第4話 一晩だけ、一緒させてもらっていいか
レインはしばらく考え、それから諦めたように肩の力を抜いた。
「……すまない。俺も行き場がなくてな」
もちろん、返事はない。
それでも構わず、レインは背負い袋を引き寄せた。
中を探り、手持ちの食料から少し硬くなったパンを一つ取り出す。この先の分まで考えれば、物資はそう潤沢ではない。だが、この家を先に使っていたのはどう考えても自分ではなく、この小さなスライムの方だ。
そっと、スライムから少し離れた床にパンを置いた。
「家賃代わり……って言うのも変か。とにかく、一晩だけ、一緒させてもらっていいか」
我ながら、何を言っているのだろうと思う。
相手はただのスライムだ。言葉を理解しているはずもないし、こちらの事情に興味があるとも思えない。
けれど、追い払う気にもなれなかった。
レインがそっと身を引くと、スライムはまだ警戒しているのか、その場でぷるぷると震えていた。半透明の小さな体が、夕暮れの残り光を受けて微かに揺れる。
しばらくして、そろそろとパンに近づいてくる。
逃げるときと同じで、ひどく遅い。
だが、その慎重さがかえって可笑しくて、レインは少しだけ口元を緩めた。
スライムは何度か止まりながらパンの前までたどり着くと、つつくように体の先端を触れさせた。次の瞬間、ぱふ、と包み込むようにしてパンを取り込む。
「食べるんだな、パン」
ぽつりと呟く。
腹が減っていたのかもしれない。ずいぶん迷った末ではあったが、食いつき自体は悪くなかった。小さな体の中にパンの形がぼんやり見えて、少しだけ間抜けだ。
おそらく、あの大きさなら消化するのに一晩はかかるだろう。少なくとも、今夜のうちに飛びかかってくるような元気はなさそうだった。
「……それなら、こっちも安心して寝られるか」
言いながら、レインは部屋の中を改めて見回した。
壁際に積もった枯れ葉を足で寄せ、割れた木片や石を端へ除ける。床板は多少軋むが、体を横たえるくらいなら問題ない。背負い袋から薄い毛布を引っ張り出し、できるだけ風の入らない場所へ敷いた。
それだけの簡素な寝床でも、野宿に比べればずっとましだ。
戸口も確認する。歪んではいるが、内側から立てかけておけば、多少は気休めになるだろう。レインは近くに落ちていた板を拾い、戸に添えるように立てた。
窓の隙間から吹き込む風は冷たいが、耐えられないほどではない。
最低限、今夜はここで眠れそうだった。
ようやく一息ついて、その場に腰を下ろす。
部屋の隅では、スライムがまだパンを抱え込んでいた。いや、抱えているというか、取り込んだままじっとしている。単に動かないのか、それとも消化に集中しているのか、さっきまでよりさらに動きが鈍い。
「飯を食うだけで一苦労なんだな……」
そう呟いて、レインは靴を脱ぎ、毛布の上に横になった。
体が床に触れた途端、思った以上に疲れていたことを知る。街を出てからずっと張っていた気が、ようやく緩み始めていた。肩も脚も重い。瞼までじわりと熱を帯びる。
けれど、眠る前にもう一度だけ、レインは部屋の隅を見た。
スライムは相変わらず小さく丸まるようにして、じっとしている。
「……悪く思うなよ。明日になったら、掃除でも手伝うから」
返事はない。
それでも、さっきよりはほんの少しだけ、同じ部屋にいても気まずくない気がした。
レインは目を閉じた。
崩れかけた家の隙間を風が抜ける音と、遠くで草の擦れる微かな気配だけが耳に残る。
明日のことは、明日考えればいい。
そう思ったところで、意識はゆっくりと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
レインの寝息が、ゆっくりと静かなものに変わる頃。
部屋の隅でじっとしていた小さなスライムが、わずかに揺れた。
体内には、まだ食べかけのパンが包み込まれている。久々に手に入れた獲物だ。普通の魔物なら、食料を確保した時点で物陰に籠もり、外敵を警戒してじっとやり過ごすところだろう。
けれど、その小さなスライムは、そんな様子がなかった。
もちろん、寝入った人間に襲いかかるような気配もない。
ただ、しばらく迷うようにその場でぷるぷると震えたあと、そろそろとレインの方へ近づいていく。
遅い。
逃げるときと同じように、驚くほど遅い。
床板のきしみにさえ負けそうなほど慎重に進み、ようやく毛布の端が見えるあたりまで来ると、スライムはぴたりと止まった。
半透明の小さな体が、じっとレインを見つめる。
眠っている。
自分を見つけても追い払わず、食べ物まで置いてくれた人間は、今は無防備に目を閉じている。
スライムはその場で、また小さく揺れた。
やがて何を思ったのか、レインのすぐそばではなく、少しだけ離れた場所へ移動する。近すぎない、けれど遠すぎもしない、そんな曖昧な距離だった。
そこで、ちょこん、と腰を下ろすように体を丸める。……腰があるのかは分からない。けれど、そう見えた。
パンを抱えたまま、スライムはその位置に落ち着いた。
風が家の隙間を抜け、壊れた窓枠がかすかに鳴る。
その音の中で、小さなスライムはしばらくのあいだ、ただじっとレインを見つめていた。




