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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
立志編

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立志編 外伝『蒼き狼の来襲と、白馬の王子』

ガレブ渓谷の赤茶けた岩肌を、容赦のない初夏の太陽がジリジリと焦がしていた。


吹き抜ける風は乾ききっており、吸い込むたびに鼻の奥でジャリッと砂の鳴る音がする。

だが、かつて山賊『赤蠍』から奪い取った堅牢な砦の中庭には、以前のような血と臓物の淀んだ臭いはもうない。

代わりに漂っているのは、白亜の独立都市ザルカから運び込まれた極上の干し肉が燻される香ばしい匂いと、樽から漏れ出す芳醇なワインの甘い香りだった。


「ほら、殿下。このサイコロの角をほんの少しだけ削るか、中に鉛を仕込むだけで、出目は思いのままだ。手首のスナップをこう……」

「おお! これはすごいなザイド! ナイフの重心のずらし方も見事だったが、これも魔法のようだ! もう一回やってみせてくれ!」


砦の中庭の片隅。

ひんやりとした石壁の影で、ザルカから届いたばかりのふっくらとした干しぶどうを口に放り込みながら、十四歳のファリードが目を輝かせていた。


かつて王宮の豪奢な絨毯の上で、分厚い歴史や法学書ばかりを読んでいた彼にとって、スラム育ちの密偵であるザイドが披露する、裏社会のいかさま技術は、見るものすべてが新鮮な輝きに満ちていた。


アミーナとの外交戦で見せたあの魔性のような色香はすっかり影を潜め、今の彼は、どこにでもいる好奇心旺盛な少年の顔そのものだ。


「へへっ、いい反応だねぇ殿下。王宮の偉い先生はこんな生きた知識、教えてくれねェだろ?」

ザイドが調子に乗って三つのサイコロを手のひらで転がした、その瞬間。

「ザ、ザイド貴様ァッ!!」

頭上から、雷のような怒号が降ってきた。


ビクッとファリードの肩が跳ね、ザイドの手からサイコロがポロポロと土の上に転がり落ちる。


振り返ると、手入れの行き届いた長剣を腰に佩いたカディルが、顔の左半分の火傷の痕を怒りで赤黒く染め上げ、般若のような形相で立っていた。


「殿下になんという下品な遊びを教えているのだ! 王たる方に、いかさま博打や盗賊のナイフ遊びなど……っ、王室の誇りを泥で汚す気か!!」

「ひぃッ! お堅いねぇ旦那! 戦場じゃあサイコロ一つで命拾いすることだってあるんだぜ!?」

「問答無用! 貴様は少し性根を叩き直してやる、そこへ直れ!!」


ザイドが脱兎のごとく駆け出し、カディルが血相を変えてそれを追い回す。

砂埃を上げて中庭を逃げ回る二人の姿を、ファリードは「あっ、待ってくれカディル、私が頼んだのだ!」と慌てて止めようとするが、全く耳に入っていない。


「ヒッヒッヒ……相変わらず騒がしいですな。罰として、私の特製・激苦薬草ジュースを飲ませましょう。ザルカの市場で仕入れた、三日は舌が痺れる極上品ですぞ」


いつの間にかファリードの背後に立っていたイブンが、怪しく濁った紫色の液体が入った木杯を掲げ、不気味に笑った。鼻を突く、土と腐葉土を煮詰めたような強烈な異臭が漂う。

だが、イブンがその杯を差し出そうとした横から、ヌッと巨大な腕が伸びてきた。

巨漢のタリクである。

彼は無言のままその木杯をひったくると、眉一つ動かさずに紫色の液体を一息で飲み干した。


「なっ……!?」とイブンが目を見張る中、タリクは空になった杯を返し、太い親指をグッと立てて「美味い」と無言の合図を送った。


「あ、あれを美味いと……? 私の毒物知識が根底から覆されそうですぞ……」

イブンが頭を抱えてブツブツと呟き始め、ファリードはたまらず吹き出した。


日陰の特等席。

乱暴に積まれた木箱の上に腰掛け、男物のダボついた外套を羽織ったマーシャは、手元の双短剣の刃を布で拭いながら、そのドタバタ劇を静かに見下ろしていた。

(……やれやれ。どいつもこいつも、手がかかる)マーシャは呆れたように小さく息を吐き出した。


だが、そのターバンの奥の黒曜石の瞳は、決して冷たくはない。刺すような太陽の下で響く、馬鹿馬鹿しくも温かい彼らの笑い声。それは、血にまみれたこの世界で、彼女が確かに見つけた、悪くない居場所の証明だった。


しかし、その平和な時間は、長くは続かなかった。


「……っ、うわぁぁッ! 待て、落ち着け!!」

中庭の反対側から、ファリードの年相応の悲痛な叫び声が上がった。


マーシャが視線を向けると、そこには、気性の荒い巨大な軍馬の背で、手綱にしがみついて振り落とされまいと必死にもがくファリードの姿があった。


アミーナとの同盟により、ザルカから潤沢な資金と武具、そして屈強な軍馬が提供されていた。

だが、温室育ちのファリードにとって、王宮で乗っていたような大人しい観賞用の馬と、戦場の血の匂いを知る荒々しい戦馬は、完全に別の生き物だったのだ。


ヒヒィィィンッ! と馬が前足を高く上げ、いななく。

「ひっ……!」とファリードの顔から血の気が引く。


「いけません殿下! 手綱を引く力が弱すぎます! 覇王たるもの、馬の気迫に負けてどうしますか、自らの意志で馬と一体化せねば!!」


カディルが馬の横を並走しながら、容赦のない熱血指導を飛ばしている。

「無理だカディル! この馬、私の言うことなど微塵も聞く気が……うわっ!」


ガクンと馬が大きく揺れ、ファリードの身体が宙に浮きかける。

マーシャは双短剣を鞘にカチンと納め、呆れ果てて額を押さえた。


「……まったく。外交の天才も、馬の上じゃただのヒヨッコだな」


ドサッ、という鈍い音と共に、ついにファリードが泥の上に無様に転がり落ちた。


「殿下ァッ!!」とカディルが悲鳴を上げて駆け寄る。

痛む腰を押さえながら立ち上がったファリードの白金色の髪は泥だらけで、王の威厳など見る影もない。

マーシャが木箱から飛び降り、彼らに小言の一つでも言ってやろうと歩み寄った、まさにその時だった。


ダダダダダッ!!


砦の入り口から、土埃を巻き上げて一騎の伝令が猛スピードで駆け込んできた。

馬は口から白い泡を吹き、伝令の兵士は転げ落ちるように馬から降りると、血相を変えてファリードたちの前で膝をついた。


「きゅ、急報ゥッ!!」

その切羽詰まった声に、中庭の空気が一瞬にして凍りついた。


乾いた風が、不吉な血の匂いを運んでくる。


「北の平原より、大規模な軍勢がこちらへ向かって急行中! その数、およそ八百! 掲げられている旗印は……っ、北の騎馬民族『蒼き狼』ですッ!!」

「『蒼き狼』だと……!?」


カディルが顔の火傷の痕を険しく歪ませ、ファリードの表情から少年の無邪気さが完全に消え去った。

マーシャの黒曜石の瞳が、冷たく、獰猛な理知の光を帯びる。


『蒼き狼』。

かつて大河のほとりの砦で、マーシャの策により同士討ちの泥濘に沈められた騎馬民族である。彼らが、同胞の復讐、そしてザルカの富で潤っているこの陣営を略奪するために、生き残りの精鋭をかき集めて侵攻してきたのだ。


「敵はすべて騎馬隊! 圧倒的な速さで、明日の朝にはこの渓谷の入り口に到達する見込みです!!」

絶望的な報告。


現在、ファリードの陣営には、周辺の部族から吸収した二千の兵力がいる。数の上では勝っている。だが、そのほとんどは山岳歩兵だ。

広大な平原において、歩兵が圧倒的な機動力と突撃力を持つ騎馬隊と正面からぶつかればどうなるか。


大帝国の定石では、それは完全なる蹂躙を意味していた。

痛いほどの青空の下。先ほどまでの温かい家族の日常は、吹き荒れる砂埃と共に完全に吹き飛び。生存を懸けた、血と泥の盤面が、再び彼らの前に容赦なく敷かれたのであった。



薄暗い砦の石室には、乾いた風が運んでくる砂埃の匂いと、ザルカから届いたばかりの真新しい革武具の匂いが充満していた。

壁に掛けられた松明の炎が、パチパチと爆ぜては赤茶けた石壁に揺れる影を落とす。


「……騎兵の突撃力は、平原においては絶対的な脅威だ。だが、それはあくまで『走り続けている間』の話に過ぎない」


巨大な石机の上に広げられた羊皮紙の地図。その上に置かれた木駒を、マーシャは短剣の柄尻で無造作に弾き飛ばした。

彼女はダボついた外套の袖を捲り上げ、ターバンの奥の黒曜石の瞳をギラリと光らせる。


「足を止めれば、馬はただのデカい的だ。……私の故郷の歴史に、カルタゴの雷光・ハンニバルが用いた『カンナエの戦い』という絶対的な包囲殲滅陣がある。」


机を囲む将軍たちは、その聞き慣れない異国の名に眉をひそめた。

カディルは手元の砥石で自身の長剣をシュッ、シュッと規則正しい音を立てて研ぎながら、険しい顔で地図を見つめている。ザイドは退屈そうに銀貨を指の関節で転がし、タリクは部屋の隅で大きな硬パンを無言で咀嚼していた。


「ザルカから引き出した莫大な資金。それをどう使ったか、お前たちも見たはずだ」

マーシャが顎をしゃくると、カディルが研ぐ手をピタリと止めた。

「ああ。歩兵用の槍にしては、あまりにも長すぎる歪な代物だ。五メートルを超える極端に長いパイクなど、取り回しが悪すぎて一騎打ちでは何の役にも立たん」

「一騎打ちなんざする気はない」


マーシャは鼻で笑い、羊皮紙の上に木炭で凹の形を描いた。


「陣形をあえて、中央が極端に薄い凹字型(U字型)に敷く。最前列の左右の翼には厚く兵を配置し、中央はわざと脆く見せる。……そして、その中央の『最も薄い底』に、殿下と私が囮として陣取る」


その言葉が落ちた瞬間、石室の空気がピキリと凍りついた。

カディルが弾かれたように立ち上がり、腰の椅子がガタンと音を立てて後ろに倒れる。

「馬鹿なことを言うなッ! 殿下を囮にするだと!? 圧倒的な機動力を持つ騎馬隊の突撃を、あのような薄い陣形で受け止められるはずがない! 万が一突破されれば、殿下の命は……っ」

「するんだよ、カディル。敵の『逆賊の王子の首を獲る』という、一番血の気の多い欲を刺激するために」

「貴様という奴は……っ!」


カディルが剣の柄に手をかけ、顔の火傷の痕を怒りで赤黒く染め上げた、その時だった。


「……構わない。私がやる」


静かな、だが石室の空気を一瞬で支配する重い声。

腕を組み、壁際で目を閉じていたファリードが、ゆっくりと瞼を開いた。その金色の瞳には、かつて王宮の回廊で分厚い本を抱えていた怯えた少年の影はない。

彼は自身の腰に佩いた長剣の柄を、剣ダコで分厚くなった手のひらで強く握りしめた。


「で、殿下! いけません、いくらなんでも危険が――」

「私が最も安全な本陣の奥で震えていて、誰がこの泥臭い盤面を信じて命を懸けるというのだ。……盾に隠れるだけの王など、この陣営には必要ない」


ファリードの言葉に、カディルは奥歯をギリッと噛み締め、悔しげに俯いた。

マーシャは意図的にファリードと視線を合わせるのを避け、自身の前髪を無造作に掻き上げた。

「……そういうことだ。殿下と私が中央で敵の突撃を受け止め、ジリジリと後退する。敵は『あと少しで王子の首に手が届く』という欲に駆られ、周りが見えなくなり、U字の奥深くへと完全に食い込んでくる」


マーシャは木炭で、U字の左右の先端を、内側へとギュッと閉じるように線を引いた。


「敵が奥深くまで入り込んだ瞬間。左右の丘の陰に伏せていたタリクの『大盾部隊』と、カディルの『長槍部隊』が、両翼から一気に包囲の蓋を閉じる。五メートルの長槍マケドニアのファランクスは、この密集陣形においてこそ、絶対的な死の壁となる」


ザイドが転がしていた銀貨をパシッと空中で掴み取り、ニヤリと悪党の笑みを浮かべた。

「へへっ……なるほどな。前にも後ろにも横にも進めなくなった馬は、ただの押し合いへし合いの肉団子になるってわけだ」

「そうだ。機動力を奪われた騎兵は、歩兵以下のただの的だ。周囲から五メートルの長槍で一方的にすり潰す」


マーシャは石机に両手をつき、ターバンの奥で獰猛な軍師の顔を作った。

「これが、私の故郷の歴史が証明した最強の包囲殲滅陣。……定石馬鹿の騎馬民族どもに、大帝国の新しい泥の味を教えてやる」


* * *


決戦の朝。

空は憎らしいほどに晴れ渡り、ジリジリと肌を焼く太陽が、広大な平原の乾いた土を熱していた。

風が吹き抜けるたび、枯れ草の匂いと、何百頭もの馬が発する獣の汗の匂いが混ざり合い、鼻腔を突く。


ズズズズズ……ッ。


地平線の彼方から、大地を揺らす地鳴りが迫ってきた。

もうもうと舞い上がる巨大な砂埃の向こうから姿を現したのは、北の騎馬民族『蒼き狼』の精鋭、約八百騎。

彼らは一糸乱れぬ横隊を組み、手には湾曲した鋭い騎兵槍を握りしめ、同胞の復讐に燃える血走った眼で、ファリード陣営を睨みつけていた。


対するファリード軍。

彼らの陣形は、中央が極端に薄く窪んだ、歪な『凹字型』であった。

その最も窪んだ中央の最前列。

ファリードは、ザルカから献上された気性の荒い純白の軍馬の背に跨り、白銀の甲冑を陽光に煌めかせていた。その手綱を握る手には、幾度も振り落とされ、泥まみれになりながらもこの暴馬を押さえ込んだ、血の滲むような努力の痕が刻まれている。

彼が馬の首筋を静かに撫でると、白馬はブルルと鼻を鳴らし、大人しく主君の意思に従った。


「……来るぞ、殿下。舌を噛むなよ」

ファリードのすぐ横、小柄な黒馬に跨ったマーシャが、双短剣の柄を握りしめながら低く呟く。

「誰に言っている。……お前こそ、私の背中から離れるな」

ファリードは前を見据えたまま、微かに唇の端を吊り上げた。


パオォォォォンッ!!

敵陣から、開戦を告げる角笛の音が平原に響き渡った。


『見ろ! 逆賊の王子が、あのような薄っぺらい陣の中央で震えておるわ!』

蒼き狼の部族長が、血に飢えた獣のような哄笑を上げた。

『小賢しい罠を張ろうと、我らの突撃の前にはただの紙切れよ! 中央を突破し、あの白銀の首を獲れェェェッ!!』


ドゴォォォォォォンッ!!!

八百の騎馬隊が、一斉に大地を蹴り立てた。

それはもはや、軍隊の突撃というより、意思を持った巨大な土石流であった。

圧倒的な質量と速度。迫り来る馬蹄の音は耳を劈き、巻き上がる砂塵が太陽の光を遮って、辺りを不気味な薄暗さへと変えていく。


「盾を構えろォッ!! 一歩も引くな、だが踏みとどまるな!!」

マーシャの裂帛の気合が飛ぶ。

中央の歩兵たちが、恐怖で顔を引き攣らせながらも、分厚い木盾を斜めに構えた。


ズガァァァァァンッ!!

凄まじい衝撃音と共に、最前列の盾が粉砕され、何人もの兵士が宙を舞う。

血の飛沫が舞い上がり、馬のいななきと人間の悲鳴が混ざり合う。

「ぐっ……!」

ファリードは白馬の手綱を巧みに操り、敵の騎兵槍の突きを長剣で弾き落とした。腕の骨が痺れるほどの重い一撃。だが、彼の金色の瞳は瞬き一つせず、冷徹に敵の動きを捉え続けていた。


「下がれ! 衝撃を殺せ! 粘りながら後退しろ!!」

マーシャの指示通り、中央の部隊は敵の突撃を真正面から受け止めるのではなく、泥に足を取られるように、ジリジリと、もがきながら後ろへと下がっていく。

敵の騎馬隊からすれば、ファリードの首がすぐ目の前にあるように見える。あと一歩、あと一太刀で届く。その強烈な「欲」が、彼らの視野を極限まで狭めていた。


『逃がすな! 押し込め! 中央を完全に食い破れ!!』

部族長が狂ったように叫び、騎馬隊はファリードを追って、U字の陣形の奥深くへと、雪崩を打って吸い込まれていく。


砂埃と血の匂いが充満する中。

ファリードが剣を振るい、敵の血を浴びながら、背後のマーシャへと鋭く視線を投げた。

「……マーシャ! 敵の尾が、完全に陣の中に入ったぞ!」


マーシャは乱れたターバンの奥で、氷のように冷たく、極悪非道な笑みを浮かべた。

「ご苦労だったな、馬鹿な獣ども。……狩りの時間だ」

マーシャは自身の腰に提げていた合図用の角笛を、空に向かって高らかに吹き鳴らした。


ブォォォォォォォォォォッ!!!


その音を合図に、戦場の空気が一変した。

今まで沈黙を守っていたU字の左右の先端――両翼の丘の陰から、地響きと共に伏兵たちが姿を現したのだ。


「――我らが覇王の御前である!! 蓋を閉じろォォォッ!!」


右翼からは、カディル率いる精鋭部隊。彼らの手には、ザルカの富で鍛え上げられた、五メートルを超える異様な長さの特注槍が、まるで巨大な針鼠のように前方を向いて密集している。

左翼からは、タリク率いる重装盾部隊。彼らは人間の背丈ほどもある巨大な鉄盾を隙間なく並べ、文字通り「動く城壁」となって迫り出した。


『な、なんだと!? 側面から……ッ!』

敵の部族長が異変に気づき、馬首を返そうとした。

だが、遅すぎた。


ガシャンッ!! と、左右から迫り出したタリクの盾とカディルの槍が、U字の入り口で完全に交差し、結合した。

開いていたUの字は、完全に閉じられた『O(檻)』へと変貌を遂げたのだ。


「なっ!? ま、馬が、旋回できない!!」

「前が詰まっている! 押すな、後ろに下がれ!!」


完全に密集した状態のまま、左右と後方を塞がれた八百の騎馬隊。

馬という生き物は、助走がなければその巨体を素早く動かすことはできない。前はファリードたち中央部隊の粘りに阻まれ、後ろは味方の馬の尻。左右からは、巨大な盾と、届くはずもない遠距離から迫り来る五メートルの槍の壁。


「突けェェェッ!!」

カディルの無慈悲な号令と共に、五メートルの長槍が、身動きの取れない騎馬隊の側面へと無数に突き出された。

「ギャァァァァッ!!」

「ヒヒィィィィンッ!!」

馬の肉を貫く嫌な音。騎兵たちが次々と串刺しにされ、落馬していく。倒れた者は、パニックに陥って暴れる味方の馬の蹄によって、無惨に踏み潰されていく。


圧倒的な機動力を持っていたはずの『蒼き狼』は、今や巨大な檻の中に閉じ込められた、ただの巨大な肉の塊と化していた。

剣を振るおうにも、隣の馬と密着しすぎて腕を上げるスペースすらない。

一方的な、そして凄惨極まりない圧殺劇が始まった。


完全に密集した状態のまま、左右と後方を塞がれた八百の騎馬隊。

馬という生き物は、助走がなければその巨体を素早く動かすことはできない。前はファリードたち中央部隊の粘りに阻まれ、後ろは味方の馬の尻。左右からは、巨大な盾と、届くはずもない遠距離から迫り来る五メートルの槍の壁。


「……ば、馬鹿な。我ら誇り高き狼が、このような泥臭い罠に……ッ!」

『蒼き狼』の部族長は絶望の中で血を吐き、周囲ですり潰されていく同胞たちの悲鳴に耳を塞いだ。

だが、追い詰められた獣の瞳に、最後の狂気が宿る。


「ならば、せめて……あの白銀の首だけでもォォォッ!!」


部族長は、自らの部下の馬を蹴り倒して強引に血路を開き、包囲陣の中央で静かに立ち尽くすファリードへ向けて、単騎で猛突撃を仕掛けた。

彼が跨る気性の荒い見事な白馬が、大地を蹴り立てて猛烈な速度で迫り来る。その手に握られた巨大な槍が、ファリードの首を正確に狙って一直線に突き出された。


「殿下、お下がりをッ!!」

カディルが血相を変え、自らの長剣を抜いてファリードの盾になろうと飛び出した。


だが、ファリードは無言のまま片手を上げ、カディルの制止をピタリと制した。

彼は腰に佩いた長剣を静かに抜き放ち、迫り来る巨大な白馬と巨大な槍を前にしても、微塵も動じず、ただ大地に両足を深く根付かせた。

アミーナからの贈り物である軍馬には上手く乗れず、無様に泥の中を転がった彼だが。王宮時代に嫌々ながらも叩き込まれていた最低限の指導に加えて、逃亡中にカディルから叩き込まれた地に足をつけた剣技と、泥を啜って身につけた体幹の強さは、すでに一端の騎士の域に達していた。


ズドォォォォンッ!!

白馬の蹄が、ファリードの目の前の土を蹴り上げる。

巨大な槍の切っ先が、ファリードの白銀の兜を貫こうとした、まさにその刹那。


ファリードは瞬き一つせず、膝のバネを使って重心を極限まで低く落とし、上半身をわずかに捻った。

ヒュッ、と。

槍の穂先がファリードの頬を掠め、白金色の髪を数本断ち切る。最小限の動きによる、完璧な回避。

そして、猛スピードですれ違う瞬間。ファリードの研ぎ澄まされた長剣の峰が、無防備になった部族長の鳩尾を、正確かつ無慈悲に下から打ち抜いた。


「がはッ……!?」

肺の空気をすべて吐き出させられた部族長は、自身の突撃の勢いそのままに馬上から弾き飛ばされ、泥と血に塗れた平原へと無様に叩きつけられた。


ゴシャッ、と鈍い音が響く。

部族長が痛みに呻きながら顔を上げようとした時。彼の喉元にはすでに、ファリードの冷たい剣の切っ先がピタリと突きつけられていた。


「……そこまでだ」


頭上から見下ろす金色の瞳には、一切の熱がない。少年から立ち昇る王の威圧感に気圧され、部族長は震える手から武器を離し、屈辱と共に泥の中に頭を垂れた。

敵将の降伏。檻の中に閉じ込められていた騎馬隊の残党たちも、次々と武器を投げ捨てて泥の中にひれ伏した。


砂埃がゆっくりと晴れていく。

勝利の余韻と共に、平原を吹き抜ける風が、焦げた血の匂いと土埃を運び去っていった。

降伏の対価として、彼らが乗っていた良質な軍馬八百頭は、そっくりそのままファリード軍の戦利品として巻き上げられることとなった。


* * *


戦の熱狂が落ち着き始めた頃。

平原の一角で、ザイドや数人の兵士たちが手を焼いている一頭の馬がいた。

先ほどまで部族長が乗っていた、あの気性の荒い美しい白馬である。主を失い、見知らぬ血の匂いに興奮した白馬は、近づこうとするザイドたちに向かって前足を高く上げ、ヒヒィンッ!と激しくいなないて暴れ回っていた。


「うわッ!? あっぶねェ! こいつ、とんでもなく気性が荒ェぞ!」

ザイドが間一髪で蹄を避け、尻餅をつきながら冷や汗を拭う。

そこへ、長剣の血を布で拭い終えたファリードが、静かな足取りで歩み寄ってきた。


「殿下、危ないっすよ! その馬はまだ――」


ザイドの制止も聞かず、ファリードは白馬の正面に立ち止まった。

威嚇するように鼻息を荒くし、ファリードを睨みつける白馬。

だが、ファリードは王としての威圧感も、先ほどまでの冷徹な覇気もすべて脱ぎ捨て、泥に汚れた分厚い籠手をゆっくりと外した。


剣ダコだらけの白い手を、そっと、警戒する白馬の鼻先へと伸ばす。


「……怖くない。お前は、美しいな」


ファリードの唇からこぼれたのは、命令でも威圧でもない。

ただ純粋に、美しい獣を慈しむような、年相応のキラキラとした無邪気な少年の笑顔。

太陽の光を浴びて輝く白金色の髪と、柔らかな金色の瞳。その声に含まれた絶対的な安心感と温もりに触れ、白馬の耳がピクリと動いた。

フン、と荒かった鼻息が次第に落ち着き、白馬は恐る恐るファリードの手の匂いを嗅ぐと、やがて自らその温かい手のひらへと、すりすりと甘えるように鼻面を押し付けてきたのだ。


「……おお」

周囲の兵士たちが、感嘆の息を漏らす。


「おお……っ。殿下の御威光は、言葉の通じぬ獣にまで届くとは……っ!」

少し離れた場所で、カディルが感動のあまりボロボロと男泣きし、自身のマントの裾で乱暴に涙を拭っていた。

その横で、イブンが「ヒッヒッヒ、馬にも美醜の概念があるとは驚きですな」と怪しく笑い、タリクがウンウンと深く頷いている。


「やれやれ。手のかかるヒヨッコかと思えば、大した王様だ」


血まみれの双短剣を鞘に納め、外套をバサリと翻しながら歩み寄ってきたマーシャが、ターバンの奥で不敵に、そしてこの世界で最も悪辣な笑みを浮かべて宣言した。


「よし。これで圧倒的な機動力も手に入った。これからはあんたがその白馬に乗って先陣を切る、『最強の白銀の騎馬隊』を創るぞ、殿下!」


その輝かしい未来の宣言に、陣営の士気が再び高まろうとした、その時だった。


「……ああ」

ファリードは白馬の柔らかい鼻面を優しく撫でながら、ふと、ひどくバツの悪そうな顔をして、自身の頬をポリポリと掻いた。


「だがその前に、カディル。……もう少しだけ、馬の乗り方を教えてくれないか」


王としての威厳も何もない、ただの馬が苦手な少年の、恥ずかしそうな苦笑い。

その言葉に、一瞬の静寂が落ちた後。


「ブッ……あははははっ! 違いねェ! 殿下、まずは落馬しないところからっすね!!」

ザイドが腹を抱えてゲラゲラと大笑いし、周囲の兵士たちも堪えきれずにドッと笑いの渦に包まれた。


「笑い事ではありませんぞ! 殿下、本日から寝る間も惜しんで乗馬の特訓です! 私が手取り足取り、みっちりと!!」

顔を真っ赤にして息巻くカディルから、ファリードが「いや、寝る間は惜しまないでくれ!」と苦笑いしながら後ずさる。


血と泥に塗れた平原に、彼らの底抜けに明るい、温かい家族の笑い声が響き渡る。

泥舟から始まった彼らの陣営が、大帝国を揺るがす『最強の白銀の騎馬隊』へと変貌を遂げるまでの、騒がしくも愛おしい、希望に満ちた日常の一コマであった。

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