第5話 魔物と共に生きる道をくれてやる
翌朝、最初に意識へ浮かんだのは、やけに近い気配だった。
浅い眠りの底から引き上げられるように目を開けて、レインはしばらく瞬きを繰り返した。
見慣れない天井。軋んだ梁。割れた窓から差し込む朝の光。そこでようやく、自分が廃村の崩れかけた家で寝ていたことを思い出す。
そして、その視界の端に──人影があった。
「…………」
頭が働くより先に、体が固まった。
毛布のすぐ向こう。手を伸ばせば届きそうな距離に、見知らぬ少女がちょこんと座っていた。
水色がかった髪は、朝の光を受けて半透明にきらめいている。年の頃は十歳そこそこだろうか。纏う空気はどこか幼く、おどおどとしていた。薄いレースのような衣服に身を包み、膝を抱えるように小さくなっている。
そして何より、その大きな瞳が、ひどく気まずそうにこちらを見ていた。
「な……」
声が裏返った。
「な、なんで女の子が……?」
飛び起きかけて、毛布に足を取られ、危うく転がりそうになる。慌てて体を起こし、レインは後ずさった。寝起きの鈍い頭が必死に状況を整理しようとするが、うまく噛み合わない。
誰だ。
村人か?
いや、この村には人の気配なんてまったくなかったはずだ。昨日、自分は確かに一人でこの家へ入り、寝床を作って──
「だ、だれ?」
ようやく絞り出した問いに、少女の肩がびくりと震えた。
「あ……えっと……その……」
か細い声だった。怯えているのが一目で分かる。だが逃げようとはしない。ただ申し訳なさそうに身を縮めて、少女は視線を泳がせた。
「お、驚かせてごめんなさい」
「いや、そりゃ驚くけど!」
「でも、昨日から居ましたし……」
「昨日から?」
レインは思わず繰り返した。
いたか? こんな子が?
いや、いない。いたら気づく。気づかないはずがない。こんな狭い家の中だ。人ひとりいたなら、寝る前に絶対に分かったはずだ。
そこまで考えて、ふと部屋の隅を見る。
昨日、小さなスライムがいた場所。
そこにはもう、あの半透明の小さな塊はなかった。
「……まさか」
少女もまた、つられるようにそちらを見て、それからおそるおそる自分の胸元を指さした。
「あの……はい、そうです」
「昨日の?」
「す、スライム……です……」
今度こそ、レインの思考が止まった。
「…………は?」
間の抜けた声が漏れる。
少女はますます小さくなる。自分でも信じがたいことを口にしている、という自覚はあるらしい。けれど嘘をついているようにも見えなかった。
「えっと……夜の途中から、こう……なって……」
「え? 勝手にってことか? 自分でやったんじゃなく?」
「その……気づいたら……」
言いながら、少女はおろおろと自分の髪に触れ、腕を見て、足元を見下ろした。どうやら本人も、この変化をうまく呑み込めていないらしい。
レインは口を開き、閉じた。
視線が、少女の水色の髪へ向く。透き通った質感。薄く透けるような服。どこかゼリーみたいにやわらかそうな輪郭。言われてみれば、元のスライムの面影がある──ような、ないような。
「いや、でも……」
こんな事、あるわけがない。
そう言いかけて、思考が止まる。
頭の奥に、不意に懐かしくも胡散臭い声が蘇った。
『──お前には、魔物と共に生きる道をくれてやる』
あのときは夢でも見たのだと思っていた。森で迷い、妙な女に会って、わけの分からないことを言われた。おとぎ話や伝説、そんなものを本気で信じるほど、レインはおめでたい性格ではない。
けれど、目の前の現実はどうだ。
昨日まで小さなスライムだったはずの存在が、今は少女の姿でおどおどと座っている。
「……いや、ちょっと待て」
レインは頭を押さえた。
「なんでそうなるんだ」
呻くように言うと、少女はしゅんと肩を落とした。
「す、すみません……。分かりません」
「いや、君が謝ることじゃないんだけど……」
そう返しながらも、レイン自身も何にどう言えばいいのか分からない。
少女はまだ不安そうにこちらを見ている。逃げ出したいのに逃げ方が分からないような、そんな顔だった。
その表情を見て、レインは一度深く息を吐いた。
混乱はしている。しているが、少なくともこの子は自分を害そうとしているわけではないらしい。昨夜の小さなスライムと同じように、ただ所在なさげにそこにいるだけだ。
「……本当に、昨日のスライムなのか?」
「た、たぶん……」
「たぶん?」
「昨日のことは、ちゃんと覚えてます。パンをもらって……ここにいていいって言ってもらって……それで……」
少女は言葉を探すように少し俯き、それから小さく続けた。
「気付いたら、こうなってました」
どうやら説明はそれで全部らしい。
レインはしばらく黙ったまま少女を見つめ、それから天井を仰いだ。
理解は追いつかない。追いつかないが、否定もできない。現に目の前にいるのだ。
「……マジか。あの女、本気だったんだな。何が祝福だよ……」
ぽつりと漏らした独り言に、少女がきょとんと首を傾げる。
「え?」
「いや、こっちの話」
レインは顔を覆い、そのまましばらく固まった。
朝の光は容赦なく部屋に差し込み、目の前には見知らぬ──いや、見知らぬでもないらしい少女が一人。しかも本人も状況を理解していない。
頭痛がしてきそうだった。
けれど同時に、泣きそうな顔で座っている彼女を放り出せない自分も、よく知っていた。




