第6話 はい! 私、スイです
レインはもう一度、大きく息を吐いた。
頭は未だ混乱したままだ。けれど、このまま黙って見つめ合っていても何も進まない。
目の前の少女は、さっきからずっとおどおどしている。逃げるでもなく、襲いかかるでもなく、ただ困ったように肩をすぼめているだけだ。
「……分かった。いや、分かってないけど、分かったことにする」
自分でも何を言っているのか怪しかったが、少女はこくりと小さく頷いた。どうやら、責められてはいないらしい、と受け取ったようだ。
「とりあえず、落ち着こう。俺も落ち着くから、君も落ち着いてくれ」
「はい」
返事は素直だった。
素直すぎて、かえって調子が狂う。
レインは額を押さえたまま、視線だけを少女へ戻す。
「……で、お前は、いつからここにいたんだ?」
少女はきょとんとして、それから「いつから……」と小さく繰り返した。
少し考え込むように首をかしげる。
「よく覚えてないです。たぶん、ちょっと前からですね」
てへへ、とでも言いたげに、困ったような笑みを浮かべる。
あまりにも気の抜けた返事に、レインは思わず脱力した。
「そ、そうか……」
「す、すみません。頭、スライムなので」
「いや、まあ……うん」
どうやら記憶そのものが曖昧らしい。元がスライムなら、そこは仕方ないのかもしれない。
レインはひとつ咳払いをして、次の質問を投げた。
「食事とかはどうしてた?」
「えと、水は外の池から」
「池?」
「あ、一度落ちて死にかけかけたのを思い出しました」
少女はぷるぷると肩を震わせた。怖かったのだろうか。見た目は人間の少女なのに、反応の端々がやっぱり少しスライムっぽい。
「……死にかけた、のか」
「はい。必死にもがいて、でもダメで。最終的に諦めてぷかっと浮いてたら、なんとか戻ってこれました」
「そ、それは良かったな……」
よく分からない生命力に、レインは軽く頭を抱えたくなった。
「あとは、木の実や、たまには小さな動物を獲ったりしましたよ!」
「お、お前に捕まる動物がいるのか!?」
思わず身を乗り出してしまう。
昨日の様子を思い出しても、あの遅さだ。逃げるにしても近づくにしても、あれでどうやって獲物を取るというのか。
少女は少しむっとしたように頬をふくらませた。
「い、いますよ! すごい弱ってるのが、たまにいるんです」
「お、おぅ……」
それはもう狩りと言っていいのか微妙だったが、本人は少し誇らしげだったので、レインはひとまず突っ込まないことにした。
「あっ、信じてませんね! 私だってその気になれば」
そう言って、少女は勢いよく立ちあがろうとした。
そして足をもたつかせて転ぶ。
「っ……きゃ!」
「おいっ、危ない!」
反射的に手を伸ばし、少女の肩と腕を支える。ぐに、と柔らかい感触が手のひらに伝わった。見た目どおりというべきか、やはり普通の人間より少し弾力がある。
少女の水色の髪がふわりと揺れて、朝の淡い匂いと、どこか水みたいなひんやりした気配がした。
目と目が間近に迫る。
ち、近い!
レインは一瞬で顔が熱くなるのを感じた。
「だ、大丈夫か!?」
「す、すみませ……っ」
「いや、謝らなくていい!」
ほとんど反射で言い返し、レインは慌てて半歩だけ距離を取った。
少女もまた、支えられたまま目をぱちぱちさせている。自分が転びかけたことより、レインの方がよほど動揺しているのが分かるからか、逆に戸惑っているようだった。
「えっと……その……足、慣れないのか?」
「はい……こんなの、初めてで……」
「そりゃそうだろうな……」
スライムだったのなら当然だ。
二本足で立つなんて、昨日までは必要なかったはずだ。そう考えると、慣れないのも無理はない。
レインは手を離しつつ、できるだけ平静を装った。
「悪かった、無理に立たなくていい。座っててくれ」
「は、はい……」
少女はぺたん、と元の場所へ座り直した。今度は転ばないよう慎重に。やっぱりどこか、人間の動きにまだ慣れていないらしい。
その様子を見て、レインはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……なぁ、今まで他に人間は来たか?」
「いえ……多分、来てないと思います。もし出会っていたら、私なんか踏み潰されているはずなので」
そうか、とレインは短く息を吐いた。
人は来ない。
それもそうだろう。ここは街道から少し外れているし、わざわざ立ち寄る理由もない。
何にせよ、今の状況にはありがたい話だった。
レインは部屋の中を見回した。
崩れかけてはいるが、壁も屋根もまだ残っている。窓の隙間を塞いで、床を片づければ、もう少しはまともに暮らせそうだ。
少なくとも、家賃を心配する必要は無い。
「……なぁ、良かったら二人でこの家を直さないか? 住めなくはなさそうだ」
「え、一緒に居てくれるんですか?」
少女は、目をぱちくりさせた。
驚きと、信じられないものを見たような色が、そのまま顔に出ている。
「あぁ」
レインは頷いた。
「お前がそうなったのは、多分俺のせいだ。責任は取る。その代わり、ここを使わせてくれ」
「も、勿論です」
ぱっと表情が明るくなる。
嬉しそうに、少女は肩をフルフルと震わせる。やっぱりそのあたりは、まだどこかスライムらしい。
その反応が妙に素直で、レインは少しだけ気恥ずかしくなった。責任を取る、なんて格好いい言い方をしたが、要するに自分も行く当てがないだけだ。
「それじゃ、早速だが。お前の名前は?」
「名前……ですか? スライムです」
「それは種族だ」
思わず即答してしまう。
「俺は人間だけど、レインと呼ばれてる。個体を識別するための呼び名だ。無いと不便だろう」
「個体を……識別する……」
少女は難しい話でも聞いたみたいな顔で、もごもごと口の中で繰り返した。
「あの、レインさんの名前は、どうやって決めたんですか?」
「親が決めた。そういうものだ」
「そうなんですか。じゃあ……私の名前はレインさんが決めてください!」
期待のこもった、屈託のない笑顔だった。
レインは思わず言葉に詰まる。
ま、まさか、親にもなってないのに他人の名前を決めることになるとは。
しかも本人は完全にそのつもりらしく、にこにことこちらを見ている。急かしているわけではないのに、待っているのがありありと分かる顔だった。
「いや、そんな簡単に言われても……」
頭をかきながら、レインは少女を見た。
水色がかった髪。透き通るような肌。人の形をしているのに、どこか液体みたいにやわらかい雰囲気。昨日まで小さなスライムだった名残が、まだ妙に残っている。
それから窓の外へ目を向ける。
朝の光を受けた廃村の向こうで、小さな池がきらりと光っていた。さっき彼女が話していた、水を汲んでいたという池だろう。
「……スイ、でどうだ」
「スイ?」
少女がこてんと首を傾げる。
「“スライム”から取ったのと、遠くの国で“水”を表す言葉だ。お前、見た目もそんな感じだし」
「スイ……」
少女はその名前を口の中で転がすように、そっと繰り返した。
それから、ぱっと顔を輝かせる。
「はい! 私、スイです」
「本当に、いいのか?」
「はい!」
元気よく頷いて、スイはまた嬉しそうに体を揺らした。
自分の名前を持つことがそんなに嬉しいのか、とレインは少しだけ驚く。けれど、考えてみれば当然かもしれない。今この瞬間まで、彼女はただの“スライム”でしかなかったのだ。
群れの中の一匹でもなく、誰かに呼ばれる存在でもなく、ただそこにいるだけの生き物。
そんな彼女が初めて、自分だけの呼び名を手に入れた。
「……スイ、か。えへへ……」
照れたように笑うスイを見て、レインはようやく少しだけ、この状況を現実として受け入えられた気がした。
廃村の崩れかけた家。昨日までスライムだった少女。行き場のない自分。
まともじゃないことばかりだ。
けれど、これも悪くないかもしれない──と、ほんの少しだけ思った。




