王としての虚勢を必死に張りながら、見事な獅子へと脱皮しつつある、御年十五歳。
そんな背伸びの真っ只中にある覇王の卵が、なぜ一介の小汚い軍師の天幕へ、自ら傷薬を届けに行くというのか。
「ほほう。それは一体、誰の『柔らかな肌』に使うので?」
私がわざと意地悪く、ニヤニヤと探りを入れると、殿下は微かに白い頬を赤くし、ギリッと奥歯を噛み締められました。
「……貴様には関係ない。出せ」
ヒッヒッヒ、バレバレですな。
軍師殿が「女」であるという秘密を、なぜか殿下だけが知っており、必死に他の男の目から遠ざけようと過保護に立ち回っていることは、私のこの節穴の目にも明らかでした。私は医師です。 ちょっと触れたくらいで、関節の大きさや骨の太さなんかで、性別なんて手に取るように分かります。 逆になぜ、医学に精通していないものはあんなに気づかないものなのか不思議でたまりませんな。 私は薬を渡し、「では、後ほど薬の効き目を確認しに参りますぞ」と恭しく頭を下げました。
*
そして数刻後。
私は軍師殿の天幕へ向かい、その入り口の布の隙間から、実に興味深い光景を『観察』させてもらうことになりました。
薄暗い天幕の中。
殿下は、熱に浮かされて苦しげに息を吐く軍師殿の寝台の傍らに膝をつき、己の手で、彼女の汗を甲斐甲斐しく拭っておりました。 王族の誇りも、昼間見せている威厳ある虚勢もかなぐり捨てた、ただの不器用で必死な少年の顔。
その時です。
高熱で意識が虚ろになっていた軍師殿が、不意に身をよじらせ、小さな唇を動かしました。
多忙と血の匂いで誤魔化し、必死に目を背け続けてきた彼女の深い孤独が、怪我の熱によって決壊したのでしょう。
「……お、かあ……さん……」
それは、普段彼女が気道と首の筋肉を締め付けて作っている、低くしゃがれた少年の声ではありませんでした。
鈴を転がすような、本来の、ひどくか弱く甘い、年相応の少女の声だったのです。
遠い故郷……平和な世界でご両親に看病された記憶でも、夢に見ておられたのでしょう。普段の冷徹な悪魔の仮面が完全に剥がれ落ち、孤独に震え、誰かにすがりつきたいと願う「迷子の少女」の素顔がそこにありました。
「……っ」
そのあまりにも無防備で、切実な少女の声を聞いた瞬間。 殿下の背中が、弾かれたようにビクッと震えました。
「マーシャ……っ」
殿下は、彼女を名前を呼び、痛みに耐えるように顔を歪めました。
彼はおもむろに、軍師殿の熱い小さな両手を、急激に大人の男へと成長しつつある己の大きな手で、逃げ場のない力で痛いほど強く握り込んだのです。
「……もう、お前をどこへも行かせない」
殿下の口から紡がれたのは、熱に浮かされた少女を慰めるような、優しい言葉ではありませんでした。
「お前に帰る場所がないと言うなら……お前の居場所は、私の隣にある。だから、どこへも行くな」
天幕の微かな明かりに照らされた、殿下の金色の瞳。
彼女の小さな両手を握り込む殿下の瞳の中で。 純粋だったはずの初恋の光が、彼女を喪う恐怖によって急速に歪み、どす黒く変色していくのが分かりました。
軍師殿が抱える深い孤独すらも丸ごと喰らい尽くし、弱っている彼女を自らの腕の中に永遠に鎖で縛り付けようとする……若き覇王が初めて知る、愛執という名の恐ろしい猛毒へと。
私は、息を殺してそっと天幕の布を下ろし、その場を離れました。
ヒッヒッヒ。恐ろしいことです。 純粋な少年だったからこそ、たった一滴の猛毒で、ここまで致命的に狂ってしまうとは。
私がどれほど強力な毒草をすり鉢で擦ろうとも、到底敵いませんな。




