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悪魔の軍師は故郷に帰りたい ~男装して美貌の追放王子を玉座に導いたら、退路を断たれ極上の檻に閉じ込められました~  作者: *しおり*
立志編

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9

赤蠍あかさそりの砦を落としてから一月。


 ガレブ渓谷の勢力図は、音を立てて書き換えられようとしていた。


これまでの辺境は、奪い、奪われるだけの無秩序な暴力が支配する土地だった。だがそこに、一つの新たな秩序が持ち込まれた。


 マーシャが描く、蜘蛛の巣のように緻密で冷徹な包囲網である。


「……報告しろ、ザイド。周辺部族の様子はどうだ」


砦の作戦室。マーシャは黒い外套を翻し、地図を凝視したまま問いかけた。

 窓から差し込む夕陽が、彼女の横顔を鋭く縁取っている。髪は相変わらず汚れたターバンの中に押し込められているが、その立ち姿には、もはや小柄な男と呼ぶには余りある威圧感が漂っていた。


「へへっ、兄貴の狙い通りだぜ。渓谷の主要な『三つの井戸』と、大河へ続く唯一の交易路……そこを俺たちが完璧に封鎖したおかげで、連中は今頃干からびたトカゲみたいになってる」


ザイドが笑いながら報告を続ける。

 マーシャが最初に行ったのは、力攻めではない。渓谷に点在する反抗的な五つの部族に対し、水源を物理的に断ち、商隊の通行を禁じる完全封鎖だった。


「連中は誇り高い部族だ。剣を向ければ死ぬまで戦うが、喉の渇きと、腹を空かせて泣き叫ぶ子供の声には勝てねえ。……そろそろ『果実』が熟した頃だな」


マーシャは視線を上げ、部屋の奥で静かに剣を磨いていたファリードへと向けた。


 具体的にいつとも知れぬが、ファリードはマーシャと目を合わせるたびに不自然に肩を強張らせているのだが、当のマーシャはそれを王族としての重圧だろうと勝手に解釈し、気にも留めずに盤面を動かしていた。


「出番だぞ、殿下。……苦境に陥りたくなければ私の軍門に降れと、寛大に手を差し伸べてやれ」


「……ああ。分かっている」


ファリードは、マーシャの細い首元を直視しないようにわずかに視線を逸らしながら立ち上がり、白銀の鎧を身に纏った。


 かつての見栄えだけの鎧はもうない。傷つき、泥を被り、身体には大きくとも、それでも磨き上げられたその姿には、十四歳の少年とは思えぬ風格が宿り始めていた。


* * *


ガレブ渓谷の最深部、切り立った黒い岩肌に囲まれた黒岩族の村は、鉄の規律と渇きに支配されていた。


 マーシャが敷いた包囲網は、蜘蛛の糸のように細く、そして一度絡まれば逃れられぬほどに強固だった。村へ続く唯一の細道は封鎖され、生命線である地下水脈はマーシャの指示を受けた工作員によって上流でせき止められている。


「……まだ、降らぬか」


包囲から七日目。本陣の天幕で、マーシャは地図から目を離さずに呟いた。


 黒岩族は、辺境でも一際誇り高い戦士の集団だ。渇きに喘ぎながらも、彼らは屈服を選ぶ代わりに、捨て身の反撃を選んだ。


その日の深夜。

 狂ったような咆哮と共に、喉を焼かれた黒岩族の精鋭たちが、夜闇に紛れて死に物狂いの夜襲を仕掛けてきた。狙うは自分たちの命よりも、水だ。


「一人も通すな。鉄の壁となれ」


迎え撃つのは、カディル率いる重装歩兵。

 カディルは長剣を抜き放ち、月光の下で冷徹な号令を下した。盾と盾がぶつかり合い、火花が散る。水を求めて獣のように襲いかかる戦士たちを、カディルの陣形は一歩も引かずに押し返した。


 慈悲はない。ここで綻びを見せれば、包囲は瓦解する。カディルは機械的なまでの正確さで剣を振るい、防衛線を維持し続けた。


その混乱の裏で、影が動いていた。ザイドとイブンである。


「へへっ、旦那が派手に暴れてくれてる間に、仕上げといこうぜ」


ザイドは猫のような身のこなしで村の裏手に潜入し、黒岩族が「最後の希望」として秘匿していた地下食糧庫へと辿り着いた。隣に立つイブンが、不気味に濁った瓶を取り出す。


「軍師殿の注文は『意欲の喪失』でしたな。……ほれ、我が特製の逸品です。これを一滴混ぜれば、三日は腹を下して立ち上がることも叶いませんぞ」


イブンが調合した強力な下剤と食糧を腐敗させる薬が、蓄えられた穀物に振り撒かれた。


 誇りでは腹を満たせない。そして、病に侵された身体では槍も握れない。マーシャの策は、彼らの抵抗する気力を内部から、そして生理的に徹底してへし折っていった。


翌昼。


村の境界付近で小規模な衝突が起きた。

 混乱に乗じて村から逃げ出そうとしたのか、あるいは単なる巻き添えか。逃げ惑う群衆の中に、一人の小柄な少女がいた。


 怯えた村人が放った暴発的な投石、そしてどこからか飛んできた流れ矢が、少女の小さな身体を貫こうとしたその瞬間。


――ガァンッ!!


地響きのような重い音が響き、少女の前に巨大な鉄の壁が立ち塞がった。


 タリクだ。彼は言葉を発することなく、身の丈ほどもある巨大な盾を掲げ、少女を狙った矢を無造作に弾き返した。


砂埃が舞う中、少女は震えながら見上げる。そこには岩山のような巨漢が、感情を読み取らせない仮面のような無表情で立っていた。


 タリクは周囲の喧騒を余所に、腰の携帯袋から一つ、黄金色に熟した果実を取り出した。彼はそれを少女の足元へコトリと置くと、再び巨躯を翻し、何事もなかったかのように元の持ち場へと戻っていった。


 戦火の中、少女の手に残されたのは、甘い香りを放つ一つの希望だった。


包囲から十日目。

 村からは、もはや怒号さえも聞こえなくなった。漂ってくるのは、乾いた土の匂いと、死を待つ者の静寂だけだ。

 本陣の地図を見つめ、マーシャは冷淡に告げた。


「落ちたな。あと三日だ。このまま包囲を続ければ、黒岩族は戦う力すら失い、完全に餓死する。……私たちの被害はゼロ。これが、最も合理的な終局だ」


「……いや。そこまでにしよう、マーシャ」


背後で、銀の甲冑を纏ったファリードが静かに、だが断固とした口調で遮った。

 マーシャは不満げに眉をひそめ、男物の外套を翻して振り返る。


「何を言うんだ、殿下。無傷で敵を全滅させられる絶好の機会だぞ。三日の我慢で済む話だ」


「彼らは将来、私の民となる者たちだ。これ以上の消耗と絶望を強いることは、後々まで消えない呪いをこの地に残すことになる。……私は、死体の山の王になりたいわけではない」


ファリードの金色の瞳には、かつての弱さは見られない。マーシャが提示する合理性を理解した上で、彼は自らの王としての器でそれを書き換えようとしていた。


「カディル、白馬を引け。……私は丸腰で、彼らの元へ行く」


「殿下ッ!? 正気ですか、まだ動ける戦士が潜んでいるかも……!」


「構わない。私を殺したければ殺せばいい。だが、そんな王に従う価値はないと彼らに教えるのも、また王の務めだ」


村の中央広場。

 そこには、生ける屍と化した民たちが力なく横たわっていた。

 そこへ、一騎の白馬に乗ったファリードが、太陽を背負って現れた。白銀の甲冑が、黒い岩肌の中で神々しいまでの光を放つ。


「……ガ、レブの、死神め……っ!」


広場の中心。黒岩族の族長が、震える足で立ち上がり、目を血走らせて槍を構えた。渇ききった喉から絞り出された声は、呪いそのものだった。

 カディルが咄嗟に剣を抜こうとするが、ファリードが鋭い視線でそれを制した。


ファリードは馬を降り、ゆっくりと、無防備な足取りで族長へと近づく。


 族長の槍の切っ先が、ファリードの胸元に触れ、鋭い穂先が銀の甲冑を僅かに削った。だが、ファリードは瞬き一つせず、その槍先を自らの手で優しく脇へと逸らした。


「……苦しかったな」


ファリードはそのまま、地面に倒れ伏していた一人の老婆の傍らに膝をついた。


 彼は自らの腰から上質な水の入った革袋を解くと、老婆の頭を優しく抱き起こし、その唇に、一滴、また一滴と慈雨のような水を含ませた。


「黒岩の民よ。これ以上の争いは無用だ。私は貴様らを滅ぼしに来たのではない。共に立ち上がり、この腐った帝国を正す家族として迎えに来たのだ」


ファリードは立ち上がり、広場を埋め尽くす民衆へと両手を広げた。

 その姿は、あまりにも美しく、そして清廉だった。


「私の軍門に降れ。そうすれば、今日この時から、貴様らの子供が渇きに泣き、親が飢えることは私が決して許さない」


族長の手から、重い槍が音を立てて落ちた。

 彼の目から、枯れ果てていたはずの涙が溢れ出し、砂埃にまみれた地面を濡らす。


「……王よ。我らが、真の王よ……っ!」


一人が膝をつき、二人が頭を垂れる。やがて、数百の部族民全員が、砂埃の中にひれ伏してファリードへの心からの忠誠を誓った。


高台から、その光景を無言で見下ろしていたマーシャは、男物の外套の中で小さく鼻を鳴らした。


(……いい演技だ、殿下。いや、あれはもう、演技じゃねえな)


自らの描いた残酷な盤面を、最後に慈悲という一筆で塗り替えてみせた若き王。


 恐怖で支配し、王の魅力で救済する。この歪で、しかし強固な共犯関係が、ガレブ渓谷という辺境の地を、帝国の喉元を狙う巨大な牙へと変えていく。


「……やれやれ。最悪の効率だが、まあ、軍師冥利に尽きる展開ではあるな」


マーシャは左手首のミサンガにそっと触れた。

 王の背中が、また一回り大きく見える。この少年の歩みがどこまで続くのか、それを最後まで見届けることも、悪くない。

 マーシャは翻した外套の裾を風に躍らせ、次なる盤面、独立都市『ザルカ』へとその意識を向けた。


* * *


赤茶けた岩肌が牙のように突き出すガレブ渓谷。その殺伐とした荒野を抜けた先に、それは突如として現れた。

 陽光を跳ね返し、眩いばかりの輝きを放つ大理石の「白亜の城壁。独立都市ザルカである。


一歩城門をくぐれば、そこは別世界。

 渓谷の砂埃を完全に遮断する石畳の路地。両脇には極彩色の絹の天幕が張られ、空気には濃厚な香辛料の刺激と、高級な香水の甘い匂いが充満している。巨大なバザールには、大陸中の珍品が並び、商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。


「へへっ、すげェや。ここじゃ銀貨一枚で、故郷じゃ見たこともねェようなご馳走が食えるぜ」


ザイドが目を皿のようにして、通り過ぎる侍女や絹の服を纏った女たちを追いかけている。

 しかし、マーシャは浮き足立つ仲間に釘を刺すように、男物の外套を翻して冷たく告げた。


「浮かれるな、ザイド。ここは『金』が唯一の神である土地だ。大帝国の正規軍すら賄賂一枚で追い返す商人ギルドの巣窟だぞ。……下調べは済んだのか?」


「もちろんだぜ、兄貴。……この街を牛耳る女領主アミーナ、通称『北の未亡人』。とんでもねェ傑物だ」


ザイドは声を潜め、歩きながら路地裏で仕入れた噂を並べ立てた。


 アミーナは元々、ザルカの大商人に美貌を買われて嫁いだ「籠の鳥」に過ぎなかった。だが、彼女は夫が不審な死を遂げた後、泣き崩れるどころか、その莫大な遺産を瞬時に掌握。自分を操ろうとした老商たちを、私抱の傭兵団を使って一夜で粛清し、今の地位を築いたのだという。


「金と権力を手に入れ、逆らう男をすべて踏み潰した結果、彼女は今、強烈な『退屈』に苛まれているらしい。自分の金に群がる小悪党ばかりの毎日に飽き飽きして、何かこう、度肝を抜くような『刺激』を求めてるんだとよ」


その報告を聞き、マーシャの黒曜石の瞳が鋭く光った。


「……なるほど。『退屈』か。それはこの世で最も贅沢で、そして最も危険な病だな」


マーシャは視線を隣のファリードへと向けた。


 今日のファリードは、泥にまみれた実戦的な革鎧を脱ぎ捨て、かつて王宮で纏っていたような、白銀の刺繍が施された白絹の礼服に身を包んでいた。マーシャが「最も美しい格好で行け」と命じた結果だ。


 ターバンで隠していた白金色の髪は丁寧に整えられ、月光のように涼やかな輝きを放っている。


「……マーシャ。先ほどから、なぜ私をそんな値踏みするような目で見る」


ファリードが不快そうに眉をひそめたが、その背後から雷のような怒声が響いた。


「当然だ! 異邦人、貴様……正気かッ!?」


カディルだった。彼は顔の火傷の痕を怒りで赤黒く染め、今にもマーシャの胸ぐらを掴みかねない勢いで詰め寄ってきた。


「殿下はシャジャルの正当なる王族だぞ! その高貴なるお方を、あのような毒婦への『色仕掛け』に使おうというのか! これは王家の威光を、そして死せる兄王子への不敬をこれ以上ないほどに汚す行為だ!!」


カディルの異常なまでの拒絶。彼にとって、ファリードを「美貌」という武器として使うことは、守り抜くと誓った王子の清廉さを泥で汚すことと同義だった。


だが、マーシャは双短剣を鞘に納める音を響かせ、氷のような冷徹さで言い放った。


「誇りで街が買えるなら苦労はしねえ。……死にたくないんだろう、カディル?」


「……何だと?」


「あんたが守りたいのは『殿下の誇り』か、それとも『殿下の命』か、どっちだ。ザルカのアミーナは、あらゆる美酒と宝石を食らい尽くした女だ。そんな奴の心を動かすには、理論も武力も通用しない。……あるのは、感情の揺らぎだけだ」


マーシャは馬を寄せ、ファリードの耳元で低く囁いた。その距離に、ファリードの心臓が不自然に跳ねる。


「いいか、殿下。あんたのその、女を狂わせる美貌。……それを、戦略兵器として使え」


「……ッ」


「微笑め。瞳を合わせ、相手が『この少年のためなら、街を売ってもいい』と錯覚するまで魅了しろ。あんたの顔は、三百本の長槍より価値があるんだ。いいな、使えるものはすべて使え。あんたのその外見すらもな」


マーシャの突き放すような言葉に、ファリードは屈辱で頬を赤く染め、唇を噛み締めた。

 だが、彼はもう知っていた。自分が綺麗なままの王子でいられる時間は、あの雨の夜、毒の杯を煽ろうとした時に終わったのだということを。


「……分かっている。やるさ」


ファリードは震える手を強く握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「私は……王座のために、自分のすべてを売る覚悟はできている」


カディルが絶望的な溜息をついて項垂れる中、マーシャは満足げに唇を吊り上げた。

 白亜の城壁が、彼らの前に高くそびえ立っている。

 知略という毒を呑み、美貌という武器を掲げた少年の最初の外交戦が、今、幕を開けた。



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