第29話 街で青果店を営んでいるんです
「──っ、スリだ」
レインが低く呟くと、ルゥがすぐに聞き返す。
「良くないこと?」
「あぁ。盗みだ。犯罪だ」
「どうする?」
短い問いだった。
正直、見て見ぬふりをしようと思えばできる。
今日の目的は商売だ。余計な揉め事に関わっている場合じゃない。面倒ごとを避けるなら、黙って見送るのが一番かもしれない。
けれど。
スイたちの前で、それをやるのは違う気がした。
それに、ここで見逃したら、あとで絶対に後味が悪い。
「二人は店を頼む」
レインがそう言うと、スイはびくっとした。
「えっ、は、はいっ」
リーファも一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真面目な表情になる。
「分かった。こっちは任せなさい」
レインは頷き、ルゥを連れて人混みを縫った。
男はもうその場を離れようとしている。女性は盗まれたことにまだ気づいていない。
距離はギリギリだ。
「すいません。ちょっといいですか」
どうにか駆け寄って、レインは男に声をかけた。
ついでに、少し先まで歩いていた女性にも声を張る。
「そっちのお姉さんも、少しいいですか!」
「……は?」
女性が振り返る。男の顔に、わずかに苛立ちが走った。
「何だよ」
「すみません、その人の手籠から、今……」
言い切る前に、レインは女性へ向き直った。
「あの、財布、ありますか?」
「え?」
女性はきょとんとしたあと、慌てて手籠の中を探る。
「えっ、あれ……?」
その瞬間だった。
男が舌打ちし、突然レインの肩を強く突き飛ばした。
「うわっ」
不意を突かれて、レインの身体がよろめく。男はその隙に踵を返し、一気に走り出した。
「ルゥ!」
「うん」
返事は短かった。
次の瞬間には、ルゥの小さな身体が地を蹴っていた。
速い。
人混みの間を縫うように駆け抜け、逃げる男の進路を斜めから塞ぐ。男が避けようと身体をひねった瞬間、ルゥは低く沈み込んで足を払った。
「っ!?」
男の体勢が大きく崩れる。
そこへさらに踏み込み、腕を捻り上げるようにして地面へ押さえ込んだ。体格差なんて無視したみたいな鮮やかな動きだった。
「う、うそだろ……!?」
押さえつけられた男が、目を剥いてルゥを見る。
無理もない。小柄な少女に見える相手から、こんな体術が飛んでくるなんて思わないだろう。
「動くな」
低い声で言ったルゥの耳が、ぴんと立っていた。
周囲がざわつき、次いで拍手が起きる。
「おおっ」
「やるじゃねえか、獣人の嬢ちゃん」
「すげぇな」
「……獣人、ちがう」
レインはようやく追いつき、息を整えながら男の手元を確認した。そこには、先ほどの巾着が握られている。
振り返ると、女性が青ざめた顔で駆け寄ってきていた。
「そ、それ……私の……!」
「ですよね。中身を確認してください」
レインが差し出すと、女性は震える手でそれを受け取った。中身を確かめた瞬間、ほっとしたように胸を押さえる。
「あ、ありがとうございます……! 店の売り上げが入ってて、大変なことになるところでした」
「いや、無事でよかったです」
本当に、それに尽きる。
騒ぎを聞きつけてやってきた警備兵たちに事情を話し、男を引き渡す。男は最後まで何か喚いていたが、現行犯に近いし、周りにも見ていた者がいる。言い逃れは難しいだろう。
ひとまず片がついて、レインは大きく息を吐いた。
すると、女性が改めて深々と頭を下げてくる。
「本当に助かりました。お礼をさせてください」
「お礼って言われても……」
レインは少し考え、それから広場の端、自分たちの露店の方を見やった。
「それなら、野菜を少し買ってくれれば十分です」
「野菜?」
「はい。あそこで売ってるんですけど……正直、全然売れてなくて」
最後の一言は余計だった気もしたが、もう遅い。
女性は目を瞬かせたあと、くすっと小さく笑った。
「分かりました。命の恩人にしては、ずいぶん控えめなお礼ですね」
「命までは助けてないですよ」
「いえ。このお金はお店の生命線みたいなものです。助かりました」
そう言って、彼女はレインたちの露店まで一緒に来てくれた。
◇ ◇ ◇
戻ると、スイがぱっと顔を上げた。
「レインさん! ルゥちゃん! 大丈夫でしたか?」
「大丈夫だ。怪我一つない」
リーファも腕を組んだまま安堵したように息を吐く。
「もう、変なとこで心配かけないでよ」
「ルゥが居るから平気。ルゥ強い」
「そういう事言ってんじゃないのよ」
やれやれと首を振りつつも、ルゥの無事な姿を見て少し安心したようだ。
そのやり取りを聞きながら、女性は露店に並んだ野菜へ目を向け──次の瞬間、はっきりと目を見開いた。
「えっ」
その声の質が変わった。
ただの義理買いをしに来た人間の反応じゃない。
まじまじと品物を見る目は真剣だ。
彼女は一歩近づき、葉の張りや艶、根菜の太り具合、果実の色づきを順に見ていく。
「これ……全部、今日取れたんですか?」
「え? あ、はい」
「この葉物、すごくいいですね。水の上がり方が綺麗だし、傷みも少ない。こっちも形が揃ってる……この時期にしては出来すぎなくらい」
まくし立てるような口調に、レインは面食らった。
隣でリーファも目をぱちぱちさせている。
「わ、分かるの?」
「分かりますよ。当たり前です」
女性は顔を上げた。さっきまでの柔らかい笑みとは違う、少し鋭い、仕事人の顔だった。
「失礼しました。まだ名乗っていませんでしたね」
彼女は姿勢を正し、軽く頭を下げる。
「私、セリナと言います。この街で青果店を営んでいるんです」
その名乗りに、レインは思わず彼女を見返した。
ただスリの被害者を助けただけのつもりが、思ってもみなかった形で、希望の光に繋がった気がした。




