外伝2『熱砂の舞姫と、赤面する鋼の騎士』
ギラギラと照りつける太陽が、ガレブ渓谷とザルカを結ぶ交易路の赤茶けた岩肌を白く焼き焦がしていた。
吹き抜ける熱風は、吸い込むたびに喉の奥をザラリと乾燥させ、焦げた土の匂いを運んでくる。
アミーナとの同盟が成立して数週間。ファリード陣営の最初の共同戦線として、ザルカの交易路を荒らす凶悪な砂漠の盗賊団の討伐作戦が決定していた。実質的な、同盟軍としての実力テストである。
前線に設営された薄暗い本陣の天幕。
その分厚い布がバサリとめくられ、熱気と共に、ジャラリと金装飾の擦れ合う軽やかな音が飛び込んできた。
「また会えたわね、堅物騎士さん!」
砂埃の舞う天幕の中に、そこだけ鮮やかな赤い花が咲いたようだった。
ザルカの親衛隊長、レイラである。風をはらむ極上の赤い絹の衣装に、実戦用の鋭い曲刀を帯びた彼女は、艶やかな褐色の肌に汗を光らせながら、真っ直ぐにカディルの元へと歩み寄った。
「なっ……き、貴様! ザルカの指揮官が直接赴いてくるとは聞いておらんぞ!」
カディルの隻眼が限界まで見開かれ、左頬の火傷の痕が一瞬にして朱に染まった。
先日のバルコニーでの一件――彼女に傷跡を撫でられ、「格好良くて信頼できる」と笑いかけられた記憶が、容赦なく彼の脳裏に蘇る。カディルはたまらず一歩後ずさりし、無意味に自身の腰の長剣の柄をギュッと強く握り直した。
「あら、同盟軍の初仕事だもの。私が直接出向くのは当然じゃない?」
レイラは悪戯っぽく目を細め、動揺してガチガチになっている鋼の騎士の顔を、楽しそうに覗き込んだ。
彼女がこれほどまでに、この無骨な男をからかいたくなるのには、明確な理由があった。
レイラが生き抜いてきた独立都市ザルカは、「金が唯一の神」である。
豪商たちが金貨の重さで他者の命を買い、裏切りと打算が日常茶飯事の街。女だてらに親衛隊長にまで上り詰めたレイラは、金や権力に群がり、己の保身のためなら平気で主君の背中から刃を突き立てる、薄汚い男たちを嫌というほど見てきた。
つい数年前も、アミーナに取り入ろうと山のような宝石を貢いできた商人が、その夜の宴の裏で暗殺者に金貨を握らせている現場を、この手で制圧したばかりだ。
『誰も信じるな。信じられるのは己の腕と、金の重さだけよ』
それが、ザルカで生きる彼女の絶対のルールだった。
だが。あの夜、月明かりのバルコニーで出会ったこの男は、どうだ。
『これは名誉ある傷ではない。……守るべき主君を炎から救えなかった、私の不甲斐なさと、拭いきれぬ罪の証だ』
自らの顔の半分を業火に焼かれながらも。損得勘定など一切なく、亡き兄王子への悔恨と、新たな主君であるファリードのために、ただ愚直に泥と炎を被って生きることを選んだ男。
ザルカの金貨の山を前にしても微塵も動じず、ただ主君の背中を守るためだけに剣を磨き続けていたその生真面目すぎるほどの誠実さは、レイラにとって、砂漠で見つけた一雫の清水のように、奇跡のように美しく、眩しく見えたのだ。
「……な、馴れ馴れしくするな! 任務中であるぞ!」
カディルは耳の先まで真っ赤にして怒鳴り、視線をどうにかレイラの赤い衣装から逸らそうと、無駄に首を巡らせている。
「ふふっ、そんなに怒らないでよ。顔が真っ赤よ、暑さのせいかしら?」
レイラがさらに距離を詰めると、彼女から漂う、ザルカ特有の甘くスパイシーな香油の匂いが、天幕の砂埃の匂いを上書きしていく。
カディルは「くっ……」と呻き、たまらず大きく咳払いをして天幕の柱の方へと逃げた。
その光景を、天幕の少し離れた石机の上から、マーシャが干し肉をかじりながら眺めていた。
「……大人の女ってのは強かだな。あの堅物の旦那が、手も足も出ずにタジタジじゃないか」
マーシャは、赤い絹を翻して笑うレイラと、耳まで真っ赤にして狼狽えるカディルを眺めながら、どこか遠い目をして呟いた。
手にした水筒の冷たさが、砂漠の熱を吸って生温くなっている。
「いいな。……ああいう、眩しいのは。私には一生、縁のない春だよ」
茶化すような口調ではあったが、その声には微かな、けれど確かな揺らぎが混じっていた。
ターバンの隙間から覗く黒曜石の瞳が、自分たちとは決定的に違う正当な青春の輝きを、まるでガラス越しの宝物を見つめるように、寂しげに追っている。
その隣で、分厚い地図を睨んでいたファリードの手が、不自然に止まった。
(……今、何を……)
ファリードは地図を見たふりをしたまま、視線だけを横に流した。
そこには、冷徹な悪魔の軍師の仮面がわずかに剥がれ、遠い場所で失ってきた普通の少女の心が零れ落ちたような、脆く、儚い横顔があった。
いつもヒヨッコと自分を揶揄し、泥に塗れた盤面を冷酷に支配するマーシャ。
そんな彼女が、自分には届かない場所にある光に目を細め、胸の奥を震わせている。
(……この軍師殿は、いや、この人は。……こんな風に、笑うのか)
単なる軍師と主君という関係性や、秘密を守るという使命感の奥で。
ファリードの胸の奥に、名前のつかない小さな熱が、トクンと静かに、けれど熱く産声を上げた。
「……何が『縁がない』だ。そんなことは、終わってみなければ分からんだろう」
ファリードは、己の内に芽生えかけた戸惑いを隠すように、ぶっきらぼうに言葉を返した。
「……はは、そうだな。戦場に春なんか、一秒も来ないからな」
マーシャはいつもの不敵な笑みを貼り付け、再び干し肉をかじり始めた。
一瞬の揺らぎは、砂漠の熱風にさらわれて消えていく。
* * *
「――砂漠の盗賊どもは、機動力こそが命よ。風のように動いて側面を突き、掻き回すのが一番の策だわ」
石机を挟んでの軍議が始まると、先ほどまでの甘い空気は一変した。
レイラがシャムシールの柄を叩きながら、強気に盤面の駒を動かす。
「ザルカの軽騎兵なら、砂丘の起伏を利用して敵を翻弄できる。正面からぶつかる必要なんてないわ」
「戯れ言を。砂漠の平原であろうと、陣形が崩れれば一瞬で命取りだ」
カディルが即座に異を唱え、重装歩兵の駒を中央にドンと置いた。顔の赤みは完全に引き、帝国騎士としての冷徹な眼光が戻っている。
「大帝国の誇る重装の盾で、敵の機動力を削ぎ落とし、ジリジリと圧殺する。それが最も確実で被害の少ない定石だ」
「……砂漠の暑さで、その分厚い兜の中まで茹だっているのかしら? 重い鎧を着たまま砂に足を取られて、どうやって馬を追いかけるのよ」
「貴様のその布きれ一枚のような薄着こそ、敵の矢除けにも砂除けにもならんぞ! そもそも軍規というものが――」
二人の視線がバチバチと火花を散らし、天幕の中の温度がさらに数度上がったように錯覚する。戦術論に私情の反発が混ざり合い、一歩も譲る気配がない。
「……うるさい。どっちも極端なんだよ」
沈黙を破ったのは、低くしゃがれた軍師の声だった。
マーシャが石机の上に身を乗り出し、自身の双短剣の切っ先を、地図上の、砂丘と岩場の境界線へと深々と突き立てた。
「レイラ。お前の部隊は囮だ」
「囮?」
「そうだ。得意の機動力で敵の盗賊団の周囲をハエのように飛び回り、執拗にちょっかいを出せ。奴らが苛立って陣形を間延びさせ、お前たちを追いかけてきたところを……」
マーシャは短剣を抜き、今度は窪んだ地形の中央を指し示した。
「この岩場の窪みへと誘い込む。……そこに、カディルの重装部隊が蓋をするんだ」
マーシャの黒曜石の瞳が、獰猛に光る。
「レイラが敵を縦に引き延ばし、カディルがその頭を叩き潰す。両方の長所を完璧に噛み合わせる。……文句はあるか?」
冷徹で、あまりにも合理的な作戦。
レイラとカディルは顔を見合わせ、互いの戦術がパズルのピースのようにはまるのを脳内で理解し、同時に小さく息を吐いた。
「……悪くないわね。むしろ、最高の策だわ」
「……うむ。異存はない。私が確実に、誘い込まれた敵をすり潰そう」
軍議がまとまり、天幕の中に安堵の空気が流れた。
レイラは地図から顔を上げ、石机の向かいに立つカディルへと、ふわりと一歩近づいた。再び、甘い香油の匂いがカディルの鼻腔を掠める。
「そういうわけだから。……私の背中、しっかり守ってよね、堅物騎士さん?」
レイラはカディルの顔を下から覗き込み、右目をパチリと妖艶にウィンクしてみせた。
「な、ななっ……!」
カディルは雷に打たれたように後ずさりし、今度こそ顔面だけでなく首の根元まで朱に染め上げた。指先が微かに震え、視線をどう泳がせていいか分からずに宙を彷徨っている。
「べ、背中どころか! 陣営の露払いから盾の壁まで、大帝国の騎士として完璧にこなしてみせるわ! 貴様こそ、馬から落ちて足手まといになるなよ!」
カディルは裏返りそうな声で、必死に軍規と誇りを盾にしてムキになって吠えた。だが、その言葉の端々に、彼女を絶対に死なせないという不器用すぎる決意が滲み出ているのを、レイラが聞き逃すはずもなかった。
「ふふっ……あははっ! ええ、期待しているわ」
レイラは口元を赤い絹の袖で隠し、クスクスと、心底愛おしそうに笑い声をこぼした。
血の匂いと砂埃が舞う前線基地の天幕に、似つかわしくない甘く柔らかな空気が流れる。
それを見たマーシャは「……やれやれ」と肩をすくめ、ターバンの奥で、先ほどの自分には縁のない春を眩しむような、微かな吐息を音もなくこぼした。
その肩の小さな揺らぎを、隣のファリードは見逃さなかった。
彼は目の前で交わされる男女のやり取りなど完全に視界から外し、ただ静かに、隣に立つ小柄な横顔だけを真っ直ぐに見下ろしていた。
*
白く焼け焦げたような砂漠の太陽が、容赦なくガレブ渓谷の岩肌を炙っていた。
ジリジリと肌を刺す熱気の中、乾いた風が砂埃を巻き上げ、キャラバンを引くラクダの獣臭さと、強烈なスパイスの匂いを運んでくる。
「さあ、来るわよ! 隊列を崩さず、引き付けなさい!」
交易商の荷馬車を装った囮部隊の先頭で、レイラの鋭い声が響き渡った。
彼女が乗る栗毛の馬が砂を蹴り立てる。同時に、陽炎の向こう側から、耳を劈くような奇声と馬蹄の音を響かせ、凶悪な『砂漠の盗賊団』の群れが砂塵を巻き上げて殺到してきた。
「かかったわね、間抜けなネズミども!」
レイラは風をはらむ極上の赤い絹の衣装を翻し、腰に帯びた鋭い曲刀を抜き放った 。
それは、砂漠の過酷な熱風すらも従えるような、変幻自在で美しい死の舞踏だった。彼女が身を沈め、馬の腹を蹴るたびに、銀色の弧を描く刃が敵の喉笛を的確に切り裂いていく。
血の飛沫が赤い絹に同化し、悲鳴が砂漠に吸い込まれる。ザルカの親衛隊長という地位は、決して飾りではない。圧倒的な機動力と手数で、レイラの部隊は倍以上の数を持つ盗賊団を翻弄し、ジリジリと予定の『岩場の窪み』へと誘い込んでいた。
だが、砂漠を根城にする盗賊の首領も、ただの愚か者ではなかった。
「……チッ、風向きが……!」
突如として、盗賊団が意図的に巻き上げた巨大な砂煙が、突風に乗ってレイラの視界を完全に白く濁らせた。
口の中にジャリッとした砂の味が広がり、レイラが思わず目を細めた、その一瞬の死角。
ヒュッ、と。
風切り音よりも静かな、毒蛇の牙のような低い音が鳴った。
「ヒヒィィィィンッ!!」
レイラの股下で、愛馬が悲鳴を上げて前脚を折った。膝の関節に、緑色の粘液が塗られた毒矢が深々と突き刺さっていたのだ。
「きゃっ……!?」
バランスを崩した巨体が砂に沈み込み、レイラの身体は為す術もなく空中に放り出された。
ドスッ、と熱く焼けた砂の上に肩から叩きつけられる。肺の空気が強引に押し出され、視界がチカチカと明滅した。
口内に広がる鉄の味を吐き出しながら、シャムシールを杖にして立ち上がろうとした時。
「……捕まえたぜ、ザルカの雌狐」
砂埃の中から、黄ばんだ歯を剥き出しにした盗賊の首領と、十数人の精鋭たちが、完全にレイラを取り囲むようにして姿を現したのだ。
味方の部隊は砂煙で分断され、助けは来ない。
太陽を背にした首領が、残酷な笑みと共に、分厚く重い蛮刀をゆっくりと高く振り上げた。
(……しまっ、た)
レイラのアーモンド型の瞳に、ギラリと光る死神の刃が映り込む。
回避は間に合わない。全身の血の気が引き、彼女が奥歯を強く噛み締めた、まさに絶対絶命の刹那。
普段の彼女ならば、曲刀を風のように操り、一瞬で敵の喉笛を掻き切っていただろう。だが、毒がじわじわと体温を奪い、視界を歪ませていた。
(……結局、私もここで終わりか。あんな堅物騎士を、少しは信じてみたくなったんだけどな)
レイラは自嘲気味に口角を上げた。迫りくる盗賊の群れと、頭上に振り下ろされる凶刃を前に、毒で動かぬ身体を呪う。
「ザルカの女戦士が、こんな無様な姿を晒すなんて。……笑えない冗談だわ」
死を覚悟し、彼女が目を閉じたその時だった。
「――レイラ殿ォォォッ!!!!」
砂漠の熱気を根底から震わせるような、地鳴りのごとき獣の咆哮が響き渡った。
直後。砂塵の壁を物理的にぶち破り、白銀の甲冑を纏った長身の影が、文字通り『弾丸』のような速度で盗賊たちの包囲網へと突っ込んできた。
ズガァァァァンッ!!!
鼓膜を破るような凄まじい鋼の衝突音。
レイラの脳天を叩き割ろうとしていた首領の蛮刀が、真横から薙ぎ払われた重厚な長剣の一撃によって、火花を散らして無惨に弾き飛ばされる。
衝撃で両腕を痺れさせた首領が、後方へと無様に転げ回った。
「……遅れて申し訳ない! お怪我は!?」
舞い上がる砂埃の中。
レイラの目の前に、岩山のように微動だにしない、広くて分厚い背中が立ち塞がった。
太陽の容赦ない光を完全に遮り、彼女の身体をすっぽりと涼しい日陰で覆い隠す、大帝国最強の盾。カディルである。
「私の背後に回れ! 貴殿には、指一本触れさせん!!」
顔の左半分の火傷の痕を険しく歪ませ、敵を睨みつける鋼の騎士。彼から漂うのは、汗と革、そして手入れされた鉄の混じった、ひどく無骨で真面目な匂いだった。
「カディル、逃げなさい……。私はもう、足手まといよ……」
「馬鹿を言うなッ!」
振り向いたカディルの隻眼には、いつものからかわれる弱々しさは微塵もなかった。
「貴殿の太刀筋は、帝国のどの騎士よりも気高く、美しい。……そのような卑劣な罠に、貴殿の誇りを泥で汚させはしない!」
その、愚直なまでの肯定。ザルカの毒に浸かって生きてきたレイラにとって、汚れなき忠義と誠実さを宿した彼の言葉は、何よりも強く胸を突いた。
レイラの心臓が、肋骨を突き破りそうなほど、ドクンッ!と大きく跳ねる。
『泥と炎の中で主君の盾として立派に生きた証がある男の方が、よっぽど格好良くて信頼できるもの』
かつて月夜のバルコニーで、自分が彼にかけた言葉が脳裏に蘇る。
あの時は、過去の亡霊に囚われた彼をからかいつつ、元気づけようとしただけだった。だが、今、己の命の危機に際して、一切の打算も躊躇いもなく、ただ自分を守るためだけに泥と砂の中に飛び込んできたこの不器用な男の背中が。
ザルカのどんな黄金や宝石よりも、途方もなく眩しく、美しく見えた。
「……ふふっ、本当に、大馬鹿野郎ね」
レイラは、指先の微かな震えが死の恐怖から来るものではないと自覚しながら。
その高鳴る胸の鼓動を誤魔化すように、艶やかな笑い声をこぼして砂から立ち上がった。
震える手で曲刀を握り直し、カディルの背中に自身の背をピタリと預ける。
「私の背中、しっかり守りなさいよ。……鋼の騎士さん?」
瞬間、背中越しにカディルの身体がビクッと硬直したのが伝わってくる。だが、迫り来る敵兵を前に、彼もすぐに帝国騎士としての冷徹な呼吸を取り戻した。
「……好きにしろ。だが、私の間合いから出るな」
「ええ、分かっているわ!」
そこから始まったのは、性格は水と油ほども違う二人の、奇跡のように噛み合った完璧な共闘だった。
「死ねェッ!!」と群がってくる盗賊たちの重い斬撃を、カディルがその堅牢な長剣と体幹で「ガキンッ!」と完璧に弾き返し、敵の体勢を崩す。
そこに生まれた一瞬の死角。カディルの鎧の影から、レイラが蛇のように滑り出し、赤い絹を翻しながら曲刀で敵の喉笛を鮮やかに切り裂いていく。
「右だ、レイラ殿!」
「任せて!」
互いに言葉を交わすまでもない。大帝国の重厚な盾と、砂漠の変幻自在な矛。
圧倒的な武の呼吸が完全にシンクロし、数十人いた精鋭の盗賊たちは、悲鳴を上げる間もなく次々と熱い砂の上に沈んでいった。
やがて、カディルの長剣が首領の太腿を貫き、レイラの曲刀がその首筋にピタリと当てられた時。砂漠の盗賊団の討伐作戦は、完全なる勝利をもって幕を閉じたのであった。
* * *
血と砂煙の匂いが薄れ、夕暮れの涼しい風が渓谷を吹き抜け始めた頃。
本陣の天幕の裏手には、鼻を突くような鋭い薬草の匂いが漂っていた。
「……ふぅ。イブンの特製解毒薬、泥水を煮詰めたみたいに最悪の味だけど、効き目だけは本物ね」
丸太の椅子に腰掛けたレイラは、額に薄っすらと冷や汗をにじませながらも、小さく息を吐いて不敵に笑った。毒矢を受けた脚には分厚い包帯が巻かれている。唇にはまだ微かに青白さが残っていたが、そのアーモンド型の瞳の光は少しも衰えていない。
「無理をして喋るな! 毒が完全に抜けるまでは絶対安静だと、あれほど――」
「少しは黙っていなさいな。無茶して飛び込んでくるから、こんな掠り傷を作るのよ」
カディルの切羽詰まった抗議を鼻で笑いながら、レイラは強引に彼の手首を掴み、己の膝に引き寄せた。そして、彼の右腕にできた掠り傷に、布をきつく巻きつけ始める。
「……っ、い、痛い! レイラ殿、締め付けが強すぎる! 腕が鬱血するぞ!」
「文句が多いわね。毒矢の痛みに比べたら、掠り傷みたいなものじゃない」
文句を言い合いながらも、問題は包帯の強さではなかった。その距離だ。
治療のために身を乗り出したレイラの顔が、カディルの顔からほんの数センチの距離にある。長い睫毛が瞬くたびに、薬草の鋭い匂いをごまかすように漂う、彼女の甘くスパイシーな香油の匂いが、カディルの理性を激しく揺さぶっていた。
「じ、自分でできる! 貴殿は病人なのだから、早く横に――」
「じっとして。巻き終わらないわよ」
カディルは喉仏を大きく上下させ、耳の先どころか首の根元まで真っ赤に茹で上がっている。手足はまるで石像のようにガチガチに硬直しており、視線をどこへ向けていいか分からず、ただ天幕の天井の模様を数える現実逃避を始めていた。
その不器用で分かりやすすぎる動揺に、レイラの胸の奥が再び甘くくすぐられる。
「はい、終わり」
レイラは最後に包帯の端をキュッと結ぶと、わざと顔を近づけたまま、上目遣いでカディルを見つめた。
「……ねえ。私の命を救ってくれたお礼に」
微かに青白い唇が、艶やかな弧を描く。
「今度、任務が落ち着いたら。ザルカの街でデートして、星でも見に行きましょうか?」
極上の微笑みと共に落とされた、直球すぎる誘い。
「なっ……!?」
カディルの口から、声にならない悲鳴が漏れた。
彼はバネ仕掛けの人形のように飛び退き、顔から火を噴きそうな勢いで狼狽えまくった。
「に、任務中に不純な! 私は殿下の盾であり、そのような浮ついた真似など……っ、だ、第一、星などこの荒野でも嫌というほど見えるではないか!」
口から出まかせの言い訳を早口で並べ立てるカディル。
だが、その視線はレイラと合うたびに激しく泳ぎ、腰の剣の柄を無意味に撫で回している。
「あら、そう? 嫌なら、別に他の男を誘うけれど」
レイラがわざとらしく肩をすくめて背を向けようとした、その瞬間。
「い、いや! 待て!」
カディルが慌てて身を乗り出し、絞り出すような、ひどく歯切れの悪い声で呻いた。
「……し、しかし。ザルカの星空が、帝国とどのように違うのか……地形や気候の調査として、一見の価値はあるかもしれん。……うむ、あくまで調査として、だ!」
自分でも何を言っているのか分からないような苦しい言い訳。
だが、その不器用すぎる承諾の言葉に、レイラは「ふふっ」と、心底嬉しそうに、花が咲くような笑みをこぼした。
「ええ、そうね。……楽しみにしているわ、カディル」
* * *
その、あまりにも分かりやすく、そしてむず痒い男女のやり取りを。
少し離れた小高い丘の上から、マーシャは干し肉をかじりながら呆れた目で見下ろしていた。
「……やれやれ、あの堅物の旦那も形無しだな。顔がトマトみたいに真っ赤だ」
彼女はダボついた男物の外套の裾を風に揺らし、ヤレヤレと首を振る。
「星を見るための地形調査ってなんだよ。馬鹿馬鹿しい。私にはあんな意味不明な感情の揺らぎ、一生分からんよ」
自分の恋愛オンチっぷりを完全に棚に上げ、どこまでも他人事として切り捨てる『悪魔の軍師』。
そのすぐ隣で、戦術書を抱えていたファリードは、呆れたように半眼になった。
「お前という奴は……本当に、デリカシーというものが皆無だな」
「なんだと? 私は論理的な事実を言ったまでだぞ、ヒヨッコ」
「ヒヨッコではない!」
むっとしたように言い返すファリードだったが、その金色の瞳は、不満げに干し肉をかじる小柄な軍師の横顔を、どこか複雑な色で見つめていた。
(あんな傷だらけの背中で、誰よりも過酷な世界を生き抜いてきたというのに。……中身は本当に、色恋の欠片もないのだから)
先日、湧水池で偶然知ってしまった彼女の秘密。それを思い出し、ファリードはほんの少しだけ居心地の悪さを感じて視線を逸らした。
自分が女だということすら隠し、血みどろの盤面を描き続ける彼女に、あのような甘い感情が芽生える日など来るのだろうか。
「……まぁいい。カディルには、少し休暇を出してやらないとな」
「そうだな。あの堅物が骨抜きにされて、剣の腕が鈍らなきゃいいが」
ファリードは、呆れ顔のマーシャの小さな背中を見下ろしながら、密かに胸の中で誓いを新たにする。
自分が本当の王になり、彼女がたった一人で背負っているこの世界の重荷を、肩代わりできるその日まで――自分だけは、彼女の盾であり続けようと。
血と砂の匂いが残る荒野の夕暮れ。
若き王と悪魔の軍師は、眼下で繰り広げられる不器用な騎士の恋模様を眺めながら、まだ何の色気もない、けれど確かな信頼の入り交じった軽口を叩き合っていた。




