カディル
大帝国シャジャルの王宮、その広大な鍛錬場。
頭上から降り注ぐ白銀の太陽が、石畳の照り返しとなって肌を容赦なく刺し貫く。
舞い上がる乾いた砂埃が鼻腔を突き、幾重にも重なる木剣の衝突音が、熱気を帯びた空気をビリビリと震わせていた。
「おおっ! さすがは第一王子殿下! 素晴らしい剣捌きです!」
「我らが大帝国の未来は、殿下の剛腕と共にある!」
歓声の中心には、常に彼がいた。
大柄で逞しい体躯を惜しげもなく晒し、ギラギラとした太陽を浴びて引き締まった褐色の肌に汗を光らせる男。
大帝国シャジャルの正統なる第一王子、ラシードである。
カディルは、自身の刃こぼれした木剣に油を染み込ませた布を滑らせながら、その圧倒的な武から目を離せずにいた。
数人がかりで打ち込んでくる屈強な騎士たちを、ラシードは豪快な笑い声と共に次々と薙ぎ払っていく。
その太い腕から繰り出される一撃は、受け止めた者の腕の骨を芯から痺れさせるほどの重さを持っていた。
近衛部隊に配属された初日、王族の豪奢な絹の服など脱ぎ捨て、泥だらけになって一般の兵士たちと剣を打ち合う姿を見た時の衝撃。
『腕はまだまだだが、倒れても決して私の目から視線を外さなかった。その不屈の意志、気に入ったぞ!』
泥の中に転がされたカディルへ、太陽のような笑顔と共に差し伸べられた分厚い手。
あの日から、カディルの忠誠の矢印は、この底抜けに明るく熱を放つ主君へと真っ直ぐに固定されていた。
布を持つ手を止め、カディルはふと、熱狂の渦巻く鍛錬場から遠く離れた、日陰の回廊へと視線を移した。
ひんやりとした石の冷気が漂う暗がり。
そこに、透き通るような白い肌をした十四歳の少年が、一人膝を抱えて分厚い歴史書や戦術の書物に視線を落としていた 。血の繋がったラシードの弟であり、第二王子、ファリード。
太陽の光を編み込んだような白金色の髪。
剣を握る者のそれではない、華奢で傷一つない白い指先。
兄であるラシードがあまりにも強烈な光を放つがゆえに、その対極にある弟君の静けさは、王宮の中でひどく異質に映った。
「……第二王子殿下は、剣の柄より本の重さの方がお似合いだ」
「あれでは戦場には出られまい。兄君の足手まといにならねば良いが」
カディルの背後で、日陰で涼を取っていた数人の家臣たちが、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべながら小声で囁き合っているのが耳に届いた。
『美しすぎる木偶の坊」。
それが、王宮内におけるファリードの暗黙の評価だった。
カディル自身も、言葉にこそ出さないものの、あの華奢な肩で大帝国の血脈を背負えるのかと、無意識のうちに己の長剣の柄を強く握り直してしまうことがあった。
「貴様ら。私の自慢の弟を愚弄することは、この私が許さんぞ」
突如、家臣たちの背後から、地鳴りのような太い声が降ってくる。
カディルが弾かれたように振り返ると、いつの間にか鍛錬を終えたラシードが、泥と汗に塗れた銀の甲冑姿のまま立っていた。その褐色の顔から先ほどまでの笑みは完全に消え失せ、射殺すような鋭い眼光が家臣たちを射抜いている。
「ひっ……! 申し訳ございません、殿下!」
血の気を引かせた家臣たちが、蜘蛛の子を散らすように慌てて退がっていく。ラシードは鼻を鳴らすと、手にした手拭いで無造作に顔の汗を拭いながら、日陰で俯き、細い腕を固く握りしめているファリードの元へと歩み寄った。
カディルは一歩遅れて、その後ろへと無言で付き従う。
「気にするな、ファリード。お前は私と違って頭が良い。その美しい頭脳と優しい心で、文官として不器用な私を支えてくれればいい」
ラシードは、先ほどまで騎士たちを叩き伏せていたその大きく分厚い手で、ファリードの白金色の髪を、まるで壊れ物を扱うように、愛情を込めてぐしゃぐしゃと撫でた。
「……兄上」 ファリードが、顔を上げて兄を見つめる。
その金色の瞳の奥に、兄への強烈なコンプレックスと、それを上回る深い敬愛が揺らいでいるのを、カディルは確かに見た。
「剣を振るい、お前を守る盾になるのは、兄である私の役目だ」
ラシードはニカッと笑い、自身の着ていた豪奢な銀の甲冑の胸板を、ガチン、と力強く叩いてみせた。その重く、頼もしい金属音を聞いた瞬間。カディルの胸の奥で、何かがカチリと音を立ててはまった。
我らが主君は、ただ武勇に優れているだけの男ではない。
あの細く折れそうな弟君の背中を、自らの命を懸けて守り抜こうとしているのだ。
ならば、ファリード殿下は単なる王宮のお荷物ではない。敬愛する第一王子が何よりも大切にしている、大帝国の宝なのだ。
カディルは無意識に姿勢を正し、自身の腰に佩いた長剣の柄にそっと手を添えた。
この大きく温かい太陽と、彼が慈しむ静かな月の両方を、いかなる脅威からも守り抜く。その確かな熱が、若き騎士の血肉へと変わっていった。
*
その強固な誓いが、最も残酷な形で試される日は、その数年後、あまりにも早く訪れた。
先王の崩御から数日。王宮を包んでいた重苦しい喪の静寂は、深夜、突如として放たれた業火と、耳を劈くような反逆の銅鑼の音によって暴力的に引き裂かれた。
叔父マレクによる、玉座の簒奪である。
「逆賊ラシードを討てェッ! 首を持ってきた者には金貨千枚だ!!」
狂気に満ちた反乱兵の怒号が、王宮の回廊にこだまする。
石造りの壁を舐めるように炎が這い上がり、空気を急激に膨張させていた。肺の奥まで入り込む黒煙と、絨毯やタペストリーが焦げる嫌な臭い。そして、すでに何人もの命が散ったことを物語る、むせ返るような血の鉄錆の匂いと肉の焦げる異臭が、美しかった王宮を完全な地獄へと変貌させていた。
「ハァッ……、ハァッ……!」
カディルは、顔にこびりついた敵の返り血を拭う余裕すらなく、長剣を振るい続けていた。
彼の背中には、同じく血と煤に塗れた第一王子、ラシードの分厚い背中がピタリと張り付いている。
「右から三! 凌げるか、カディル!」
「御意ッ!!」
主君と背中合わせの死闘。カディルが洗練された軌道で敵の喉笛を掻き切るのと同時に、背後ではラシードの剛剣が、反乱兵を分厚い鋼の甲冑ごと叩き割る鈍い音が響く。
だが、斬っても斬っても、狂気に駆られた反乱兵の波は途切れることがなかった。
視界の端で、燃え盛る巨大な石柱が轟音と共に崩れ落ち、彼らの退路を完全に塞ぐ。熱風が顔を叩き、酸素が薄れていくのが分かった。
(……ここまでか)
カディルの隻眼に、死の覚悟が宿る。
敬愛する『太陽』と共に、この身を焦がして死ねるのなら本望だ。カディルが己の命を薪にくべるように剣を握り直そうとした、その時だった。
ドンッ、と。
ラシードの強靭な腕が、背後のカディルを力任せに壁の隠し扉の奥へと突き飛ばした。
「なっ……!?」
「カディル。お前の忠義には、心から感謝する」
暗がりに突き飛ばされたカディルが顔を上げると、そこには、隠し通路の奥で震えていたファリードの姿と、通路の入り口を己の巨躯で塞ぐように立つラシードの背中があった。
ラシードは、先ほどまでの豪快な笑みではなく、静かな、すべてを覚悟した王の顔でカディルを見下ろしていた。
「で、殿下!? 何を……私も共に、外で戦います!」
「ならん。私を追うな、カディル」
ラシードは血濡れた銀の甲冑をガシャンと鳴らし、隠し扉のレバーに手をかけた。
「……私の代わりに、ファリードの『盾』となってやってくれ。この国には、あいつの頭脳がいつか必ず必要になる」
「殿下ァッ!!」
ギィィィッ、と。
重い隠し扉が閉まる直前。ラシードは最後に、暗闇で息を殺している弟へと、太陽のように温かい、いつもの笑みを向けた。
「行け! 私の自慢の弟よ!!」
「............兄上っ!!!」
ファリードが涙ながらに叫ぶ。
バタンッ!
扉が完全に閉ざされ、石壁の向こう側から、ラシードの地鳴りのような咆哮が響き渡った。
「我こそは第一王子、ラシード・シャジャル! 逆賊ども、我が首が欲しくば取りに来い!!」
壁越しに聞こえる、凄まじい剣戟の音と、無数の男たちの怒号。
カディルは我を忘れ、狂ったように隠し扉の石壁を素手で叩き続けた。爪が剥がれ、指先から血が滲む。隣でファリードが声も出せずにガタガタと震えていることすら、今の彼には目に入らなかった。
「殿下! 殿下ァァァッ!!」
壁の隙間から漏れ出る炎の明かり。カディルは、そのわずかな隙間から、信じられない光景を目撃してしまった。
数十人という反乱兵に取り囲まれたラシード。彼の分厚い銀の甲冑の隙間を縫って、何十本もの槍が、その誇り高き身体を前後から無慈悲に貫いていたのだ 。
「が……はっ……」
口から大量の鮮血を吐き出しながらも。ラシードは決して膝を突かず、隠し扉の方角――弟が逃げた道へは一歩も敵を通すまいと、その巨躯を仁王立ちにして立ち塞がっていた。
そして、その瞳の光が完全に失われる最後まで、彼は誇り高く前を見据えていたのだ。
『……見ろ! 第一王子を殺したのは、あの弟だ! 兄殺しの逆賊ファリードを逃がすな!!』
マレクの残忍な笑い声と共に、理不尽な汚名が放たれた瞬間。
カディルの中で、何かが完全に壊れた。
「殿下ァァァァァァァッ!!!!」
カディルは理性を失い、獣のような絶叫と共に、無理やり隠し扉をこじ開けた。
顔面に、すべてを焼き尽くすような業火の熱風が直撃する。左側の視界が白く灼け、皮膚がジュッと音を立てて爆ぜる激痛が脳髄を貫いた。
だが、炎に身を焼かれようとも、その先に広がる光景の残酷さに比べれば、どれほどの痛みも取るに足らないものだった。
太陽は、すでに地に墜ちていた。
ー冷たい雨が、頬を激しく打っている。
焦げた肉の臭いと、肺を焼く熱気はすでにない。代わりに、泥水と腐葉土の生臭い匂いが、カディルの鼻腔を塞いでいた。
「……あ……っ」
カディルが泥水の中でゆっくりと目を開けると、顔の左半分から、脳を直接掻き回されるような鋭い激痛が走った。焼け爛れた皮膚が泥と雨水に触れ、呼吸をするたびに首の筋肉が引き攣る。
彼は泥濘を這いつくばりながら、己の腕の中に抱えているものに気づいた。
「……ファリード、殿下……」
雨に打たれ、泥に塗れた白金色の髪。
かつて王宮の回廊で分厚い本を抱えていたその細い腕は、今は亡き兄が遺した銀の甲冑の欠片を、指の関節が白く抜け落ちるほどに強く、強く抱きしめていた。十四歳の少年は、声も出せず、ただ魂が抜け落ちたように虚空を見つめ、小刻みに震え続けている。
(私は……守れなかった)
カディルは、己の無力さを呪い、泥水に顔を埋めて声を殺して泣いた。
あの太陽のように眩しかった主君を、炎の中に置き去りにしてしまった。顔の左半分に刻まれたこの醜い火傷の痕は、己の不甲斐なさに対する、永遠に消えない神からの罰だ。
だが。
カディルの腕の中でガタガタと震え続けるファリードの体温が、彼の凍りつきそうだった魂を、強制的に現世へと引き戻す。
『……どうか私の代わりに、ファリードの盾となってやってくれ』
兄王子の最期の命令が、雨音を掻き消してカディルの鼓膜に蘇る。
大帝国の未来、そして、あの太陽が命に代えても守り抜きたかった、ただ一つの光。そのすべての命運が、今、自分の腕の中で怯えるこの小さな少年に託されたのだ。
「……殿下」
カディルは、焼け爛れた左顔面の激痛に奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛りながら、泥水の中からゆっくりと、だが確かな意思を持って立ち上がった。
雨に濡れた彼の隻眼に、もはや迷いはなかった。
「……恐れることはありません。このカディルが、這いつくばってでも、殿下をお守りいたします」
それは、己の身を焦がした炎の記憶を永遠の戒めとし、かつての太陽が愛した弟を、今度こそ命に代えても守り抜くという血塗られた誓い。
暗く冷たい雨の降る泥濘の中で。
後に大帝国最強と謳われ、若き覇王の不落の城壁となる『焼け焦げた鋼の盾』が、産声を上げた瞬間であった。




